うたかたのつき

第六章





―――夜
太陽が地平の彼方に身を隠し、闇の帳が辺りを覆う刻。
じわじわと真綿で首を絞めるかのように輝く世界を蝕んでいた闇は、
その光の象徴である太陽が沈むと同時に一気に世界を浸食する。
黒く黒く。
世界の全てを闇に染めるが如く。
一瞬にしてカタチあるモノからカタチなきモノまで全てを覆い隠す。
見渡すかぎり闇の世界。
闇に抵抗するかのように街灯や人の生きている証が所々で闇を払うけれども、それはあくまで散発的。
闇は圧倒的な力で世界を昏く黒く埋め尽くす。

光と闇の相容れぬ有り様。
それはこの世の理である以上、仕方がないことかもしれない。
昼が終われば夜になる。
陽が沈めば闇の時間。
当たり前といえば当たり前。
何故ならそれは世の中の理だから。
連綿と―――太古の昔から続いている世界の理なのだから。

だけども―――
人は願う。
輝く光に包まれた世界を。
明るく影などない世界を。
全てを見通せる光明に満ちている世界を。
影に怯えず。
闇を恐れず。
そんな世界を熱望する。
闇は暗く深く。
明けない夜などないとわかっているけども。
それでもなお闇を恐れてしまう。
それは人間の性だろうか。
人間が人間に進化する前から、闇を恐れ火に魅せられ。
明るき光に恋い焦がれ、暗き闇を嫌悪して。
そうしていつしか―――ヒトは闇を克服する。



―――月
天に鎮座するのは隻眼の儚き輝き。
淡く光るその目でもって、地上の出来事をただただ見守っている。
その優しき光は眼下を照らし。
地上を覆う闇をほんの少しだけ払ってくれる。
そっとそっと。
その光は全ての闇を見通せないけど。
全ての闇を切り裂けないけど。
闇に覆われた「夜」という世界において、最後の希望として見守ってくれている。

きらめく星々。
幾年もかけて降り注ぐその光は、旅をする間に何を見てきたのだろう。
暗黒の中を、闇の中を。
連れ添う仲間もおらず、孤独に呵まれつつ。
星々の海をひたすら進む、その道中で。

ああ、美しい。
なんて美しいのだろう。
黄昏から薄闇に。
薄闇から夜にかわって。
月が輝き、星が瞬く。
このなんてことのない光景が。
とても胸に染みわたる。





しばらく。
しばらくの間、天の移ろいに思いを馳せてから、俺はゆっくりと息を吐きだした。
陽が沈み夜になり。
もう屋敷に帰らないとまずい時間だ。
弓塚を見送って。
ここから「遠野志貴」の新しい歴史を生み出していく。
そのための一歩。
この目の前に伸びている―――屋敷へ続く長い坂道に俺は証を刻む。
一歩一歩、しっかりと。


俺は登りながら息を吐く。
胸の奥から。
全てを絞り出すかのように。
ゆっくりゆっくり息を吐く。
さあ。
俺は顔を上げて呟いた。
俺は戻ってきた。
再び全てをやり直すために。
幸せな道を歩むために。
彼女らに笑顔を浮かべてもらうために、戻ってきた。
これからが勝負だ。
悲惨な選択などせず、全ての彼女たちに幸せを。
二度とあのような目にあわせないことを。
俺の生が続く限り、俺の命にかけ、ここに誓おう。
自身を供物に捧げて願うこと。
それは彼女たちの笑顔のみ。
幸せになってもらえばそれでいい。
叶うならば、その横に俺が居れればなおいいが。
そこまで望むのはさすがに欲張りすぎだろう。
まずは。
とりあえず一番大事なのは、彼女たちの幸せ。
それを目指して頑張っていかないと。
うん。
俺は一つ頷くと拳を握りしめて、さらに前に進んでいった。
先程までとは歩みを変えず。
でも纏う雰囲気は別物で。
遠野の屋敷へ「帰る」ために歩いていく。


