うたかたのつき
第七章
遠野の屋敷。
坂の上に建てられたこの大きな建物は下界を睥睨するかのようにそびえている。
日本ではあまり見かける機会がない西洋風の優雅な建築。
正面から見ると鶴が羽を広げたように東館と西館に分かれている。
東館の一番奥の部屋から西館の一番奥の部屋まで約五十メートル。
日本の住宅事情を嘲笑うかのような大きさの建物だ。
まさしく「屋敷」という言葉がふさわしい建造物である。
その「屋敷」に入るために俺は敷地内に足を踏み入れた。
正門をくぐり、美しく輝き始めた月の光に照らされながらゆっくりと歩を進める。
今くぐってきた正門から玄関まで結構距離がある。
それは敷地自体が広い証拠。
小学校ぐらいの敷地というのは伊達じゃない。
綺麗に手入れされている庭を通りながら、俺は辺りを見回す。
変わらない景色。
『以前』となんら変わることのない景色がそこにあった。
これから俺はここに住むのか。
この常識外れの大きさの屋敷で。
遠野の後継者である秋葉や付き人である翡翠・琥珀と一緒に。
「ふふ」
思わず笑みがこぼれる。
帰ってきた―――戻ってきた実感を今改めて感じて自然に笑みがこぼれてしまう。
俺は「第一印象」が変に思われないよう、真面目な表情を浮かべながら歩いていった。
玄関前。
庭を歩くこと、数分。
ようやく玄関に辿り着いた。
この目の前の玄関もそうなのだが、どうして遠野の屋敷にある物は人を威圧するように作られているのだろう。
重苦しくそびえ立つ玄関。一見さんお断りの店のような重苦しくピリッとした雰囲気を漂わせる。
まあ屋敷にそぐわない玄関だとそれはそれで問題かもしれないが、ここまで威圧的な玄関じゃなくてもよかろうに。
両開きの扉の横には呼び鈴。
これぐらい大きい屋敷だと、さすがに呼び鈴がないと聞こえない。
俺はそんな呼び鈴の前で深呼吸を始めた。
そしてちょっと横道に逸れてしまった思考を切り替える。
一息。
二息。
ふぅ、俺はようやくここまで辿り着いた。
ここからが本番だ。
救えなかった琥珀さん、この手で殺めてしまった妹の秋葉。
俺の行動ひとつで、そんな二人を救えるのだ。
今度こそ。
今度こそ幸せな日々を送ってもらおう。
出来る。
絶対出来る。
出来ないはずがない。
俺がいる。
全てを知っている俺がいるのだから。
必ず出来る。
俺は再度深呼吸をすると呼び鈴に手を伸ばした。
触れるか触れないか、というところで、熱い物に触ったかのように手を引っ込める。
そういえば……
危ない危ない。
肝心な物を確認するのを忘れていた。
俺は鞄の中身をごそごそとあさる。
確か鞄に入れていたはずだけど……
お、あったあった。
そこには古びて若干黄ばんでしまっているが元の色は純白の小さなリボンがあった。
よかった、ちゃんとあって。
記憶通りに入っていたことに俺は安堵した。
鞄の中からそれを取り出すとそっと握りしめる。
これがあったから俺は生きてこれた。
俺を待っていてくれる、俺を認めてくれる、遠野志貴を見てくれる、そんな彼女がいたからこそ俺は生きてこれた。
このリボンの持ち主で貸してくれた女性―――琥珀さんのおかげで、俺は遠野の屋敷を追い出されても平気でいられたのだ。
昔、琥珀さんがこのリボンで俺を助けてくれたのならば。
今度は遠野志貴が自身の行動で琥珀さんを助ける番だ。
俺はいずれ琥珀さんの居場所になりたい。
それが琥珀さんの幸せに繋がるかはわからないけど。
だけど、俺はそれが琥珀さんの幸せに繋がって欲しいと思うし、琥珀さんにもそう思って欲しい。
だから頑張ろう。
琥珀さんのために、俺のためにも。
このリボンを第一歩として、改めていい関係に―――恋人関係になるように頑張ろう。
俺はそう決心すると、白いリボンを鞄にしまい、おもむろに呼び鈴を押した。
呼び鈴を押してしばらく。
時間にして数秒、いや十数秒だろうか。
遠くからパタパタパタとスリッパの音が近づいてきたと思ったら、
「はーい」という声とともに玄関の扉がギイと開かれた。
そこにいたのは。
玄関を開けて出迎えてくれたのは―――
常に割烹着を着こなして。
向日葵のような笑顔を浮かべていて。
年上の包み込むような安心感と子供のようなお茶目さを持ち合わせていた女の子。
彼女は―――
数千年前の樹脂の奇跡を目の色として。
その深い色の瞳で人の心の奥底までのぞき込み。
自分の願っていたとおりに周りの人間を動かして。
わからなくなる「自分」をなんとか再確認しようとしていた女の子。
彼女は人知れず泣いていた。
心の中では泣いていた。
泣いていたことそのことに、自分すらも気づけずに。
わたしは人形ですから。
そう言っていた。
演技をしているだけかもしれませんよ。
そうも言っていた。
彼女は―――
いっぱいつらいことを経験し、いっぱいいたいことを経験し。
あんまりにも耐えられなくなったあまり。
逃げ道がどこにもなくなったあまり。
出口がない闇に囚われて。
自分は人形だからと思いこむしかなくて。
人形だから何も感じないと思うようになって。
自分は人形だからと言い聞かせて。
喜びも悲しみも全てうち捨てて。
笑うことを忘れ。
悲しむことも忘れ。
そのうちナニが本当でナニが嘘なのかわからなくなってしまった女の子。
でも根っこのところは。
本当のところは。
臆病で。
恐がりで。
寂しがり屋で。
笑いもするし。
照れて真っ赤になることもある。
そう、彼女は。
人との触れあいを求めている。
痛いことが嫌いな。
ただの……ひとりの女の子だったのだ。
彼女は言っていた。
―――八つ当たり、だったんです……
それは自我の発露。
―――自分の事より誰かの事が大切だっていうのかな……
