うたかたのつき
第三章
昼休み。
教室がもっとも騒がしくなる時間帯。
クラスのあちらこちらから話し声が聞こえてくる。
がやがやがやがや、と。
空間を埋める言葉の洪水。
その一部を切り取ると。
馬鹿話から恋愛相談、はたまた将来のことと漏れ聞こえる話題は多種多様。
十人いれば十人分の話題がそこにあり、一つとして同じ話題はない。
そんな時間帯の中。
ほかのクラスと同じようにこのクラスも生徒たちのざわめきで埋め尽くされていて。
どこもかしこも騒がしく。
静かに食事をする、なんて誰もせず。
学年で一番うるさいのではないかと思ってしまうぐらい喧しい。
そう、俺がいる、ここ二年三組は一番騒がしいクラスともっぱらの評判だったのだ。
騒がしいと言っても普通どこのクラスも似たようなモノだろう、と事情を知らない人間は指摘する。
しかし、他のクラスの連中に言わせるとうちのクラスは特別うるさいらしい。
何故かは知らないが、騒がしい連中が揃っているからとよく他のクラスの連中に指摘されている。
まあ、確かに。
有彦を筆頭に一癖も二癖もある連中が揃っているのだから、その指摘はあながち間違っていないかもしれない。
学校側が騒がしい連中をわざと一纏めにしたのでは、とまことしやかに囁かれているのも、
偶然にしては出来過ぎだからだろう。
そんなクラスの一番うるさい時間の中で。
喧噪の渦の中で。
遠野志貴こと俺は。
ようやくここにきて「初めて」の食事にありつこうとしていた……
俺はいすに座ってゆっくりと周りを見回す。
一緒に席を囲んでいるのは有彦とシエル先輩と弓塚。
『以前』と違い、弓塚が食事の席に参加している。
違う……
『前』とは違う新しい世界がそこにある。
俺が体験した『過去』とは違う昼休み。
『過去』に俺が体験しなかった、新たなる歴史。
そう、俺はここで新たな時を刻んでいるのだ。
弓塚が生きているこの世界。
俺はあの誰も救えなかった悲惨な結末をやり直せるのだ。
今度はどんな未来になるかわからない。
もしかしたらもっと悲惨な……想像もつかないような結末になるかもしれない。
だけど。
俺はやり直せる。
やり直しができる時点に戻ってこれた。
そう、俺は『未来』から戻ってきてやり直せているのだ。
俺は腹が鳴るのを右手で押さえつつ、そのことに喜びを感じる。
俺はやり直せている。
あの、どうしようもない結末を。
あんな救われない結末なぞまっぴらごめんだ。
誰も救われない、誰も喜ばない、最悪の結末。
弓塚をこの手で殺し、秋葉も殺し、琥珀さんを助けられなかった……
秋葉は琥珀さんを殺した。
俺はそんな秋葉を殺した。
翡翠は誰も帰ってこない屋敷で一人寂しく佇むのみ。
そんな最悪のシナリオ。
だが、俺は何故かやり直せる時点に戻ってきた。
何故戻ってきたかはわからない。
何故戻ってこれたかはわからない。
だけど、戻ってこれたのは事実。
俺がここにいるのがその証明。
俺はやり直す。
こんどこそうまくやる。
誰も死なない、誰もが幸せな世界を築いてみせる。
今度こそ。
今度こそ皆を幸せにする。
皆を幸せに導くのだ。
俺は密かに誓いをたてた。
この幸せの幻想を現実にするために。
俺は最悪の結末を知っている。
だから、俺こそがそれを防げるのだ。
誓う。神か仏かわからないが、俺をこんな数奇な運命に導いたモノに。
今度こそ幸せになるために。
と、俺がそんな誓いをたてていたら、鼻孔をくすぐるいい匂いが漂ってきた。
お昼ご飯のにおいだ。
たいして腹も減っていなかったはずなのだが、
いったん意識したらクラスのそこかしこから流れてくるおいしそうな匂いに思わずつばを飲み込んでしまう。
ちょっと腹が減ってきたなあ。
そんなことを思ったら、何か急にお腹がすいてきた。
ぐぅー。
小さく腹の虫の音。
俺は手で腹を押さえてこれ以上鳴らないように念じつつ前を見る。
よく考えると、先ほどまでの一件で俺はかなり体力・気力を消耗した。
弓塚との抱擁。
彼女が生きている、その嬉しさのあまりに後先考えずに行動してしまったが、
クラスの皆がいる前でやったのは失敗だった。
おかげでクラス中から注目を浴びて大変恥ずかしい目にあった。
我を忘れて行動してはいけないな。
俺は改めて心に誓った。
ふう、心に誓い直したところで昼飯を食べるとすか。
腹に飯を入れておかないと力が出ない。
さあ、しっかり食べて体力補給するぞ。
俺はそうして机をみた。
何から食べるか選ぶために。
だが……
机の上には。
俺が食べるものが何一つ載っていなかった。
あれ?
