うたかたのつき

第四章





そんなわけでまだ昼休みは続く。
俺の体感では一時間以上たったような気もするが、実際はもう少々残っていた。
まあ、一休みするぐらいの―――時間にすれば十分少々というところだろうか。
その時間を。
俺と弓塚はひなたぼっこをしはじめた。
といっても、二人そろって申し合わせて始めたわけではない。
ただ、お昼を食べ終わった後、俺と弓塚はどちらともなく太陽の光をその体に浴び始めたのだ。
さんさんと優しい光が降り注ぐ中。
俺と弓塚はぼーとする。
どこを見るともなく、ぼーとし始めた。
空を眺め、風を感じ、陽のきらめきを全身に浴びながら。
傍目から見て何をしているのだろう、と思われるかもしれない。
うん、確かにそうだ。
二人そろって何をしているのだろう。
俺も確かにそう思う。
けど……
この時間は、俺にとってとてもとても大切なモノ。
二人が共有していられるこの短い時間は。
お互い生きていればこそ味わえる瞬間の連続なのだ。
俺の思い過ごしでなければ、彼女も大切に思っていてくれるはず。
彼女もこの一時を大事に思ってくれるはずだ。
何故だろう。
何故こんなコトを自信もって言えるのだろう。
わからない。
わからない……けど、自信はある。
彼女が肯定してくれる自信が。
その、よくわからない、根拠のない―――それでいてまず確実と言い切れる―――自信が。

俺は彼女を大切に思う。
彼女も俺を想ってくれている。
行き着く先はすれ違いになるかもしれないが、二人がお互いを大切に思っているのは間違いない。

だからこそ。
だからこそ、この意味のないひなたぼっこという名の一緒に過ごせる時間が大切なのだ。
俺にとって。
彼女にとっても。





ふぅ。
俺は暖かい陽気に眠気を誘われ、ぼーとする。
そういえば……
俺の隣で弓塚は何をしているのだろう。
俺はふと気になって弓塚の方を振り向いた。

瞬間。
俺は弓塚と目が合った。
たまたまこっちを見たのかはわからないが。
彼女と目が合った俺は反射的に顔を背けた。
別に悪いことをしているわけでもないし、やましいことを考えていたわけでもない。
なのに。
何故か。
俺は弓塚と目が合って反射的に顔を背けてしまったのだ。

「どうしたの、志貴くん?」
弓塚が尋ねてくる。
いきなり目が合ったと思った矢先に顔を背けられたら誰だって不快に思うだろう。
けれども、弓塚の声にはそんな調子はない。
純粋に目を背けた俺に疑問を抱いただけのようだった。

「うん……
 いや、何を見ているのかな、と思ってさ。
 弓塚の方を見たら、目が合ったから、反射的にそらしただけ」
俺は正直に言った。
ヘンに嘘を言っても仕方がないし、隠すようなやましいことは何もない。
ならば、ここは正直に言うべきだろう。

「あ、そうなんだ……
 わたしはね……
 志貴くんの横顔をね……見ていたんだよ……」
弓塚はいきなり俺に対して爆弾発言をしてきた。
ゴニョゴニョと語尾が小さくなって聞き取りづらかったが、確かに俺を見ていると言った。

…………って俺?
俺を見ていた、というのか。
俺はまたもや赤くなる。
その、同い年の女の子に見つめていたと言われて、へーと流せるほど俺はスレてない。
純情なんて言わないが、普通に恥ずかしくなってしまう。
俺は「あ、そうなんだ」なんてありきたりの答えを返して口を閉ざす。