―――それだけの事ができるのに、どうしてあの子はわたしをタスケテくれなかったんだろう……
それは魂の慟哭。
―――どうして、わたしのまわりの人は、あの子みたいに優しくはなかったのかなって……
それは圧倒的なまでの絶望。
―――はい。わたしもこの琥珀が一番好きでした……
そして悲しくなるぐらいに透明な、笑顔。
最後は秋葉に刺し貫かれて。
胸を一撃で刺し貫かれて。
俺に微笑んでから。
黄泉への路を歩んでいった女の子。
ああ、そんな彼女が。
生きている。
目の前で生きている。
血の通った頬を輝かせ。
名前通り琥珀色をしたその瞳で俺を見つめ。
小首を傾げて俺の返事を待っている。
嬉しい。
すごく嬉しい。
彼女が……
琥珀さんが生きている、そのことが。
「あ、あの……志貴さまですよね……」
扉の前で何も言わない俺を不思議に思ったのか、問いかけてくる彼女。
「あ……う、うん、そうです。志貴、遠野志貴です……」
俺はどもりながらも何とか答えを返す。
「ですよね? もう、脅かさないでくださいっ。
わたし、また間違えたかなって恐くなっちゃったじゃないですか」
胸に手を当ててホッと一息つくと、続けて口を開く。
「ああ、ようやく志貴さまが帰ってこられて安心しました。
いつになってもお見えにならないので、迷ってしまわれたのかと心配していたのですよ。
学校が終わる時間を逆算してもここまで遅くなりませんし……
日が落ちても帰ってこなかったら、お迎えに行こうかなって思っていたんです。
そうしたらちょうど帰ってきて下さいまして本当によかったです」
割烹着を着た琥珀さんはにこにこしながら流れるように話を進める。
変わらない。
変わっていない
そこにいるのは琥珀さんだ、琥珀さんそのものだ。
『以前』と同じく、琥珀さんでいてくれている。
生きている。
涅槃の国に籍を移さず、この世界で笑顔を浮かべている。
ありのままの形でここにいる。
ああ……
嬉しくて嬉しくて胸が張り裂けてしまいそう。
彼女が生きている。
そのことが。
とても嬉しくて。
彼女は目の前で俺のことを見つめている。
先程からじっと自分を見つめている俺を不思議に思っているに違いない。
だけど、構うもんか。
俺はあんまりにも嬉しくて。
喜ばしくて。
頭の中が真っ白になるぐらいに。
彼女の顔を見ることしか。
彼女を見つめることしか出来ないのだ。
生きている彼女を目の前にして。
喜ぶことしか出来ないのだ。
じっと見つめていないとまだどこかに行ってしまいそうで。
手の届かないところに逃げてしまいそうで。
本当はこの手で抱きしめたい。
この腕で捕まえたい。
体全体で琥珀さんを感じたい。
琥珀さんの体温を感じたい。
でも……今は出来ない。
「ここ」では始まったばかりなのだ。
『以前』とは違うのだ。
「ここ」はまた最初からやり直している世界なのだから。
俺と琥珀さんは「八年振り」に再会したことになっているのだから。
「あ、あの……
どうかしましたか、志貴さま?」
琥珀さんが心配そうな顔で俺に尋ねてくる。
え?
どうかしましたか、と言われても……
なにか妙に琥珀さんが心配そうな顔をしている。
俺は琥珀さんに再会できて嬉しいだけなのだが、そんなことは口が裂けても言うわけにはいかない。
なんて言い訳をしようかな……
と、俺が考えていたら彼女が言葉を続けてきた。
「……志貴さま、何かイヤなことでもあったのでしょうか。
泣いてしまわれるほどイヤなことがあったのでしょうか」
え、泣いているって誰が?
俺が……
俺が泣いているだって?
―――確かに俺は泣いていた。
気づいたら泣いていた。
意識を目の方へ向けると潤んでいるのがわかる。
涙が一筋二筋、頬を乗り越えて床に落ちていく。
頬を流れ伝う感覚。
ああ、確かに俺は泣いている。
なんでだろう。
なんで俺は泣いているのだろう。
琥珀さんを目の前にして。
最愛の女性を目の前にして。
泣く姿を見せるなんて、恥ずかしい。
そう思ったのだけど、涙は止まらなかった。
次から次へと止まることなく溢れてくる。
悲しくて泣いているわけではない。
だけど、何故か知らないけど涙が溢れてくる。次から次へと溢れ出す。
俺は思わず下を向いた。
こんなみっともない姿を琥珀さんに見せるのが恥ずかしくて。
下を向いて、彼女から顔を背けた。
ポタリポタリと涙が床に落ちていく。
―――そうしたら。
下を向いて顔を背け、しばらくすると。
ふわっと。
暖かいモノが俺を優しく包み込んだ。
柔らかく甘い匂い。
安心できる心地よさ。
こころよく身を委ねられるモノに俺は頭全体をくるまれた。
「何があったか知りませんが、大丈夫ですから」
頭の上から声が聞こえる。
「イヤなことがあったのかもしれませんが、もう大丈夫ですから」
その声は胸に染みわたる。体の芯から揺さぶられる。
「だから安心して下さい、志貴さま」
琥珀さんはそう言うと、俺の背中を優しく叩く。
ポンポン、ポンポンと。
母親がむずかる赤子を宥めるように。
優しく優しく。
俺をあやす。
「あ…… ああっ……」
その言葉を聞き。
その優しさに触れ。
俺の涙腺は一気に緩んだ。
先程以上に、涙が止めどもなく溢れてくる。
「大丈夫ですよ、ここにいれば大丈夫ですから」
彼女の声は謡うように。
心地よく、全身に染みわたる。
「怖いモノなんてありません。大丈夫、大丈夫ですから……」
そう、俺は琥珀さんの胸に抱かれつつ泣いてしまったのだ。
ここにきてようやくわかった。
何故涙がこぼれるのか、泣いてしまったのか。
そうだ。
単純に俺は嬉しかったのだ。
琥珀さんが生きている、そのことがとてもとても喜ばしくて。
感動のあまり、泣いていたのだ。
恥も外聞もなく。
