うたかたのつき

第八章





階段。
遠野の家では二階に行くのにロビーを通過する必要がある。
前にも説明したが、この洋館はロビーを中心にして東の館と西の館に分かれている。
ロビーが鳥の胴体だとすると、東と西の館が鳥の翼のように斜めに伸びていてる形だ。それぞれの館の大きさは小さな病院なみ。これでどれだけ大きいだか想像がつくだろう。
作りは左右対称で、東館も西館も同じ間取りをしている。

俺の部屋は『以前』と同じように二階にあるらしい。
翡翠は振り返ることなく階段を登り、俺はその背中を眺めつつ黙々と後をついていった。

外には夜の闇が音もなく満ち。
暗くはないが明るくもない、ぼんやりと電灯の灯る長い廊下を俺たちは歩いていく。
粛々と。
足音すらこだましない、無音の世界。
例えるならそれは幽玄の彼方に足を踏み入れたかのよう。
生あるものは存在せず、カタチあるものはそこになく。
うすぼんやりとした世界に無形のナニカの気配が満ち満ちて。
暗がりから今にも襲いかかられそう、無形のナニカに忍び寄られそう、そっと後ろから肩を叩かれそう、そんなコトを思わせる不可思議な静寂。
どこまでも広がり、どこまでも異質な、言葉に表すことの出来ない未知の空間。

「……なにか、おとぎ話の国みたいだね」
俺は沈黙を破るかのように言葉を発した。

「……はい?
 何かおっしゃいましたか、志貴さま?」
前を歩いていた翡翠は俺の声を聞きとると、足を止めて振り向いた。

「有間の家も広かったけど、ここまでは広くなかったなって思ってさ。
 現実にこんな大きい館があるなんて。
 すごいと思わない、翡翠?」

翡翠は一瞬キョトンとした表情を浮かべたあと、静かに俺に答える。
「……私と姉さんはずっとこちらでお世話になっておりますので、
 特にそのようなことは考えたこともございませんが」

先程浮かべた笑顔はどこへいったのやら、翡翠は完璧なまでの無表情で俺を見かえす。
無感情のポーカーフェイス。
それはまるで―――精巧に出来た人形のよう。

だけど俺は気にしないで話し続ける。
正確に言うと、気にはするけど今は横においておく。
「そっか。確かに長い間ここにいるならこれが当然だと思うよな。
 だけど……
 ここは大きいよ。
 俺が前にいた有間の家も決して小さくはなかったけど、ここまでは大きくなかったから。
 改めてびっくりしちゃうよ、翡翠」
俺は遠野の館がいかに大きいかを主張した。

「志貴さまは遠野家の長男ですから……」
翡翠は言葉少なにそう返すと、また前を向きしずしずと歩み始めた。

彼女の後ろを見つめながら俺は思った。
翡翠の答えは俺への返事としては不適切だ。
俺が遠野家の長男だからそんな些末なことを気にするな、なのか。
それとも遠野家の長男だから大きい屋敷に住むのは当たり前、なのか。
何を濁したのかいまいちわからない。

「まあ、部屋さえあれば俺はどこでもいいけどね。
 物持ちじゃないから広くなくたって構わないし」
俺は疑問を脇に置いて彼女と会話を続けようとしたが、それっきり翡翠の口が開くことはなかった。



沈黙が続く中をしばし歩み。
翡翠が立ち止まった部屋は『以前の俺の部屋』であった。

「こちらが志貴さまの部屋となっております」
扉を静かに開けて、横に控える翡翠。

やはり、というか。
予想通り『以前』と同じ部屋だった。
さすがにこの辺は大きく変わってなかった。
いや…… むしろ「変わらなかった」そのことに俺は感謝した。
ある程度は俺が『知っている』通りになってもらわないと困る。
そうでないと自分が『知っている通り』に『先の事柄』が起こるのか不安になってしまうからだ。