そういえば……
今日の俺は何を買ったのだろう?
俺は机の中を見て弁当箱やパンが入っていないのを確認すると鞄を探る。
ない。
ない。
弁当がない。
ついでに言うとパンもない。
これは一体どういう訳だ。
俺は机に入れた手を膝の上に戻して考える。
何故俺が食べるものがないのか。
誰かのいたずらか。
俺は隣の有彦を見る。
有彦はシエル先輩に話を振りまくっていた。
こいつか……
俺はゆっくり考える。
……ん? いや、まてよ。
俺はそこで有彦を殴ろうと思って握りこんだ拳をひらいて、はたと考える。
弁当がないことから連想したことがある。
もしかして……
もし、そうであるならば……
これは看過できない重要なことだ。
―――そういえば、今日は何日だ?
弁当がないことから端を発したこの疑問は、これから生活する上で大変重要なことである。
弁当がない。
それはほぼ間違いなく有間の家から出ていった後だ、ということを示唆する。
なぜなら有間の家にいた時はだいたい啓子さんにお弁当を作ってもらっていたからだ。
もちろん学食で済ます場合もあった。
有彦と学食でうどんをすすったり、購買でパンを買って一緒に食べたりもした。
だが、たいていの日は啓子さんにお弁当を作ってもらっていた。
その方が俺の懐に影響を与えないからだ。
だが、その弁当がないということは……
今日は有間の家を出た以降の日という可能性が高くなる。
俺はせっかく皆で話しているのに、一人思考の海に沈む。
有彦が相変わらず先輩と弓塚に話題を振りまくっている。
よし、ここはお前に任せるぞ、有彦。
俺はそのまま思考の海に沈んでいるから。
ふう。
少し整理しよう。
現実である今、昼休み開始直後に俺は戻ってきた。
弁当がないので、有間の家を出た以降の日が濃厚である。
オーケー、ここまではいい。
では実際問題、今日は何日の昼休みだ?
先ほどまでは戻ってきた嬉しさで深くは考えなかったが、もうそろそろ把握しないといけない。
未来を知っているのだ。
話しているうちに、これから起こることまで話してしまったら大変だ。
何故知っているのか問い詰められてしまう。
そんな事態は絶対避けなければならない。
俺はここでは『未来のことを何一つ知らない遠野志貴』なのだ。
『本来いたはずの遠野志貴』の知識レベルではないといけないのだ。
というわけで、一刻も早く俺は今日がいつかを把握しないといけない。
間違ってボロを出してしまう前に。
今日がいつか。
このことを考える前に目の前の事柄を再度並べてみた。
まず弓塚がいる。
これは大変重要なファクターだ。
弓塚は一緒に帰った次の日から学校に来なくなった。
一緒に帰った日に、繁華街で俺がうろうろしているという噂を耳にして、
俺が否定したのにも関わらず、それを確かめようとして事故にあったのだ。
深夜、俺に似た雰囲気を持つあいつを追いかけて、弓塚は人間ではなくなったのだ。
そうすると、今日はそれより前でなくてはならない。
もう一つ、考えることは先輩がいることだ。
シエル先輩と一緒にお昼を食べるようになったのも、弓塚が来なくなる前日からだ。
俺が引っ越しの件で職員室まで行く途中でぶつかって、それを機に昼を一緒に過ごすようになったのだ。
それまでシエル先輩とお昼をともに過ごしたことは俺の記憶によるとない。
しかも先ほど先輩は一緒にお昼を食べる許可を求めてきた。
いつも一緒にお昼を囲んでいたのならば、こんな許可を求める言葉は言わないだろう。
その二つから導き出される答えというと……
もしかして今日は弓塚と一緒に帰ったあの日か?