またもや流れる沈黙。
こう、落ち着かない空気が辺りに満ちて、お互いを無言にさせる。
俺はその中で先ほどの弓塚の言葉を思い返す。
「志貴くんの横顔をね……見ていたんだよ……」
思い出した途端、またもや顔が熱くなる。
恥ずかしい。
全く持って恥ずかしい。
俺の顔を見ていただなんて。
全然気づきもしなかった。
俺は弓塚に見つめられている自分を想像してさらに顔が赤くなる。
カァーと。これ以上ないぐらい頬が熱くなっていく。
『以前』の弓塚はこんな感じだったっけ。
俺は考える。
実際、弓塚のことを詳しく知っていたわけではないのだが、こういう積極性を持った女の子だったという記憶はない。
クラスの人気者ではあったけど、自分からというより周りから持ち上げられていたような気がする。
うん、そうだ。
どちらかというと、こんなに積極的ではなかったはずだ。
なのに。
『今』の弓塚は全然違う。
妙に積極的で。
俺の思い描いていた弓塚とはイメージが合わない。
ふむ。
やはり『過去』に戻ったことは戻ったが、『以前の過去』とは違う『過去』に戻ってきてしまったのだろうか。
積極的な弓塚がいる『過去』に。
俺はその可能性を頭の片隅にしまっておいた。
今はまだわからない。
が、一つの可能性として、「積極的な弓塚」がいる『前』とは別の世界、に戻ってきたのかもしれない。

俺はそんなことを思い浮かべつつ、弓塚をちらりと盗み見る。
さすがにまた俺のことを見ているということはないだろうと思ったのだ。
だが。
俺の考えはどうやら甘かったらしい。
俺は弓塚を見誤っていたらしく。
そう、俺はまたもやこちらを見ている弓塚と目があったのだ。
またお互いに顔を背けあう。
真っ赤。
俺はやっと引いてくれた頬の熱さが戻ってくるのを感じた。
顔が真っ赤に火照ってくるのがわかる。
弓塚……
何でそんなに俺のことを見ているんだよ……
俺は心の中で溜め息をついた。
ここまで目が合うともうダメだ。
恥ずかしくて彼女と正面切って話せない。

またしばらく時間がたつ。
お互い無言のままでその場で凍り付いている。
俺が弓塚を。
弓塚が俺を。
お互いがお互いを意識しあい、ぎくしゃくとした雰囲気を醸し出す。

と、そのぎくしゃくとした中で。
相手の一挙一動が気になってしまう、そんな雰囲気の中で。
弓塚が俺に話しかけてきた。
先ほどまでの恥じらいを含んだ瞳ではなく、いつになく真剣な眼差しで。

「そういえば、遠野くん。
 ちょっと聞きたいことがあるんだけどいいかな?」
弓塚は俺の目を見ながら真顔で問いかける。

「うん? なに、弓塚さん?」
俺は弓塚の雰囲気が変わったことに首を傾げつつ明るく返事をする。

「うん……間違いだったらゴメンね……。
 遠野くんさ、このごろ夜になると繁華街のほうを歩いてない?」









ドクン。
彼女に問いかけられた瞬間。
俺の胸に痛みがはしる。
彼女にとって何気ない質問だったかもしれないが。
その問いかけは俺をまたもや『過去』に引き戻す。

遠い遠いあの日。
真っ赤に燃える夕焼けの中。
俺と弓塚のお互いが。
赤く夕焼けの色に染まった世界で。
交わした大事な大事な約束事。

滲み出る赤。
辺りが赤く染まり何もかも真っ赤の中。
赤色の闇に包まれた小さな彼女の横顔が。

俺と弓塚。
クラスメイトとして最後の会話。
一緒に帰った最後の夕焼け。
果たせなかった別れ際の口約束。


ドクン。
またもや痛み。
癒えない傷から。
癒されることない傷から。
痛みがひろがる。
痛みが生まれる。
あの時の思いが―――。
忘れてはいけないオモイが溢れ出る。

腕に残る感触。
彼女の心臓を一突きした時の感触が。
七夜のナイフが。
彼女の胸を。
弓塚を刺し貫いた時の……感触がよみがえる。

彼女は当たり前のように生を望んでいた。
これからが人生の本番だった。
誰が死にたいなんて望むだろう。
まだ、何も。
彼女は何もしていない、
そう、彼女は死ぬには早すぎた。
望むことすら叶えられず、望まぬ姿に成り果てたのだ。

