うたかたのつき

第五章





放課後。
学校の終わり。
午前中から受けていた授業がすべて終了し、学生という責務から解放された生徒達が羽を伸ばす時間帯。
部活に勤しむ者、友人と仲良く帰宅する者、はたまた教師に居残りを命じられる者、と各生徒によって多種多様。
さまざまな過ごし方で放課後という名の自由を謳歌する。
その中で。
三々五々と級友が散らばっていき、残っている者が目に見えて少なくなっていく教室の中で。
「学校」という半ば強制されたシステムと最後まで付き合おうとする者は少なく。
一刻も早くこの牢獄から抜け出そうとするかのように。
好きこのんで残る者などほとんど見あたらず、皆余程のことがないかぎり早々に教室を出ていってしまう。

そんながらんとした教室で。
寂しそうに机が並び、椅子にはあるべき姿が見受けられない。
朝はあれだけ人が居たのに。
がやがやと騒がしかったのに。
いまや数えるほどしか―――片手の指で事足りるぐらいの人数しか残っていない。
ほとんどの生徒はもうすでに教室から去ってしまっている。

そんな僅かしか人が残っていない教室で。
ぎりぎりまで、とばかりに話に花を咲かせていた女子のグループが席を立ってから幾時か。
帰り際に声をかけてくれた彼女たちに右手を挙げて応えてから、俺はずっと外を眺めていた

外。
夕闇前。
まだ日は沈んでおらず地平線に向けてゆっくりと歩を進めている。
それは同じ。
『以前』と同じ。
いつも変わらず見てきた『過去』の光景と何ら変わることなく。
同じように陽は沈み、陽はまた昇る。
そんな当たり前のことが当たり前のように過ぎていく。
繰り返す自然の営み。
飽きることのない繰り返し。
果てのない永遠。

ふと。
視界の端でカーテンが揺れるのが見えた。
日直が鍵を閉め忘れたらしいその窓は。
わずかながら開いていたようで、カーテンの端を持ち上げる。
ゆらりゆらりと、まるで蝶のように軽やかにはためき、カーテンは舞い続ける。

俺はため息を一つつくと窓を閉めに立ち上がった。
別段気づかない振りをして放置してもよかったのだが、ここのクラスの生徒である以上なんとなく見て見ぬ振りは出来なかったのだ。
俺は件の窓に近づくと、端のほうにカーテンを寄せしっかりと縛る。
そして窓を閉め鍵をガシャリとかける。
これでおしまい。
俺はこのカーテンを縛り窓を閉めるという簡単な行為に何か誇らしげになった。
大したことをしたわけではないのに。
ただ見て見ぬ振りをしなかっただけなのに。
誰にでも出来る―――それこそ幼児でもこなせそうなことをしただけなのに、妙に自分を褒めたくなったのだ。
それこそ、自分が難しい偉業を成し遂げたかのように。





しばらく。
しばらくして、高揚した気分が一陣の風のように過ぎ去ってから。
何故そんなことで気分が高揚したのか、と苦笑しながら。
俺は窓の外に意識を移した。
外。
そこは―――いつからか視界一面に鮮やかな朱色が広がっていた。
夕焼け時。
鮮やかな朱は教室の中をゆっくりと浸食していく。
机も。
椅子も。
黒板も。
窓ガラスを通して差し込むその光は。
教室にある物をなにもかも朱く染める。
ただ一人教室に残っている俺をも。
朱く朱く染め上げていく。

その朱色の光は。
音もなく、隅々まで。
俺自身を照らしていく。
俺の意志などおかまいなしに。
あるがままに染め上げる。
その形のままに染め上げる。

そうして、気づくと。
いつの間にか朱色の光と一体化している俺がいた。
窓から射し込む光は優しく俺を貫いていき。
刺し貫かれた部分から身体が色をなくしはじめ。
まるで透き通ったナニカに変化していくよう。
そして細胞の一つ一つが朱く色づけされていき。
身体の中から朱い光と同化する。
それは実に奇妙な一体感。
実際に一体化したわけではないのだけども。
俺は今、あの朱く輝く光と一体化した気がする。

その中で。
朱い光と一体化して見る夕焼けは。
なんて。
なんて綺麗なのだろう。
今まで見てきた夕焼けとは別格で。
まるでこの世の物と思えないぐらい美しい。
もう一度。
もう一度繰り返す。
見渡す限り広がる夕焼けは。
とてもとても美しく。
言葉では表現できない次元の違う美しさを醸し出している。

朱色の光。
その光は見ているとどこか郷愁を感じさせる。
幼いころ。
日が沈むまで遊び歩き。
朱く輝く光が辺りを満たし。
影が長く長く地面に伸びていく。
ねぐらに帰る鳥の鳴き声が響きわたり。
少しずつ闇に満たされていく世界。
そうして、一人二人。
また、明日。
また、明日と。
各々の場所に帰っていく。
明日も今日と同じ日で。
同じように過ごすつもりで。
この世界が永遠に続くと信じ。
世界が幸福に満ちていると信じて疑わなかったあのころ。

朱色の光は。
そんな昔の、甘い記憶を思い出させる。
俺は懐かしさにとらわれたかのように、ひたすらその夕焼けを見つめ続けた。
一心不乱に。
ただ俺は目の前にある鮮やかな夕焼けを見つめ続けた。
まるでその景色を頭に焼き付けようにとするかのように。
現象としてはただの夕焼け。
大気の塵が光を屈折させて朱く見せているだけ。
なのに。
なぜか。
心惹かれる。
心乱れる。
心ざわめく。
その夕焼けが。
俺を呼んで―――招き寄せているような気がして。

俺は沈む夕日に思いを馳せる。
朱く輝く夕日に思いを馳せる。





あの時―――
俺の脳裏に夕焼けを背負った彼女のシルエットが浮かび上がった。

彼女は。
屋敷近くの坂道で。
別れ際に。
朱に彩られつつ。
さびしそうに微笑んでいた。

俺は深く息を吐き出すと、夕日から目をそらさず深く思い浮かべる。

そうだ、彼女は。
また明日。
また明日、学校でね。
彼女はそう言ってばいばいと手を振った。

繰り返す。
彼女は。
ばいばい、と。
儚げな笑顔、で。
今にも消えてなくなりそうなその笑顔、で。
また明日、と手を振った。
サヨナラ、の挨拶をしてくれた。
それが彼女にとって。
今生の別れになるとは露知らず。

そのときの笑みを。
別れ際のあの笑みを。
俺は決して忘れない。
忘れる事なぞ出来やしない。
朱く煌めく世界での。
赤く染まった彼女の笑顔。
それが彼女の。
ヒトとしての。
最後の笑顔だったのだから。

ズキン。
唐突に頭が痛んだ。
彼女のことを考えていたら。
鋭い痛みが駆けめぐる。
あの白い痛みとは違って。
何もかもおおい隠そうとする痛みではなく。
ただ痛み。
ただ痛む。
たぶん、その痛みは。
純粋に彼女を喪った痛み。
ヒトとして彼女を喪った痛み。
永久に俺と彼女が……道を違えることになった―――別離の悲しさが与える痛み。

それならば。
そうであるならば。
俺はその痛みを。
受け入れなければならない。
拒絶してはいけない―――絶対に。
何故ならその痛みは。
彼女を助けられなかった俺への罰であり。
彼女を殺した俺への罰。
俺が受ける―――受けなければいけない罰なのだ。
だから。
俺はその痛みを受け入れる。
救えなかった罰として。
己が身に言い聞かせつつ。
罪を贖うためにただ受け入れる。



―――しばらくして。
ゆっくりと。
まるで潮が引くかのようにゆっくりと痛みが治まりはじめ。
俺はまたあの輝く夕焼けを見つめつつ。
思考の海に沈みはじめた。

俺はここにいて。
彼女が無事ここにいる。
何の因果かわからないが。
俺はまた巡り会えた。
彼女に巡り会えた。
もう二度と相まみえることのないと思っていた彼女に。
俺の手で涅槃へ送った少女に。
再び巡り会えたのだ。

今度こそ。
今度こそ彼女を救う。
あの輝く笑顔を。
あの暖かい微笑みを。
あの俺を信じるその真摯な瞳を。
二度と曇らせないためにも。

俺は目の前の夕日に約束する。
彼女を―――弓塚さつきを助けることを。
そう、まずは彼女。
彼女を守る。
血まみれた奴らの手から。
闇に住まう一族から。
吸血の性を持つ―――祝福されぬ忌むべき存在から……絶対に守りきる。

俺はゆっくりと息を吐き―――繰り返す。
彼女は生きている。
『この世界』では生きている。
もう二度と殺させはしない。
『歴史』どおりに殺させはしない。
彼女には生きる権利がある。
死なねばならぬ理由などない。
生きて……精一杯生きる義務があるのだ。

俺は彼女を救う。
これは義務でも何でもなく。
俺の意志。
何者にも束縛されぬ俺の意志。
今度こそ俺は彼女を助ける。
あんな生といえぬ生など歩ませず。
希望の光の下で前を向いて歩いてもらうのだ。

そう、今度こそ。
彼女に笑顔を。
心の底からの笑顔を浮かべてもらおう。
生きとし生けるものを慈しむ太陽の下で。
眩しいぐらいの笑顔を浮かべてもらうのだ。
あの輝きのもと、最高の微笑みを。



俺は目の前の美しく映える夕日に誓いをたてる。
何度も誓いをたててしつこいかもしれないが。
俺はその度に心へ刻み込む。
俺が俺である限り。
今度こそ。
今度こそはあのような不幸ではなく、幸せを享受してもらおう。
それは。
俺が為すべき事であり。
為さなければいけない事なのだ。
なぜなら、それこそが『未来』を知っている俺だけにしか出来ないことなのだから。





そうして。
気づいたら。
向こう側の朱が溶けだしたような鮮やかな夕焼けをぼんやりと見つめていたら。
いつしか時間が過ぎていて。
それを意識したときに。
ふと。
本当にふと、思い出した。