確かにそれなら辻褄が合う。
先ほど、俺と先輩が知り合いだったのを有彦は知らなかった。
なんと言ってもいつ知り合いになったんだとばかりに俺のことを蹴とばしてくるぐらいだから。
とすると、今のところ一番有力な日にちは俺が遠野家に戻った―――弓塚と最後に別れたあの日になる。
いや、しかし……
ここで俺は違う可能性について考える。
俺が還ってきたここは俺が知っている―――俺が体験した過去ではないかも知れない。
無数の選択肢から選ばれていく世界。
ここは、その中の『俺が知っている世界』とは全く別の可能性かも知れないのだ。
世界は無限の可能性を秘めている。
その中で選ばれることがなかったもう一つの可能性、選ばれなかった世界がここかも知れないのだ。
選ばれなかった可能性。
そこは弓塚が俺の言うことを信じて繁華街に出かけず、
先輩とはぶつからないで、有彦ルートで一緒にお昼を食べる仲になった、
そういう可能性の世界かも知れないのだ。
過去に戻る、なんて荒唐無稽であり得ないことが起きているのだ。
額面通りの『自分が体験した過去』に戻った、と考える方が都合がよすぎるのではないだろうか。
ふぅ……
参った……
これではどう考えても『自分が体験した過去』という確証は得られない。
いくら全ての事象がそこに集約しても、過去のどこかで一点だけ違っていれば、
それは純粋な『自分が体験した過去』にはなり得ないのだから。
そして、過去の全ての事柄について、俺の記憶と周りの記憶を突き合わせることなんてまず不可能だ。
そうすると、どうすればいいだろう。
どう考えればいいのだ、俺は……
俺は深く深く考える。
だが、いくら考えても答えは思いつかなかった。
ふぅー。
今日何度目のため息だろう。
考えることが多すぎるし、考えても答えがわからないことが多すぎる。
どうすればいいかわからないことばかりだ。
………よし。
俺は覚悟を決めた。
現在が俺が知っている『過去』かどうかわからないが、多少ずれていても近似値には違いない。
俺が体験した過去、もしくはそれに近いならば、ある程度のズレは覚悟しよう。
ズレた時は仕方がない。
忘れていた、だのなんだので言い訳するか。
その時の現場の判断に任せる、という形で対処するしかない。
オーケー。
俺は最優先事項を確認して腹を据える。
ま、今更四の五の言ってもしょうがない。
もう、賽は振られたのだ。
ここで何か言ったところで、元の世界に戻れるわけではない。
俺は何故か過去に戻ってきた、その現実を受け入れて進んでいこう。
前に進むしか道はないのだ。
俺は今ここで生きている弓塚や生きているであろう秋葉と共に歩むのだ。
たとえどんなに険しい道のりであろうとも。
俺は肝心なことを忘れていた。
過去に戻ってきた、そのことだけで頭の中が一杯になっていた。
俺は還ってきたのだ。
『やり直せるかもしれない過去の時点』に。
ここからなら、弓塚が吸血鬼になるのも防げるし、秋葉や琥珀さんにもあんな結末を迎えさせない。
そうだ、俺は絶対防いでみせる。
皆が幸せな道を歩めるように頑張ってみせる。
俺はそのために還ってきたのだ!
俺はそのことを心に誓った。
先ほどまでの慌てていた自分が恥ずかしい。
最初からこう考えればよかったんだ。
俺は決意を固めると、とりあえず当座の問題を―――昼飯がないという現実にシフトすることにした。
俺は先輩たちを見る。
相変わらず有彦が暴走気味に話していて、シエル先輩がそれに答えている。
弓塚は……
あ、ちょっと引き気味だ。
そりゃそうだ。
普通、有彦の外見とあのマシンガントークで引かないヤツはそんなに多くない。
弓塚の反応が当たり前でシエル先輩が変わっているのだ。
有彦はパンを食べながら、主に先輩に対して話を振っている。
先輩は弁当を持ってきていてそれを食べながら、相づちを打つ。
食べるスピードを落とさないで相づちを打つところに年季を感じさせる。
弓塚はどうだろう。
弓塚は有彦の勢いに引きながらも、先輩が頷いたときに同じく頷いたりしている。
小さな弁当箱を左手で押さえ、右手の箸で可愛らしく口に運んでいる。
俺だけか……
何もないのは……
俺は何もない自分の机の上を眺めて小さくため息をついた。
ふぅ、腹が減ったなぁ。
今日は昼食抜きか、つらいなぁ……
と、その時。
クイクイと袖を引っ張られる。
何かと思ったら、どうやら隣の弓塚が小さな声で俺のことを呼んでいるようだ。
「どうしたの、遠野くん。お昼食べないの?