坂道を登り続ける俺。
前に進みながら、先程の弓塚の顔を思い出した。
帰り道。
夕焼けに照らされた彼女の笑顔。
生の輝きに包まれていた彼女の笑顔。
失いたくない。
二度と。
絶対に、絶対に失いたくない、あの笑顔。


俺はそのまま思いにふける。
あの時、俺は歴史を塗り替える一言を口にして、弓塚と別れた。
「深夜の繁華街には行くな」、と。
短い言葉。けれども、それ故に曲解出来ぬ言葉。
文字通りの意味。言葉通りの意味。
彼女は死なない。
何があっても死なない。
いや、違う。
死なせない、絶対に死なせない。
俺が守る。
守ってみせる。
今度こそ運命をねじ伏せよう。
歴史を遡った俺が。
俺だけが。
世界で俺のみが知っているが故に出来ること。
俺だけが成し遂げられること。
そうだ。
俺は―――俺が幸せであると思うために行動する。
その決意は絶対に譲れない大事な決意。
何が立ちふさがろうとも妥協しないその決意の中身はただ弓塚や他の皆に幸せになってもらいたいだけ。
弓塚に琥珀さん。
さらに秋葉に翡翠。
みんながみんな、大事な人たち。
不幸な結末になどさせず、幸福な未来へと導かなければならない。
それこそ、俺がここにいる理由。
ここに戻ってきた理由なのだ。
俺は坂道を睨むようにして見上げると、そのままとどまることなく前へ進んでいった。


決意を固めた俺の顔はさぞこわばっていたのだろう。
一瞬。
そんな俺をリラックスさせるように風が通りすぎる。
優しく頬をなで、髪の毛を梳くように吹いていく。
その風は『この世界』で精一杯生きることを決めた俺の背中をそっと後押ししてくれるかのよう。
軽やかなその手で俺に力を与えてくれる。
風の優しさに思わず頬をほころばせると、俺はそのまま歩を進めていく。
風と共に歩んでいく。





ふと。
風の戯れに気が抜けたからか。
風の優しさに心が緩んだからか。
坂道を登っていた俺の心に不安が忍び寄る。
本当に唐突。
前触れもなく、不安が俺を染めたのだ。
何と言えばいいのだろう。
この、足元の今まで踏みしめていた大地が突如崩れ消え去っていくような感覚は。
大地は踏みしめられるモノという認識の元に踏みしめていた大地が、
突然分解して空に放り出される感覚は。
今まで信じていた根幹が全て虚構に過ぎないと感じる心細さは。
揺れる。
俺の心が揺らいでいく。
ざわざわと―――ざわめき始める。
その、自分の足を屋敷に向けて踏み出す度にさざ波のように心が揺れていく。
ゆっくりと。
でも確実に俺の心を不安が蝕んでいく。
なんだ、この不安は。
俺は考える。
この突然襲ってきた不安を。そして何故に不安に思うかを。



これから遠野志貴は、皆と会う。


―――ドクン



『以前』の世界で別れてしまった彼女たちと『再会』する。


―――ドクン



『殺し合った』はずの秋葉がそこにいる。


―――ドクン



『死んだ』はずの琥珀さんが微笑んでいる。


―――ドクン



そんな、もう二度と会えなかったはずの『彼女』たちと『再び』出会う。


―――ドックン




ああ、そうか。
なるほど、わかった。
俺は怖いのか。
今更かもしれないけど……たまらなく怖いのか。
俺は恐怖を感じているのか。


―――不安


―――心配


―――恐怖


彼女たちは『あの』彼女たちではない。
守れなかった『彼女』でもなく、殺し合った『彼女』でもない。
ここにいる彼女たちは『あの』彼女たちではない。
わかっている。
わかっているのだけども……どうしても不安になってしまう。
体が震えてしまう。
心が怯えてしまう。
足が竦んでしまう。