不安は恐れを呼び。
恐れは萎縮に繋がり。
そしていつしか蜘蛛の糸に絡まった如く。
俺は『俺』らしく行動できなくなる。

だから、こういう基本的な部分が変更されていないってことは俺が知っているとおりに物事が進んでいるってことであり、
大まかな変更がされていないことだと思う。

俺はそっと安堵のため息をつくと改めて「自分の部屋」を眺めた。
そこは相変わらず大きく、とても一介の高校生に割り当てられる部屋の作りをしていなかった。
この家にはあまり小さな部屋はないけども……
『慣れた』とはいえ、やはり俺からすると持てあましてしまう大きさだ。

「……もしかして俺の部屋ってここ?」
一応『以前』と同じように俺は尋ねてみる。

「はい。何かお気に召さらない点でもありましたでしょうか。
 もし、ご不満がおありでしたらすぐに違うお部屋をご用意させていただきますが」
翡翠は相変わらず感情を窺わせない態度で、淡々と答える。

「いや、不満があるわけじゃないけど……
 ちょっとね、立派だなって思ったんだ」

翡翠は首を傾げる。
「そう、でしょうか」

「うん。まあ、でもいいか。どうせ秋葉がこの部屋って指定したんでしょ?
 勝手に代えてもアレだし、喜んでここを使わせてもらうよ」

俺がそう答えると。
一瞬、翡翠は顔をしかめ、かすかに俺を窺うような顔つきをした。
そしてゆっくり。
口を開く。

「―――志貴さま、つかぬことをお伺いいたします。
 先程、”八年振り”とご挨拶していただけましたが、実際どこまで覚えていらっしゃるのでしょうか?」

ドックン。
俺の心臓がまるで警告するかのように跳ね上がる。
動揺した様を見せないように、顔から表情を消して俺は尋ねかえす。

「どこまで、というと?」

翡翠は質問を逆に返されて困った顔をする。
「有間様の家に行く前のこと全て、です」

さて、まさか翡翠が一番最初にこの質問をするとはな。
誰かに聞かれるだろうと思って考えてはいたが、翡翠が尋ねてくるというのは予想外だった。
まあ、誰に聞かれても切り抜けられるように考えてはいるけども。
ここでいらぬことを言ってボロを出すわけにはいかない。

もう一度整理しよう。
先程翡翠と”初めて”挨拶したとき「八年振りだね」と俺は言った。
だが、それ以上のことは口にしなかったので俺がどこまで覚えているか翡翠は知らないわけだ。
確かにどこまで覚えているか、同じ時間を共有した仲なら気になるだろう。
普通なら。

本当に普通の関係ならそうだ。
昔、一緒に遊んでいたという思い出をどこまで覚えているのか、当事者なら知りたがるだろう。

だが俺たちは普通の関係じゃない。
琥珀さんは自分が生きるために遠野家を破滅へ導き。
秋葉はそれを知りながらも泳がせて。
翡翠は積極的でないにしても明らかにおかしいこの二人を止めないでいる。
そう、自分の姉が変わっていくのをそのすぐ側で見ていたのにかかわらず、彼女は何もしなかった。

翡翠はどこまで琥珀さんの計画を知っていたのだろう。
知っていて止めなかったのか、知らなかったのか。
それとも薄々気づいていたがそこまで大それたことと思わなかったのか。

思い返すと、八年振りに「遠野」の家に来たとき彼女はこう言った。
覚えようと思って覚えた記憶ではないので言葉の端々はあやふやだが大意はあっているはず。

 ―――はい。お部屋は八年前から手を加えておりません。

八年前、と彼女は言った。
その時の俺は少々疑問に思ってこう尋ねた。

 「……ねえ。ここって、もしかして俺の部屋だったの?」

翡翠は即答する。

 ―――そう伺っておりますが、間違っておりましたでしょうか?