俺は琥珀さんの胸で泣き続けた。
その間中、琥珀さんはずっと俺の頭を撫でてくれた。
朧気としか覚えていない母のように。
優しく俺の頭を撫で続けてくれた。
どのくらい泣いていたのだろう。
数分だろうか、十数分だろうか。
俺は琥珀さんの胸から頭を離すと真っ赤になった。
正直、あまりにも恥ずかしくて琥珀さんの顔を見ることが出来ない。
みっともない、十七歳の男子高校生が女性の胸で泣くなんて。
しかも最愛の女性の、だ。現時点では片思いだが。
なんて恥ずかしいことをしてしまったのだろう。
「ふふ」
琥珀さんの笑い声が聞こえる。
ますますもって恥ずかしい。
穴があったら入りたいとはこのことだ。
俺が恥ずかしさのあまり小さくなっていると、琥珀さんが話しかけてきた。
「志貴さま、お顔をあげて下さい。
今のことは秋葉様には内緒にしておきますので」
茶目っ気のある笑顔で琥珀さんは人差し指を口に当てそう言ってくれた。
秋葉には内緒にしてくれるらしい。
よかった。
秋葉に見つかったら何故泣いていたのか理由を問いつめられてしまうからな。
琥珀さんが秘密にしてくれるのは大変助かる。
っと。
そこまで考えた瞬間、俺は顔を上げた。
まずい、そういえば秋葉が奥で俺のことを待っているのだ。
なんて失態。
嬉しさのあまり、琥珀さんに抱かれて彼女の胸で泣いてしまい、
『以前』よりも待たせている秋葉達をさらに待たせてしまうなんて。
「ようやく、顔を上げて下さいましたね、志貴さま。
それでは改めて……
お帰りなさい、志貴さま。
どうぞ、今日からよろしくお願いいたします」
琥珀さんは俺の行動を読んでいたかのように絶妙のタイミングでにこやかに挨拶をしてくれた。
俺が泣いていたことなどまるで気にしないように。
大好きなひまわりのような笑顔を浮かべて、優しく俺を出迎えてくれたのだった。
居間へと続く廊下。
俺は琥珀さんの後ろに続いて歩いていく。
さっきよりも頭が冷えた俺は琥珀さんとの間で交わした会話を一言一言思い返す。
結局、『以前』と同じように琥珀さんは名乗らなかったな。
それが意味するところは残念ながらわからない。
何か意図があるのかもしれないし、ないのかもしれない。
でも、琥珀さんのことだ、何かしら考えがあって名乗らなかったのだろう。
俺は琥珀さんの計画を止めさせなければいけない。
あんな誰も救われないこと……
絶対に止めなければいけない。
そのためにも。
俺は琥珀さんに助けられたことを伝えなければいけないと思う。
貴方のおかげで救われたヤツもいる、と。
道を踏み外さなかったヤツもいるんだ、と。
あのリボンを貸してもらったおかげで。
俺はひねくれることなく真っ直ぐに育つことが出来たのだ、と。
それを伝えて彼女が計画を止めるかはわからない。
だけども、何かしらの変化は期待できると思う。。
実際に『以前』もリボンを返して告白した後で変化はあったわけだし。
正直、いい方に転ぶか悪い方に転ぶかはわからない。
それでも「遠野志貴は覚えている」と彼女に伝えたかった。
俺は忘れていない、と。
覚えているんだよ、と。
自己満足かもしれないけど。
エゴかもしれないけども。
それでも伝えたかったのだ。
ともかく。
まず最初の一歩として口火を切ろう。。
俺と琥珀さんが一緒の方向へ進むためにも。
確実に伝えなければ。
秋葉たちと再会する前に。
「あ、あの……」
俺は勇気を振り絞って琥珀さんに話しかけた。
「はい、どうかしましたか、志貴さま」
琥珀さんは俺の呼びかけに止まって振り返ってくれた。
「お、俺……
こ……いや、き、君の名前をまだ聞いていないんだけど……
その、なんて言うのかな、名前は」
彼女の目を見て、ちょっとつっかえながら俺は「知っていること」を尋ねた。
「あ、あははー。
ごめんなさい、志貴さま。
そういえば、わたし、自分の名前をまだ名乗っておりませんでしたね。
大変失礼いたしました」
そう言って、頭を下げる琥珀さん。
「わたしは秋葉様付きの侍女で、琥珀と申します。
これからよろしくお願いしますね、志貴さま」
にこやかに。
笑みを浮かべながら、琥珀さんはようやく自分の名前を名乗ってくれた。
「こ、琥珀さんね……」
俺はつっかえつつも彼女の名前を復唱する。
「では改めて、ただいま、琥珀さん。
八年振りにここへ帰ってきました」
そう言って、俺は最高の笑顔で彼女に微笑みかえすのであった。
「それでは、秋葉様がお待ちになっていますのでこちらへどうぞ」
挨拶が改めて終わると、琥珀さんは先頭に立って居間に向かっていった。
廊下にて。
俺の心臓がバクバクと甲高く音を鳴らし始め、手のひらに汗をかく。
どうやら柄にもなく緊張してきたようだ。
まず最初の関門である彼女の名前を聞き出した。
これで一つ終了。
次は本番。
今から彼女に言うことが。
打ち明けることが。
どんな風に影響を与えるかわからない。
俺が双子を間違えなかった―――それだけで彼女は止めてくれるか。
彼女の行動は「復讐」ではない。
結果的に見ると「復讐」なのだが、彼女から見るとそれは「彼女」であるために必要だったこと。
「琥珀」であるために必要だったこと。
遠野槙久がいない今、槙久の子供を―――四季と秋葉を消し去ることが今の彼女そのもの。
それは別に憎んでいたからではない。
ただ、「ソレ」しかなかったから。
彼女が「ヒト」として生きるために「ソレ」しか目的が見つからなかったからなのだ。
それが彼女の行動原理。
今の「琥珀」としての行動原理。
そんな彼女の行動は俺の告白でどう変わるだろう。
不安だ。
とても不安。たまらなく不安だ。
……だけども。
先程決意したように、俺は不安を抱えながらも彼女に返す。
八年間借りていたモノを彼女に返す。