俺はいったん立ち止まり天を見上げる。
優しく俺を見守ってくれている月を見ながら深呼吸。
胸の底まで息を吸い込み、そして吐き出す。
落ち着け。
落ち着け、遠野志貴。
大丈夫、大丈夫だ。
大丈夫だから、落ち着いて冷静になれ。


―――でも駄目だった。
いくら言い聞かせても心に恐怖が忍び寄る。
大丈夫だと思っていた俺の心はあっさりと恐怖で埋め尽くされてしまう。



俺は……
『彼女』たちと―――『死んだ』はずの『彼女』たちと逢うことを考えると不安でたまらなくなる。
心はうなだれ、足どりは重く。
体はこわばり、手足は震え。
俺は……
皆と『再会』する今の状況に恐怖する。





まだ登り切らない坂道。
目の前に未だ続く坂道は闇に紛れ、坂の上はぼんやりとしていてよく見透かせない。
夜の帳は何者をも差別せず。
全てのモノに平等に覆い被さる。
そしてそれは俺の心にも否応もなく覆い被さっている。
不安という帳に名を変えて。
俺の心を隙間なく包み隠す。

俺はそれでも何とか前に進む。
心臓がどくどくと鼓動をはやめる中、一歩一歩ひたすら歩く。
機械のように。
何も考えずにただ歩を進める。

考えては駄目だ。
考えないで前に進もう。
少しでも考えてしまうと……
俺は前に進めなくなってしまう。

一歩前進する度に体が重くなる。
一歩前進する度に息が苦しくなる。
一歩、前進する度に……
心が「恐怖」という闇に黒く塗りつぶされていく。

それは今までの恐怖とは比べ物にならないぐらいの「恐怖」。
怖い。
怖い。
怖い。


はっきり認めよう、俺は今の彼女たちと顔を合わせられない。
再び彼女たちに出会うのを恐れているのだ。
一度、世界から失われた彼女たち。
もう二度と会えないと思っていた彼女たち。
そんな彼女たちにもう一度出会う?
そんな、ありえないコト―――
俺はとても平常心でなんていられない。いられるはずがない。
どんな顔をすればいいんだ。
どんなことを言えばいいのだ。
彼女の笑顔を見た。
彼女の死に顔も見た。
彼女を殺したのは誰だ?
彼女を見捨てたのは誰だ?
助けられなかったのは―――俺ではないか!



恐怖におののきながらも何とか進んでいた俺の足がとうとう止まった。
限界を超えた恐怖のせいで、歩を進めるのを体が拒否したのだ。
そんな、馬鹿な。
「声」が聞こえる。
なんて、無様。
なんて、情けない。
なんて……だらしないのだ。
あれだけのことをやってのけた「俺」が。
今更……
可愛らしくも人間らしいことを言うなんて。


「声」はそのまま俺を嘲笑う。
その、あまりの情けなさに。
「お前」は誰だ。
「お前は」七夜ではないか。
七夜の血を引きし者。
鬼神の如く、魔を狩ることだけに全てをそそぎ。
悪魔の如く恐れられ、蛇蠍の如く忌み嫌われてきた一族。
その最後の生き残りである「お前」が。
何を恐れる。
何を躊躇う。
さあ、進め。
「お前」の足は前に進むためについている。
振り返ることなど許さない。
躊躇うことなど許されない。
前へ進め。後ろを見るな。
血にまみれた修羅の道こそ、「お前」の歩む道なのだ。


ズキン。
頭痛と同時に視界がぶれる。
目を開くとそこはどこともいえない場所だった。
先程までの坂道ではなく、どこだかわからない場所に俺はいる。
ふと気づくと俺の前方には誰かが立っていた。
そいつは血に塗れたナイフを逆手に持ち、深い蒼の浄眼を美しく輝かせる。
ニヤリと皮肉げな笑みを浮かべて、学生服姿でこちらを見返す。
目が合った。
あいつは、あいつは……
何故、なんで?
だって、あいつは。
あの男は。
―――俺、そのものではないか!
頭上を覆わんばかりの月の下。
戦慄の笑顔を浮かべた殺人貴は、月の光をまるで地上に落とさぬかのよう手を広げている。
恍惚とした表情で。
月の光をその全身に浴びた彼は口を動かす。
何か言っている。
だけど聞こえない。
ニヤリと浮かべた笑みを崩さずに。
彼は何かを言い続ける。