そういえば今日は……
今日は八年振りに遠野の家に帰った日だ。
さっきまで弓塚のことのみ考えていて忘れていたが。
今日この日こそ、俺が八年振りに戻った日なのだ。
もちろん確実にそうだとは言い切れない。しかし、このことは弓塚がいることや弁当がないことから考えて導き出したことであり、たぶん合っていると思う。
ここまでは問題ない。
何ら問題なく、『過去』をなぞっていけている。
誰かの死に繋がるようなミスも犯していないし、自分が不審に思われるようなこともしていない。
……弓塚を抱きしめたこと以外は。
俺は彼女を抱きしめたとき感じたあの柔らかい感触を思い出し、カァーと顔が火照ってしまう。
まあ、あれに関してはたぶん大丈夫だろう。
弓塚を抱きしめたからといって何かの歯車が狂うとは考えにくい。
次から気をつけるということでこの件は終わりにしよう。
俺はそう頭を切り替えると、元々考えていたことを改めて思い浮かべる。

それでは―――
それでは、今日が『あの日』だと仮定したとき。
『あの日』だとしたときに、本当に俺は何もミスなどしていないのだろうか。
不幸を呼び込むようなことも。
誰かを危険な目に遭わすような事も。
そして、大切な人たちを死の淵に追いやってしまうような事も。
本当に何もやっていないだろうか。
俺は考える。
もちろん、俺にはしていないという自信がある。
だけど。
過信は禁物。考えて考えすぎることはない。
例えるならここは戦場。
ほんの些細なミスが生死を分けるのだ。
他人が聞いたら「なんて大袈裟な」と思うかもしれないが、『過去』では実際に身近の女の子が―――弓塚が死んでいるのだ。
用心するに越したことはない。

そう考えていたら。
急に。
急に俺は不安になった。
自分の心が暗雲に覆われる。
まずい。
何か……
何か抜けている。
とても……とても大切で重大なことが……
忘れてはいけないナニカが抜けている。
そんな気がしてならない。
心が……
警鐘を鳴らす。
思い出せ、とばかりに。
警鐘を鳴りっぱなしにする。
俺は何かとても大切なことを忘れていないだろうか。
こう、何というか……
もどかしく。
イライラとし。
気になってしまう。
何か重要な―――とてもとても大切なことを忘れているような気がしてならないのだ。
『以前』の俺はどのように『今日』という日を過ごしたのだろうか。
俺は『過去』の記憶を思い返してみることにした。


―――八年振りに遠野の家に帰ったあの日。
今日と同じように一人放課後の教室で夕焼けを眺めていた。
そうだ。
俺はゆっくりと……細かな事柄も見逃さないようにわざとゆっくり思い出す。
誰もいない教室で。
今目の前で輝いている朱い夕焼けと同じように赤く燃える夕焼けを見つめていた。
その光は教室の中を隅々まで照らし。
赤い光で満たしていた。
その中で俺は。
八年前のことを考えていて。
胸の傷のことを考えていて。
いい加減学校に一人残っているわけにもいかなくなり。
ゆっくりと学校を出ていった。
有間の家の時代は裏門から帰っていたので、正門から帰るという今までなかったパターンに戸惑いを覚えつつ、
急ぐわけでもなくゆっくりと屋敷に向かって歩いていった……
確か正門を使って帰るのが初めて……いや、入学式以来とか考えていた気がする。
そうして、屋敷に向かって歩いていたら……



   目を白黒させて俺を見る彼女。
   淡い笑顔をうかべて、遠く視線を投げる彼女。
   目をきょとん、とさせたあと、やけに弾んだ声をあげる彼女。



そうだ。
俺はそこで偶然。
彼女に―――弓塚さつきに会ったのだ。
俺は愕然とした。
会っている。俺は彼女に出会っている。
夕焼けの時の笑顔が。
別れ際の笑顔が。
朱く輝くその横顔が。
その場面が一番印象強く心に焼き付いていたので、ほかの部分がぼやけていたが。
よく考えてみると。
こうして思い出してみると。
その前の出来事として。
俺は彼女と一緒に帰っている。
そうだ、一緒に帰っていたのだ。

彼女との最後の出会い。
ヒトとしての最期の出会い。
『以前』の世界ではこの出会いが最後の邂逅だった。
もちろん。
もちろん、今この俺がいるここでも同じように「今日」が「最後」なんて事を繰り返すつもりはない。
彼女を吸血鬼になんてモノには絶対にさせない。
だけど、万が一。
億が一にも、彼女が昼休みに俺と交わした約束を守ってくれず。
深夜の繁華街に一人で出かけていってしまったら『過去』の二の舞だ。
それだけは避けないと。
なんとしてでも避けなければならない。
だから。
念には念を押しておこう。
彼女を帰り道で捕まえて釘を差しておこう。
昼休みに約束したので大丈夫だとは思うけども。
さらに念押ししても問題なかろう。
嫌われても構わない。
しつこい、と言われても構わない。
それで彼女の―――たった一つの命が守られるものならば、やすいものだ。
よし、帰ろう。
俺は窓から見える夕焼けを一瞥すると、まだあの道にいるかわからない彼女と出会うために、
鞄を小脇に抱えドアの方に向かっていった。

俺は廊下を走って下駄箱まで急いだ。
さすがにこの時間になると校内にはほとんど生徒がおらず、ぶつかることもなにもなく。
何ら問題なく下駄箱まで到着できた。
よし、ここで靴に履き替えれば、もう外だ。
俺は蹴り捨てるように上履きを脱ぐと、自分のところから靴を取り出しすぐ履き替えて、
上履きをしまうと鞄を持ち直し外へ駆け出した―――



俺は正門から屋敷の方面に向かう。
時刻は夕刻。
外も夕焼けの朱で満たされている。
ここは今までと違う道。
今まで、有間の家は裏門から通っていた。
だが、遠野の屋敷は有間の家とは学校を挟んでちょうど反対側に位置しており、正門から行くのが一番近いのだ。

俺は正門を抜けて駆けていく。
弓塚と逢うために。
そこにいるかわからない彼女と出逢うために、ただひたすら駆けていく。
そう、俺は彼女に逢わなくてはいけないのだ。
あの時の、夕日に浮かび上がる彼女と約束するために。

俺は一息も入れずに駆けていく。
足がもつれ、転びそうになるが、何とか転ばず駆け続ける。
全力疾走しているので、体が酸素を求め息苦しくなるが、ただひたすら耐える。
ドクンドクンと心臓が鼓動を刻み、破裂しそうな勢い。
それでもなお俺は駆けていく。

しばらく駆けていくと、住宅地に通じる交差点に出た。
ここで屋敷のある住宅地方面の道と繁華街がある方面の道に分かれるのでどちらに行くか選択することになる。
俺は弓塚と逢うつもりだったので迷わず住宅地方面の道を選ぶ。
そしてそちらに足を向けたとき、目の前に女の子が電柱を背に佇んでいるのが目に入った。






―――ドクン



彼女を見たら。



―――ドクン



目の前が赤く。



―――ドクン



血のように赤く。



―――ドクン



呼びかける声は声とならず。



―――ドクン



駆け寄るはずの足はただ凍りつき。



―――ドクン



その場で彼女をただひたすらに。



―――ドクン



ただ、ただ、見つめるのみ。



―――ドクン



彼女は。



―――ドクン



夕焼けを背後に。



―――ドクン



赤い夕焼けが大きく輝く中。



―――ドクン



血のような赤で染め上がる景色の中。



―――ドクン



横顔を見せる。



―――ドクン



赤く染まった寂しそうな横顔を見せる。



―――ドクン



「ピンチになったときは助けてくれるよね、遠野くん」



―――ドクン



「わたしが勝手に信じるだけだから、そう信じさせて」



―――ドクン



「わたし、遠野くんとずっとこうして話せたらいいなと思っていた」



―――ドクン



「だめだよ。わたしは遠野くんみたいになれないもの」



―――ドクン



「わたしの家はこっちだから。また明日、学校で会おうね。ばいばい」



―――ドクン



「また明日、学校で会おうね。ばいばい」



―――ドックン






一際大きく鼓動を打つ。








ああ……
間に合った。
俺は間に合った。
彼女に出会えた。
再び出会えたのだ。
俺は心の底から安堵のため息をつく。
彼女がここにいてくれたことに。
無事にここにいてくれたことに。

俺は『過去』に戻ってきて。
『全て』を知って『過去』に戻ってきて。
不可思議な力は俺のあるべき運命をねじ曲げて。
苦界から俺を引き上げ、白紙の「未来」を与えてくれた。
そうして俺は今度こそ皆を幸せにしようと。
誰一人欠けることなく。
幸せになってもらいたくて。
笑顔で―――笑っていてほしくて。
そんな願いを胸に抱き。
ここまで走ってきた。

目の前の彼女は。
夕焼けに彩られた彼女は。
そんな俺の思いを知らないけれども。
それでも全然構わない。
俺の気持ちなんてどうだっていい。
彼女が無事にいる。
夕焼けの時間、『あの時』どおりにここにいる。
それこそが重要なことであり、それ以外のことはたいして重要ではないのだ。

そうだ。
俺は自分に言い聞かせるかのように再度繰り返す。
俺は間に合った。
再びこの時この場所で彼女に―――弓塚さつきに出逢えたのだ。

俺は夕焼けを背後に佇む彼女を見つめた。
いや、魅入ってしまっていた、と言い直した方がいいかもしれない。
とにかく。
彼女の尋常ざる不可思議な雰囲気に。
声をかけようとした俺は。
動けなくなってしまい、ただ見とれるだけだった。

先ほどまで全力疾走していたせいで息があがっていたが、彼女を見つめているうちに呼吸も整ってきた。
爆発しそうだった胸も落ち着きはじめ、穏やかに鼓動を打つ。
すぅと額を流れおちる一筋の汗がその残滓。

依然、夕焼けの光が世界を朱く染める中。
彼女は電柱に背中を預け、その場に一人立っていた。
沈みゆく太陽の光を全身に浴びたその少女は。
まるで赤い影絵のように見えて。
この世界の言葉では言い表せない不思議な美しさを醸し出す。
目の前にいる彼女は。
美しく。
とてもとても―――見とれるぐらい美しく。
まるでどこかへ消えてしまいそうな……
儚く脆い、蝋燭の最後に見せる一瞬の煌めきのような美しさでそこに佇むのだった。

俺はそのままその場に立ち止まり続ける。
彼女のあまりの美しさに。
軽々しく近づけない何かを感じ。
ただ彼女を見つめるのみ。
視界には彼女と夕焼けの朱だけ。
それ以外何もなく。何も見えない。
彼女が。
朱く染まった彼女だけがそこにいる。