彼女が貸してくれたおかげで俺は「俺」でいられた。
「遠野志貴」でいられた。
ひねくれずに、真っ直ぐ成長できたのだ。
待っていてくれる。
父親に勘当され、自分の存在を疑問に感じていたあの頃の俺。
そんな俺が救われたのだ。
あのリボンのおかげで。
彼女のおかげで。
俺はここまで成長できたのだ。
だから、俺は返す。
最大限の感謝を込めて。
彼女に八年間借りっぱなしのリボンを返すのだ。
「……琥珀さん」
俺は覚悟を決めるとそっとささやくように彼女を呼び止める。
「はい、なんでしょう、志貴さま」
彼女は何も知らず、ただ振り向く。
「そ、その、八年前は……あ、ありがとう」
俺は口を開いた。
「えっ……」
その瞬間―――静寂が広がった。
彼女はきょとんと……
本当に驚いた顔で、俺の顔をじっと見る。
心臓がドクンドクンと鼓動を早める。
振動が体全体を震わす。
唇がかわき、呼吸は早まる。
膝が笑い、背中を冷や汗が伝う。
本当に言っていいのか。
伝えてしまっていいのか。
緊張が俺を包み込む。
「は、八年前、俺は琥珀さんに助けられた。
ありがとう。
琥珀さんが待っていてくれたから。
俺を赦してくれたから、俺はここまで大きくなれたんだ」
俺は琥珀さんの目を優しく見つめる。
琥珀さんは俺が言っている意味がわかったのかわからないのか。
割烹着の袖下をいじくりながら、目を泳がせる。
「……俺が何を言っているのかわからない? 琥珀さん」
俺は優しく尋ねる。
相変わらず琥珀さんは落ち着かず目をきょろきょろさせている。
「……は、はい、志貴さまが、な、何をおっしゃっているのか……
琥珀にはよくわかりません……」
語尾が震える。
彼女はわかっている。
わかっているけどわかりたくない。
信じられない。
そう心の奥底で考えているのだ。
なんてかわいそうな人なのだろう。
自分の幸せすら。
受け入れられないぐらいに心が凍ってしまっているのだから。
でも、俺がここにいる以上。
凍りついた琥珀さんの心を優しく包み込み、ゆっくりと暖めよう。
それが俺の為すべきコトなのだから。
「八年前にさ……
貸してくれたよね、白いリボンを。
”……貸してあげるから、返してね”って。
俺、男だからさ、結局リボンは使わなかったけど。
父親に勘当されて、誰にも必要とされてないって落ち込んでいたときに、
貸してくれたのはすごく嬉しかった。
だって、俺のことを待っていてくれるってことじゃない。
自分の存在が不必要だと思っていた俺にとって、そのリボンは心の支えになったんだ。
俺のことを待っていてくれるヒトがいる。
それだけで俺は「俺」でいられたんだ。
ずっと借りっぱなしでごめんね、琥珀さん。
長い間、本当にありがとう」
俺はそう言って、琥珀さんの腕をとった。
そして優しく、優しくポンと彼女の手のひらに白いリボンを乗せてやる。
「琥珀さん、八年間貸してくれてありがとう。
あの時は何にもお礼が言えなかったけど。
ずっとずっとお礼が言いたかった。
長い間、借りっぱなしでごめんね。
このおかげで俺は真っ直ぐに育ったんだ。
いくら感謝してもしきれない。
本当にありがとう」
琥珀さんは嬉しくも悲しくもない顔でそのリボンを眺める。
じぃーと我が手に納まったリボンを見つめる。
と、その時。
一筋の涙が頬をつたってこぼれ落ちる。
「……覚えていてくださったんですか、志貴さま」
琥珀さんは震える声で俺に尋ねる。
「……うん、覚えている。
あの大きな木の下で琥珀さんがリボンを貸してくれたことを。
いつも悲しそうな顔で外を眺めていたことも。
みんな、覚えているよ」
俺は琥珀さんの頭に手を伸ばし、優しくなでる。
そっとそっと慈しむ。
「ただいま、琥珀さん。
八年振りに帰ってきたよ。そして八年間貸し続けてくれてありがとう。
これからはずっといるから。ここにいるから。
八年間砕けそうになっていた俺の心を支えてくれてありがとう。
今度は俺が琥珀さんを支えるから。
だから……
泣かないで……
笑ってよ、琥珀さん。
あの大輪のような笑顔を浮かべてよ……」
琥珀さんは泣いていた。
声を上げずに泣いていた。
俺は頭を撫でていた手を背中に回す。
そして優しく抱きしめる。
包み込むように。
受け止めるように。
俺は琥珀さんを抱きしめた。
そうして俺は琥珀さんの頭を優しく撫でる。
何回も何回も繰り返し撫でる。
たゆたう時間。
ふたりきりの時間は優しく流れる。
俺と琥珀さんの間を穏やかに流れていく。
ゆっくりと、ゆっくりと。
―――が、幸せな時間は唐突に終わりを告げた。
予想して然るべき展開と言えばいいのだろうか。
廊下の奥から聞こえてきた音によって優しく暖かい二人だけの世界は終わりを告げ、いつもの冷たい日常に戻ったのだ。
遠くから聞こえる涼やかな声とパタパタと響くスリッパの音によって。
「姉さん、どうしましたか? 何かあったのですか?」
その声はスリッパの音をバックにはっきりと響く。
俺と琥珀さんはその声と足音を聞いた瞬間、お互いにパッと離れた。
琥珀さんは顔を赤らめつつ。
もちろん俺も顔を真っ赤にして。
俺たちはお互いを意識しつつも視線を合わせられない。
琥珀さんは珍しくもじもじとしているし、俺も普段とは絶対に違うと思う。
翡翠が来るまでに普通に戻らないといけないのだが、果たして疑われないぐらいに戻れるか微妙だ。
抱き合っているところを見られたわけではないけども、恥ずかしいものは恥ずかしい。
好きな女性をその腕に抱きしめたあとで平気な顔でいられるほど俺はスレていないのだ。
……まあ「普段」の俺を「この世界」の翡翠が知っているわけではないから何とでも言い訳できるけど。