しばらくして言い終わったのか、彼はゆっくりとこちらに近づく。
一歩一歩、無造作に。
ニヤリと浮かべた皮肉げな笑みは未だ消えず。
彼はどんどん近づいてくる。
そしてとうとう安全距離ギリギリまで近づいてきた。
彼はそこで口を開く。
この距離ですら聞こえない。
彼が何を言っているのか、が。


彼は口を閉ざすと、ゆっくり右手を構えた。
逆手に持つナイフはそのままで。
おい。
もしかして―――


そこで俺の視界は真っ赤に染まった。
赤い。
何もかも真っ赤。
彼は霞のように消え去り。
ただ世界が赤く染まっている。
陽が落ちたはずなのに。
暗いはずの世界が赤く。
天に輝く巨大な月も赤く輝く。
その世界で。
どこからともなく―――だけどもはっきりと声が聞こえてくる。
笑い声。
これは笑い声だ。
俺を嘲笑う声だ。
気に障る声で。
笑い声は辺りに響く。
うるさい。
うるさい。
うるさい。
気に障る。
かんに障る。
腹が立つ。、
俺を笑うな。
俺を馬鹿にするな。
黙れ。
黙れ。
黙れと言っているんだ!



笑い声は遠ざかるように消えていった。
今のは……




気づくとそこは先程と変わらぬ坂道だった。
陽が落ちて、闇が辺りを覆い隠している世界。
あれ。
違和感。
今、ナニカあったよな。
たった今のコトなのに思い出せない。
たった今のことなのにわからない。
目の前の世界は何もおかしな事など起こっていないよう。
俺は首を振る。
と、背中が冷たいことに気づいた。
何も起こっていないはずなのに俺は全身に冷や汗をかいている。
背中や腰の辺りがとても冷たい。
どうやらびっしょりと汗をかいているようだ。

俺は気を取り直すと、すぅと息を吸い、そして吐く。
何かあったような気がするが、よくわからない。
わかることは、この冷や汗はその所為だということ。



俺は頭を左右に振って、思考を切り替える。
思い出せないならとりあえず後回しにしよう。
今考えなければいけないのは、これからのことだろう。
思い出せない白昼夢は放っておけ。
とりあえず今目の前のこれからのことを考えろ。

覚悟を決めろ、遠野志貴。
いつかは戻らなければいけないのだ。
今ここで恐怖に怯えたところで何も始まらないのだ。
いつかは戻る。
いつかは出会う。
それが今訪れているだけの話なのだ。

道路の端に寄ると、俺は目を瞑り自分を落ち着かせる。
そうだ、遠野志貴。
お前は覚悟を決めたのではなかったのか。
お前が決意したことはそんなに軽かったのか。
お前の想いはそんな程度だったのか。
違うだろ。
全てを守る。
神に逆らってでも―――運命と戦うのではなかったのか。
……そうだ。
俺は何か勘違いしていた。
俺は最悪な歴史を体験してきたのだ。
今更、恐れることなど何もない。
唯一恐れることは『以前』と同じ轍を踏むこと。
そこさえ誤らなければいいのだ。
恐れるな、怖がるな。
お前は『同じ過ち』を犯す奴じゃないだろう。
大丈夫だ。
今度こそ大丈夫だ。
よし。
俺は深く息を吸うと覚悟を決めた。
覚悟を決めたからには二度と恐れない。
後ろを向くな、前を向け。
そのまま前だけを見て進むのだ。

俺は―――
俺が俺であるために『この世界』を生きていくのだ!





