うたかたのつき

第九章





夢を見た。
―――の夢を。
―――は泣いていた。
ボロボロと涙を流していた。

 大丈夫?

彼女は泣き顔で俺に頷いてくれた。
コクコクと頷いてくれた。
そして俺に微笑んで―――










 ……さま。
 し……さま。
 志貴さま。

声が聞こえる。
優しい声が。
聞き慣れた目覚めの声が。
俺はその声を聞くと意識をゆっくり浮上させる。

 志貴さま、志貴さま。

声は続く。
大丈夫、俺は大丈夫だから。

 ―――志貴さま。

「ん」
俺は身じろぎしつつ、目を開ける。
瞬間、室内灯の明るさに目をすがめ、声の方向に顔を向ける。
彼女は―――翡翠はベッドの脇で心配そうな顔をして俺を見つめていた。

「……志貴さま」

翡翠は俺がようやく起きたことが嬉しいのか、僅かに笑みを浮かべる。
が、それも一瞬。
すぐにその浮かべた表情を仮面の奥にしまい込むと、人形のような固い顔つきで俺に伝えた。

「志貴さま、ご夕食の時間です。一階の食堂までお越し下さい」
感情を込めずそれだけを口にする。

俺は思考がまとまらない頭を切り替えようと左右に振った。
少しずつ意識が鮮明になっていく。
そうか、さっき背もたれに身を任せた後、俺は寝てしまったのか。

どのくらい寝たんだろう。
夕食と言っていたから、そんなには時間が経っていないと思うけ……


―――!


って、やばい!
今、何時だ?
もし、すでに深夜で弓塚が殺されていたとしたら!
俺はガバリと起きあがると時計を探す。
机の上に置いてある目覚まし時計を上から鷲掴みにして、目の前にかざして時刻を確認する。

…………よかった。
部屋に案内されたときから三十分を少々過ぎたぐらいだった。
どうやら十分ぐらい寝てしまったらしい。
翡翠は秋葉の指示かどうかはわからぬが、なかなか食堂に来ない俺を呼びにきてくれたようだ。

俺は寝過ごさなかったことに安堵のため息をつくと、時計を元の位置に戻す。
さて、それでは秋葉たちが待っている食堂へ行くとしようか。


と、そこで気づいた。
翡翠が俺を見ていることに。
まずい、時間のことだけ考えて翡翠が側にいるのを失念していた。
どう見ても大げさすぎるアクションに不信感を抱かれないだろうか。

俺はおそるおそる声をかける。
「翡翠?」
彼女の方へ一歩足を進める。

「志貴様、食堂へご案内いたします」
翡翠は俺が近づいてもなお表情を崩さず、何事もなかったかのように一礼するとゆっくりとドアを開けて先導してくれた。

翡翠の後ろをついていく。
月の光は相変わらず。
『以前』と今でなんら変わらず。
優しい光で地上を照らす。
変わる事なき月の光。
夜の片目は優しく見守る。
ただ血に塗れないかぎり。
一度血に塗れてしまうと、月は大きく赤く輝く。
それは罰か、なんなのか。
夜空に月がある限り、「彼女」はずっと俺を責め続ける。
「何故殺した」と。
俺は妹を殺して―――
その染み一つないきれいな首を切り落として―――

止めよう。
俺は首を振って『以前』のことを考えるのを止める。
ここでは秋葉は生きている。
月の光が照らす中、紅いきれいな髪を無惨に散らしている首ではない。
自分で動けて会話が出来る、人間なのだ。
思い出すな、遠野志貴。前は前で、今は今。
前の事象に囚われるな。
お前はやり直したいのだろう。
ならば、『以前』の経験はあくまで知識として、より良い未来を選んでいけ。
それが、今のおまえに出来る贖罪だ。

一つため息。
確かにそうだ。
根を詰めて考えて、結局前と同じでした、なんて馬鹿な話ではいけないんだ。
すべての人に幸せを。すべての人に微笑みを―――
俺はそのためにここに来たのだろうから。



階段を下りて。
食堂へ続くドアを翡翠が開き、ドアの側で待機している。
俺は先ほどまで考えていたことを微塵にも顔に出さず、翡翠の開けてくれたドアを通り、食卓へ歩を進めた。



食卓。
目の前には立派で重厚なテーブルがでんと構え、その上座には秋葉が座ってこちらを見つめている。
秋葉の後ろには柔らかな笑みを浮かべた琥珀さんが控えており。
俺の体感時間からすると、ほんのちょっと前。目の前に広がる幸せな光景があったのだ。
泣きたくなるぐらい嬉しい。
でも、ここでそんな顔をしたら怪しまれる。
俺は唇をかみしめ、感情が顔に浮かばないよう注意しながら、自分の席を探す。
『以前』と同じく、入ってきたドア近くの席が俺の席なのだろう。前と変わらない席であることに安心する。
そっとドアを閉めた翡翠が席の後ろで待機したようだ。薄い気配を背中に感じる。
テーブルの上にはすでに食事が用意されていた。秋葉は先に始めないで待っていてくれていたようだ。
言われた時間までに起きられず申し訳ない気持ちになる。

翡翠が引いた席に座り、目の前の料理を見つめた。そういえば今日の昼は弓塚の予想外の行動で食べた気がしなかったなあ。
そんなことを思うとみるみるうちにお腹がすいてきた。