奴らが弓塚を―――襲わなければ。

ああ、俺は彼女を助けられなかった。
なんてことだろう。
俺は彼女を守れなかったのだ。
あの血のように赤く染められた夕焼けの中で約束をしたのに関わらず。

何をしているのだろう。
俺はいったい何をしているのだろう。
弓塚一人守れずに。
のうのうと生き長らえている自分がいる。

罪悪感が俺を打つ、慚愧の念が俺を打つ。
俺が彼女を。
守れなかったから。

俺は下を向いた。
彼女の質問が。
俺を後悔の渦に陥りさせて。
彼女を真っ直ぐ見つめられなくなった。






「…………大丈夫、遠野くん。
 いきなり下を向いちゃったけど、気分でも悪いの?」
弓塚が話しかけてきた。
どうやら俺が下を向いて返事をしなかったので彼女は心配したらしい。

「………………ああ、ごめんごめん」
俺はしばらく無言のあと、口ごもりつつ弓塚に謝った。

「ちょっと考え事をしていた。
 悪い、弓塚。もう一度言ってくれない?」
俺は顔に表情が出ないように無理矢理笑顔を作ると弓塚にお願いした。

弓塚は俺の返事を聞くと、心配そうな眼差しを向ける。
だが、俺が笑顔を向けたので、大丈夫と判断してくれたらしい。
この娘は……
勘が鋭いなあ……
俺は内心で弓塚の洞察力に舌を巻きつつ偽りの笑顔を続けた。

「うん。じゃあ、もう一回聞くね。
 あのね、このごろ夜になると繁華街の方を遠野くんが歩いているという噂を耳にしたのだけど、
 それって遠野くん本人じゃないよね?」
弓塚が再度尋ねてくる。

俺はその二度目の質問に対してなんとか悲しみにとらわれないでいることが出来た。
もちろん、それは俺ではない。
『過去』にも弓塚に聞かれたが、今回も場所は変われど質問されるとは。

…………よかった。
俺は彼女に質問されてほっと一安心した。
それは俺が知っている『過去』と比べて大幅な変更はないということになるからだ。
少なくとも現時点では。
もちろん断言出来るわけではないが、その可能性は非常に高い。
少なくとも吸血鬼、もしくはそれに類するモノが街を徘徊しているのは間違いない。
何故なら『遠野志貴』が深夜の街を歩いている、と噂になっているからだ。
俺は深夜の街になぞ用事はない。
厳しい有間の家に住んでいながら、見つかったら怒られるだろう深夜の徘徊なんてする理由がない。
だが、奴らならば。
奴らならば夜こそが自分の時間帯。
人間にとって昼が活動時間帯のように奴らにとっては太陽が出ていない夜こそが活動時間帯。
不運という言葉で片づけられない被害者が……
人間という道から外れたモノになってしまうかもしれない時間なのだ。

―――奴らに出会ってしまうと。



俺は『過去』の記憶をゆっくりと間違わないように思い出す。
俺に似たヤツが徘徊していて、猟奇的な殺人事件が起きている。
日に日に増えていく被害者。
一向に捕まらない犯人。
いつしか夜の街は恐怖で満たされ。
誰も出歩かなくなってしまう。
その中を彼女は。
目の前の彼女は外に出る。
夜の繁華街をうろついている俺がいるという噂を耳にして。
その真偽を確かめようとして。
奴らに出会う。
そう、奴らという我々人間からすると最も出会いたくない怪物どもに遭遇してしまうのだ。

大筋ではそんな感じだった。
そうなるとここで俺が否定しても彼女はその噂の真偽を確かめようとして、
奴らに襲われる可能性が非常に高い。
弓塚は襲われてしまう。
人間ではない、奴らに。
血を吸われ、『向こう側の住人』になってしまう。
それは避けないと。
絶対、何があってもそれだけは避けないとならない。
俺が過去に戻ってきて為さねばならぬ事の一つがこれから起きようとしている。
守らないと。
彼女を。
奴らの汚い魔の手から。

弓塚を守る、と考えていたら、俺は再度弓塚にのぞき込まれた。
またもや、俺は考え事に没頭してしまい彼女を心配させてしまったらしい。
「本当に大丈夫、遠野くん?
 さっきからぼーとしているようだけど……」
弓塚は心配そうな顔をして俺を見つめる。