また風が吹く。
緩やかに、優しくそっと。
震えながらも決意した俺の心を支えるように。
寄り添い落ち着かせてくれる。

俺はようやく落ち着いた。
不安は相変わらず胸の内にくすぶっているけども。
大丈夫。
もう大丈夫。
不安は不安。
それを決して否定はしない。
でも、それ以上に。
未来が広がっているこの世界を。
可能性が渦巻いているこの世界を。
俺の手で守れる世界がここにあるのだ。
もう二度と後悔なんてしない。
悔やみなんてしない。
今度こそ……今度こそみんなに幸せになってもらうのだ!





変わらず目の前にそびえ立つ坂道。
そこにあるのに関わらず、朧気に見える地面。
踏みしめているはずなのに、感覚は定かではない。
それは幽玄の世界へ続く道のよう。
一歩一歩歩く度に自身を希薄にさせていき。
「向こう側」へ溶かしていく。
もちろん。
そんなことはただの錯覚で。
俺が勝手にそんなことを感じているだけ、というのはわかっている。
だけども。
この坂を上っていると、何故かそんなことを思ってしまう。
不思議な不思議な感覚。
俺はそんな感覚にブルッと一回身を震わせると、目の前の坂を登っていった。
昏い空で輝いている月が見守る中。
寄り添うように星々が輝く中。
俺は遠野の家に向かって歩いていく。

あと少し。
あと少しでこの坂を登り切る。
そうして、塀に沿ってしばらく歩けば遠野の家に到着する。
現代の日本の住宅事情を一笑に付すような大きな屋敷。
それがこの坂を登り切った先にドンと構えているのだ。
そこには彼女たちがいる。
大きくそびえる遠野の屋敷で、彼女たちが待っている。
そう、あの屋敷には待たせている人たちが住んでいるのだ。
俺はこれから出会う彼女たちに思いを馳せる。
秋葉、琥珀さん、そして翡翠。
三人が俺の帰宅を待っている。
八年振りに帰宅する俺を待っていてくれている。
―――俺が知っている『経験してきた』歴史ならば。

この点は何度考えても不安になる。
それはそうだろう。
今までが記憶通りだからといって、そのまま順調に記憶通りに進むとは限らない。
違う未来があってもおかしくないのだ。
例えば、俺が遠野の屋敷に来ていない歴史があっても……
だけど―――
今の俺は信じるしかない。
『記憶』以外の歴史だったら自分の判断で何とかするしかない。
今はただ、前に進むしか選択肢が残っていないのだ。
俺が知っている歴史と信じて……

俺はようやく坂を登りきった。
登り切った目の前には長く高い塀が真っ直ぐ遠くまで続いている。
このだだっぴろい塀も遠野の屋敷の一部。
まだまだ、門は先だ。
遙か先とは言わないが、ここからだと一般常識に当てはまらないぐらい遠い所にある門。
そこに辿り着くまでもう少し進むしかない。
俺は塀に沿って歩きながら、まったくもってとんでもない屋敷に住んでいるのだな、と思った。
こんな家に住むなんてどうかしている。
まるで漫画の世界みたいだ。
金持ちの住む典型的な家。
普通の感覚からすると想像もつかないような大きな屋敷。
こんなのが実際にあるのだ。
驚き、の一言だ。

さらに塀は続く。
その塀は人と人為らざるモノを分けるかのように遠くまで続いている。
威圧的で関係ない者を近寄らせないかのように、視界の届く向こうまで塀は続く。
この塀の向こうに。
これから俺が住む屋敷がある。
改めて考えていたら、また緊張してきた。
一歩一歩足を進めていく度に、鼓動が強さを増していく。
落ち着け、遠野志貴。
俺はまた立ち止まり、緊張をほぐそうと努力する。
これからのコトを考えたら、これぐらいのことはなんでもないんだ。
先程覚悟をしたじゃないか。
うろたえるな。
慌てるな。
冷静になれ。
さっきの覚悟を無駄にするな。