そんな彼女を見つめていると。
俺は何か急に不安に―――心細くなってきた。
彼女が、遠くに。
手の届かないぐらい遠いところへ。
『あの時』と同じように。
もう二度と手が届かない「向こう側」に。
涅槃の彼方へ行ってしまいそうな気がして、いても立ってもいられなくなってしまったのだ。

俺は固まっていた体を無理矢理意志の力で動かす
一歩……
二歩……
彼女はそこにいる。
俺に気づかずそこにいる。
うつむき加減に下を向き、朱い光を身にまとっている。


「弓塚!」


俺は至近距離で思わず叫んだ。
その、喉から出た声は。
声の調整が全然出来ておらず。
ただ感情のままの素の声だった。

俺は我を忘れて声を出した。
後先のことは何も考えず。
彼女を行かせたくなくない、ただそれだけを思って。
実際にはどこかへ行ってしまうわけではないのに。
消えてしまうわけでもないのに。
不安で不安で。
恥も外聞もなく叫んでしまったのだ。



「きゃっ!」

彼女は至近距離でいきなり大声で呼びかけられてとてもびっくりしたようだ。
小さな悲鳴を上げて、一歩後ろに下がり背後にある電柱に体をぶつけると、持っていた鞄を手から落としてしまう。
そして呼びかけた俺の方を振り向く。

「あ……
 な、なんだ、とう、志貴くんか……
 い、いやだな、びっくりさせないでよ、もう……」

弓塚は声をかけたのが俺だとわかると、胸に手を当て安心したかのようにふぅと息をつく。
そして腰を曲げて落とした鞄を拾いながら、今驚いたことを恥ずかしがるかのように顔を真っ赤にしつつ、照れ隠しのような笑みを浮かべた。

「どうしたの、いったい? いきなり大きな声だしちゃって?」
弓塚は俺の方を向いて、首を傾げる。

俺はその一連の仕草をみて、自分が彼女に何をしたか理解した。
何をやっているのだろう。
いきなり大声を出して。
彼女を驚かせるつもりなんてなかったのに。
不安が先立ち、心が急いて。
自分でも何だかわからない感情に支配されとても恥ずかしいことをしてしまった。

けど……
首を傾げた彼女の顔を見て。
謝るより先に安堵の気持ちが浮かび上がった。
ああ、彼女だ。
彼女が―――弓塚がここにいる。
俺の目の前に変わらない姿でいてくれている。
『あの時』と同じように。
夕焼けに染まりながら。
彼女は「弓塚」でいてくれているのだ。
俺はほっと息をつくと、彼女に改めてほほえんだ。
そして大声を出したことについて謝った。

「ごめん、ごめん、いきなり大声だしちゃって。びっくりした?」

俺がそう言って謝ると、彼女は目をぱちくりさせながら俺の顔を見る。
そして照れたのかはにかんだような表情を浮かべてこう答えてくれた。

「うん、すごくびっくりしたよ。
 志貴くんだったからよかったけど、一瞬誰かと思っちゃった」

彼女は胸をなで下ろす仕草をして、俺に笑いかける。
俺はその笑顔をみてほっとする。
よかった、彼女は怒ってない。
いつも通りの彼女だ。

「ほんと、悪い悪い。弓塚をびっくりさせるつもりはなかったんだ。
 驚かせてごめん」
俺はさらに詫びつつ、彼女を片手で拝むような仕草をした。

「……ううん、そんなに気にしないでよ、志貴くん。
 ちょっと……
 ちょっと、びっくりしただけだから……
 だから、ね……そんなに頭を下げないで……」
弓塚は再度俺が謝ったのを受け、優しい声で俺を気遣ってくれた。

どこまでいっても彼女は変わっていなかった。
俺は弓塚が発する優しく響くその声を全身で受け止めつつ、そう思う。
あの時の少女が。
悲しい運命を背負う定めの心優しき少女がここにいる。

俺は彼女の優しさに思わず目をつぶる。
今、この時において。
遠野志貴という存在は、時を巻き戻し運命を飛び越えて存在している。
そんな俺が。
願うこととは。
望むこととは。
それはただ―――当たり前のように生きてほしい。
彼女に。
当たり前のような生を望むだけ。
弓塚は。
そんな当たり前の―――当然の権利すら行使できずに。
奴らの犠牲となり。
生きているのか死んでいるのかわからないモノに成り果てた。
今度こそ。
今度こそ、そんな真似をさせない。
奴らに。
この眩しき太陽のような笑顔を翳らせない。
俺は次こそ。
次こそ守りきる。
彼女を。
弓塚を守りきってみせてやる。

俺は弓塚の声を聞き、また決意を改める。
彼女を。
彼女を守る。
未来を。
奴らに奪われた彼女の未来を守ってみせる。
そこから俺たち皆の新しい歴史が始まるのだ。

と、俺がそんなことを考えていたら、弓塚の声が意識に飛び込んできた。
「……らね、志貴くん。 頭をあげてよ。
 私は全然気にしていないから」

まずい。
また俺の悪い癖がでたようだ。
回想にとらわれる。
周りのことをいっさいシャットダウンして自分の考えに没頭する。
それをまたやってしまったらしい。

俺は弓塚の顔を見つめる。
途中何を言ったのかわからないが、最後の「頭をあげてよ」は聞こえた。
その言葉を受けて、頭をあげて彼女を見つめたのだ。

俺は弓塚の目をじっと見る。
彼女は俺の視線に気づくと顔を赤くして下を向いてしまった。
……かわいい。
俺は彼女の仕草につい不遜なことを考えてしまう。

「……コホン」
俺は一つ咳払いをした。
自分の照れ隠しのためだが、まあ、それはそれ。
これで弓塚が顔を上げてくれれば、問題ない。

弓塚は俺の咳払いを聞くと、ゆっくり顔を上げる。
おそるおそる。
そう形容するしかない感じで顔を上げてチラリと俺と目線を合わせる。

俺はニコリと微笑む。
やっと顔を上げてくれた弓塚に。
今この時を生きている弓塚に。
この先明るい未来が待っているはずの弓塚に。
すべての気持ちを込めて―――微笑んだ。

弓塚は俺の微笑んだ顔を見ると慌てて下を向いてしまう。
一瞬見えたその顔は―――夕焼けの朱以上に赤くなっていた。
ああ……
弓塚の仕草の一つ一つが。
心に響く。
守らないと。
守らないといけない。
彼女を。
弓塚を。
当たり前のように笑って、当たり前のように生きてほしい。
そんな簡単なことを。
単純なことを。
今度こそ、かなえないといけない。
だから……
俺は奴らから彼女を守る。
二度と汚させはしない。
もう後悔なんてしたくない。
二度とあんな惨めな気持ちを味わいたくない。

何度同じことを思ったのだろう。
毎回毎回似たようなことがある度に決意を新たにする。
何回も決意を改めるぐらい。
俺は後悔しているのだろう。
そんなことを考えていたら、いつしか赤くなった彼女に手を伸ばしていた。
そして、一歩彼女に近づいてポンと肩をたたく。
自然の行為。
何も考えず何も意図せず。
ただ自然に手がでたその行為は。
何か決定的な誤解を生みそうな気がしたけども。
今更手を引っ込めるわけにもいかず。
秋葉とか琥珀さんとか翡翠とか。
屋敷で待っている彼女たちの顔が浮かんでは消えも。
ハッと弓塚が顔を上げたところで、俺は再度至近距離で微笑みそのままま語りかけた。

「……ごめんね、そしてありがとう……弓塚さん」

何に対して「ごめんね」なのだろう。
何に対して「ありがとう」なのだろう。
その短く単純な言葉に。
言葉以上の思いを込めて。
俺は彼女にささやいた。

彼女と俺の距離は吐息が感じられるくらいに近く。
俺は最後とばかりに詫びる。
彼女はこれ以上赤くならないだろうというぐらい赤くなりつつ、笑顔を浮かべる。

「え…………
 う、うん……いいよ……
 いいよ、志貴くん、そんなに謝らなくても。
 うん、もう済んだことだしね。
 気にしないでいいよ、志貴くん」

彼女の笑みは俺の心に染みわたる。
乾ききった土に降り注ぐ慈雨のように。
彼女の暖かさはじんわりと隅々まで俺の心に染みこんでいき、心がゆったりと満たされていく。

「……で、どうしたの、志貴くん。
 いきなり大きな声出しちゃって」
彼女は心配そうな―――自分が何か悪いことをしたと思ったのか―――声で俺に問う。
大丈夫、弓塚さん。
君は何もやっていない。
ただ、俺が。
不安になって。
思わず大きな声を出しただけなんだ。
君が気にする必要はまるでないんだ。

「い、いや……」
俺は彼女の本当に心配そうにしている顔を見て口ごもった。
なんと答えればいいだろう。
夕焼けの中、どこか消えてしまいそうだったから、か。
朱く輝く光に、とけて消えてしまいそうだったから、か。
儚く輝く泡沫の月のように、その有り様が夢幻の幻に感じたからか。
いけない、うまく答えられない。
だけども。
俺は答えないといけない。
これ以上怪訝に思われず、うまく回答しないといけない。
彼女になんとか納得してもらえる返答をしないといけない……

結局、俺は無難な回答をすることにした。
一瞬、いろいろ考えたが普通にいくのが結局一番安全だと思ったのだ。

「い、いや……
 も、もし良かったら一緒に帰ろう、と思ってさ……
 あ、もちろん、弓塚さんが良かったらだけど……」
俺は赤くなりながら、彼女から目を逸らしそうになりながらも言い切った。
彼女は俺の言葉を聞くと、黙って俺の顔を見る。
そして、一呼吸二呼吸たったあと、俺の言葉を理解したのか急に顔を真っ赤にして目を泳がせたかとおもうと、
ぶんぶんと今にも擬音が聞こえてきそうな感じで首を縦に振りこう言った。

「わ、私は用事ないけれど……
 い、いいの……わ、私となんかと一緒で…………」
彼女は下を向き、片手でツインテールの先を指でくるくる巻いたりしている。

「もちろん、弓塚さんと一緒で全然問題ないよ!
 ……それとも、駄目かな、弓塚さん……」

「う……、ううん、ないよ、全然そんなことないよ!
 私、志貴くんと一緒に帰りたい!」
彼女は大きな声でそう言うと、自分の言った言葉の意味に気づいたのか真っ赤な顔で黙ってしまう。
聞いていた俺はすでに真っ赤になっていて、どこを向いていいのかわからない。