秋葉の挨拶とともに食事が始まる。
正直、『以前』でもそうだったが俺のマナーは誉められたモノじゃない。
多少の期間とはいえ秋葉と一緒に食べはしたが、それでも完璧にしつけられた秋葉からすると落第点だ。
『前回』でも最終的には秋葉は俺のマナーに我慢できず怒っていた。
今回は秋葉からすると「初日」なので我慢してくれているようだが、秋葉の顔を見てみると眉が危険な角度に吊り上がっていくのがわかる。相当我慢しているのが伺える。
毎日これでは心臓に悪い。ここは早急に翡翠か琥珀さんあたりに頼んで食事のマナーを勉強し直した方がいいかもしれない。
俺は心の内で今後行うことの一つにテーブルマナーの講習を付け加えた。


心臓に悪い夕食が終わり、食後のティータイムという名のお茶会になし崩し的に参加する。
夕食時より砕けた感じですすむが、秋葉はどこをみるともなく、俺にとってイヤなことを呟いた。
「兄さんには一からマナーを覚えなおしてもらった方がよいみたいね」

一応ダメ元で異議を申し立てるが、秋葉は聞く耳を持ってくれない。
どうやら俺を遠野家長男にふさわしいようにすると言っていきまいている。
俺は改めて反対を表明したのだが、当主権限で俺の意志は無視されることとなった。
周りの琥珀さんや翡翠に助けを求めたが、琥珀さんはにやにや笑っているだけだし、琥珀は終始目をつぶっていてよくわからない。
最後まで一人で反対していたが、秋葉の「ずっと一人でした」発言を聞き、白旗を揚げる事態になった。
俺としてはソレを言われると全面降伏するしかない。

しかし、テーブルマナーどころかマナー全般か。秋葉主導で決められると俺が自由に動けなくなってしまう可能性がある。
先ほどより状況が悪くなったことに対し俺は天を見上げてため息をついた。
こんなことを言われるのだったら、さっさと部屋に退散すれば良かった。
早めにテーブルマナーなどのマナー全般を学ぶ旨を琥珀さんに言っておこう。
しばらく融通を利かせられるように日程を調整することもお願いしつつ。

ティータイムという名前の死刑判決を言い渡される時間も終わり、秋葉は琥珀さんを引き連れて自室へと戻っていった。
階段を上っていく二人を見送りつつ、俺は考える。
琥珀さんに七夜のナイフのことを相談したかったが、秋葉がいたので切り出すタイミングが難しく結局何も言えなかった。
秋葉に見つかってはいけない。これは絶対条件だ。
万が一見つかってしまったら、所持する理由を聞かれナイフを取り上げるのではなく俺の自由を奪う方向に秋葉は傾きそうだ。
そうなってしまったら身動きがとれなくなる。

翡翠が俺の後ろに控えているのを背中で感じつつ、背もたれに寄りかかり俺は考える。
どうやって琥珀さんと二人きりになれるか。
思っていた以上に琥珀さんが一人にならない。
そして翡翠も俺の側から離れない。



うーん、発想の転換をしてみよう。
琥珀さんと二人きりになれない。
翡翠は俺の側を離れない。
俺が会いたいのは琥珀さん。
なら、翡翠経由で琥珀さんに話をつけるのはどうだろうか。

悪くない考えかもしれない。
翡翠の口から自分は知らないので姉さんに訊ねなければわからない旨を聞き出せば、合法的に琥珀さんに会える。
翡翠が琥珀さんに聞いてきてしまう可能性もあるので、翡翠に振る話は内容を良く吟味する必要があるが。
どうやって翡翠に話を振るのが一番いいか。
怪しまれないように自然の形で七夜のナイフまでたどり着きたい。
ん?
そういえば翡翠はナイフのことを知っているのだろうか。
知らなければ答えようがない。
当然、俺がその存在を知っているのも不自然だ。

とするとどうしよう。
もう一度整理しよう。
俺は七夜のナイフが欲しい。
それは琥珀さんが管理しているはず。
なら琥珀さんに話しを通さないといけない。
だけど琥珀さんと二人きりになれない。
翡翠は俺の側にいる。
翡翠なら琥珀さんと連絡をつけることが出来る。
翡翠経由で琥珀さんと話そう。
そのために、翡翠が知らなくて琥珀さんが知っていることを訊ねなければならない。
ナイフはその条件に合致するが、俺が知っているのは不自然だ。

うーん。
ナイフねえ。『以前』はどんな感じで貰ったっけ。
確か、学校に行く前に琥珀さんが渡してくれたんだよなあ。

 「はい。昨日、有間家のほうから荷物が届いたんですよ」

 「そうなんですか? こちらが届けられたお荷物ですけど」

 「はあ。なんでも志貴さまのお父さまの遺品だそうですけど。志貴さんに譲られるようにって遺言があったとか」

そうだ、遺品のような形で七夜のナイフを貰ったんだ。
あのナイフが有間の家にあったとは思えない。俺が記憶を戻す可能性がある物をわざわざ有間に渡すだろうか。
いや、あの親父がそんな甘いことをするはずがない。
有間の家という口実で琥珀さんが自然な形で俺に渡してくれたんだ。

それなら何か長男の俺に対して遺品がないのか聞いてみればいいのでは?
琥珀さんは俺が「真実を知っている」ことを知らない。
ただ預けたリボンを持っていてくれて「正しく」返してくれた事実だけしか知らないのだ。
遠野家の宿業に巻き込まれ、記憶を書き換えられたという認識なのだ。
「父親」の形見はないのか。
世間話程度に琥珀さんに振るぶんには問題ないだろう。
もし問題があるなら琥珀さんは主人である秋葉に振るはずだ。