風が吹く。
優しく頬をそっとそっと撫でていく。
まるで長年寄り添ってくれた連れ合いのように。
風は俺を落ち着かせてくれる。





―――『二度目』だからだろうか。


最初の時はただ不安だった。
八年振りに会う妹と双子の姉妹。
どんな顔をして会えばいいのだろうと思っていた。
だが今は。
不安は不安だけども、周りを見る余裕がある。
考える余裕が俺にはあるのだ。
俺は歩きながら考える。
この不可思議な現実は俺に何をもたらすのだろう。
俺に何を求めているのだろう。
俺はどんな役割をこの世界で背負っているのだろう。

秋葉や琥珀さんが生きている世界。
弓塚が笑っている世界。
そんな世界で俺は何を為す運命にあるのだろうか。

俺は首を振って苦笑する。
もう何度も何度も考えたことをまた考えるのか。
考えるのは構わないが、これからのことも考えないとまずいだろう。
息を吐く。
うん、そうだ。
これから屋敷に帰るのだから、屋敷にいる彼女たちのことを考えろ。
俺は思考を切り替えて彼女たちのことを脳裏に浮かべた。


最初は秋葉。
その、一度は殺し合った相手。
そして俺が殺した、大事な妹。
七夜の血に支配されたとはいえ、俺は彼女をあっさりと殺してしまった。
「遠野」に支配された秋葉を。
完膚無きまでその生を終わらせたのだ。
首を打ち落として。
月にその屍を晒させて。
だけども……この世界では遠野秋葉は生きている。
あの屋敷で八年ぶりに帰ってくる俺のことを待っているのだ。
ドクン。
鼓動とともに痛む胸。
それは一回だけの痛みだったらしく、すぐ引いてしまう。
俺は胸を軽く押さえ彼女を思う。
秋葉は生きている。
たぶん、きっと、いや間違いなく「この世界」では彼女は生きている。
その彼女にこれから会う。
俺が知っている秋葉であれば、一緒に暮らす。
俺の予想が間違っていなければ、今日が有間の家から遠野の家に移る日だから。
今日から全てが始まるのだ。
血にまみれた悲劇の舞台がここから幕を開けていくのだ。


次は琥珀さん。
明るく振る舞う陽気なヒト。
だけどもそれは仮面。
幼かったときの明るかった「翡翠」を演じているだけ。
では、本来明るくないヒトかというとそうでもない。
本人は明るくないと思いこんでいるようだが、それは自分すらも騙す嘘。
自分は暗い、と信じて明るく振る舞っている振りをするが、
その実やはり明るいヒト。それが琥珀。
自分を人形と言い切り、自分には生きる目的がない、と言うヒト。
そんなコトを言う彼女の顔を見ると思わず抱きしめたくなってしまう。
彼女はそう思うことでしか生きていけなかった。生き延びられなかった。
幼少の時の心の傷が彼女を蝕み、いつしか自分の心の在処がわからなくなってしまった。
何がホントで何が嘘か。
今の彼女にはそれすらもわからない。
だけども、根っこのところでは何もかもわかっている。
彼女自身が知覚できない根っこのところ。
その心の奥底では現状を良しとしていない。
秋葉を、翡翠を。
愛している彼女がいるのだ。
目的がないから。
彼女はそう言った。
わたしは人形ですから。
彼女はそうも言った。
だけども、彼女は泣いている。
誰かに助けてもらいたがっている。
あのときからずっと……
俺はそれを知っている。
彼女の心の奥底を知っている。
だから俺が。
世界で俺一人だけが。
不遜かもしれないが。
彼女を助けられることが出来るのだ。