「……ごめん、ごめん。また、考え事をしていた。
 悪い、弓塚」
俺はそう言って彼女に微笑んだ。
さっきと同じパターンだが、今度はうまく笑えたらしい。
彼女が俺の顔を見て、怪訝そうな顔を氷解させて笑顔を返す。

「ゴメンね、何度も話の腰折っちゃって。
 で、今の話なんだけど、どのくらいの時間の話なのかな?」
俺はその答えを知っているのに知らない振りをしつつ弓塚に尋ね返した。

「わたしが聞いた話だと夜の零時頃みたいなんだけど……」

「夜の零時頃……」
俺はそこでいったん言葉を切り、考える。

さて、どう答えようか。
『以前』は身に覚えがないから「遠野志貴が深夜の街を徘徊している」という噂を否定したが、
彼女はその噂の真偽を確かめようとして襲われた。
その流布している噂が真実かどうかを確認するために。
誰にも告げずたった一人。
吸血鬼騒動のさなか、「俺」を探して。
そして奴らに出逢ってしまう。
冷たい路地裏。
空が遠く見えるこの街の死角。
昼でも薄気味悪さを漂わせる街の澱み。
ねっとりした空気が体に絡みつき、呼吸をする度に体の中を汚していく。
そんな場所で彼女は。
吸血鬼という名の化け物に出会ってしまったのだ。
人間が地球上の生物系の頂点に立つというならば。
奴らはさらにその上に君臨する王たる存在。
そんな奴らと。
彼女はたった一人で出会ってしまい。
結果、人間という生物から吸血鬼と呼ばれる人外のモノに変わり果ててしまったのだ。
そう、あの時。
俺が否定しても彼女は信じてくれず。
最悪な事態を呼び込んでしまったのだ。
では、いっそうのこと肯定したらどうであろうか。
普通は何故夜中に出歩いているか理由を聞いてくるだろう。
夜な夜な起こる殺人事件。
被害者は大量に血が失われているのが特徴の猟奇的な事件。
そんな中を何故一人出歩くのか。
何をしているのか。
そんな危険な街の中を。
……ダメだ、俺には彼女を納得させられる理由が思いつかない。
誰が聞いても納得できる言い訳なんて考えつかない。
かえって怪しまれるのがオチだ。
では正直に『未来』から戻ってきたことを言うという選択肢がある。
これはどうであろうか?
……ダメだ、ダメだ、もっとダメだ。
そんな荒唐無稽な話、誰が信用してくれるというのだ。
「俺は未来から戻ってきたのだが、そこでは君は吸血鬼にかまれて人間ではなくなる。だから街を出歩くな」
こんなことを言って信用する奴がいるとは思えない。
当たり前だ。
普通はそんな話など信用しない。
理論的ではないことを前提にしても人は信じない。
前提条件があり得ないことである以上、その上に成り立つ話もあり得ないのが普通なのだ。
それがたとえ事実であろうとも。
この世の物理法則に則っていない(もしくは解明されていない未知の)出来事であるならば、
信用しようがない。
それは当然のこと。
夢想のことを現実だから信じろ、と言われて信じないのと同じ事である。
しかもどうやって戻ってきたのかすら説明できないのに、
そんなことを言っても一笑に付されるだけだ。

ふう、困った……
外を出歩く理由も思いつかないし、『未来』から戻ってきたことも言えない。
となると、俺に残された選択肢はただ一つ。
『以前』と同じように否定するだけだ。
これが一番怪しまれずにすむ。
弓塚を危険に晒してしまうことになるが、彼女が街を出歩かないようにきつく注意を促して、
なおかつ俺が見回ればなんとかなるだろう。
本当ならば彼女を危険に晒すようなことはしたくない。
だが、ある程度俺が知っている流れ通りに進めないと、俺が戻ってきた意味がない。
大幅に変更してしまうと俺が知らない流れになる可能性が高いからだ。
『過去』を知っているというのが今の俺の大きなアドバンテージなのだ。
それを自ら捨て去ってしまうのは名案とは思い難い。
起きうる事柄を事前にわかる今の状況こそ、あの悲惨な過去を繰り返さない―――皆を幸せな道に導ける切り札であり強みなのだ。
だから、彼女に注意を促すぐらいが今の状況でもっともベストな選択ではないだろうか。