「う……うん……
 か……かえろう……いや、帰りましょう、志貴くん。
 か、帰り道が一緒なんだから、途中まで一緒に帰っても全然おかしくないし……
 い、一緒に……帰りましょう…………」
弓塚はそう言うとそっと俺の隣に歩を進めてきた。
ツインテールがふわりと揺れて、俺の腕を優しく撫でる。
そのまま彼女の顔を横目で見ていくと真っ赤になっている彼女の顔が近くにあり、なにやら俺も熱くなってしまう。

「じゃあ、一緒に帰ろうか、弓塚さん」
俺は自分の照れた赤い顔を彼女に見られないように前を向きながら、一歩先に歩き始めた。





俺と弓塚は一緒に歩いていく。
途中、弓塚が提案した裏道を通りながら。
この道は坂道までの近道でほかの生徒があまりいないらしい。
俺達はお互いを感じられる距離を保ちながら、その道を二人でゆっくり歩いていく。
夕焼けの赤で満たされる景色。
遠くには大きな夕日が輝いていて。
二人の影は長く長く伸びていく。
穏やかでゆったりとした空気が流れ。
まるで世界は時を止めたかのよう。
誰にも出会わず何もおらず。
無人の荒野を進むように。
時の流れから切り取られた俺たちは二人だけで時を進めていく。

そんな散文的なことを考えつつ歩いていたら隣の弓塚が俺のことを見上げるように話しかけてきた。
「志貴くんって……
 今日からこっちのさ……坂の上の……遠野さん家のお屋敷に戻るんだよね」
おそるおそる、でも確認するかのように彼女は俺に問いかける。

「…………うん、そうだよ」
俺は一瞬、その質問に驚き、次に密かに安堵してから、弓塚に答えた。
どうやら俺の推測通り、今日が弓塚と帰った最後の日らしい。
俺の記憶だと、朝に先生から呼ばれているという話を彼女から聞き、その時に引っ越しのことかなと呟き、
詳しく説明することになった気がする。
予想通りの日だったことに、俺はホッとし体の緊張がゆるんだ。

「ふぅ、よかったぁー」
俺が答えると彼女は胸に手を当て満面の笑顔でそんなことをつぶやいた。
よかった、だって?
緊張がはしる。
そんな言葉は記憶にない。
一体彼女は何がよかったのだろう。
少々引っかかったので、素知らぬ振りをしつつ直接聞いてみることにした。

「うん? どうしたの、弓塚さん。何がよかったの?」

「あ、いや……なんでも……なんでもないよ。
 ひ、ひとりごと。ひとりごとよ、志貴くん」
彼女は慌てて否定すると、顔を赤らめつつぼそぼそとよく聞き取れない声で返事をした。
どうやらなんでもないらしい。
俺は彼女の様子にちょっと首を傾げながらも、「なんでもない」と言った彼女の言葉を信じることにして、
それ以上追求するのを止めにした。


「今日の―――」
俺が次の話題を振ろうと口を開きかけたら、彼女が早口でかぶせるように話し始めてきた。

「「あ……」」
同じタイミングで話し始めて、お互い固まる。

「ご、ごめんなさい、志貴くん、先どうぞ」
「や……いやいや、ごめん、弓塚さん、先にどうぞ」
お互いに譲り合う。
俺にとってこれは好都合の展開だ。
相手が話せば話すほど情報が得られる。もちろん、諸刃の剣にも成りうるが、それは代償として仕方がない。
どうやら今日が弓塚と帰った最後の日らしいが、さらに確信を持つための材料が欲しかったので、
ここはなんとしてでも彼女に先に話させないとならない。
俺は無理矢理ぽいなと思いつつも、弓塚に決定的な言葉をかけた。

「ほら、弓塚さん、レディファーストって言うじゃない。
 どうぞ、弓塚さんから先に話してよ」

弓塚はそれを聞くとぷぅと頬を膨らませ、笑いながら俺にこう言った。
「あ、志貴くん、ずるーい。こういうときだけレディファーストを持ち出すのは反則だよー。
 ……でも、うん、そこまで言ってくれるなら私から話すね」
彼女は俺の顔を見ると、照れくさそうに頬を染めつつ、口を開いた。

「今日の朝、志貴くん、話してくれたよね。引っ越すって。
 志貴くんってさ……今まで住んでいた―――有間さん家だっけ―――家から出て、あの坂の上のお屋敷に戻るんだよね。
 その……八年振りだっけ、その本当のお家に戻るのは。
 怖いなーとか、ドキドキするなーとか、そういうことは思わないの?」
彼女は不安そうな―――いや、本当に心配してくれているのだろう―――顔で尋ねてくる。

俺は彼女の質問に体が熱くなるのを覚えた。
ああ、繰り返している。
多少の誤差はあるけども。
確実に。
俺の記憶通り、歴史が動いている。
今度こそ。
今度こそは。
むざむざと死なせやしない。
俺の手で涅槃へ送らない。
腕の中の彼女が消えていく感覚。
あんなもの二度と味わいたくない。
彼女には生きて。
光り輝く―――あるべき未来を歩んでもらなわければならないのだ。

俺は拳をぎゅっと握りしめて、気持ちを新たにすると、弓塚の方を見た。
そして「うーん」と答え、考える振りをした。

正直、彼女の質問への回答は『今まで住んでいたので不安なんて微塵にも感じない』だ。
あそこにいるのは秋葉に翡翠に―――そして琥珀さん。
何年も一緒に暮らしたわけではないけども、『以前の世界』では仲良くやっていけていた。
うん、百パーセントお互いのことを理解し合ったなんて格好いいこと言うわけじゃないけど、
ある程度は理解したつもりだし俺自身のことをわかってもらえたと思う。

だけど……。
この世界では。
俺はまだ秋葉たちに会っているわけではないし、本当にうまくやれるかなんて会ってみないとわからない。
俺自身はうまくやる自信はある。
なんといっても二度目の出会いだし、あちらはともかく俺の方は問題ない。
どこで怒るかもどこで笑うかもだいたいわかる。
以前と同じように接しつつ、秋葉たちへの答えを間違わなければまず大丈夫だろう。
唯一の不安といえば、俺が知っている世界そのものと言い切れない、そこが気になるところだが、
このあたりは先ほども考えたように臨機応変に対応していくしかないだろう。

「うん、たぶんね、だいじょ……」
俺は弓塚に返事をしようとして、ハタと気づいた。
今、俺は弓塚に大丈夫と言いかけようとしたが、何が大丈夫なのだ?
俺が大丈夫だと思ったのは『以前の記憶』があるから、だ。
だけど、本来ここにいる「遠野志貴」は当然のように『以前の記憶』などない。
だから、俺は八年振りに実家に戻ることに対し、「大丈夫」なんて思ってはいけないのだ。
危ない危ない。
何も考えずに流れのままに答えたりしたら、彼女に不思議に思われるところだった。
ふむ。
たいていの人間の感性ならば、八年振りに帰る家に戸惑いを覚える。
大丈夫なヒトもいるかもしれないが、それはあくまでも一部。
俺も含めて―――不安だと思うのが一般的ではないだろうか。
確か『以前』の俺も―――不安に思ったはずだ。
―――他人の家みたいに感じる―――
そんなことを言ったのではなかっただろうか。

俺は一息つき、考えをまとめると弓塚に視線を向けた。
言いかけた言葉を途中でやめて、弓塚は不思議そうな顔でこちらを見ている。
ここまで一瞬。
弓塚は不審に思っただろうけど、俺が言いかけた言葉の意味までは分からなかったはず。
俺は彼女と目を合わせ、すぅと一回息を吸うと、彼女の問いかけに答えた。

「うん、正直不安だよ。元々、俺はあの屋敷が好きではなかったし、八年も経つととてもじゃないけど自分の家とは思えないからね。
 なんかさ、他人の家みたいに感じるよ、実際のところ」

俺はそこでいったん言葉を切り、空を見上げる。
赤く染まる空。
この空の向こうに。
三人が待つ屋敷がある。

「……でも。それでもね……実際に自分の家なのだから、そこに帰るのが一番自然な形だと思うんだ。
どんなに不安でもね」
俺は優しく言い切った。

「そっか……私はそういう経験がないからわからないけど、そうだよね。
 自分の家なのだから、そこに戻るのが一番いいもんね、うん、納得!」
弓塚は俺の答えを聞くと納得したのか、混じりけのない笑みを浮かべてくれた。

「じゃ、次に志貴くん、どうぞ」
彼女は微笑みながら俺に話を促した。

「へっ、俺?」

「もう、さっき、志貴くんが話そうとして私が先に話し始めちゃったじゃない。
 私は今話し終わったから次は志貴くんの番でしょ」
弓塚は笑って俺に言う。

さて困った。
なんと言うべきだろうか。
今の弓塚との会話で今日が「あの日」だという思いをますます深めた。
それがわかった以上、今ぱっと思いつく話題がない。
どうしよう。
彼女は俺が口を開くのを待っている。
ああ。
こういうとき、有彦の話題の豊富さが羨ましくなる。
……有彦。
そうだ、あいつの話でもしてお茶を濁すか。
あいつの悪口なら一時間でも言ってられる。なんと言っても古くからの付き合いだし。
お互いの弱みを握り合っている腐れ縁だからな。

「あ、有彦がさ」
俺は口を開いた。

「うん、乾くんがどうしたの?」
彼女は答える。

なんて言おうか。最初に思った通りヤツの残虐超人的な行いを暴露するか。
うーん。どうしよう。
と、俺が考えていたとき唐突にシナプスが繋がったというか、天啓のように思いついた。

「……いや、今日の昼休みにさ、有彦が変なこと言っていたじゃない」
俺がそう話しかけると、昼のことを思い出したのか弓塚の顔がボンと熟れたトマトのように真っ赤になる。
俺も正直恥ずかしい。
あんなこと―――彼女を抱きしめるようなことをしでかしたのだから。