最後は翡翠。
俺付きの侍女であり、最終的に一人にさせてしまった彼女。
小さい頃、一緒に遊んだ大事な友達。
彼女はただ一人屋敷に取り残されて何を考えてたのだろう。
感応者の能力があるのだ。妙な胸騒ぎぐらいはしただろう。
もしかしたら琥珀さんが秋葉に殺された、と伝わったかもしれない。
だけども彼女には何故そうなったか分からない。
不安が不安を呼び。
もしかしたら彼女は姉である琥珀の部屋を訪ねるかもしれない。
そして知るだろう。
胸騒ぎは崩壊の予兆で、安寧としていた生活が砂上の楼閣であることを。
そこには誰もいなく。
そうして気づく。
秋葉もいなくて、姉の琥珀もいない。
仕えるべき主人の俺もいない。
何があったか。
何が起こったか。
詳しいことはわからない。
だけども結果だけは理解する。
何故なら誰も戻ってこないから。
自分は一人ぼっちになってしまったのだと。


俺はそんな彼女たちに受け入れてもらえるのだろうか。
八年ぶりに帰ってきた兄として受け入れてもらえるのか。
そして俺はそんな彼女たちを真っ直ぐ見つめられるか。
八年ぶりの再会を果たす妹と双子の幼なじみを受け入れられるだろうか。
わからない。
会った時のことを考えると不安になる。
ばくばくと。
考えるだけで鼓動がひどく体を痛めつける。
何故だろう。
わからないからだろうか。
それとも恐怖心からだろうか。
それすらもわからない。
ただ畏れる。
どうしようもなく畏れる。
その―――想像しにくいことがこれから起こる。
それに対してどうしても畏れが先に来てしまう。
怖い。
先程乗り越えたつもりだったけど。
また恐怖が鎌首をもたげてきた。
ゆっくりと俺の心に忍び寄る。
だけども俺はその恐怖をねじ伏せる。
無理矢理に、強引に。
遠野志貴よ、お前は先程決意したのだろう。
覚悟を決めたのだろう。
何だ、今の態度は。
お前の覚悟はその程度だったのか。
情けない。
しっかりしろ。
胸を張れ、前を向け。
下を向くな、恐れるな。
立ち向かえ、乗り越えろ。
お前にはやり遂げなければいけないことがある。
為さなければいけないことがあるのだ。
恐怖に負けるな。
恐怖に打ち勝て。
お前がお前であるために立ち向かっていくのだ、遠野志貴よ。


ふう。
いったん息を吐き、自分を落ち着かせる。
そうだ、俺は『過去』を思い起こす。
目の前で恋人を磔にされたこと。
妹の首を打ち落としたこと。
自らの手で吸血鬼と成り果てた友達を滅ぼしたこと。
ぐるぐるとそれらの光景が走馬燈のように頭をよぎる。
俺はその全てを変えるためにここにいるのだ。
躊躇いなんて許されない。
俺にそんな余裕は無い。
全身全霊をかけて、彼女たちを幸せに導くのだ。



そうして、いつしか遠野の屋敷に到着していた。
正確に言うと、遠野の屋敷の正門前に到着していた。
「――――――でかいなあ」
『以前』もそう思ったが、こうして改めてみるといかに大きいかがよくわかる。
正門ですらこれだ。屋敷の大きさは推して知るべし。
これだけ大きい屋敷だと周りから反感を買われないだろうかと小市民的な心配をしてしまう。
……と。
感心している場合ではないな。
ずいぶん遅くなったから心配していることだろう。
ふぅ。
一度目を瞑り、息を吐く。そしてキッと前を見つめる。
よし、行こう。
俺はそう改めて呟き決意を固めると、鍵がかかっていない門をゆっくり押して開けていった。





いよいよ始まる。
新たな歴史がここから始まる。
この門を押し開けた時から。
嘆き、悲しみ、苦しんだこと、全てが泡沫のごとく消え去っていくのだ。
俺は再び巡り合う。
彼女たちと巡り会う。
泡沫のように消えていった彼女たちと再会する。
今度こそ間違えない。二度と間違えない。
俺のために。
彼女たちのために。



夜空に輝く月が見守る中。
ぼんやりとした影が敷地内に踊る中。
俺は決意を胸に秘めて、歩いていった。
一歩一歩力強く。
遠くに見える屋敷を見据えて歩いていった。







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