出来ることなら怪しまれないぐらいに戻っておきたい。
「―――姉さん?」
そんなことを考えていたら先程よりも近いところで再び声が聞こえる。
こころなしかスリッパの音が先程までのリズムより早くなった気もする。
うん、翡翠は間違いなくスピードを上げてこちらに向かってきているようだ。
「どうしたのですか、姉さ…………!」
三度目に聞こえた声は唐突に途切れる。
そして疑問形での問いかけに変化した。
「し、志貴様?」
俺と翡翠はお互いを見つめ合ってそのまま固まる。
翡翠は呼びかけた状態で。
俺は翡翠を見つめっぱなしで。
まずい。
心の準備が出来ていない。
実際に翡翠と会ったら、なんて言えばいいのか思いつかない。
真っ白。
少しでも考える余裕があった弓塚や琥珀さんの時と違い、完全に不意打ち。
どうしていいか、どう答えていいかわからない。
そのまま見つめ合う俺たち。
翡翠も俺も呼吸すら止めて視線を絡ませる。
それはまるで金縛りのように。
微動だにできず。
ただ時間が過ぎるに任せるのみ。
と、そこで響く天の声。
琥珀さんがこの奇妙な静寂を破ってくれた。
「―――ひ、翡翠ちゃんっ。
し、志貴さま……
う、うん、志貴さまがようやくいらっしゃったのよ」
琥珀さんが口を開く。
彼女にしては珍しく動揺しつつも、この落ち着かない空気を破ってくれたことに俺はホッとする。
翡翠はそんな琥珀さんを不思議そうに―――悪く言うと怪訝そうな顔で見つめる。
眉間にしわを寄せて琥珀さんを見やるが、侍女としての本分を思い出したのか俺の方を振り向くと口を開いた。
「お帰りなさいませ、志貴さま。
居間で秋葉様がお待ちです」
彼女の口から出た言葉は。
全く予想通りの言葉だった。
翡翠は変わらず「翡翠」であり。
完全に『以前』と同じく。
感情をこめず淡々と『八年振り』の挨拶を俺にすると静かに頭を下げた。
彼女も変わっていた。
それは『以前』の世界と比べると変わっているという意味ではなく。
俺が記憶している幼少の頃とは違うということ。
あの明るく元気だった翡翠が今はこんなにおとなしい。
それは姉の望みか、自分の望みか。
琥珀が「翡翠」を望んだように、翡翠は「琥珀」を望んだのか。
わからない。
それは俺にはわからない。
だけども。
翡翠にも変わって欲しい。
昔のように明るく元気に振る舞って欲しい。
『以前』の世界では琥珀さんは「変われた」
正確に言うと「変われそう」だったのにその機会は失われた。
永遠に。
いや……あの時の琥珀さんは「変わっていた」ように思える。
今までの「琥珀」から仮面を脱ぎ去った「琥珀」に変わっていたような気がする。
だから。
琥珀さんが出来たのだ。
翡翠だって変われるはずだ。
そう、思いたい。
そう、信じたい。
俺は頭を上げた翡翠をじっと見る。
どうしたらいいのだろう。
彼女にかけられている呪縛を解くにはどうしてあげればいいのだろう。
いや、考えるまでもないか。
俺は首を振る。
そんなのは簡単だ。
ただ、翡翠を「翡翠」として接すればいいのだ。
琥珀さんが「琥珀」に戻る以上、翡翠は「翡翠」に戻る。
二人も「琥珀」がいてはいけない。それはあの姉妹の共通認識のハズ。
だから琥珀さんが「琥珀」に戻れば、必然的に翡翠は「翡翠」に戻る。
ただ、それを―――そんな簡単なことを彼女が実行に移せるかどうか。
戻るのは本人の意志一つだけなのだが、今まで八年間こうやって過ごしてきただけにすぐにとはいかないだろう。
それは琥珀さんにも当てはまる。
すぐには戻れない、と思う。
ならば、ゆっくりと。
俺はゆっくりと彼女たちの心を取り戻す手伝いをしていこう。
遠野志貴が戻ってきた理由にはもちろんそれも含まれているのだから。
俺は彼女の眼を毅然たる決意をもって見つめ返す。
そして息を一回吸って呼吸を整えると口を開いた。
「ただいま、翡翠。八年振りだね」
そう言って俺はにっこりと柔らかい表情を浮かべ、彼女に微笑んだ。
その言葉が彼女に与えた影響は俺の予想を遙かに上回った。
想像以上に劇的な効果を彼女に与えたらしく。
まず彼女はハッと驚いた顔をして俺を見た。
そして動揺したまま次に琥珀さんの顔を見る。
その後、彼女は視線を俺たち二人の間で何度もせわしなく動かした。
ここまで動揺するなんて。
本当に見たことがない。
彼女がこんなに感情を露わにしている姿を。
翡翠は唐突な俺の言葉に自分を取り戻せないでいるらしい。
そんな中、俺はずっと優しく彼女を見つめ続ける。
安心させるかのように笑みを浮かべ。
彼女を見つめていた。
それからしばらく時間が経ち。
ようやく自分を取り戻せたのか。
彼女は琥珀さんをじっと見る。
琥珀さんも柔らかい笑みを浮かべ見つめ返す。
姉妹にしかわからないアイコンタクト。
琥珀さんは優しく一回頷いた。
俺にはそれが何の意味かはわからないけど。
翡翠にはわかったらしく。
彼女は落ち着きを取り戻した。
たぶん彼女は。
俺と琥珀さんの笑顔を見て。
全ての罪とまではいかずとも、なにかしら悟ったのだろう。
でも……
こわばりはこわばり。
八年間の氷はそう簡単に溶けはしない。
翡翠は目を閉じていったん一呼吸間を開ける。
そして自然な笑みを浮かべると改めて挨拶してくれた。
「お帰りなさいませ、志貴さま。
八年振りでございますね」
俺は嬉しくなった。
琥珀さんと翡翠の笑顔を見ることが出来てすごく嬉しい。
本当に。
心から嬉しいと思う。
「うん、ただいま、翡翠。
これから改めてよろしくね」
負けじとばかりに俺も自分が出来る最高の笑顔で微笑むのだった。
「さて……
わたしが出迎えに行ってから、結構な時間が経ってしまいました」
しばらくしてから名残惜しそうに琥珀さんがそう切り出した。