「う、うん……乾くん、なんて言ったっけ……」
彼女は俺の隣でボソボソと返事をする。

「俺がさ、弓塚さんのこと、嫌いとか無視していたとか言ったじゃない。
 あ、あれ、全然そんなこと思ってないから。
 俺さ、弓塚さんのこと嫌いでもないし、わざと無視したなんてこともないから。
 もしかしてあいつの言葉で誤解しちゃったかなと思って……」
俺は友人がでかい声でのたまった濡れ衣をはらそうと彼女に説明した。
正直、弓塚なら俺がわざとそんなことをしているわけじゃない、とわかってくれているとは思うけど、
言葉にしないと伝わらないときもあると思う。
念のため、というわけでもないが、今が言うチャンスだと考えたのだ。

「………………」
彼女は答えない。
俺が言ったことは聞こえているだろうに、何も返事をしてくれない。

「……あれ、弓塚さん?」
俺は不安になって彼女をちらりとのぞき見る。

弓塚はただ口を真一文字にして真っ直ぐ前を向いているだけだった。

「ゆ、ゆみづ―――」
俺が不安になって再度彼女の名前を呼びかけたとき、ガバリという感じで弓塚が顔を上げてこちらを見た。

「う……うん、大丈夫、志貴くん。わ、私、志貴くんに嫌われているなんて思ってないから。
 だって、もし私が志貴くんに嫌われているのなら、お昼休みにあんな風にだ、抱きしめてもらえないもんね。
 す、少なくとも嫌われてないって思ってた。
 もちろん無視してた、なんていうのも考えたことないよ。
 志貴くんはさ、私の事なんて眼中にないというか気づいてないかなって思っていたけど、それって「無視」なわけじゃないでしょ。
 ただ、志貴くんの目にとまらなかっただけで。
 そういう風にずっとずっと考えていたわ」
彼女は赤い顔のまま、即座に俺の言葉を否定する。

「弓塚……」
俺は彼女の言っていることが遠野志貴の真実だったので、何も答えられずただ彼女の名前をつぶやくだけだった。

「で……きょ、今日、志貴くん、私のこと、だ、抱きしめてくれたじゃない。
 そのとき思ったの。ああ、わたしはやっぱり志貴くんのことがす、す、す……き……
 ―――すごく、いいなって思ってるって」
彼女はとんでもなく恥ずかしいことを俺に告白してきた。
何か途中で無理矢理言い換えた気がしたが、俺の聞き間違いだろう、うん。
とにかく、彼女は俺が嫌ってるとか無視してるとか微塵も思ってなく、ただ今までの経緯は俺の性格に起因するモノだと考えてくれているようだ。
当たっている。
確かにそのとおりである。
俺は弓塚のことを無視していたわけではないし、嫌っていたわけでもない。
ただ、俺は彼女とは違うと思っていた。
明るく皆に好かれている典型的なアイドルの彼女と、社交性がない俺。
それこそ同じクラスであれ、接点があまりない理由だった。
しかもこちらは特に接点を求めていなかったし、あちらも当然俺なんかに目をくれてない、そう考えていた……

だけど彼女はずっとあがいていた。
鈍感な俺を相手にして。
気づかない俺に時にはため息をつき。
彼女はずっと俺と話そうと頑張っていたのだ。
俺がそれを知ったときはすでに手遅れで彼女は砂と消えた。
俺の腕の中で砂と消えた。
もう繰り返さない。
あんな『過去』は。
二度と繰り返してはいけない。
俺は彼女の笑顔を眩しく感じながら、何度目かの誓いを新たにたてた。





お互いに無言になる。
弓塚の言葉は後に続かず。
俺自身はあまりにも恥ずかしいことを聞いて、言葉を出せず。
ただ二人でゆっくり帰り道を歩いていく。
隣を歩く彼女は柔らかい雰囲気を醸し出していて、一緒にいると安心できるタイプだと思う。
穏やかで心安らぎ……そのまま素の俺自身を出せるような気がする。


「―――ふふ」
そんなことを考えていたら、いきなり彼女が思いだしたかのように笑みをこぼした。

「なに、どうしたの。俺、おかしなことでも言った?」
俺は自分の顔に手を当て―――今考えていたことを口に出してしまったかなと思いつつ―――彼女に尋ねた。

「ううん、志貴くんは何も言ってないよ。
 ただね……明日からわたしと志貴くんが同じ通学路で通うんだなあって思ったの。
 それを考えたらね、思わず嬉しくなっちゃって」
彼女は嬉しそうに、本当に嬉しそうに笑った。


ドクン―――
俺はその弓塚の笑顔を見ていたら。
顔が赤くなり、胸が高鳴った。


―――ドクン


繰り返す。


―――ドクン


夕刻の舞台で。


―――ドクン


弓塚と二人。


―――ドクン


夕焼けが辺りを赤く照らす中。


―――ドクン


歴史はまた繰り返されていく。


―――ドクン


違う……


―――ドクン


あんな『未来』は二度と繰り返さない。


―――ドクン


そうだ。


―――ドクン


二度と繰り返してはいけないんだ。


―――ドックン


一際大きい鼓動が俺を前によろめかせる。
そうだ、俺は。
繰り返さない。
あんな悲劇を。
二度と。
二度と繰り返さない。
それは。
俺が俺であるために。
俺が俺自身でいられるための誓い。
今度こそ。
今度こそ、彼女を救う。
それこそ俺の望む未来、そのものなのだ。


「……そうだね、明日から一緒の通学路だね。
 朝とか、うまくタイミングが合えば一緒に行けるかもね」
俺は赤くなった顔のまま、弓塚に答える。
自分で言っていてとても恥ずかしいセリフだが、この場で一番相応しい言葉のような気がした。

俺は彼女の横を歩き続ける。
俺はあまりに恥ずかしい言葉を言ったせいで後が続かず。
彼女も先ほどからまた無言になってしまい、二人してそのまま夕暮れの住宅街を歩いていく。
夕焼けの光が満ちる中。
俺と彼女は誰にも会わず二人で進む。
と、不意に。
沈黙を破るかのように彼女が口を開いた。
俺の記憶そのままに。



「ねえ、志貴くん。中学二年生の冬休みのこと、覚えている?」
そう、彼女はつぶやいた。




―――ドクン

予想していたとはいえ
その言葉を聞いたとき。
一瞬、自分を支えきれずまたもやよろめいた。
もちろん。
返すべき言葉はすでに決まっている。
もう二度と。
彼女を落胆させたくない。
俺が彼女に応えられるかわからない以上。
彼女の気持ちに応えられる、と言い切れないならば。
さらなる落胆を彼女に味あわせたくない。
彼女の悲しい顔は見たくない。
彼女を残念がらせたくない。
だから。
俺は。
笑っている彼女の顔が見たくて。
こう応えた。

「―――うん、覚えているよ」


「…………えっ」
時が止まった。
俺の言葉に。
俺の返事に。
彼女はその場で凍りつく。
よほど驚いたのか、彫像のようにその場所で立ち止まってしまう。
どうやら、弓塚にとって俺が覚えていると言ったのが予想外なことだったらしい。


「中学二年の冬休みのことでしょう。
 うん、覚えているよ、弓塚さん」
俺は立ちすくんでいる彼女に言い聞かせるように優しくゆっくりと繰り返した。


「え、え、え……
 ほ、ホント?ホントに覚えているの、志貴くん?
 まさか……遠野くんが覚えているなんて……う、嘘でしょ」
こういう風に自分で言うのはあれだが、彼女は大変失礼なことを言っているのではないだろうか。
何も俺が覚えていない、と彼女は言外に言っているわけで。
……って、まあ。
仕方ないか。
俺は一人納得する。
確かに『以前』の俺は覚えていなかったし、彼女の俺を見る目が正しかったとここは誉めるべきなのかもしれない。
うん。
俺は考え直す。
むしろ、そう思う弓塚が正しいのだ。
……じゃあ、俺ってろくでもない奴じゃん。
俺はその結論に達すると、思わず苦笑した。

「……あ、ごめんなさい、志貴くん。失礼だね、わたし。こんな事言っちゃって」
俺が苦笑していたら、弓塚はシュンと小さくなって自分が言ったことを詫びた。
ツインテールが大きく揺れる。

「はは、いいって、いいって。ほら、正直言うとね、実際、俺ってそういうところあるから。
 むしろ、そう思うのが当然って感じかな。
 だから気にしないでいいよ、弓塚さん」
俺は鷹揚に言って、彼女の顔をあげさせた。
そして彼女の目を見たまま、改めて語り始めた。

「で、話を元に戻すけど―――ホントに覚えているよ。中二の時のことは。
 冬休みだよね?
 俺と弓塚さんの間で「冬休み」といったら、一つしか思いつかないし。
 うん、今でも鮮明に覚えているよ。
 あの古い方の体育倉庫の件でしょ?」

「――――――!」
彼女は言葉にならない叫びをあげた。
「覚えている」と言った俺の言葉を信じていなかったのか、俺が具体的に話したら、先ほどの比ではないぐらい驚いている。

「あの時は寒かったよね。確か雪が降るって予報がでていたぐらい冷え込んでいたんだよね」
俺が懐かしそうに語ると、彼女はようやく返事をしてくれた。

「うん、すっごく寒かった。ホント凍え死んじゃうかと思ったんだよ、あの時は。
 ……うわあ、志貴くん、覚えていてくれたんだ。
 本当に覚えていてくれたんだ。
 嬉しい……
 すごく嬉しい。
 志貴くんが覚えていてくれたことが。
 こんなに、こんなに嬉しいことないよ……」
弓塚の目から涙が一筋二筋こぼれ落ちた。

「あ、あれ……
 わ、わたし、泣いちゃっている。
 こんなに嬉しいのに……
 別に悲しいわけでもないのに……
 ごめんね、志貴くん。
 なんか変なところ見せちゃって……
 いやだな……志貴くんにこんな恥ずかしい姿見せたくないのに……
 
 誤解しないでね、志貴くん。
 志貴くんが覚えているって言ってくれたことが嬉しくて嬉しくて。
 別に志貴くんが変なこと言ったわけでも何でもなくて。
 ただ嬉しくて、思わず泣いちゃったの。
 だから……ごめんね……志貴くんは何も悪くないから……」
彼女は涙で目を潤ませながら、恥ずかしそうに俺に話す。
俺はかける言葉も見つからず、そんな彼女をただ優しく見守るだけであった。