……もしかして体調でも悪いの?」
う……
弓塚が顔を斜めに傾けて下から俺の顔を覗き込むかのようにして尋ねてくる。
か、かわいい……
弓塚のこういう仕草を間近で見るのは初めてだが掛け値なしにかわいいと思った。
クラスの男連中が弓塚に熱を上げるのがわからないこともない。
と、弓塚の仕草に見とれている場合ではないな。
はて、なんと答えようかな。
とりあえず無難な答えを返しておくか。
「うん、いまあまり腹が減っていないんだ」
俺は笑いながらそう答えた。
が、そんな時に限って……
グゥー。
……何故、こう見計らったかのように腹の虫が鳴るのだろう。
俺は真っ赤になって弓塚から目をそらした。
格好悪いこと、この上ない。
女の子の前でこんな姿を見せるとは思いもよらなかった。
まったく、穴があったら入りたいとはこのことだ。
「…………」
俺は目を逸らしつつ、黙った。
とりあえず、そうする以外の選択肢が俺にはなかったから。
「……もしかしてお弁当忘れてきたの?」
確かに聞こえただろうに、弓塚は聞こえない振りをして小声で尋ねてくる。
ええい、今更取り繕っても仕方がない。
もうすでに格好悪いところを見せているのだからな。
俺はそう考えて素直に頷いた。
弓塚は俺の言葉を聞くと、しばらく何かを考える素振りを見せた。
ああ、その顔もかわいいな……
何かを考えている弓塚の顔を見ていてそんなことが頭をよぎった。
やはり今の弓塚は違う。
俺は過去と現在とを比べて改めてそう感じた。
あの時の弓塚は……全然生きている気がしなかった。
いわゆる生気が感じられなかったのだ。
なんというか、ただそこにいて話している、そんな印象しか受けなかった。
弓塚がいる、ではない。
弓塚の顔をしたなにかがいる、そんな感じを受けたのだ。
たしかにあの時は弓塚が学校に来なくなり探していた。
見つけた嬉しさで、そんな心に思ったかすかな疑問は吹き飛んでしまった。
しかし今の弓塚と比較すると―――
あの時のかすかな疑問は確かだったのがよくわかる。
あの時の弓塚は今の弓塚のように生気がなかった。
内側から輝くモノを感じられなかったのだ。
もちろん、すでに死んでいるから、というのは当然ある。
だからこそ、この生気のなさが人間としておかしかったのだろうし、輝いていなかったのだろう。
死に装束の美しさ。
それは畏れの美しさ。
生きている人間には届かない『向こう側』。
『彼岸』にいってしまった者だけがもつ美しさ。
しかし―――それは負の美しさ。
『こちら側』の美しさとは根底から違う別次元の美しさ。
そう、俺はあの時の弓塚も美しいと思った。
だけど、今ほど美しくはない。
今、あふれんばかりに輝いている弓塚とは比べものにならない。
比較対象になり得ないのだ。
生気がないとここまで違ってしまうのか。
俺は生気あふれる弓塚の顔を見て、改めて今を噛みしめる。
この美しく輝いている弓塚が、いかに大事かを。
弓塚を二度と奴らに渡さない。
吸血鬼なぞに渡してたまるか。
奴らにこの美しい生命を汚させはしない。
この目も眩まんばかりの輝きを弱まらせたりしないのだ。
ああ、そうだとも。
この美しい花をむざむざと手折れさせたりはしない。
絶対に。
俺は誓う。
絶対に守ってみせる!