「……そうですね、姉さんが部屋を出てからだいぶ時間が経っております。
秋葉様が私に様子を見てくるよう命じたぐらいですから」
翡翠も琥珀さんに続いて口を開く。
「そうだね、結構時間が経っちゃったよね。
居間では秋葉が俺のことを待っているんだよね?」
「ええ、ずっと待っています。
それこそ首を長くして志貴さまのことをお待ちです」
琥珀さんは微笑みながら、怖いことを言う。
「怖いなあ……
遅くなった言い訳、なんて言おうかな」
まさか琥珀さんに再会して嬉しくて泣いていた、なんて本当のことを言うわけにはいかない。
そんなことを言ったら、文字通り「略奪」されてしまう。
「……実際に何故そんなに時間がかかったのですか?」
と、横から翡翠が尋ねてきた。
俺は振り向いて彼女の顔を見ると凍りつく。
久しぶりの再会ならわからなかっただろう。
だけど俺には『以前』の記憶がある。
これは……
何か知らないけど怒っている。
ちょっと突き放したような態度。
うん、間違いない。
翡翠はどうやら少々拗ねているようだ。
「い、いや…… 懐かしくて思わず話し込んじゃったんだ」
俺が事実を隠蔽しつつ、なるべく近いことを言う。
泣いて抱きしめられ、泣かれて抱きしめた、なんて言うわけにはいかない。
「…………そうですか、それならよろしいのですが」
妙に長い沈黙の後に翡翠が口を開く。
そんな翡翠を見て俺が困っていると横から助け船が出た。
琥珀さんだ。
「もう、翡翠ちゃん、久しぶりに志貴さまに会えたからってそんなよそよそしい態度は駄目ですよ。
志貴さま、私達のことを覚えていてくださったんですから。
それとも……
遅くなってちょっと妬いちゃったとか?」
ブホッ。
琥珀さん、なんてことを言い出すんだ。
俺が横で思わず吹き出すと、話を振られた翡翠は顔を赤くする。
「い、いえ…… そんなことはありませんが……
姉さん、な、何を言い出すんですか。
ただ、秋葉様がかなり気分を害されていましたので……」
「げっ、それならなおさら急がないとまずいね。
秋葉って怒ると―――」
ここで俺は賢明にも何とか言葉を濁せた。
思わず「怒ると怖いからな」って言うところだったのだが、なんとか踏みとどまれた。
危ない危ない。
会話の流れで無意識に言うところだった。
気をつけないと。
今の秋葉を知るはずない俺が何故彼女が怒ると怖いのを知っているのか、
間違いなく琥珀さんは俺の言葉のおかしさに気づくだろう。
ギリギリで言うのを止められて助かった。
「秋葉様がどうしましたか?」
琥珀さんが尋ねてくる。
「い、いや、これ以上待たせると悪いからね。
急ぐとしようか」
俺はそう言うと二人の背中を押すようにして先を急がせる。
そうして俺たち三人は早足で居間まで戻るのであった。
戻る途中。
俺は前を歩く姉妹の背中を見つつ自分の思考に沈んでいた。
先程、俺は琥珀さんと翡翠の二人に「八年前」を覚えていると明言した。
が、まだ「会っていない」秋葉は俺が「八年前」を覚えていることを知らないわけだ。
「覚えている」と聞いた姉妹二人にしても、俺がどこまで覚えているかは何も知らない。
何故なら俺がその点に関し何も言わなかったからだ。
この部分を軸に『以前』を思い返す。
親父の手により記憶を失った俺に対し、翡翠は秋葉と同じように嘘をついていた。
自発的かどうかは知らないが。たぶん秋葉の命によってだろう。
例えば……
四季の部屋を俺の部屋と伝聞の形ではあるがそう言っていた。
琥珀さんは俺が覚えていることをわざわざ秋葉に言わないと思う。
言ったところで得にならないからだ。
あえて言わなければ俺が「秋葉がつくであろう嘘」に不信感を持つ。
どちらかといえばそちらのほうが琥珀さんにとって得のような気がする。
では翡翠はどうか。
秋葉を取るか、姉を取るか。
こちらもたぶん自発的には何も言わないだろう。
ただ黙っているだけ。
それは姉の復讐の手伝いかはわからない
ただ翡翠としての役割は黙っていることと考えている節がある。
だから秋葉の前で致命的なことを決して口にはしないだろう。
すると問題は秋葉か。
繰り返すが、俺は「八年前」のことを覚えていると琥珀さんと翡翠に明言した。
だがどこまで覚えているかは話していない。
だから秋葉が「八年前」のことで嘘を言って、俺が間違えて頷いても弁明する余地はあるわけだ。
例えば……
八年前のコトは琥珀さんとのリボンのやり取りぐらいしか覚えていない、とか。
事故のせいで記憶が曖昧、とか。
こう言えば彼女たちは納得してくれるのではないだろうか。
生死に関わる事故。実際は一度死んでしまったわけだが。
しかもそのあと親父に記憶改竄されているし。
琥珀さんも秋葉もそれは知っているはずだから、たぶん騙せる。
二人はそれでいいとして翡翠はどうだろう。
彼女は俺が親父に記憶改竄を受けたことを知っているのか。
「前回」では特に明言されなかった。
だが……
知っている、だろうな。
まあ、たとえ翡翠が八年前に関して突っ込んだ質問をしてきたとしても、事故のせいで記憶が曖昧と言えば引き下がるだろう。
相手のつらい部分をほじくる無神経さは彼女にはないはずだから。
ふむ、では当座の俺は八年前のことは事故のせいでほとんど覚えていない、で通すか。
覚えているのは双子の女の子のこと、リボンのことだけにしておけばいいだろう。
ああ、もちろんそれだけだと秋葉が大変なことになるから秋葉のことも覚えていると言えばいい。
うん、その方向でいくとしよう。
俺は方針を決定づけると早足になり、前へ急いだ。
居間。
『以前』来たときは八年振りに来た故に覚えていない景色にとまどったが、今はもう『見慣れて』いる。