琥珀さんがどう動くのかわからない。
だけど、俺を「思い通りに」使いたいのなら七夜のナイフを渡すに違いない。
まさか素手で四季に立ち向かわせるとも思えない。
俺を蚊帳の外にするため、ナイフを渡さない可能性もあるが、そこまで琥珀さんは俺に気を許してはいないだろう。
なにぶん久しぶりに会っただけなのだ。
嫌われてはいないが好かれているはずもない。
好意は積み重ね始めたばかりなのだから。

うん、この「遺品がないか」という質問なら翡翠を間に挟んでも大丈夫だろう。
何気なく尋ねる感じで話を振ればいい。

本当はもっといい案があるかもしれない。
だけど、俺には時間がない。
今夜にでも弓塚は吸血鬼と化してしまうかもしれないのだ。
もちろん、弓塚が約束を破るとは思えない。
でも、心配なんだ。
琥珀さんを想い、弓塚を憎からず想っている俺は人として最低かもしれないが、だからといって彼女を見殺しにするわけにはいけない。
念のために見回りをして。
明日、弓塚の笑顔を見たいと思う気持ちは嘘ではない。
だからこそ、ここで賭けに出る。



「翡翠にちょっと聞きたいことがあるのだけどいいかな」
ティーカップに紅茶を注いでくれている翡翠。
お代わりを注いでくれたそのときに、質問を投げかける。

「はい、何でしょうか、志貴様」
翡翠は俺のカップに注ぎ終わるとティーポットを机の上にそっと置いて、俺の目の前に歩を進める。
もちろん数歩ほど離れた位置であり、極端に近い距離ではない。
下ろした手をエプロンの前で組み、俺と視線を絡める。

「親父に勘当されてさ、俺は有間の家にずっと追い出されていたわけなんだけど。もう八年になるんだよね、俺が勘当されてから」
勘当されたという事を強調するために二回繰り返す。
「死んだときだって電話などの連絡があったわけじゃなく朝の新聞で知ったぐらいだし、正直親子という括りから言うと全然実感がわかないんだけど―――」

翡翠は黙って俺の話を聞いてくれている。

「別に今更親父に何かもの申すってことはないんだ。もう親父は死んだ。俺の中で気持ちの整理はついている。遠野の後継者は秋葉であり、あいつは優秀だ。
何故秋葉が俺が呼び戻したかはわからないけれど、遠野家の当主として秋葉がふさわしいと俺も思っているし、でしゃばるつもりも家督争いするつもりもない」

そこで翡翠の顔を見上げる。相変わらずのポーカーフェース。

「俺は別に遠野家の財産が欲しいとか長男だからごねようという気もない。めんどくさい当主を秋葉がやってくれるなら俺としては万々歳だ。
もちろん遠野家の財産は秋葉で管轄すればいいし、俺の存在が遠野家にとって邪魔になるようなら有間の家に戻してくれても構わない。有間の家もそう言ってくれてたし」

俺はそこで目をつぶる。
突然実家から放り出された俺を養ってくれた家族。厳しかったが暖かみはそこにはあった。
いきなり実家から放り出された俺はあの暖かい家族に冷たくなったココロを溶かされてここまで成長できたんだ。
でも―――
色々あったが、親父なんだ。
『以前』の生で真実を知っているとはいえ、戸籍上は俺の親父になるんだ。
俺のことを子供の時に勘当して追い出すような厳しさを持っているが、四季のためであり遠野の血のせいなんだ。

二呼吸ほどあけて話し出す。
「恨まないとは言わない。だが、それでも親父なんだ。何か形見分けするような人間とは思っていないけど、俺宛の遺品なんてあれば、と思ってさ」

翡翠は下を向いたまま、何も答えない。

「いや、困らせるつもりはないんだ。勘当した息子に遺品を残すなんてはずがない、と言われればそれまでだしね。
 もし、ありそうなら秋葉に直接聞いた方がいいかな?
 なんか財産狙いとか秋葉に誤解されそうでちょっと抵抗があるんだけどね。
 翡翠、誰に相談したら一番いいか教えてくれないかな」

下を向いていた翡翠は俺の顔を見るとまた下を向く。
数回同じ行動を繰り返し、翡翠は俺と目を合わせ覚悟を決めたかのようにゆっくり目をつむる。

「姉さんが……」

「琥珀さんが?」

「……槙久様の側に控えていたのは姉さんなので、遺品管理も姉さんが一任されております」
翡翠は目を閉じたまま、ボソボソと教えてくれた。

正直翡翠の口から聞けると思えなかったことまで聞けてしまった。
槙久の側にいたのは双子のどちらか。
『以前』の経験で俺は「家の中から見てた女の子」のことを「知っている」が、聞きようによっては「その女の子が誰になるか」ということまで翡翠の今の発言で触れた形になる。
まあ、子供の時と違い大人になってから担当が変わったとか言われたら言い返せないけど。

それとも、これは琥珀さんにリボンを返した影響なのかな。
前にも言ったが、リボンを返したことに関しては何ら後悔はない。
だからリボンを返したことにより『以前』とずれることがあるならばそれは「この世界の人間として」解決したい。