俺は弓塚の笑顔を思い浮かべ、決意を新たにした。
俺が弓塚の顔を眺めて、改めて決意を胸に刻んでいたら、弓塚は突然、何事かを思いついたようだった。
俺の方を見てにこっと笑みを浮かべたのだ。
俺は慌てた。
弓塚の顔を眺めて決意を新たにしていたら、いきなり視線があって微笑まれたからだ。
ちょうど弓塚を守る、などと考えていた矢先だったので俺は恥ずかしくなる。
考えを読まれたわけでもないだろうが、ズバリのタイミングだったので慌ててしまったのだ。
もちろん、やましいことなど考えていなかったが、俺は思わず横を向いて視線を逸らした。
弓塚は視線を逸らした俺に不審を抱かなかったのか、言葉を継ぐ。
「志貴くん、ちょっと付き合って欲しいのだけど」
そう言うと、相変わらずマシンガントークが止まらない有彦とそれに応えるシエル先輩を見て、
「乾くん、シエル先輩。ちょっと志貴くんを借りるからね」
そんなことをはにかみながら早口で言い切り、有彦たちに一礼すると、
右手は弁当箱、左手に俺の腕をつかみ立ち上がらせたと思ったらそのまま教室を出ていこうとした。
「えっ……」
俺は慌てる。
弁当がないという端的な事実を弓塚に伝えたら、
こういう展開になってしまうとはいったい誰が予想できるだろう。
過去にこんなことはなかったぞ……
俺は思い出す。
前のときはどうだったかを。
……ダメだ、思い出せない。
こんなことがあったという記憶がない。
弓塚と最後に会った日は、確かシエル先輩と有彦との三人で昼飯を食べた日だ。
そのとき弓塚は……
あ、そうそう、弓塚は用事があるといって俺を廊下に連れ出したんだっけな。
うん、間違いない。
俺は思いだした。
俺が弓塚と昼を共にしたことはない。
一緒に昼を食べたのは今日が初めてだ。
俺がようやく思い出したとき、すでに弓塚は先へ進んでいた。
俺は「おっとっと」と言いながらほかの机にぶつかったりしながら格好悪くついて行くだけだ。
クラスを出て行くまでに女性陣から「さつきー頑張れ」とか「いけいけー」とか声が聞こえてきた。
「遠野、後でシメる」とか「許さん」とか物騒な声も一緒に聞こえてきたのがアレだが。
まずいな。皆、俺と弓塚のことを誤解しているようだ。
俺と今の弓塚の間には何もないんだけどな。
俺はそのまま為すすべもなく弓塚に引っ張られてクラスを出た。
出口近くに座っていた女連中の「さつき、ガンバ」という声が印象的だった。
弓塚は人気者だな、そんなどう考えてもズレている考えに我ながらおかしくなり、
俺は一人苦笑した。
俺はそうしてどんどん引っ張られていく。
どうやら弓塚は中庭に向かっているようだ。
俺の腕をがしっと掴んで弓塚は早足で進んでいく。
しばらく。
しばらく、そうして進んでいて俺と弓塚は中庭についた。
今日の中庭はそんなに風もなく穏やかで暖かかった。
暖かいといっても汗ばむほどではなく、では寒いのかというとそうでもない。
冬が近い、という暦の上での現実を忘れそうになる過ごしやすい陽気だったのだ、今日は。
あちこちで他の生徒が談笑している。
どうやら、もう食事は終わっていて食後の談笑にはいっているようだ。