またしばし無言の時間が流れる。
ゆっくりと今日という時間が流れる中、俺たち二人は肩を並べて歩いていく。
と、隣で黙っていた弓塚が訥々と口を開いた。

「あの日……
 バトミントン部の片づけをしていて、すごく寒かったから思わず扉を閉めたのがいけなかった。
 古い方の倉庫は扉の建て付けが悪くて開かなくなるときがあるのは知っていたけど、
 まさかあのタイミングで開かなくなるなんて思ってもいなかったの」
彼女は懐かしそうに口を開く。

「いざ片づけが終わって、外に出ようとしたら扉が全然動かなくてさ。
 みんなで力を合わせてもピクリともしなかった。
 私たち必死にさ、開けようとしたんだよ。
 主将を先頭に、すごく必死だった。
 おまけにあの日はこれまた寒くて寒くて、凍え死んじゃうかと思うぐらい寒くて。
 どうやっても扉が開かないってわかったときの絶望感は今でも覚えているぐらいなんだから」
ブルッと彼女は身体を震わせる。

「ガンガンガンガンと扉を叩いても誰も来なくて。
 そうして二時間も経って、もうホントに駄目なんだ、このまま凍え死んじゃうんだって、
 わたしを含めてみんな本気でそう思っていたら、声がしたんだよ。
 
 ―――中に誰かいるの?って。

 いつもの自然で気負ったところのない口調で、志貴くんが私たちに気づいて声をかけてくれたんだよ」
弓塚は暖かい眼差しで俺を見た。
なんだかとても気恥ずかしく感じてしまう。

「志貴くんが声をかけてくれたら、うちの主将ったら、見てわからないのかーって思い切り扉にバットを投げつけちゃって。
 部員を閉じ込めちゃって責任を感じていたんだろうね、すごく余裕がなかったんだ、あの時の主将は」

「確かに主将の立場だったら責任感じるだろうね。声かけただけの俺は驚いたけど」
俺は肩をすくめる。

「うん、見ていて可哀想なぐらいだった。
 で、そんなときに、慌てているでもなく普通に声かけられたから、ちょっと癇癪起こしちゃって、
 いきなり近くにあったバットを投げつけたの。一緒にいた私たちもびっくりしたわ」

「なるほど、中では大変だったんだね」
俺はなんと答えていいかわからず、とりあえず相づちを打った。

俺の相づちがおかしかったのか、弓塚が笑いながら話を進める。
「うん、すごく大変だった。
 そうして志貴くんから先生方はみんな帰った後で誰もいないと聞いて、ホントにショックを受けて……
 もう一分でも一秒でもこの場所にいられないっていうのに、ずっと……
 もしかしたら明日までここに居なければならないのかって思ったら目の前が真っ暗になったの。
 そうして私たちが世をはかなんでいたら、また遠野くんが声をかけてくれたの。

 ―――内緒にするなら開けられないこともないよって」

「わたし、その言葉を聞いたときすごく嬉しくなったんだ。
 だって志貴くんは出来ないことを口にする人じゃないって知っていたからさ。
 けど、他の部員は半信半疑で、主将なんて信用せずにまたバットを扉に向けて投げつけちゃうぐらいだったから。

 ―――かんたんに開けられるなら苦労しないわーっ!って、そばで見ててもすごい剣幕だったわ」

「そうだね、あれにはまたまた驚かせられたよ。
 まさか「開けられる」って言っているのに二度もバットを投げつけられるなんて思いもしなかったからね」

「あはは、あの時はごめんね。主将に代わってお詫びするわ」
弓塚は笑って俺に一礼をした。
俺は軽くうなずきながら話の先を促した。

「で、そのあとどうやってだかわからないのだけど、すぐに扉がキイと開いて。
 みんなは主将のバットが効いたんだって喜んで外に飛び出したけど、わたしは扉の横でぼんやりと立ってた遠野くんをちゃんと見ていたよ」
また弓塚は暖かい眼差しをこちらに向ける。
その、なんというか、わかっていることとはいえ、すごく恥ずかしい。
俺は赤い顔をしているのが彼女に見つからないように、彼女の眼差しから目をそらしあらぬ方を向く。

「わたしね、その時すごく泣いていたの。まぶたなんか泣きすぎたせいで赤く腫れちゃって、もうクシャクシャ。
 とてもじゃないけど志貴くんに見せられる顔じゃなかったわ。
 でも志貴くんは、わたしを見たら、顔のことは何も触れずにこう言ってくれたの。

 ―――早く家に帰って、お雑煮でも食べたらって。

わたしの頭にポンと手をのっけて、優しくそんなことを言ってくれたの。
わたし、よっぽど寒そうに震えていたんだなって恥ずかしくなっちゃった」
弓塚は嬉しそうに笑いながら俺を見る。
むむむ、『以前』も思ったことだが、どうして俺はこう言葉の意味がわからないことを言っているのだろう。
もうすこしマシでカッコイイことを言えばいいのに。
俺は弓塚の笑顔を見ながら、自分の間抜けな言葉にちょっと呆れて肩をすくめた。

「きっとさ、志貴くんはお雑煮を食べれば体が温まるよって言いたかったんだと思う。
 お正月が終わってすぐだったしさ」
彼女は俺の仕草をみてフォローを入れてくれる。

「でね、わたし、その時にこう思ったんだ。
 学校には頼れる人はいっぱいいるけど、いざという時に助けてくれる人っていうのは志貴くんみたいな人なんだって。
 本当に困った時に手を差し伸べてくれる、と信じられるのは、志貴くん、貴方だけだってね」
彼女は真顔で熱く俺に語る。

「違う。違うよ、弓塚。
 俺はそんなにすごい奴じゃない」
俺は彼女の名前に敬称をつけるのを忘れるぐらい、勢いこんで彼女の思いこみを否定した。
その、思いこみは間違いで。
俺は全然すごくないんだ、と。
そう、彼女に思って欲しかった。
遠野志貴はスーパーマンでも何でもなく。
ただの高校生、だと思って欲しかった。
そうしないと。
また『以前』のように。
後悔してもしきれないことが起こる気がして。
全然関係ないかもしれないけど。
そんな気がしてならなかったのだ。

俺は言葉を続けた。
「正直、今、弓塚さんが言ったことは買い被りすぎだって。ほら、ひよこが初めて人間を見て親だと間違えちゃうたぐいのさ。
 たまたま、俺が弓塚さんを助けることが出来たってだけの話で、俺はそんなにすごくないんだよ」

「そんなことない!
 わたし、あの時から志貴くんならどんな事だって当たり前みたいに助けてくれるって信じているんだから。
  どんな事だって、どんな時だって、志貴くんなら何とかしてくれるって……
 志貴くんに出来ないことはないって、そう信じているんだから!」
弓塚は本心からそう思っているのか、俺の目をしっかり見つめ返しまま、たたきつけるように叫ぶ。

 「だから、それが違うんだって!」
俺は彼女の主張を再度否定する。

 「いいかい、弓塚さん。もう一回言うよ。
 俺はそんなにすごい奴でも出来る奴でも何でもなくて、ただの高校生なんだよ。
 君が思いこんでいる「遠野志貴」はスーパーマンじゃないんだ。
 どこにでもいる―――それこそ病弱で体が弱い高校生なんだよ!」
正直、彼女にそこまで信用してもらっているのはすごく嬉しかった。
人間は誰であれ、頼りにされるとやる気が湧いてくるもの、だと思う。
特に異性に―――弓塚みたいなかわいい女の子に頼られると悪い気はしないだろう。
だけど、俺は。
俺自身は「遠野志貴はただの高校生」と弓塚に思って欲しかった。
どこにでもいるただの男、と。
そう彼女に思って欲しかった。
何故なら、俺は彼女を助けられなかったし。
彼女と交わした約束も守れなかった。
この世界ではない―――『以前』の世界では彼女を死なせてしまったのだ。
そんな俺がどうして信頼するに足りるだろう。
受け止められない。
俺は彼女の思いを、信頼を真正面から受け止められない。
どう頑張っても腰が引けてしまうのだ。

「ううん、違う、違うよ、志貴くん!」
しかし、弓塚は俺の言ったことをまたもや否定する。

「志貴くんこそ自分の力を過小評価しすぎてる。わたしは志貴くんなら何でも出来るって信じてる!
 どんな難しいことでも、困難なことでも……志貴くんなら何とかしてくれるって。
 ―――とにかくいいの! わたしが志貴くんをそう評価しているんだから、そのまま信じさせて!」
彼女は『以前』と同じように、俺の思いをよそに、こちらを真っ直ぐ見つめ言い張った。

なんて言えばいいのだろう。
彼女はやはり彼女だった。
変わらず、俺を信用してくれる―――彼女だった。

俺は一つ息を吐いて、彼女を見つめ直す。
弓塚が俺をここまで信用してくれているとは思わなかった。
何という純粋さだろう。
一転の曇りもなく俺を信用すると言い切るその態度。
俺はそこまで信用するに足る奴じゃないと思うけど、そこまで信じてくれるとなんていうか……信頼に応えるために頑張らないと、と思ってしまう。
俺は恥ずかしさを紛らわすために頭をかくと苦笑ながらこう答えた。
「―――まあ、そこまで俺を買ってくれるなら、これ以上俺は何も言わないよ。
 それって弓塚さんの勝手だしね」

「でしょ? だからまたわたしがピンチになっちゃったら、またその時だって助けてくれるよね?」
彼女は笑顔で問いかけてくる。

「うん、今度こそ…………」
俺は一瞬顔を曇らせたが、すぐその表情を消して言い直す。

「うん、そうだね、俺の力が及ぶ限り、必ず弓塚さんを助けるよ」
俺は改めて彼女に約束をした。
果たされなかった約束。
守れなかった約束。
今ここに再度誓う。
―――今度こそ、彼女を助ける、と。

弓塚は俺の答えを聞くとにっこり笑った。
「ありがとうね、志貴くん。
 信じているから。困った時に志貴くんが助けてくれるのを。
 どんな時だって、どんなことだって、志貴くんなら助けてくれるって信じてるから」

弓塚は無垢の赤子のように俺を全面的に信用すると言ってくれた。
俺は彼女の期待を二度と裏切ってはいけない。
『過去』のように……二度と裏切らない。
俺は眩しいばかりの彼女の笑みに目を細めながら思いを新たにした。