と、ふと。
ふと気づくと、俺の答えを待っている弓塚と目があった。
まずい。
俺はまたもや自分の考えに没頭してしまっていたようだ。
これで話の流れを途切らせたのは三回目。
さすがにこれだけ途切らせるとおかしいと思われるだろう。
ええい、それでは仕方がない。
流れのままに正直に言おう。
俺の知る流れ通りに進めよう。
どうやらそれが俺のとれる唯一の選択肢らしい。

俺は弓塚の目を見つめる。
そしておもむろに口を開いた。

「夜の零時頃だよね。
 うん、それは間違いなく俺じゃないよ」

俺は弓塚が訊ねた問いかけに対し心から違うよという感じを滲ませつつ返答した。
そしてそこでいったん言葉を切って間をおいてから再度続ける。

「ほら、俺のとこって古い家で厳しいからさ。
 門限が夜の七時なんだよね。
 それを過ぎると泣いても喚いても中に入れてくれなくなるから、
 何があっても七時までには帰ることにしてるんだ。
 だから、夜に家を出て辺りをうろつくなんてことはしてないよ」
俺は弓塚を安心させるかのようにおどけながら弓塚の言う噂を否定した。

弓塚は俺の返事を聞くと納得したように笑みを浮かべる。

「うん、そうだよね。
 有間さんの家ってなんとか流の茶道の家元だもんね。
 そっか、有間さんの家では遠野くんにも厳しくしてたんだ」

「うん、それはもう厳しかったよ。
 いや……あれは厳しいというよりいじめて楽しんでいるって感じだったけどね」

俺は苦笑いして弓塚から視線をはずしつつ有間家時代に思いを馳せる。
都古ちゃんがいて啓子さんと文臣さんがいる懐かしい有間家。
俺を本当の家族のようにかわいがってくれ、また俺も出来るだけその愛情に応えようとした。
例え表面上だけの偽りの家族であったとしても。
あの手紙が。
秋葉からのあの手紙が来なければ、いずれ俺は有間志貴になっていただろう。
「遠野」の名を捨て「有間」の名に変えていただろう。
もうひとつの……かけがえのない大切な『家族』の名に。
俺は胸に暖かい気持ちが湧いてくるのを感じながら、言葉を継ぐ。

「……って、そう言えば、弓塚さんはこのことを知っているんだよね。
 中学同じだし」

「えっ……」
その時、弓塚はとても驚いた顔をした。
俺が弓塚と一緒のクラスだったことを覚えていないと思ったのだろう。
うん、まあ、確かに。
『過去』の俺は覚えていなかったから。
弓塚がそう思うのは正しいことではあるのだが。

弓塚の驚いた顔を見ながら俺はさらに進める。
「クラス同じになったのは確か三回目だもんね。
 中学時代と今を含めてさ」
そう言って俺はまた弓塚に視線を戻す。

すると弓塚は。
じわりじわりと。
目に涙を浮かべながら弾けるような笑みを浮かべたのだ。

「うんうん。
 そうだよ、そうだよ!
 わたしと志貴くんは同じクラスになったことがあるんだよ!
 ……わぁ、遠野くん、覚えていてくれたんだぁ……
 嬉しい……」
弓塚は潤んだ瞳で俺を見た。
かすかに赤くなった頬。
突き抜けるようなまぶしい笑顔。
たかだか彼女と一緒だったのを覚えていた、ただそれだけで彼女はとても嬉しがっている。
とても喜んでいる。
俺はそんな弓塚を見て嬉しくなった。
彼女が。
そこまで俺のことを。
想っていてくれていることに。