伺っている。
ここから導き出されることは一つしかない。
秋葉、だ。
秋葉が翡翠にそう言わせたのだ。

考えてみると。
翡翠は小さい頃の俺たちと遊んでいた。
俺の部屋まで来ていたような気もしないわけでもない。
あの、林の中の小さな離れに。
そうすると。
翡翠は「この部屋」が「八年前の遠野志貴の部屋」ではないと知っているわけで。
知っているのに関わらず秋葉の指示で「俺の部屋」と言ったわけだ。

でも―――
仮にそうだとしても。
翡翠の考えを推測するには情報が少なすぎる。
こと彼女に関してはわからないことが多い。
寡黙な少女になった翡翠はほぼ完璧なポーカーフェイスで内心を明かさない。
計算している割には時々素の感情(それも計算し尽くした感情表現かもしれないが)が漏れる琥珀さんとは違って。
翡翠は本当にわかりにくい。

俺はさらに深く―――もう一度よく考える。
琥珀さんとの会話ではリボン関係の話に終始した。
あとは窓際でいつも見ていた女の子とだけしか言っていない。
実際、あの当時は遊ぶときに窓から覗いている女の子ぐらいしか、琥珀さんに関しては知らなかった。
彼女と遊んだことなんて一度もないし、会話が成立したこともほとんどない。
そう、当時の琥珀さんとは接点がなかったのだ。

だけど翡翠は違う。
俺と秋葉と翡翠は一緒に遊んでいた仲だ。
正確に言うと俺・秋葉・四季で遊んでいて翡翠は見守っていただけだが。
あの当時の接点は琥珀さんより翡翠の方が圧倒的に上なのだ。

ここで全部覚えている、秋葉をかばって俺が四季に刺されたと翡翠に答えるのは簡単だ。
だが、そう告白して「俺が知らない歴史」になるのはごめんこうむる。
皆の幸せを願うなら。
神様に喧嘩を売ってでも未来を変えていかなければならない、のだから。
何度も言うが。
そのためには、ある程度俺が知っている歴史通りに進んでもらわないといけない。
俺がリード出来る―――『起こる事柄を全て知っている』状況こそが望ましいのだ。
そのためにも。
ここは翡翠の疑念をうまく交わして乗り切らないといけない。

俺はそこまで一気に考えると、答えを待っている翡翠を正面から見つめる。

―――ああ、彼女も。

彼女も、囚われている。
遠野の闇に姉である琥珀さん共々囚われている。
積極的ではないにしても。
彼女も、破滅の炎をその掌のなかでもてあそぶことを選択したのだ。
自分をも燃やしつくす危険な炎を見つめることを。

俺は一息つくと天を見上げる。
高い天井。
窓からは輝く月が辺りを照らすのが見え。
俺と翡翠に幽かな陰影をつける。

俺は天を見上げていた視線を翡翠に戻す。
彼女の顔をじっと見つめる。
翡翠が若干瞳を揺らしたとき、俺は重たげに口を開いた。

「正直ね、そんなに覚えていないんだよ、翡翠。
 翡翠がいたのとか、秋葉が俺の後ろをついてきていたぐらいかな、記憶にあるのは。
 どうも事故のショックで記憶が欠落しててさ。
 もうちょっと何かあったような気がするんだけど、全然思い出せないんだ」

俺は嘘をついた。
すでに八年前に俺の身に起きたこととか、秋葉・琥珀さんの隠している罰なき罪を知っている。
だがほとんど覚えていない、というスタンスを取ることに俺は決めていた。
何故なら事故のことを言えば大抵納得してくれるだろう、から。
あの時の事情を知っているのならば、記憶があやふやになっていても信じてもらえるはずだ。
何より、実際に親父が俺の記憶を改竄したわけなのだし。

翡翠は俺の言葉を聞くと、一瞬考える素振りを見せる。
静かな眼差し。
感情を漏らさないその視線で俺を見つめること暫し。
自分の中で納得したのか、ようやく頭をさげる。
「わかりました、志貴さま。
 つかぬことをお伺いして申し訳ございません。
 出過ぎた質問をお許し下さい」

「えっ? いやいや、全然気にしてないから。
 そんなにかしこまらないでよ、翡翠」

俺は慌てる。
こんな特異な状況じゃなければ、翡翠の質問はたいしたことではない。
むしろ質問するのが当たり前のような気がする。
特異な状況の件は俺しか知らないわけだから。
翡翠の質問は一緒に時間を共有したものからすると当然の質問なのだから。