「そっか、琥珀さんか。じゃあ琥珀さんに一度聞いてみるよ」

「はい、志貴様のお役に立てず大変申し訳ございません」
翡翠はそう言うと深く頭を下げる。

「いやいやいや、全然気にすることじゃないからね。琥珀さんって教えてくれたのは助かったよ。
 下手をすれば秋葉に直接聞きに行く羽目になったからね、本当に助かったよ」

俺は翡翠にお礼の言葉を述べ、笑顔を浮かべる。

そうだ、念のためにテレビのことも聞いておくか。
遺品は貰ってしまったら終了だけど、テレビならそれを理由に琥珀さんの部屋に行くのもおかしくない。
テレビなら見たい番組があると言えば、何度でも使える理由になる。

テレビ。
まず『前回』はどのような話しの流れだっただろうか。
確か琥珀さんがテレビを持っていることを翡翠から聞きかじった俺は、台所の後片付けをして部屋に戻った琥珀さんの自室を訪ねて一緒にテレビを見たはずだ。
だが「今」の俺がそれを知るには翡翠にテレビの話を振って、琥珀さんがテレビを持っていることを教えてもらって初めてスタート地点に立つ。
『前回』琥珀さんと親しく話したのはテレビの件が初めてだったはずだ。

よし、ならばこういうのはどうだろう。
とりあえず俺は自室に戻る。
戻る途中で翡翠に話題としてテレビの件を振る。
そして翡翠から琥珀さんがテレビを持っていることを聞き出す。
ついでに琥珀さんの部屋の場所も聞いて、俺が一人で琥珀さんの部屋を訪れてもおかしくない状況を作っておく。
あとは出たとこ勝負だ。
琥珀さんと彼女の部屋で二人きりになれれば、ナイフの話など秋葉の前では聞けない話をすることも可能だろう。

この案をプランAとしよう。俺が自室に戻りながら翡翠に話を振ってテレビの在処を知るプランだ。
このプランに穴はないか。
ん、そう言えば、『以前』琥珀さんは秋葉の部屋でお茶の用意をしてから、食事の後片付けをしに戻ってきた気がする。
そうすると今、琥珀さんが戻ってきていないのはお茶の準備をしているからということになる。
ならばここで多少時間をつぶして、琥珀さんが降りてくるのを待っていたほうがいいだろうか。
いやいやいや、そうすると翡翠の処遇に困る形になる。
いくら遺品が欲しいと知られていても、その物が何かまでは知られたくない。
無いとは思うけど、ナイフのことを秋葉に知らせたりされたらコトだ。
あくまでも目的は七夜のナイフを手に入れることであり、そのために琥珀さんと二人きりになりたいのだ。
翡翠が側にいる―――琥珀さんと二人きりになれないのは困る。

となると、ここは自室に戻る一手か。
その途中でテレビのことを聞き出し、後ほど琥珀さんの部屋を訪ねよう。
それが一番よさそうだ。

俺は立ち上がり、翡翠に部屋へ戻る旨を伝える。
それを聞いた翡翠はすぐさま先導してくれた。

粛々と部屋へ戻る俺と翡翠。
遠野の屋敷は有間の家とは違う。
有間の家ではうっすらとしか感じなかった何かを感じる。
何かとはナニカ。
それはたぶん魔の匂い。
人間ではない存在が醸し出す独特の雰囲気が「死」そのものを感じさせる。
屋敷にこびりついているのか、空気そのものが匂うのか。
人間としての終わりを感じるのだ。

翡翠や琥珀さんは何も感じないのだろうか。
彼女たち感応者は体質上人一倍敏感だと思うのだが。
それとも。
「それ」が当たり前になっているのか。

益体もないことを考えた。
俺は首を振ると、翡翠に話しかける。

「翡翠、つまらない事を聞くけどさ。この屋敷にテレビってあるの?」
『以前』と同じ問いかけ。

「テレビ……ですか?」
 翡翠は立ち止まると困った表情をし、視線を宙に泳がす。

しばらく間を置いてから口を開く。
「……居間にはありません。ご逗留の方々はご使用になってらっしゃいましたが、出立される時に荷物はすべてお持ち帰りいただきましたので残ってはいないと思います」
『以前』と同じ回答がかえってきた。

さて。
ここで逗留していた連中のことを聞くかどうか。
翡翠には琥珀さんの部屋にあることを思い出してもらわないと困る。
であれば、さらに踏み込んだ質問をするべきか。

「そうなると、ここにはテレビがないの?
 秋葉とか翡翠は見ないの?」
俺は不思議そうに―――今時の学生はテレビを見てるけど、というニュアンスを込めて尋ねる。

翡翠は俺の質問に一瞬目をすがめる。
そして、どこを見ているのかわからない眼差しで何か思い出してくれている。

「―――翡翠?」

「姉さんの部屋になら、あると思います」
若干の間を置いて翡翠が答える。

「琥珀さんの部屋に?」

「はい。以前、姉さんの部屋で見かけた記憶がございます」
翡翠は数年前の記憶を思い出すかのように教えてくれる。

「そっか、琥珀さんは持っているのか―――」
俺がようやく得た回答に安堵の息をついたのが気になったのか、翡翠はこちらをジッと見つめる。

まずい。
翡翠がどこか訝しげな目でこちらを見ている。

「―――ごめん、今の質問は聞かなかったことにして。有間の家じゃテレビを見ていたんだけど、琥珀さんの部屋にしかないのなら押しかけて見るわけにもいかないし。
これからここで暮らすのだから、屋敷のルールには従うよ」

俺は肩をすくめつつ言い訳がましく翡翠にお願いすると、彼女は無言で軽く頭を下げ歩を進めた。



部屋へ到着した。
翡翠はベッドへ座り込んだ俺に対し、念を押すように告げる。

「志貴様、姉さんから聞いているかもしれませんが、この屋敷では門限が夜の八時でございます。
正確に言うと夜の七時に正門を施錠して、八時に屋敷の出入り口をすべて施錠いたします。
そして午後十時を過ぎたあとは屋敷内の移動も控えていただくのが規則になっておりますのでご注意ください」

俺は翡翠をジッと見る。
これはない。
『以前』の記憶では、俺が門限の話を振って翡翠が答えたはずだ。
何故翡翠から?