「そう言えば……」
また二人の間に沈黙が満ちそうになったとき、タイミングよく弓塚が口を開いた。

「わたし、こうして志貴くんと話す機会がなかったから、あの時のお礼をちゃんと言えてなかったんだ。
 随分と遅れちゃったけど、あの時はありがとうね、志貴くん。
 長く時間が経っちゃったけど、志貴くんの言葉、すごく嬉しかった。
 ホントに……ホントにありがとう、志貴くん」
弓塚はそう言うとぺこりと俺に頭を下げた。

「う……うん、どういたしまして」
俺はなんて答えていいかすぐに思い浮かばなかったので、またもや妙な相づちを打つだけだった。





風が吹く。
二人の間に夜の闇を運ぶ風が吹く。
依然、夕焼けはその姿をとどめているが。
ひたひたと暗闇が攻守交代の時を待ち構えている。
そうしてどうあがいても夜が来るように。
永遠に昼が続くなんて理はどこにもないように。
俺たち二人の帰り道もやがて終点に辿り着く。
あと少しで坂に到着する。

『過去』と同じ流れならば―――
俺は赤く染まった視界の中に浮かび上がる坂道を見つめる。
ここで彼女は口を開く。
その時俺は。
言うべき事を―――言わなければいけないことを言うつもりだった。
まずは弓塚。
彼女の死を防ぐ。
人間として生きてもらう。
そのために。
白紙の未来のために。
彼女には生きてもらわなければならない。
だから、俺は弓塚に約束してもらう。
もう一度……学校で約束したことを再度繰り返す。

と、心の準備をしていたら、『過去』と同じように彼女が口を開いた。
記憶のまま通りに―――

「わたし、志貴くんとこうして話せたらいいなってずっと思っていた」
どこか思い詰めたような声で彼女は話す。
夕焼けに満たされた世界で顔を赤く染め、寂しそうな表情で俺に語る。

「志貴くんと一緒に帰ったり、仲良くしゃべったり……
 ずっとそういうことに憧れていた」
彼女は真顔で照れることなく想いを口にする。

「…………」
俺は口を挟もうと思ったが、何か彼女の雰囲気に飲まれてしまい黙って見つめるだけだった。

「わたしね、志貴くん……
 ずっと前から志貴くんと仲良くなりたかったんだよ」
弓塚はここでいったん言葉を切って俺をじっと見つめる。
 
「けど……駄目だった……
 だって……
 だって志貴くんには乾くんがいたから。
 志貴くんにとってわたしは眼中になかったし、ほかのクラスメイトもみんなそう。
 乾くんだけが。
 乾くんだけが志貴くんの世界にいることができた。
 乾くんだけが志貴くんが興味を持つクラスメイトだった」
俺はそれを聞き、そんなことはないと言いたかった。
それは違うと言いたかった。
だけど……
俺は否定できない。
有彦だけしか、というのは語弊があるが、実際に有彦以外とはそんなに深い付き合いをしていない。
小学生からの腐れ縁。
あいつだけが俺と同じ世界を共有できる、と。
両親がいないあいつと、親に勘当された俺(実際は殺されているのだが)とは、心のどこかでお互いにこいつならわかってくれる、と思っていなかっただろうか。

「それに……」
俺が彼女の言葉を受け考えていると、さらに彼女は続けて話す。

「それに、わたしは志貴くんみたいに……志貴くんみたいになれないから……」
そう、遠慮がちに弓塚が呟くと、彼女はゆっくりと俺から離れていった……

―――違う、弓塚!そうじゃないんだ!
俺はそう思った瞬間、彼女の腕を掴んでいた。
一瞬の行動。
まさしく反射的にと言っても過言ではない。
俺は俺で。
『以前』の弓塚が思っていたように常人離れしたところはあるけれど。
決して殺人鬼でもなんでもなく。
弓塚が誤解するような存在ではなく。
ただの人間なんだと。
それを彼女にわかってほしくて。
思わず彼女の腕を掴んでしまった。

「キャ!」
彼女は小さく声を上げる。

あっ!
俺は何をやっているのだろう。
彼女に―――弓塚に悲鳴を上げさせるとは。
俺は掴んだ腕を急いで離す。
そして腕を押さえて俺のことを見上げる弓塚に謝った。

「ごめん」
彼女の目を見ながら。
俺は頭を下げて謝った。
そして続ける。

「弓塚」

「は、はい……」
彼女は俺の真剣な気持ちが伝わったのか、生真面目な応えを返す。

「俺は……」
俺はそこではたと口ごもってしまった。
なんて言おうか。
なんて言えば彼女はわかってくれるだろうか。理解してくれるだろうか。
俺は俺であり。
街を闊歩する殺人鬼ではなく。
彼女がそのうち辿り着く考えのような存在ではなく。
ただの高校生で。
どこにでもいるただの男だということに。

「俺は―――あやういかもしれない」
結局、俺はここから入った。
一瞬色々考えたが、うまい言葉は思いつかず彼女の考えを変えられそうになかった。
ならば。
真実を言うわけにはいかないが、ある程度彼女の考えに沿って話を進めれば彼女に受け入れてもらえると思ったのだ。

「えっ」
彼女は俺の突然の言葉に驚いている。
どうやら意味を咀嚼しかねているようだ。

「君から見ると俺はすごくあやういかもしれない」
俺は言い直す。
弓塚は何も答えず、その先を聞くためにただ黙って俺を見つめる。

「だけど―――
 だけど、大丈夫だから。
 あやういかもしれないけどあやうくはないから」
もどかしい説明。
はっきり言えたらどんなにいいだろう。
正直に言えたらどんなにいいだろう。
だけども言えない。
何があっても言えない。
少なくとも、現時点では。

―――『刻を遡った』―――
絶対に明かせない秘密。
そんな秘密を抱える俺が。
妙にするどい彼女を相手にして。
どこまで隠し通せるかわからないが。
でも隠し通さなければならない。
他のことは構わないが。
これだけは言うわけにはいかない。
いつか言えるときまでは。
時が満ちるその時までは。
俺は誰にも言わず隠し通す。

そうして俺は彼女ににっこりと微笑んだ。
隠し事をしている後ろめたさをごまかす為に。
うまく笑えているか不安だけど、ちゃんと出来ていると自分に言い聞かせ。
俺は彼女に笑顔を見せる。

「……志貴くん」
彼女が不安そうに俺の名を呼ぶ。

「大丈夫。何があっても大丈夫だから、俺は」
俺はそう言ってごまかすかのように彼女の頭にポンと手をおいた。
いつか昔のように。
あの倉庫に閉じ込められた後のように。
お雑煮食べたらと言ったときのように。

「俺は決して飲み込まれやしない。
 絶対に、飲み込まれないから」
俺は囁くように弓塚に語る。

「信じてほしい。俺が俺であることを。
 遠野志貴は変わらず遠野志貴でいるってね」

俺が語りかけるのを彼女はただ聞き入っていた。
何の反論もなく。
ただ聞き入っていた。
そして、俺が語り終えると。
彼女は小さく頷いて、俺を見つめた。
熱い瞳。潤んだ瞳。
彼女なりに何か感じ取ってくれたらしく。
俺をじっと見つめてきた。
そしてゆっくりと口を開いた。

「うん、うん、わかったよ。わかったよ、志貴くん」
彼女は真剣な表情を崩さず、言葉を継ぐ。

「志貴くんがそう言うならわたしは信じられる。
 志貴くんが大丈夫と言うなら、本当に大丈夫なんだって信じられる。
 確かにわたしは志貴くんがあやうく見えた。
 どこか、かげろうのように。
 あやうくて、はかない感じがしていた。
 でも、大丈夫なんだよね。信じていいんだよね。志貴くんは志貴くんで変わらないって。
 それなら、わたしは信じる。
 他の人がなんと言おうと、志貴くんが言ったことをわたしは信じる。
 うん、絶対に。
 変わることなく。
 わたしは志貴くんを信じる」

弓塚は俺への信頼を口にする。
絶対的な信頼。
俺は彼女の言葉を聞き言葉に詰まってしまった。
ここまで……
ここまで信頼してもらっているとは。
感動のあまり胸が熱くなる。
混じり気のない純粋な信頼。
人間が他人をここまで信頼できるとは。
もちろん、これは俺の思いこみで、実際にはそんなに信用されてないのかもしれない。
だけど。
彼女が。
そんな風に思っているとは考えにくい。
今までの経緯からも。
『以前』の経緯からも。
言葉通りと受け取っていいと思う。
ならば。
そこまで信頼してもらっているなら、俺はそれに答えよう。
何があっても。俺がどうなっても。
彼女の信頼に俺はなんとしてでも応えてみせる。

俺はゆっくりと口を開く。
今が最後にして最大のチャンス。
この機会を逃さないようにしないといけない。
そう、今こそ弓塚に再度の注意をして約束してもらうのだ―――夜中の繁華街を歩かないように、との。

今、俺は未来へ続く階段に足をかけている。
昇った先は眩しく何も見えないけど、きっと明るい世界が待っているに違いない。
希望を捨てなければ。
絶望にとらわれなければ。
この先には無限の可能性を秘める世界につながっているのだ。
そこにいくために。
俺は彼女に―――弓塚に約束してもらう。
昼休みにも言ったことを彼女に言おう。
しつこいかもしれないが繰り返そう。
それこそ、彼女が未来へ進める道であり、俺が戻ってきて為さなければいけないことの一つなのだ。

「弓塚」
再度、彼女の名前を呼ぶ。

「は、はい」
彼女は変わらず生真面目に答える。

ここからだ。ここが分岐点なんだ。
俺は唇を舌で湿らすと、一拍、間をおき語りかける。
「昼にも約束したけど、深夜の繁華街を絶対一人でうろうろしちゃ駄目だからな」

「えっ?」
彼女はキョトンとして俺を見る。

「昼にも言ったけど、深夜の繁華街に俺がいるなんて噂はただの噂で、俺じゃないから。
 俺はそんな時間に繁華街を歩いてなんかないから。
 だから確認しに出歩いちゃ駄目だからね」
俺は昼に約束してもらったことを繰り返した。
彼女の気分を害すのはわかっていたが、それでも言わずにはいられなかった。
後悔してもしきれないこと。
あんなことは二度と味わいたくない。
今俺が言って彼女に嫌われても、結果的に彼女が守れるならそれで構わない。
要は彼女が行かなければ。
それで歴史は変わるのだ。
そのために俺はあえて約束したことを再度繰り返したのだ。