「そりゃ、覚えているさ」
俺はそう言ってまた弓塚に微笑みかける。
 
「中学から一緒な奴、パッと出てくるのって有彦と弓塚さんぐらいだしね。
 うん、ちゃんと覚えているよ」

「……ありがとう」
弓塚は顔を隠すかのように下を向き、聞こえるか聞こえないかぐらいの小さな声でお礼を言う。

「そんなお礼を言われるようなことじゃないよ。
クラスが一緒だったのを覚えていただけだしね」
まさかお礼まで言われるとは思わなかったので、俺は軽くこのことを流そうとした。


だが……

「ううん!
 わたしにとっては、とてもとても大切なことなの。
 志貴くんが覚えていてくれた、そのことがとても大事なの。
 嬉しい……
 すごく嬉しい。
 志貴くんがわたしのことを覚えていてくれたことが……」

彼女は力強く言い切って俺を見つめる。
真摯な瞳。
目には迷いがなく、ただ純粋。
純粋に俺が覚えていたそのことを嬉しがっている。
ああ、なんて真っ直ぐなのだろう。
その、俺を射抜くような視線が。
俺を裸にするような視線が。
俺を見透かすような視線が―――。

……俺は彼女に応えられない。
彼女の想いに応えられない。
その、自惚れかもしれないが俺は彼女の視線に暖かい愛情を感じた。
だけど。
俺は彼女に。
応えることは出来ない。
彼女の想いに……応えることは出来ないのだ。
何故なら―――
秋葉が。
翡翠が。
そして琥珀さんが。
三人が俺の心の裡にいるから。
三人は泣きそうな表情を浮かべていて。
俺のことを見つめてくる。
そう。
俺は彼女たちが。
笑顔になるまでは。
幸せにはなれない。
彼女たちより先に幸せになんかなってはいけないのだ。
俺は弓塚の思いに応えられない。
彼女たちを幸せに。
優しく笑顔を浮かべてもらうまで。
俺は誰の想いにも応えてはいけないのだ。



俺は真摯な想いのこもった彼女の視線を見つめ返し続ける。
彼女に応えられないもどかしさが見つからないように笑みを浮かべつつ。
果たして、彼女はこのまま気づかないだろうか。
弓塚は妙に鋭いところがあるから気づいてしまうかもしれない。
今の俺が弓塚の想いに応えられないことを……
















と、その時、ちょうどいいタイミングで5限の予鈴のチャイムが聞こえてきた。
あと5分で午後の授業が始まる。

 
「あ、昼休み終わっちゃったね」
弓塚は頬を赤く染めたまま寂しそうに呟くと俺を見た。

「そうだね。ま、だけど、また明日もあるから」
俺はにこりと弓塚に微笑みかけると、ふと自分が言った言葉の重みを理解した。
また明日もある。
明日もある。
明日。
そう、明日もまた弓塚と逢おう。
何事もなく幸せそうな弓塚と逢おう。
それは。
イコール。
弓塚を殺させない―――歴史を変えるという決意。
皆を幸せに導くという大事な決意。
『二度目』の遠野志貴の歴史はここから始まる。
誰も死なず、皆が幸せに生きられるようにするために。
歪んだ運命なんて誰が望む。
俺がいる限りそんな運命など変えてやる。
たとえそれが天に唾する行為であろうとも。
俺は必ず成し遂げる。
未来は決して一本道なんかではない。
人生は最初から決められているモノではない。
ヒトに進む意志がある限り、必ず変えられるはずなのだ。
そうだ、遠野志貴。
俺はそのために戻ってきたのだ。
―――皆を幸せに導くために。

俺は改めて自戒する。
俺だけ幸せになってはいけない。
気のゆるみを見せてはいけない。
相手は神であり運命である。
少しでも油断すると全てをひっくり返す強大な相手なのだ。
だから俺は。
今このときもこれからも。
それに打ち勝つまでは。
俺一人が主演の舞台で休みなしに演じ続けなければいけないのだ。


俺はそうして決意を固めて―――ふと彼女に何も言っていないことに気づいた。
まずいまずい。
話すタイミングを掴めなかったのもあるが、ここを逃すと次がないかもしれない。
今、彼女に夜の事を注意して繁華街を歩かせないようにしないといけない。