「屋敷の中も出歩くなっていうの? ……まあ文句はないけど、それって厳しすぎない?
 俺も秋葉も子供じゃないんだから、そこまでしなくてもいいと思うけど」

「……志貴さま、規則ですからこればかりはお守りください」
翡翠はそう言うと一礼して退出していった。



俺は考える。
何故翡翠は門限の話を振ってきたのか。
俺の帰宅時間が遅かったからか。
わからない。
『以前』と違う理由がわからない。

思えば翡翠だけは『以前』と違う―――想定外のことを言う。
八年前のことをどれだけ覚えているか、という質問や門限の話。
ともすれば翡翠は俺のことを伺うかのようにジッと見ている。

考えすぎだろうか。
想定時間より帰宅が遅れた俺に門限のことを話し、琥珀さんが嬉しそうな顔をしていたから八年前のことを尋ねる。
字面だけ見れば怪しむ点はない。
だけど。
『以前』では翡翠から先に教えてくれた話ではないのだ。
あくまでも俺から質問した際の返答なのだ。

翡翠は俺を怪しんでいる?
そんな馬鹿な。
何を怪しむというのだ。
俺は俺である。遠野志貴である。それに一切の間違いはない。
なのに。
なんで翡翠は俺を訝しげな目で見つめるのだ。
何か決定的におかしいことを俺は言ったのか。
怪しまれるような行動をとったのか。
思い出す。
そんなことは言っていない。そんなことはやってない。
ならば何故。
わからない。

俺は天井を見上げる。
困ったときに見上げる癖がついたような気がする。

視点をずらして考えよう。
翡翠から見て。
俺はどのように映っているのか。

俺は。
遠野志貴。
遠野家長男。
八年前に勘当されて秋葉が当主になって敷居をまたぐことを許された。
勘当後、有間の家で引き取られた。
八年前の「事故」で病弱になっている。
四季に胸を刺された時、現場で見ていた。
八年前はよく遊んだ。
八年前と違う性格の姉妹を間違えなかった。



―――!

これか。双子の彼女たちを間違えなかったのがおかしいと翡翠は思っているのか。
八年前は明るかった翡翠とほとんど接触の無かった琥珀さん。今日出迎えてもらったときに一目見て間違えなかった俺。
そして八年前のことを覚えていると言った俺。
何故、出迎えた琥珀さんを八年前は明るかった「翡翠」と間違えなかったのか。鮮明に覚えていればいるほど間違えるはずなのに。
そう思ったのだろう。
確かに。
そういう風に考えるのはわかる。
だから八年前のことをどれだけ覚えているか質問してきたのか。
でも、俺は記憶が曖昧とごまかした。
となると心根は優しい翡翠のことだ、多少疑問に思っても二度と八年前のことを聞いてこないだろう。
友達に殺されそうになった記憶や明るかった自分が180度変わったことなんて思い出して欲しくないと思っているに違いない。

たぶん。
翡翠は無表情に見えて性根は優しいから、俺のことを考えてくれたのだと思う。
八年前のことを覚えていないなら、そのまま今の俺でいて欲しいと。
遠野の闇に足を踏み入れないように。
遠野の闇に飲まれないように。
それは自分の雇用主である秋葉と同じ考え。
表に出来ないことは自分たちで処理するから、俺には明るいところに立っていてくれと。

でも。
俺は全てと言わないまでも知っている。
遠野槙久の罪。
遠野秋葉の嘘。
翡翠の諦観。
琥珀さんの絶望。
遠野四季の狂気。

だから、このまま明るい場所だけにいるわけにはいかない。
彼女たちと同じように闇に足を踏み入れる必要がある。
闇の中にいる彼女たちを引き出すには自分も闇に身を浸さないといけない。
秋葉の飲血は俺が感応者と結ばれれば抑えが効く。
四季はもう手遅れだから殺すしかない、だろう。
琥珀さんは人形じゃないということを納得させられれば。人を愛せることを、愛されることを心の底からわかって貰えれば。
翡翠は周りが落ち着けばそれに準じてくれるだろう。

笑顔を浮かべて暮らしたい。
そのためなら俺は嘘をつくしこの手を血で汚すことを厭わない。
それが俺の贖罪だから。



ふと、時計を見る。
先ほど翡翠が退出してから10分弱過ぎている。

「そうだ」
危ない危ない。翡翠の違和感を考えて横道に逸れてしまったが、七夜のナイフを手に入れないといけないのだ。
どうも考えすぎて思考がずれていくきらいがある。
気をつけないと。

もう琥珀さんは秋葉の部屋でお茶を煎れて、下に戻ってきているだろう。片付けはそこそこ時間がかかるだろうから、まだいるはずだ。
俺はベッドから飛び起きると、静かにドアを開けて階下に降りていった。