俺は翡翠の頭をあげさせた。
「別に事故の件は昔のことだし、今となってはどうだっていいことだからね。
 これからが大切なわけで。
 ね、翡翠。
 さっきの廊下の時みたいに笑顔を浮かべてよ」

翡翠は俺の言葉を聞くと、何か考えるかのように間を取り、再度頭を下げる。
「……それでは、これからよろしくお願いいたします、志貴さま」

「……あ、うん、これからよろしくね、翡翠」
俺は笑顔で彼女に答えて、なんとなく居心地の悪い空気を流すのであった。



「―――そういえば」
入り口で話していた俺たちがようやく部屋に入り。
俺が翡翠から受け取った鞄をベッドの上へ投げ置いた後。
翡翠はふと思いついたように口を開いた。

「大変失礼ながら、志貴さまにもう一つだけお尋ねしたいことがあるのですがよろしいでしょうか」

「うん、なに?」
俺は翡翠がいるのに関わらず無頓着にワイシャツのボタンを一つ二つ外して返事をする。

「志貴さまのお荷物は全て運びましたが、何か足りないものはございませんか?」

「足りないもの?」
俺は何かあったかなと考えつつ聞き返す。

「……いえ、荷物が少ないように思えましたので。もし必要なものがおありでしたら遠慮なく申し付け下さい。
 すぐご用意させていただきますので」

「いや、特に足りないものはないよ。元々荷物は少ないんだ、俺。自分の荷物はその鞄とメガネと多少の服ぐらいかな」

俺は翡翠の問いに答えつつ自分の荷物を見回した。
確かに人よりも少ない荷物の量である。
数え上げてみると有間の家時代に買ってもらった服と少々の荷物。学校の鞄とノート類。
元々、物に執着があるほうではないので、自分としては何ら問題ないのだが、どうも他人からすると少なく見えるらしい。

「……わかりました。もしご入り用な物がありましたら申しつけて下さい。
 すぐにご用意いたしますので。
 それでは三十分後に夕食の予定ですので、またお呼びいたします」

今回は三十分後か。たしか『以前』は一時間後だったな。

「……なにか」

俺が一瞬考える顔をしたのを見落とさなかった翡翠がすかさず問いかける。
「いや…… 何でもないよ、翡翠」

「そうですか、それなら何かありましたら遠慮なくお呼び下さい」
翡翠は慌てて口ごもってしまった俺に一礼すると静かに部屋から退出していった。





「さて、と……」
俺は翡翠が部屋から遠ざかるのを気配で確認した後、制服から私服に着替えた。
そしてベッドに腰掛けると、線を見ないようにしつつ眼鏡を外し、目の周りをもみほぐす。

ふぅー。
深く深く息を吐く。

とりあえずここまでは何も大きなトラブルを起こさず辿りつけた。
が、これからどうしよう。
俺は自分に問いかける。
いや、やること自体はわかっている。
何をすべきかはわかっている。
魂にかけて。
俺にはやらなければいけないことがあり、成し遂げなければならないことがある。
ただ。
それをどうやり遂げるか。
その一点が問題なのだ。

「過去」の俺は何度も後悔した。
たった一つの。
命の輝きを簡単に失ってしまい。
絶望のあまり。
気がつけば。
俺は闇に逍遥としていた頃へ戻り。
ただその死神の腕を振るうだけのモノに成り下がってしまった。

誰も彼も。
何もかも。
俺は全てを失って。
心に残るは血の味がする後悔のみ。
それでも前に進む。
進まざるを得ない苦痛。
重くつらい目の前の現実。

そんな俺が。
やり直せている。
改めて。
悲惨な「過去」の現実をやり直すことができるのだ。

冷静に考えよう。
俺は何をすべきで。
何を行うべきか、を。

まず、最初の確認として。
今日やらなければいけないことはなんだ?
今夜確認すべきことはなんだ?