だが念のために初めて来たかのような顔をして所在なさげな表情を浮かべた。
琥珀さんは俺たち三人を代表して、居間にいる髪が長いほっそりとした少女
―――ソファーに座っている秋葉に向かって頭を下げた。
「すいません、遅くなりまして。ただいま志貴さまをお連れいたしました」
秋葉は顔をしかめて頷くと声をかける。
「ご苦労様、琥珀。あと翡翠もね。
しかし、それにしても随分と時間がかかったわね。
一体何故こんなに時間がかかったのかしら?」
「すいません、秋葉様。志貴さまと少々話し込んでしまい遅くなってしまいました」
琥珀さんはそう言ってペコリと頭をさげる。
秋葉はその様子をじっと眉間にしわを寄せて見つめる。
「……まあいいわ。今回の件は不問にしてあげる。
厨房に戻ってなさい」
はい、と琥珀さんは頷くと、俺に会釈をして厨房の方へ出ていった。
部屋には俺と秋葉と翡翠。
翡翠は琥珀さんと秋葉が話している間に壁際に下がったらしく、俺の真後ろに控えていたはずなのにその気配を感じない。
「ずいぶんと遅かったようですけど……この件はあとで聞くとして。
お久しぶりです、兄さん」
秋葉はソファーから立ち上がって俺に挨拶をした。
美しく流れる髪は朱に染まっていない艶やかな黒で。
凛とした眼差しは薄汚れた壁など見つめず俺をしっかり見返してくる。
綺麗な首筋は一点の瑕疵なく、まるで玲瓏のごとく。
整った顔には少々赤みが差し、生きていると実感させる。
変わった点などどこにもなく―――狂気の欠片さえ見つからず。
秋葉は俺が願っていたとおりの秋葉であった。
俺はいったん目を瞑る。
そして一息おく。
よし、大丈夫。
この舞台で再び踊ってやろうじゃないか。
「久しぶりだな、秋葉。
ずいぶん大きくなったし、変わったな」
俺は懐かしさをにじませるように秋葉に答えた。
「八年も経てば誰しも変わります。ただでさえ私達は成長期だったのですから。
……それとも、いつまでも以前のままだとでも思ったのですか、兄さんは」
秋葉の言葉には相変わらず棘があった。
だけども俺は気にしない。
秋葉は秋葉なのだから。それが嬉しさの裏返しだということを知っている。
素直でない、それだけなのだ。
「……いや、そういう意味でもなくて。
なんていうか、”変わった”って言ったのは「綺麗」になったなっていう意味だ。
秋葉、ずいぶん綺麗になったな。見違えたよ」
「あ……」
俺がそう答えると思っていなかったのか、秋葉は一瞬とまどってしまう。
冷静な仮面がずれ、混じり気のない素の表情をかいま見せる。
が、それも一瞬。
すぐに自分を取り戻すと、目を瞑って俺に答えた。
「ええ。ですが兄さんは以前とあまり変わっておられないようですね。
相変わらず自由気ままに過ごされていた風に見受けられます」
手厳しい返事が返ってくる。
「まあ、ね。
有間の家では気楽に過ごしていたからな。当然、守るべき所は守っていたけど」
秋葉の意見を肯定しつつも、一応自分をフォローしてみた。
「私が聞いた限りではずいぶんと遊んでいたと聞いておりますが?
ですがそれも過去のこと。
遠野の家に戻ってきた以上、兄さんには今までのような無作法はさけていただくつもりですのでよろしくお願いします」
秋葉は一片の容赦もなく俺の退路を塞ぐ。
「……努力するよ」
何かこの流れはイヤな予感がするなと思いつつ返事をする。
「努力する必要はありません。結果を出していただければそれで結構です」
『以前の記憶』そのままに秋葉は俺に引導を渡してきた。
「……俺なりに努力するよ」
俺は再び同じ答えを返すと、秋葉の冷たい視線から目を背けあらぬ方をみるのだった。
微妙に気まずい沈黙が流れる。
視線を戻した俺は秋葉がソファーに座るのを見て対面に腰掛ける。
そんな俺を秋葉はチラリと見てから再び口を開いた。
「兄さん、お父さまの詳しい事情はご存じですか?」
「詳しい事情…………」
そこで俺ははたと考えた。
今のところ『記憶』通りに進んでいるとはいえ、危険な橋を渡る必要もない。
新聞で知った「父親」の死。それと同時に勘当した息子を本家へ強制帰還させた。
間違いなくそのような事態の元、俺はここにいるのだろう。
だけど確認してから動こう。
この世界でうまく生きていくためにその癖をつけないといけない。
思いこみで動いて取り返しのつかない事態を招くわけにはいかないのだ。
「……いや、ほとんど知らない。有間でも特に聞かなかったからな」
これは本当だ。
俺は勘当されて有間の家に追いやられた。
そこで元の遠野の家に関して尋ねるのは何か失礼のような気がしたのだ。
今まで実の子のように育ててもらっていたのに。
そういう質問するのははばかられた。
だから俺からは何も尋ねなかったのだ。
まあ、実際に……
新聞で親父―――遠野槙久が死んだと知ってもなんら感傷の一片も思い浮かばなかったが。
俺がそう答えると、秋葉は無言で頭を垂れた。
「まず申し訳ありません。
お父さまのことを兄さんに知らせなかったのはこちらの落ち度です。
関係各所や親戚の方達への連絡、それで手一杯になってしまい兄さんへの連絡が遅れてしまいました。
妹としてお詫びいたします」
秋葉はそういうと頭をさげる。
「いいよ、別に。俺の中では親父とはもう折り合いがついていたから。
どんな顔をして通夜や葬式に出ればいいかわからないし、秋葉が気にすることじゃないさ。
だいたい俺は勘当されている息子だからな」
俺は鷹揚に秋葉を許す。
「そう言ってもらえると少しは気が楽になります」
秋葉は頭を上げホッとした表情を浮かべると、俺の顔を見据えて続ける。
「兄さんをこちらに呼び戻したのは私の意向です。
いつまでも遠野家の長男を有間の家に預けているのはおかしいでしょう?