今も食事をし続けているグループはあまり見かけない。
俺と弓塚は日当たりのよい敷石のところに陣取った。
周りの他のグループに近すぎず遠すぎず、ちょうど等間隔になるぐらいのぽっかりと空いた場所に。
弓塚はそこでようやく掴んでいた俺の腕を放し、敷石の上にゆっくり座る。
もちろんスカートの中が見えてしまうような座り方ではない。
正座を崩したような座り方、俗に「女座り」と呼ばれる座り方で座っている。
そうして弓塚は「座らないの」という目をして俺を見上げる。
俺は辺りを見回し、特に注目している奴がいないのを確認すると、ゆっくり弓塚の隣に腰を下ろす。
男だから女子ほど気にしないで普通に胡座をかいて俺は座った。
弓塚はここまで俺を連れてきたが、いったいどうする気なのだろう。
弁当も何も持っていない俺はここで何も出来ないのだが。
俺は取りあえず弓塚を見守った。
今のイニシアチブは弓塚にある。
弓塚から何かアクションがあるだろう。
俺はそれを待つことにしたのだ。
俺は弓塚を見つめる。
彼女は俯いたままこちらを見ない。
なにやらぶつぶつ言っているけど何を言っているか全然こちらに聞こえてこないので、
俺はどう対応すればいいのかわからず、そのまま見つめ続ける。
しばらく、その状態が続いた。
俯く弓塚とそれを見つめる俺。
端から見ると変に思われただろう。
だが、ここは中庭。
教室のように注目される場所ではない。
俺は弓塚が顔を上げるまでそのまま彼女を見守り続けた。
「……あ、あのね」
俯いていた弓塚がいきなり顔を上げると俺の方を向き話し始める。
「なに、弓塚さん」
俺はゆっくり微笑みながら応える。
「わ、わたしね……
ま、まだ、お弁当をた、食べ終わってないんだけど……」
「そうみたいだね」
俺は弓塚の膝元にあるお弁当箱を見て確認する。
「きょ、今日はそんなにおなかがすいているわけではないの。
で、でね、せっかくのお、お弁当を残しちゃうと、も、もったいないでしょ」
「そうだね。こんなにおいしそうなのに残すのはもったいないね」
「そ、そこでね、一ついい考えがあるんだけど……」
「なに?」
「も、もし、し、志貴くんさえよければ、わ、私のお弁当を一緒に食べない?」
弓塚はそう言うと、すでに開けてあった自分の小さなお弁当箱を俺に見せる。
「食べかけでちょっと恥ずかしいけど、一緒に食べようよ、志貴くん」
弓塚は最後の言葉を早口で一気に言い切った。
………………えっと。
考えがうまくまとまらない。
思考が働かない。
弓塚が何を言っているのか。
伝わっているけど伝わらない。
どういう意味か。
意味は分かる。
だけどもその意味が。
頭に浸透しない。
空滑りする。
そう、考えが一つにまとまってくれないのだ。
俺は思考停止した自分の頭を働かせようとする。
考えろ、考えろ。
弓塚が何を言っているか、よく考えろ、理解しろ。
要は。
弓塚のお弁当を一緒に食べないか。
そう言っているのだ。
だから。
何とかそれに対しての答えを。
きっちり彼女に返さないと。
なんと言えばいいのだろう。
女の子の食べかけのお弁当を。
一緒に食べようだなんて。
こう言う時は。
どうすればいいのだろう。
一緒に食べる?