一階。
台所を覗くと、予想通り琥珀さんがいた。楽しそうに後片付けをしている。
相変わらずの笑顔。
仮面に仮面を被せて、本当の自分がわからなくなってしまった人。

「琥珀さん」

鼻歌を口ずさんでいた琥珀さんはこちらの呼びかけに振り向くと笑顔を浮かべる。

「はい、なんでしょう、志貴さん」

「琥珀さんにいくつか尋ねたいことがあるけど、今大丈夫かな」

「あら、どんなことでしょう。一応申し上げますが、翡翠ちゃんでも大抵のことはこなせますからね。
 それを承知の上での質問ということでよろしいのですか」
俺は見逃さなかった。すぐに戻ったけど、一瞬、琥珀さんの笑みが消え、能面のような顔になった。
警戒、いや俺を探っている?

「はい、琥珀さんか秋葉じゃないとわからないだろうと判断しました」

「私か秋葉様じゃないとわからないですか。はて、なんでしょうね。
 ずばりどのようなご質問なんでしょうか」
琥珀さんは興味を引かれたような表情でこちらをのぞき込む。

「えっと、勘当されたとはいえ一応は遠野家長男じゃないですか、俺。何か遺品のようなものでもないかなと思ったんですが」

「なるほど、確かに遺品に関しては秋葉様から私が管理するように言いつかっております。
 だから、私なんですか?」

「翡翠にも聞いてみたけど、遺品管理は琥珀さんが担当しているとのことだったので」
俺は肩をすくめる。

「で、琥珀さん。さっき翡翠にも話したけど別に財産分与とかそういうことには一切興味がないんですよ。元々勘当の身分だからね、俺は。
 でも、一応死んだのは勘当されていたとはいえ親父なんです。なのでよかったら小物とかで何か俺宛の遺品はないかなと思ったんです。
 秋葉に聞くと話しが大きくなりそうだったし、遠野家当主の座を狙っているとか誤解されたくなかったので、あえて秋葉がいない時を狙って質問しました」
秋葉のくだりで笑う琥珀さん。俺はそんな琥珀さんを見て一緒に笑う。

「槙久様から志貴様へですか」
琥珀さんは人差し指を右頬に当て、しばらく考える。

「そういえば……。
 ちょっと心当たりがありますので、そうですね。
 洗い物が終わりましたら、志貴さんの部屋に行きますので、部屋でお待ちいただけますか?」

「わかりました。部屋で待ってます」
俺は約束を取り付けると、琥珀さんに礼を言い部屋へと戻った。



自室。
翡翠や秋葉に会うことなく、無事に部屋へ戻れた。
俺一人なら見つかっても問題ないけど、あの二人は結構勘が鋭いから心配だ。
見抜かれるて変に誤解されるのが怖い。

琥珀さんが来たら、遺品としてナイフを譲って貰えるよう誘導して。
テレビのことも話して、たまに見せて貰えるよう約束する。
これで琥珀さんと会うのに、一応他の人が納得する理由ができる。
まあ、秋葉が納得するとも思えないけど。有間のことを奔放な家と言う秋葉ならしばらくは不承不承理解してくれるだろう。

そんなとりとめのないことを考えつつ、20分は過ぎただろうか。
コンコンとノックの音がし、琥珀さんの声が聞こえた。

部屋に入ってきた琥珀さんはこそこそしていた。
思わず吹き出してしまう。

「あー、ひどいです、志貴さん。秋葉様に見つかったら大変なことになるから、見つからないようここまで来たのに」
琥珀さんが腰に手を当て、私怒っているんです、という表情を浮かべる。

「ごめん、ごめん。なんかいつもと違う琥珀さんが新鮮でさ」
笑いを抑えて、琥珀さんに謝ると許してくれた。

「それならいいんですけど…… ひどいです、志貴さん」
袖を目に当て泣くフリをしつつ、クスクス笑う琥珀さん。

「で、こちらが槙久様から志貴さんへの形見分けの品となります」
そういって、琥珀さんは20センチほどの、細い木箱を手渡してくる。重さを感じない軽い箱。

七夜のナイフだ。
俺はあくまでも初めて見たという顔をして、箱を受け取る。

「重くはないね。なんだろう」
そう言って蓋を開ける。スーと音もなく箱が開く。

中には鉄の棒。実は飛び出しナイフだが、一見そうは見えない。

「ただの鉄の棒が形見だなんて、親父は本当に俺のことを嫌っていたんだな」
俺がそれを手にしてそう言うと、琥珀さんは鉄の棒を手に取る。

「違いますよ、志貴さん。これ飛び出しナイフですよ。ほら」
琥珀さんがなにやらボタンを押すと、パチンという音と共に刃が飛び出す。

「ずいぶんと古いものみたいですけど、作りはしっかりしてますね。あら、裏に年号がかかれてます」
琥珀さんは刃をしまってからナイフを手渡してくる。

この辺は『以前』と同じだ。俺も『以前』と同じように話しているのは確かだけど。
手渡されたナイフを見ると、握りの下のほうに数字が刻まれていた。
七という漢字と、その後には夜という漢字。