それは―――
弓塚が出歩かないように見回ること。
もし出歩いていたとしたら速やかに保護すること。
何があっても、まずは彼女の確保を最優先にしないといけない。
弓塚が闇に棲まう彼奴らに襲われたとしても、彼女にはかすり傷一つつけず助けきらないといけない。
そして可能なら。
諸悪の根源である大元のあいつを速やかに殺すこと。
一刻も早くこの世から消し去ること。
たとえ未来が読めなくなろうとも。
不測の事態で皆の命を危険にさらすよりは。
予期せぬ出来事で悲嘆にくれるよりは。
よほどいい。

そのためには―――互角に戦うためにも俺は武器を調達しなければならない。
出来れば『以前』と同じように七夜のナイフがいい。あれは手になじんでいるし、俺との相性は抜群だ。
そこで問題が一つ。
もし七夜のナイフを使うとしたら、どうやって手に入れればいいのだろう?
『以前』渡してくれたのが琥珀さんだったから彼女が持っていると思うのだが、なんと相談すればいいのだろう?
ううむ、最近の夜は物騒だからとか言ってみるか。
「外を出歩く気ですか、志貴さん」なんて言われそうだが。
拝み倒せば最後には渡してくれそうな気がする。
あのナイフには危険を冒す価値がある。
ダメで元々、琥珀さんに尋ねてみるか。
それで渡してくれなかったとき、次の策を考えればいいだろう。
よし、さしあたっては七夜のナイフを手に入れるために琥珀さんとコンタクトをとる、だな。
あとは夜中に弓塚が出歩かないように繁華街を見回ること、か。


―――ここまで考えたところで、俺はふと気づいた。

ナイフのこともそうだが、どうやって外へ出よう?
言い直そう。
外に出るのは簡単だ。
別に閉じ込められているわけでも、監禁や幽閉されているわけでもないのだから。
俺がここで問題にしているのは”遠野家で問題にならないようにどうやって外へ出よう”か、だ。
弓塚を守るためにはどうしても外へ出なければならない。
が、外に出るとなれば姉妹の二人には確実に見つかってしまう。
彼女たちは三時間ごとに屋敷内の見回りも仕事の一環としておこなっているからだ。
『以前の世界』で俺が抜け出しているのがばれていたところをみると俺自身の部屋を覗いて、確認しているようだ。
そうすると、自由に動くために―――秋葉に内緒にしてもらうためには彼女たちを味方につけなければいけないってことになる。

翡翠と琥珀さん。
この二人の監視をどう逃れ、いかにして味方につけるか。
まず翡翠から考えてみよう。
彼女はたぶん大丈夫、だと思う。
少なくても最初の方なら俺の行動を見逃してくれるはず、だ。
何故そんな風に考えられるかというと、『以前』の時も秋葉に報告することなく目をつぶってくれたからだ。
もちろん盲目な期待はよくないが……
ある程度なら期待してもよいだろう。
基本的に『以前』は俺をかばってくれた。
彼女のことを怒らせない限り、嫌われたりとか心配させない限りは……
翡翠は俺の行動に対し消極的ではあるが味方でいてくれると思う。



問題は琥珀さんだ。
彼女がどう出るか、どう動くかが正直見当がつかない。
俺は彼女にリボンを渡せた。
約束の―――借りっぱなしだった白いリボンを返せた。
でも、それによって彼女がどう動くのか逆にわからなくなってしまった。
渡したことを後悔しているわけではない。
あそこであのリボンは返すべきものだったし、それに関しては一片の疑問の余地も、後悔もない。
違う歴史―――俺が体験していない歴史になろうとも、あの行動だけは譲れないものだったのだ。
考え得る限り最善であり、何ら悔やむことではなかったのだ。
そもそも。
俺の行動によって叶えたいことが「皆の幸せ」であるならば。
あれは琥珀さんに一刻も早く幸せになってもらうためにおこなったことであり、何ら俺の目的を阻害するものではない。
最適な選択が出来なくなってしまうというデメリットを捨ててでも、あの行動に間違いはなかったと信じたい。