それとも断る?
どちらがいいのだろう。
彼女は勇気を持って俺に聞いてきた。
俺はそれに対して真面目に答える義務がある。
だけど……
だけど、俺はなんて答えればいいのだ?
俺は考える。
さらに一生懸命。
弓塚はこちらの答えを待っている。
早く早く。
早く答えないといけないのに。
俺の頭は。
的確な答えを導き出せないでいた。
なんてことだろう。
俺は彼女に答えられない。
彼女の誘いを。
俺は受けることも断ることも。
何もできないでいたのだ。
結局……
俺の返せた答えは「えっ?」とポカンと口を開くだけという、間の抜けた回答だった。
わかっている。自分でも間が抜けていると百も承知だ。
あれだけ時間をかけて。
こんな形でしか答えられない自分が恥ずかしい。
だが、誰がいったいこんなことを言われると予想できただろう。
弓塚から。
まさかこんなことを言われるだなんて。
まったくもって驚いてしまう。
俺はびっくりしながら改めて弓塚を見る。
そうしたら。
彼女は。
とてもとても真っ赤になっていた。
「…………」
俺は無言になる。
自分の頬がカァーと熱くなるのを感じる。
俺が恥ずかしいように弓塚も恥ずかしがっている。
そこまでして。
そこまでして言って貰えるなんて。
俺はなんて果報者なのだろう……
俺が無言でそんなことを考えている間、弓塚がずっとこちらを見つめていた。
おそるおそる。
俺の反応を、答えを待つかのように。
「……もう購買のパンも売り切れているだろうし……
もし、志貴くんがよかったらだけど……一緒に食べようよ」
弓塚はしびれをきらしたのか、再度そんなことを言う。
真っ赤な顔をさらに赤くして。
熟れたトマトのように真っ赤な顔で。
「ね、志貴くん……」
弓塚がポツリとつぶやく。
寂しそうな弓塚。
俺に否定されたと思ったのか、シュンとしている感じが伝わってくる。
ああ、弓塚。
俺はまだ応えていない。
まだ否定も肯定もしていない。
だから、そんなに悲しそうな顔をするな。
俺は弓塚のことを考える。
これだけのことを言うのにかなり勇気が必要だっただろう。
彼女は真摯な瞳で俺を見つめる。
じっと。
俺の瞳に映る彼女。
彼女の瞳に映る俺。
映り映され、永遠に。
見つめる瞳は無限の回廊。
ダメだ、断れない。
この顔でお願いされたら断るすべを俺は持たない。
オーケー。
一緒に食べようじゃないか、弓塚。
君の勇気に対して、君の真摯な瞳に対して俺は誠意を持って応えよう。
それが今俺が出来る全てなのだから。
「うん、せっかくのお誘いだから、一緒に食べようか、弓塚」
俺は微笑みを浮かべて安心させるようにして弓塚に応える。
「えっ?」
弓塚は驚いたように俺を見つめ返す。
断られると思っていたのか、ビックリした表情を浮かべている。
「だから、一緒に食べようと言っているのだけど」
二度も繰り返すとさすがに照れくさくなる。
俺はちょっと顔が赤くなっているのを意識しながら弓塚に微笑み続けた。
俺が了承の言葉を口にしたとやっと理解できたのか、
弓塚は言葉に表せないぐらいの満面の笑みを顔一杯に浮かべた。
「うん、うん、一緒に食べようよ、志貴くん。
きっときっと、二人で食べればおいしいに違いないよ!」
そして飛び上がらんばかりに喜び、ツインテールを空に踊らせた。
―――そうして。
俺は弓塚と昼を共にすることになった。
真っ赤になって、そんなことを言ってくれた弓塚の好意を俺は受け入れたのだ。
弓塚はいそいそと準備をしている。
まあ準備といっても、先ほど開けたメインのお弁当箱の隣にフルーツが入っているお弁当箱のふたを開けて置いただけだが。
そしてお箸とフルーツを食べるのに使うフォークを取り出して、横にあるふたの上に置く。
「それでは、いただきます」
弓塚は礼儀正しく両手を合わせて挨拶をする。
俺も弓塚と同じように両手を合わせて「いただきます」と同じように口にした。
弓塚はお箸を持ち、お弁当をつまもうとした。
そして、そこで動きが止まる。
ああ、やっと気づいたか。
俺は動きが止まった弓塚を見てそう思った。
目の前にはお弁当。
一人分のお弁当。
一人が食べることしか考えられていないお弁当。
ということは。
どういうことかというと。
簡単な話、お箸は一人分しかないのだ。
俺は先ほどからいったいどうする気なのだろうと思っていた。
弓塚が予備のお箸でも持っているのかな、と期待さえしていた。
俺は当然ながら箸を持っていない。
予備の箸を持ち歩くなど酔狂なことなどしないからだ。
弓塚はそのまま動きを止めている。
ふう、マナー違反だけど手を洗ってきて手づかみで食べられるモノだけ食べるか。
それかフルーツを食べる用のフォークを借りて食べればいい。
俺はそう思って弓塚に声をかけようとした、ちょうどその時。
「し、し、志貴くん……」
弓塚はどもりながら俺の名前を呼んだ。
「なに、弓塚さん」
「あ、あのね。今ね、お箸が一つしかないの」
「そうみたいだね。今手を洗ってくるから、手づかみで食べられるモノだけいただくよ」
弓塚は俺の言葉を聞くとぶんぶんと首を振る。
ツインテールがぴょこぴょこ動く。
「お箸、一つしかないけどね……
そ、そ、その……
こ、交互にお箸を使えば、い、いいと思うの」
弓塚は真っ赤になってそんなことを言う。
俺は弓塚の言葉を聞いて真っ赤になる。
まさか、交互に箸を使うだって?
そ、それだと、まるで恋人同士みたいじゃないか。
俺は弓塚の発言のせいで胸がバクバクした。
まさか弓塚がそんなことを言うとは思わなかったのだ。
先ほども驚いたが、今日はこれが一番の驚きだな。
今日はことあるごとに驚きの度合いが上がっていく。
俺は以前の記憶より大胆な弓塚にただひたすらびっくりしてしまう。
以前の弓塚なら、そんなことは言わないだろうし、そもそも中庭に誘うことすらしないだろう。
ふむ、ここは先ほど立てた仮説である『俺が体験した過去にきわめて近い過去』なのかもしれない。
それなら、俺が知らない一面を持った弓塚がいるのも納得である。
と、ここまで考えてまたもや疑問。
俺は本当に過去の弓塚を知っていたのか?