「琥珀さん、これは年号じゃないね。七つ夜って書かれているよ」
俺がしげしげと観察して琥珀さんに見せると、琥珀さんはナイフをのぞき込む。

「確かに年号じゃないようですね。なんでしょうね、七つ夜って」

「さあ、このナイフの名前ですかね。実は由緒正しきナイフだったり」
俺が笑いながら答えると、琥珀さんもアハハと笑う。

「そうかもしれませんね。まあ遺品管理は私の仕事ですから、そのナイフは志貴さんが持っていてください」

「いいんですか、俺が貰っても」

「はい、そのための形見分けですから。
 あ、でもナイフなんて危ない物を志貴さんが持っているのが秋葉様に見つかると取り上げられるかもしれませんから注意してくださいね」
琥珀さんは変わらず笑みを浮かべている。
俺は彼女の言葉に返事をしつつ、考える。
やはり、これは琥珀さんの独断なんだろうな。七つ夜なんて七夜に通じる物をあの親父が形見分けするはずがないし。
秋葉に内緒にする理由もこれまたうまい。
確かに秋葉なら取り上げそうだし、信憑性のある理由だ。

「では遠慮無く。年代物みたいだけど、もらえる物はもらっとくのが俺の信条なので」
俺はそう言うと尻ポケットにナイフをしまった。



続けて琥珀さんに話しかける。
「そういえば、琥珀さんの部屋にテレビがあるって聞いたんですけど」

「翡翠ちゃんにですか?」

「はい、テレビがある部屋を訊ねたら、琥珀さんが持っていると教えてくれまして。俺、テレビがない生活って考えられないんでたまにお邪魔してもいいかな」
俺が頼むと、琥珀さんは考えるそぶりをする。

「うーん、特に構いませんけど、秋葉様には内緒にしてくださいね。使用人と仲良くされているのを見たら怒られてしまいますので」

「秋葉はテレビを見るぐらいで怒るのかい」

「いえ、お兄様が自分に構ってくれないのを怒りそうですので」
琥珀さんはクスクス笑っている。

「別に秋葉を邪険にするつもりはないけどね」
俺は肩をすくめる。

「それにさ、俺が壊れなかったのは琥珀さんのおかげだから、琥珀さんを選んでもおかしくないでしょ」
そう口にした瞬間。琥珀さんは固まってしまう。
笑みを浮かべず、ただ驚いた顔で。
これはこの人の本心なのだろうか、それとも仮面の一つなのだろうか。
俺は琥珀さんが好きだけど、未だ彼女のことがわからない。
それだけ琥珀さんは複雑であり、かわいそうな人なのだ。

「そんなにおかしいことを言った、俺?」
琥珀さんをのぞき込みつつ、口にする。

「い、いえ、あ、あの……」
琥珀さんが珍しく動揺している。顔を赤く染め、どもってしまう。

「さっきも言ったけどさ、琥珀さんのおかげで俺は真っ直ぐ生きてこれたんだ。
 親父に勘当されて、誰も俺を必要としてないと思っていた矢先に、リボンを貸して貰ってさ。
 ああ、この子は俺を待っていてくれるんだ、家から追い出される俺を待っててくれるんだって。
 大切にしないと。このリボンはあの子の大事なリボンだろうから。
 リボンを手にするとね、寂しさも悲しさも不思議と薄れて。
 今度は俺があの子を助けないとってずっと思ってたんだ」

うつむいてしまう琥珀さん。

「もちろん、迷惑な思いかもしれないけど。琥珀さんの側にいたいっていうのはホントだよ」

琥珀さんはそこまで聞くと、「失礼します」と言って俯きながら部屋を飛び出していってしまった。

「あちゃ、あせりすぎたかな」
俺は頭を抱える。
別に琥珀さんを困らせたかった訳じゃない。好きな人を目の前にして我慢できなくなり、つい本音で話してしまったのだ。

追いかけようにも、「この世界」では琥珀さんの部屋を知らないことになっている。
翡翠に聞くしかないだろうな。

とりあえず七夜のナイフも手に入れたことだし、琥珀さんはしばらく時間が経ってから声をかけるとするか。
まだ落ち着かない時に声をかけて逃げられても困るし。



一息つく。
琥珀さんの顔をちらつくが、何とか思考を切り替える。
大丈夫。
琥珀さんに危険はない。
今危険なのは弓塚だ。
だから、次考えることは弓塚を助けるために外へ出る方法だ。

頭を振る。
夜間に遠野の屋敷を抜け出すことについて。
裏手の使用人用の扉なら、鍵さえあれば夜の出入りは自由となる。
鍵は確か琥珀さんが持っているはず。

翡翠に頭を下げてお願いして、鍵を借りてきてもらう。
そして琥珀さんにも頭を下げて、翡翠と口裏を合わせるようお願いする。
まさか堂々と正門から行けるわけないし、実行した日には警報が鳴って警備員に捕まってしまう。

後で翡翠と相談しよう。
間違いなく反対されそうだが、とにかく頭を下げて了承してもらうしかないな。


時計を見る。
まだ屋敷内を歩いていても問題ない時間だ。
俺は部屋から出て翡翠を探すことにした。
西館は秋葉の部屋があるから東館から探してみる。
相変わらず馬鹿でかい屋敷だ。秋葉の部屋が西館の一番奥で俺の部屋は東館の一番奥だから、ざっと50メートル近く離れているわけであり、
そんな屋敷に住んでいる俺はいったいなんなんだろう。
益体もないことを考えつつ、翡翠がいそうな場所をひょいひょいと覗いていく。