俺は息をはく。
もう一度、琥珀さんのことを整理しよう。

彼女は。
自分は槙久のせいで壊れかけ。
ただの生きる人形だと思いこみ。
人間らしくあるために目的を探し。
別に恨んでもいない(あれだけのことをされて恨まないというのも凄いが)遠野家を滅ぼすことにした。
そして俺と秋葉の仲を悪化させるために。
地下牢に囚われていた四季を騙し。
槙久が琥珀さんに何をしでかしているか自ら秋葉に見せつけ。
俺と秋葉と四季で琥珀さんが望む舞台を演じさせる。

その先に何を見ているのか。
何を望むのか。
……たぶん、彼女は何も見ていないし望んでいない。
ただそうしないと生きられない、から。
生きる、という意味を彼女は取り違えている。
人間らしく、という意味を間違えて理解している。
そんな難しいことではないのに。
もっと単純に考えて。
日々、笑顔を浮かべて、楽しく過ごせばいいのに。
自分ですら欺き続けたせいで、何もかも見えなくなってしまっているのだ。
悲しい悲しい、暗闇の中で生きる少女。

俺はちょっと黄ばんだ大事な大事な白いリボンを思い出す。
あのリボンがきっかけとなり。
琥珀さんが「自分」を取り戻してくれればいい。
固く凍りついている感情を溶かしてくれればいい。
俺は君を覚えている。
何があっても覚えている。
忘れてないんだ、と。
そのことが奇跡の―――本来起こり得ない不思議な事柄の上に立つことだとしても。
彼女に「俺がずっと覚えていてくれた」と。
そう信じてもらえれば。
ナニカが変わるかもしれない。
彼女の中で。
ナニカが変わってくれるかもしれない。

単にそれは俺の独りよがりかもしれないが。
俺はこの不思議な経験を決して口外しない。
だから。
彼女が素直にその事実だけを受け入れてくれれば。
俺が覚えていた、と信じてくれれば。
双子の少女を間違えなかったと気づいてくれれば。

そうして。
人としての自分を取り戻した後で浮かべてくれるであろうその笑みは。
太陽の如く艶やかで。
自らを天に向ける向日葵のように見る者を心の底から嬉しくさせる。
そんな笑顔を。
浮かべてほしい。


俺は座っていたベッドから立ち上がると、おもむろに部屋の中を歩き始めた。

「以前」の琥珀さんは俺に薬を飲ませてセンモウ状態にして。
あることないことを吹き込んだ。
そして悪夢と現実がごっちゃになった俺は。
何が現実で何が夢かわからなくなり。
彼女の掌で動くが如く利用されていった。

今回も。
今回もそうなるだろうか。
リボンを渡したあとでも、なお琥珀さんが考えを変えずに。
「過去」と同じように「破滅」を望むのだろうか。
わからない。全然わからない。

俺はどうふるまえばいいだろう。
琥珀さんにあんなことをしてほしくない。
彼女がそれをして幸せになるとはとても思えない。
あんなこと、琥珀さんがしてはいけないんだ。

ならば。
俺は琥珀さんが普通の日常を取り戻せるように行動するべきだ。
彼女がこれ以上闇に染まらないようにするべきだ。
血に染まるのは俺だけでいい。
闇に染まるのは俺だけでいい。
彼方から見つめ返すその目に映るのはおれだけでいいのだ。

彼女には。
直接的にも、間接的にも。
きれいでいてほしい。
汚れないでいてほしい。

そのために、俺はここにいるのだから。




考えを進めよう。
とりあえず先程考えたように、今日の夜は弓塚を守るために外へ出る。
その際に琥珀さんからナイフを手に入れておく。理由は護身用だの何だのと適当に理由を付けて。
外へ出るにあたり、まず翡翠から説得しよう。
まあ説得といっても頭を下げて秋葉には内緒にしてくれと頼み込むだけだが。
翡翠なら最後には頷いてくれるはずだ。

よし。
俺は机の上に置いてある時計を見る。
気づいたら先程よりも二十分ほど時間が過ぎていた。
あと少しで夕食か。
俺はベッドの背もたれに寄りかかるとそのまま目をつぶった。






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