彼女は、しばらく俺をじっと見るとこう言った。
「……わたしは志貴くんと約束したことを守る」
彼女は無表情で淡々と語る。

「何があっても志貴くんと約束したことは守る。
 それはわたしの中で絶対譲れない大事なコト。
 志貴くん……志貴くんはわたしを信じてくれないの?」

「あっ……いや……」
俺は彼女の答えに言葉を失った。
自分が失礼なことを言っている自覚は充分にあっただけに、いくら心の準備をしていたとはいえ、彼女の言葉は大きく俺にのしかかってきた。
彼女は怒っている。予想以上に怒っている。
自分を信用してくれなかったことに。
信用してもらえなかったことに。
ひどく気分を害している。

彼女は続けて言葉を発す。
「わたしは志貴くんと昼休みに約束した。
 深夜の繁華街を歩かないって。
 志貴くんがいる、という噂はただの噂で、志貴くんは歩いていないのでしょ。
 だからわたしはそれを信じて約束したの。
 それなのに、またそんなことを言うのはいったいどういうわけ?」
彼女は真剣に俺を問いつめる。
本気で―――心の底から俺に尋ねている。


「……ごめん」
俺は詫びの言葉を口にした。

「ごめん、弓塚。何度も何度もしつこく言って。
 せっかく約束してくれたのにさ、気分悪くさせちゃったよな。
 ホント、ごめん」

「あ……
 い、いや……そ、そ、そうでもないけど……」
弓塚は俺が謝ったのを見て言い過ぎたと思ったのか、慌ててフォローをいれる。

「昼に約束したことは覚えている。
 でも、それでもまた約束してもらいたくてさ。
 しつこいとは思いつつも、口にしたんだ」

「……なんで?
 なんで、そんなに約束させようとするの?」
彼女は疑問を口にする。
当然だ。当然の反応だ。

さあ、困った。
彼女を失いたくないあまり、俺はしつこく約束させようとしたが、疑念を抱かせてしまったらしい。
まさか「君が死ぬから」なんて言えるはずもないし、なんと言って彼女を納得させたらいいだろうか。
……うーん、思いつかない。
こう、俺が考えている間にも彼女は俺の答えを待っている。
仕方ない。また出たとこ勝負でいくか。

「……不安だったから」
そう、とぎれとぎれに口にする。

「弓塚が約束を守ってくれるとは信じられる。
 だけど、それでも言っておきたかったんだ。しつこいって言われるのは覚悟の上でさ。
 だから……
 だから、繰り返したんだ」
俺はある意味本当のことを口にした。
これは決して嘘ではない。
理由としては強くないが、心配する気持ちから出たと言えば、これ以上追求できないだろう。
咄嗟ででたわりには、いい答え方だと思う。

案の定、弓塚はこれ以上俺を追求することがなかった。
「そっか……
 わたしが約束したけど不安だったから、もう一度繰り返したのね。
 うん、それなら納得かな。
 わたしをあまり信じてくれないのは不満だけど……
 心配してくれてるってコトの方が大切だから。
 わかったわ、志貴くん。わたしは行かないから。深夜の繁華街になんて行かないから。
 大丈夫、信じて、わたしを……」
そう言うと、弓塚はにっこりと笑みを浮かべて俺を許してくれたのだった。



その後、仲直りした俺たちはとりとめのない会話をする。
いつしか。
いつしか、坂の麓についていたが。
どちらの口からも別れの言葉は発せられず。
緩やかに時間は流れていく。
周囲は赤く染まっており。
まるで世界そのものが赤く色づけされたよう。
そんな赤き世界でも。
黒き影は変わらず黒く。
どこまでも遠くに伸びている。
赤と黒のコントラストは不可思議な雰囲気を漂わせ。
その中に我が身をおいていると、彼我の境界線がぼやけていく感じがする。

―――世界はたった一つではなく。
―――この瞬間にも生まれ消えていく。
―――それは泡沫の夢の如くなり。

ふっと思いつく言葉。
脈絡もなく、いきなり脳裏に浮かんだその言葉は。
とても大事で―――忘れてはいけない言葉のような気がした。
それはこの世の真理か、それともなにかか。
何もわからないけども、覚えておかなければならないことだけはわかる。

―――だけどいったん俺は頭を振り、目の前の弓塚に集中する。
今は弓塚だ。今、大事なのは目の前にいる弓塚なのだ。
弓塚を放っておいて、他のことに気を取られてはいけない。
まず大事なのは間違いなく目の前にいる弓塚なのだから。

俺は一瞬下に視線を向けて体勢を整えると、改めて彼女の顔を見た。
するとちょうど弓塚は自分の腕時計で時間を確認していたところだった。
「あ……、もう、こんな時間になっちゃった……
 楽しい時間はあっという間に過ぎちゃうんだね、志貴くん」
彼女は俺に寂しそうな笑顔で話しかける。
にっこりと微笑んでいるが、その実とても寂しそうだ。

「あ、もう、そんなに時間が経ったんだ。ホント、あっという間に過ぎちゃったね」
俺も自分の腕時計で時間を確認すると、彼女に相づちを打つ。
もう少し一緒にいてもいいかな、と一瞬考えたがもうそろそろこの辺りで別れた方がいい。
予想以上に濃くなっている夕闇。
『過去』に弓塚と別れた時よりも確実に時間が経っている。
今日の所はすっぱり別れた方がいいだろう。
このままいつまでも一緒にいると、俺が知らない展開になってもおかしくないし、何と言っても、屋敷で秋葉や琥珀さんが首を長くして待っている。
「この世界」では八年振りに会う彼女たちを待たすのも気分が悪い。
よし、弓塚とはここで別れよう。残念だけど仕方ない。

俺は弓塚の顔を見る。そして別れの挨拶を口にしようとしたちょうどその時、タイミング良く彼女から口を開いてくれた。
「もうそろそろ帰らないと怒られちゃう……まだ一緒にいたかったけど……」

彼女は下を向いて残念そうに呟くと、未練を振り切るようにニコッと笑顔を俺に向ける。
「それじゃあ、わたしの家はこっちだから。また明日、学校で会おうね、志貴くん」

それは透明な笑顔。
透明で、さわやかな笑顔を彼女は浮かべる。
夕焼けに照らされた彼女。
『過去』の記憶どおりに彼女は別れの挨拶を述べる。

―――ドクン
心臓が鼓動を打つ。
だけど、たったそれだけ。それだけだった。
予想に反して、俺を悲しみの渦に引き込まなかった。
『過去』を知っている俺だからこそ。
予想し身構えたのだけども。
思っていたよりも。
覚悟していたよりも。
俺を動揺させなかった。
胸が一回しか反応しなかったのがその証拠。
そうか。
俺は理解した。
今日、何度も彼女と約束したから。
深夜の繁華街に行かないように注意をしたから。
俺は『過去』に支配されることなく―――俺でいられたのだ。

乗り越えた。
俺は乗り越えられた。
あの不幸で何もかもがおかしかった『過去』を俺は乗り越えて。
明るく輝く白紙の未来へ、その大きな一歩を踏み出せたのだ。
たかが動揺しなかったぐらいで、大袈裟に聞こえるかもしれないけど。
間違いなく、俺は乗り越えられたのだ。
今、ここに俺は確信した。


俺は心底嬉しく思う。
『過去』に支配されなかったことを。
新しい一歩を踏み出せたことを。

そのまま笑顔で俺は彼女に微笑みかける。
また返事が遅れてしまったが、彼女は俺の笑顔を見て目をそらしてしまった。
俺は構わずそのまま返事をする。
「うん、また明日。これから学校に行く途中で会ったりしそうだね。
 もしうまいこと時間があったら一緒に行こうか」

彼女は俺の言葉を聞くと赤く染まった顔をさらに赤く染め慌ててしまう。

「そ、そ、そうだね。
 も、もし、明日、この辺りで会えたら、一緒に行きましょう」
どもりながらも彼女はそれだけを口にして、続ける。

「それじゃ、志貴くん。わたしの家はこっちだから帰るね。
 また、明日。
 また、明日、学校かこの道で会おうね。
 じゃあね、また明日!
 ばいばい!」

「うん、また明日。じゃあな、弓塚」
俺が片手をあげて応えると、彼女は嬉しそうににこりと笑う。
そして、そのままの笑顔で手を振りかえすとスカートを翻して坂の脇の道へ歩いていった。



俺は彼女が見えなくなるまでその場に佇んだ。
夕焼けの中、彼女の姿が見えなくなるまで。
途中、一回こちらの方を振り向いて俺に手を振り。
やがて角を曲がって見えなくなった。
これで。
これで彼女は大丈夫だろう。
彼女の好奇心をかき立てるような言い方になってしまったが、繁華街を歩かないようにと注意はできた。
あとは万が一の時のために俺が夜に見回っておけば、まず問題ない。
俺は「この世界」で彼女を助けられることに、心の底から安堵した。

夕闇が満ちて、ゆっくりと月が輝きを増しはじめるなか。
俺は歴史を変えることができた。
不幸な別れではなく、幸せの―――明日に繋がる別れができた。
まず弓塚。
彼女を助ける。死なせなどせずに生きてもらう。
ここからだ。
何度も繰り返すが、ここから始まる。
新しい未来は……輝ける未来はここから始まるのだ。

俺はブルッと身震いした。
それは嬉しさのあまりか、禁忌のあまりか。
歴史を変えて、彼女を助けた。
その傲慢な振る舞いにか、神の御業を模倣したことにか。
体は震えることを止めはしなかった。

でも―――震えながら俺は思う。
たとえ傲慢なその行いで地獄に堕ちようとも。
皆が助かるならそれでいい。
我が身かわいさに。
今、その手でできることをしないならば。
俺に生きている資格がない。
この世で、俺だけが。
俺だけしか出来ないことなのだから。

あの時、先生は言った。
―――かみさまは何の意味もなく力を分けない―――
そう、俺がこの眼を持っていることも意味があるように、俺が再びここに還ってきたのもきっと意味があるのだろう。
だから。
俺は為すべきコトをする。
弓塚を救う。
琥珀さんを救う。
秋葉を……皆を救ってみせる。
絶対、皆を助けてやる。
俺は沈む寸前の夕焼けに改めて誓うと、ゆっくり坂を上っていった。
これからが本番なんだ。
皆を救うための行動はこれからが大事なんだと。
再確認しながら、一歩一歩坂道を踏みしめて、屋敷へ歩を進めていった。









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