お父さまがどういう意向で兄さんを預けたのかはわかりませんが、遠野の血筋は私と兄さんの二人だけ。
お父さまがすでに他界された以上、私の判断でこちらに戻ってきてもらうことにいたしました」
ふむ、『以前』と同じように秋葉が俺を呼び戻したようだ。
とりあえず記憶通りと考えていいな。
秋葉は話を続ける。
「現在、この屋敷には私と兄さんしか住んでおりません。親戚の方達には出て行っていただきました。
私、わずらわしいのはイヤですので。
兄さんも親戚の方と屋敷では会いたくなかったでしょう?
それ以外に大部分の使用人にも暇を出しました。
が、私と兄さん付きの者は残してありますのでその点はご安心してください」
「確かに気は楽だけど…… 当主になったばかりの秋葉がヤリ過ぎると周りから文句を言われないか。
親戚の連中は口うるさい奴らが多かった記憶があるけど?」
俺は答えを知りつつも尋ねる。
「しばらくの間、あの方達の嫌みや小言を聞くぐらいですわ。
私、子供の頃からあの人達が大嫌いでしたから」
秋葉はツンとした顔で答える。
「わかった、おまえがそれでいいなら構わないよ」
俺はそれ以上突っ込まず、現状を承認した。
「では話を戻しますね、兄さん。
兄さん付きの侍女はこの子になります。 ―――翡翠、こちらに来なさい」
秋葉が彼女の名前を呼ぶと、壁際で控えていた翡翠がこちらに向かって歩いてくる。
そして秋葉の隣まで進むと、無表情のままペコリとお辞儀をした。
「この子が翡翠。兄さん付きの侍女ですので何かありましたらこの子に命じてください。
洗濯や掃除はこの子が担当します」
秋葉は淡々と俺に説明する。
その横で翡翠は相変わらず無表情を作ろうとしている。
だけど俺にはわかる。
ほんの微かに笑みを浮かべているのが。
秋葉は気づいていないのだろうか。
「……了解。それがここのルールなら従うさ」
俺は『以前』も抵抗したが結局受け入れざるをえなかったことを思い出し、ため息をつきつつ答えた。
「―――ん、てっきり反対されるかと思いましたが、以外とそうでもなかったようですね」
秋葉は一瞬面白そうな表情を浮かべた後、そんなことを言ってきた。
「どうせ反対しても無駄だろう?
来たばかりだし、しばらくはおとなしく言うことを聞くさ。
……しばらく、だけな」
「最後の方に不穏な言葉が聞こえてきたような気がしますけど、まあいいでしょう。
私の方の侍女は先程ここまで案内してきた者です」
「ああ、実を言うとさっき二人と自己紹介したんだよ。琥珀さんだろ」
「っ! もう自己紹介をなさったと言うのですか」
秋葉の雰囲気が変わった。
どうやら気に入らなかったらしい。
「うん、ここの部屋に来るまでにちょっと話しこんでて遅くなったって言ったよな。
まあそんときに自己紹介もしたわけだ。
……なにかまずかったか?」
俺がそしらぬ顔で聞き返すと、秋葉は目をそらす。
「……い、いえ、そんなことはないですが……」
「なら問題ないだろ。
じゃあ、もうそろそろ着替えたいのだけど、まだ話があるかな、秋葉?」
「と、とりあえず今すぐ伝えることは以上です」
「おう、わかった。そういや、俺の部屋ってあるんだよな?」
「もちろんあります。ただいま案内させますので。
―――翡翠」
秋葉がそう言うと翡翠が壁際から近づいてくる。
「志貴様、こちらになります」
翡翠は俺の手から鞄を受け取ると、先頭に立ち進んでいく。
そうして俺たちは秋葉を背にしてロビーを経て二階へと向かっていった。
とりあえず。
とりあえずこれでいったんの顔合わせは終わった。
ここまでは特に問題なく進められた。
ここからだ。
色々乗り越えていかなければいけない問題が多数山積みだが、俺は全てを賭けてそれらを突破していく。
それが俺の誓いであり、俺の願いである。
全ての人に幸せを。
俺の知る彼女たち全てが幸せになれますように。
もし欲をかいていいならば、その中に俺も含まれていたら言うことなし。
世の中全てがハッピーエンドなんて、そんな夢を信じているわけではない。
だけども俺が来たのだ。
『この先に起こることを知っている』俺が来たのだ。
願うは幸福、欺くは不幸。
笑顔を胸に、理想を掲げ。
困難に打ち勝ち、運命を覆し。
俺はただ前へ進む。
後ろめたいこともあるだろう。見せられないコトもあるだろう。
それでも彼女たちの幸せをただ願う。
それが俺の望みであり、願いなのだ。
全てをなげうってでも成し遂げる。
何が何でも成し遂げる。
それこそ俺の「贖罪」と為りうるならば。
俺は翡翠の背中を見つつ、右手を小さく握りしめると自分に活を入れた。
立ち止まらないために、前に進むために。
俺が俺であるために、遠野志貴であるために。
天から差し込むのは一筋の月の光。
俺はその光を浴びながら、ただそのことのみを願ったのであった。