俺は再び弓塚を真摯なまなざしで見つめると彼女より早く立ち上がり、彼女に手を差し伸べた。
「えっ」
弓塚はポカンとする。
その、俺が手を差し伸べている意味が分からなかったらしい。
が、それも一瞬。
カッーと顔を赤く染めると、恥ずかしそうに俺の手を握り、ゆっくりと立ち上がってきた。

「弓塚」
その瞬間。
お互いに手を握り会っている中で。
そのままの姿勢で。
真摯な瞳で彼女の目を見つめつつ。
俺は彼女の名前を呼ぶ。
真剣な顔で弓塚と向かい合う。

「な、なに、志貴くん」
さすがの弓塚でもこの至近距離でお互いの顔を見つめ合うのは照れるらしい。
赤い顔で俺のことを恥ずかしそうに見つめ返す。
赤く赤く。
でもにこやかに。
幸せそうに。
どん底に落ち込ませるような不幸が未来で口を開けているとは知らず。
その先で死神が腕の中の鎌を鈍く光らせて待ちかまえているとも知らず。
俺を信じ切った純粋な笑みを浮かべている。

俺はその彼女の顔を見つめ返しつつ間をおいた。
先ほどまで怪しまれるかもしれないからと彼女に注意を促すのをどこか躊躇していた。
だが……
怪しまれてもいい。
不審がられてもいい。
彼女に。
弓塚に何もなければ。
俺がどう思われようと構わない。
たとえ嫌われてしまっても構わない。
今、言わなければ絶対後悔する。
もし、何かがあったら―――俺はいくら後悔しても後悔しきれなくなる。
そうだ、遠野志貴。
俺は今この言葉を言うためにここにいるのだ。
このまぶしく輝く弓塚の笑顔を守るために戻ってきたのだ。



「弓塚」

俺は真剣な顔で再度彼女の名を呼ぶ。



「絶対、深夜の繁華街なんてうろつくなよ。
 絶対、にだ」
俺は一言一言。
彼女に言い聞かせるように。
力強く区切りながら要点だけ言い聞かせた。

「……えっ。
 し……志貴、くん?」
彼女は驚いた顔で俺を見上げる。

「誓って言うが深夜繁華街をうろついているのは俺じゃない。
 だから例え俺に似ているヤツがうろついていようとも、そいつが俺かどうか確かめようとしちゃいけない。
 何故なら、それは間違いなく俺じゃないのだから」
俺は弓塚の目を見つめたまま先を続ける。

「たぶん……
 弓塚のことだから、好奇心に負けて繁華街を歩いている噂の主を俺かどうか確かめようとするだろう。
 でも絶対それはやめてくれ。
 弓塚は女の子なんだから。
 俺や有彦みたいな男ではないのだから。
 深夜の街を一人歩く危険を考慮するべきなんだ。
 もし……
 もしも仮に君の身に何かがあったとしたら……
 俺は死ぬほど後悔するだろう。
 だから、弓塚。
 俺と約束してくれ。
 深夜の街を絶対歩かない、と」
いつしか俺は真剣に弓塚の目を見据えていた。
といっても先ほどもふざけていたわけではない。
先ほど以上に、俺は真剣になって彼女に言い聞かせたのだ。







「………………」
弓塚は無言だった。
ただ無言で俺の言うことを聞いている。

「お願いだ、弓塚……」
俺は懇願する。

「……あの噂は……
 確認するけど、あの噂は志貴くんではないのね」
弓塚が俺の視線を真っ向から受け止めてゆっくりと口を開く。

「……ああ、俺じゃない」

「背格好も志貴くんに似ているみたいだけど?」

「俺に似ているようだけど、でもそいつは俺じゃない。
 本当に……誓って言うが、それは俺じゃない。
 信じてくれ、弓塚。
 そいつは俺に似ているようだが、俺じゃないんだ」
俺は必死になって弓塚に話す。
弓塚がちょっとでも好奇心を出したら……
噂を自分の目で確かめようとしたら……
たったそれだけのことで全てが崩壊してしまうのだ。
俺に関わった彼女たち全員が幸せになってもらう、というささやかな望みが。