一階に下りて。
ロビーや玄関を覗くが、翡翠はいない。
念のため台所を覗いてみると、誰かいる。
琥珀さんだとしたらどうしよう。そんなことを考えてしまい声をかけられない。
俺の気配に気づいたのか、こちらを振り向くのは翡翠だった。
珍しい。壊滅的に料理が苦手な翡翠が何故ここに。

「志貴様」
翡翠は何かを隠すかのようにしつつ、頭を下げる。
俺は特に詮索することもなく声をかける。

「翡翠、ちょっとお願いがあるんで、後で俺の部屋に来てくれないかな」
本当はすぐにでも話したいのだが、万が一秋葉に聞かれでもしたら大変なので安全策として俺の部屋で話すことにした。

「わかりました。少々時間をいただきますが、すぐにお伺いいたします」
翡翠の返事を聞き、「お願い」と言って俺は自分の部屋に戻った。



しばらく部屋で待っていると、ノックの音が聞こえた。
「どうぞ」

翡翠が頭を下げ「失礼します」と言って入ってくる。
「どうしましたか、志貴様」

まだ打ち解けてない翡翠。
「この世界」では八年振りに再会したばかりでこんなことを頼んでいいのだろうか。
いや、拒否されないだろうか。

俺は恐る恐る口にする。
「翡翠、お願いがあるんだけど、これからしばらく夜に出かけることが度々あるんだ。
 何とか秋葉にバレないように出来ないかな」

翡翠は無言でこちらを見つめる。
非難のまなざし。

「いや、門限のこととか室内の出入りも理解している。その上でのお願いなんだ」
俺は頭を下げる。

無言が続く。
俺は頭を下げているので状況がわからないが、翡翠は考えてくれているのだろうか。
ただ怒らせただけかもしれない。

「……志貴様」

「はい、なんでしょう」
思わず敬語になる。

「そのご用事はどうしても夜でないと無理なのでしょうか」

「はい、そうです」

「私は使用人ですのでそんな丁寧な言葉で話さないでください」

「はい、わかりまし―――わかった、翡翠。
 ごめん、どうしても外せない用事なんだ。しばらく…… 一ヶ月もかからないと思うけど、何とかならないかな」

「秋葉様に見つからないようにですか」

「うん、秋葉のヤツに見つかったら部屋から外に出してくれなくなりそうだし」

翡翠は俺のことを見つめる。
俺も翡翠を見つめ返す。
翡翠はため息をつくと、目を閉じる。

「……わかりました。私の主人は志貴様ですので、出来るだけそのご意向に沿いたいと思います。
 夜は何時ぐらいでしょうか?」

「深夜かな」

その答えを聞き、目を見開き固まる翡翠。
「深夜ですか。それは一般的に考えても許されないことかと」

「わかってる。わかった上でどうしても必要なんだ、翡翠」
俺が必死になって頭を下げてお願いしているのがわかったのか、再びため息をつく翡翠。

「姉さんとも相談する形になりますが、よろしいでしょうか。
 使用人用の扉の鍵は姉さんが管理していますので」

「うん、琥珀さんならわかってくれると信じる。翡翠、琥珀さんにお願いしてもらっていいかな」

わかりました、と翡翠は頷いてくれた。
出入りの件は何とかなりそうだ。

「志貴様、いつから出かけられるのですか」
翡翠が訊ねてきた。そういえば期間は言ったがいつからかは伝えてなかった。

「えっと、今夜」

翡翠がこちらをジッと見る。

「ごめん、今日からなんだ、翡翠」

翡翠の目が怖くなる。目に力が入って申し訳ない気分にさせられる。
三度目のため息。
翡翠は目をつぶり、何かを我慢するかのように口をかみしめる。。

「わかりました。至急、姉さんに話しておきます」

失礼します、そう言って翡翠は俺の返事も聞かず退出していった。



閉じた扉を見つめる。
翡翠を怒らせてしまったが、あとで謝ろう。
八年振りに戻ってきた当日にこんな我が儘を言って申し訳ないと思っている。
だけど、全て必要なことなんだ。
弓塚を殺させないためにも、必要なことだったんだ。
これで今日やることは弓塚を殺させないこと、ただ一つのみ。
七夜のナイフも手に入れることが出来たし、夜間の出入りも何とかなりそうだ。
琥珀さんだけでなく翡翠も巻き込んだことに少々心が痛むが、
いずれ部屋を抜け出しているのが俺付きの使用人である翡翠にはバレてしまうのでいたしかたないだろう。
後からバレるより先に話しを通しておいた方が、感情的にも納得しやすいはずだ。
翡翠経由で琥珀さんから鍵を預かれば、あとは外出するだけ。
『以前』の世界では弓塚がいつ吸血鬼に襲われたかわからないが、
深夜俺に似た人間が繁華街を歩いているのを確認しようとしたのだろうから、深夜なんだろう。
具体的な時間がはっきりしないが、22時以降に外へ出て、1時か2時ぐらいまで見回ればいいだろう。
さすがに彼女がそんなに遅くまで出歩いていたとは思えない。

最近つとに冷えてきたが、弓塚はもっと寒かった。
彼女はもっと冷たくなったのだ。
恐怖に苛まされ、絶望にうちひしがれて。
その手その口を赤く染め。
最後に彼女は死んだのだ。
俺の手で殺されたのだ。
たかが寒いぐらいどうってことない。

笑顔のために。
彼女が笑って過ごせるように。
俺は、彼女の憂いを取り払う。

コンコンとノックの音が響くまで、俺はひたすらにそれだけを考え続けた。






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