「………………」

弓塚は俺の目を見つめる。
まるで俺の思考を、心の底にある真の考えを読みとろうとするかのように。
それに対し俺は目で訴える。
信じてくれ、と。
ただ、信じてくれ、と。

弓塚は無言のまま。
俺の真意を見定めるようにひたすら俺のことを見つめ返す。














「……………………うん、わかった。
 わかったよ、志貴くん。
 わたし、志貴くんのことを信じる。
 噂を確かめようとしない。
 
 ……わたし、志貴くんに約束するわ。
 わたし、弓塚さつきは繁華街になんて決して行きません。
 噂を確かめるために外に出ません。
 志貴くんの言うことを信じます」

弓塚はこれまでになく真剣な顔つきで俺に宣言した。
深夜の繁華街に行かないということを自身の名に賭けて。
良かった。
これで歴史は繰り返されなくなる。
弓塚が死ぬこともなくなり、幸せな日常が続けられるのだ。



弓塚は続ける。
「……正直言うとね、わたし、今日の夜にでも噂がホントかどうか確かめようとしていたの。
 志貴くんが繁華街にいる―――その噂を。
 志貴くんも知っているでしょ? 今街で起きている怖い事件を。
 そんな中、なんで志貴くんがいるのかなって。
 ずっと不思議に思っていたの。
 ……だけど志貴くんは違うと言ってくれた。
 噂と志貴くん、どちらを信じるかって言ったらわたしは志貴くんを信じる。
 誰が見たかわからない噂よりも志貴くんの言ったことをわたしは信じる。
 だって志貴くんが言うことだもの。
 誰が言うことよりも信用できるわ」



俺は弓塚の言葉を聞いて真っ赤になる。
俺のことを信用してくれている、その真摯な言葉が胸に染み渡る。
ありがとう、弓塚。
そこまで俺を信用してくれて。
その君の信用にかけて、俺は決して君を見殺しにしない。
何があっても君を助ける。
たとえ俺に何かがあったとしても。
今度こそ。
今度こそ君を助ける。
そう、今度こそ君を苦界に落とすようなことはさせない。
人間のまま。
吸血鬼になどさせず。
君が日の光の下で笑っていられるように。
俺は全力を尽くす。
それが俺の出来る、君への信頼の証なのだから。 




「……ありがとう」
俺は弓塚にお礼を言う。
俺を全面的に信じてくれたことに対し。
俺を欠片とも疑わなかったことに対し。

そして……俺の言葉通りに従ってくれることに対し。




「ううん、気にしないで、志貴くん」

弓塚は顔を赤くしながら微笑んだ。





「じゃ、戻ろうか」
「うん……」




俺は弓塚が立ち上がったのを確認すると、ゆっくりと手を離し急いで教室に戻った。
……いや、手を離し戻ろうとした。

カクン。
あれ。
なんだ。
進もうとした身体は引き止められる。
全然体が進まない。
よく見ると。
自分の手を見ると離したはずの弓塚の手がまだ俺の手を掴んでいる。
「え、えっと……」
弓塚は下を向いたまま何も言わない。
顔を赤くしてただ俺の手を掴んでいる。

「あ、あの弓塚さん?」
俺はおそるおそる声をかける。

と、いきなり弓塚が顔を上げた。
「さあ、志貴君、授業が始まっちゃうから教室に戻りましょう」
そう言って、俺の手をつかんだままぐいぐい先に進んでいく。

「えっ?」

「このままじゃ5時間目の授業に遅刻しちゃうよ」
そう言って小走りで俺の手を引っ張りつつ先を急ぐ弓塚。

「……そうだね、急ごう」
俺は弓塚と手を繋いでいるという事実に目をつぶり、
教室にこのまま行ったらクラスの連中から冷やかされるのだろうなと思いつつ、
弓塚と一緒に教室に駆けていった。






その、横顔。
ぐいぐい先に進んでいく弓塚の赤い横顔が妙に鮮やかだなと感じながら。








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