彼女とは夕焼けの中約束したということと吸血鬼になった弓塚を探して引導を渡した、
それぐらいしか接点がなかった。
中学生の時に体育倉庫に閉じこめられた弓塚本人を助けた記憶もないし、
一緒のクラスに三回もなったことがある、ということすら知らなかった。
それぐらいの印象しか彼女に対して持っていないのに、俺は彼女の何を知っているのだろう。
思い上がるな、遠野志貴。
俺は自分を叱咤する。
俺は彼女の全てを知っている訳ではない。
こういう一面を持っていたかもしれないのだ、彼女は。
現場の判断はその場限り。
現時点では『俺が知っている過去の弓塚』とは違うと言い切れるほど条件は揃っていないのだ。
だから疑わしいと思うならここは保留にしろ。
一面だけに囚われて全てを考えるな。
思考は柔軟に、いくつもの方向から考えて。
ベクトルは常に無数の方向を向いているのだ。
硬直した思考は壊せ、ただ柔軟に受け入れろ。
全ての可能性がそこにはあるのだ。
ふぅ。
俺は一息の間にここまで考える。
『体験した過去』ではなかった行動だが、あり得ない行動とは言い切れない。
受け入れろ受け入れろ。
受け入れて咀嚼しろ。
自分の中で消化しろ、そして全てを理解した上でひっくり返せ。
もう一度言う。
ベクトルの向きは無限なのだ。
とらわれるな、遠野志貴。
可能性は無限に広がっているのだ。
俺は落ち着いた。
俺が知らない行動だったので慌ててしまったが、それも一瞬。
すぐに落ち着けた。
そうだ、遠野志貴。
落ち着いて考えろ。
たとえ『これから起こるであろう未来の出来事を知っている』としても、
可能性が無限な限り、常にイレギュラーは発生する。
だけど、おまえは知っている。未来に起こる事柄を。
そしてそれは大きなアドバンテージ。
より良い未来へ、一歩ずつ進んでいこう。
よりよき世界を目指していこう。
それが、この世界で俺が為すべきコトであり、俺に与えられた二度とない―――決して逃してはいけない大切な機会なのだ。
弓塚がどんなに俺にとって恥ずかしい行動をしても、俺は落ち着いていこう。
子供を見守る親のように温かく見守ろう。
それが今の俺に出来る最善の行動だから。
それがこの世界の俺が為すべきコトなのだから。
よし、当座の行動は弓塚に流れを作らせていこう。
要所要所でコントロールしていけば大丈夫だろう。
俺はそう決めると、改めて真っ赤になった弓塚を見つめた。
弓塚は俺の隣で真っ赤になっている。
箸とお弁当を持ったまま、俺の言葉を待っている。
交互に箸を使う。
それはどういうことかというと、間接キスしている、ということになる。
当然、弓塚はそのことに気がついているのだろうな。
だからなおさら恥ずかしいと。
もちろん、俺だって恥ずかしい。
この誰が見ているかわからない中庭でそんなことをしたら、噂になってしまうではないか。
いくらクラスの中より注目されにくいと言っても、だ。
しかも相手はクラスの人気者である弓塚なのだ。
彼女を狙っている者は数多い。
実際、二人でクラスから出ていく時でさえも「遠野、後でシメる」とかいう物騒な声が聞こえてきた。
クラスの連中で中庭を注目している奴もいるだろう。
その状況で一緒に昼ご飯を同じ箸で食べるというのは勇気がいる。
だけど……
俺は弓塚の好意を断れない。
俺は彼女の好意を断るすべを持たないのだ。
弓塚の―――ありったけの勇気を絞り出したその言葉を。
俺は無下に出来ないのだ。
よし……俺は覚悟を決めた。
間接キスなぞ問題ない。
弓塚の好意を断らない、それが大事なのだ。
俺は決意すると、いつの間にか下を向いていた顔を上げ、弓塚の方を向き直す。
「同じ箸で一緒に食べよう、弓塚さん」
そう言って恥ずかしながらも笑顔を向けた。
弓塚は俺の返事を聞き、またもや満面の笑みを浮かべた。
「うん、うん、そうしようよ、志貴くん!」
弓塚は心底嬉しそうな顔をすると、早速箸で卵焼きをつまむ。
そして自分の口元にそれを持っていこうとして―――
うん? 弓塚がそこで止まった。
空中につまんだ卵焼きを持ちながら、真っ赤な顔をして何かを考えている。
「……………………志貴くん」
卵焼きを箸でつまんだまま、弓塚が俺のことを呼ぶ。
「ん? なに、弓塚さん」
「……はい、アーンして」
またもや時が止まった。
いや、凍りついたという表現の方が正しいだろう。
彼女の一言で。
弓塚の一言で。
俺は完全に。
動きを……止めた……
フリーズしてしまったのだ。
いま、なんて?
弓塚は今なんて言った?
はい、アーンして、だと。
その弓塚の言った言葉を反芻しただけで熱くなる。
頬の部分がカーっと赤くなっていくのがわかる。
心臓がドクンドクンと音をたてる。
顔に全ての血液がいってしまったよう。
手足は動かない。否、動かせない。
頭の半分ぐらいが真っ白になってまともな考えが浮かばない。
弓塚のその言葉は。
とにもかくにも俺を真っ白にさせた。
何も思いつかない。
何も考えられない。
嬉しいとかそう言う問題ではない。
あまりにも恥ずかしくて。
あまりにも突然で。
度肝を抜かれたというか。
意表をつかれたというか。
予期せぬ言葉がこれほど人の意識を硬直させるということを今この場で身をもって理解した。
弓塚は頬を染め上げて俺を見つめる。
はにかむような笑顔で。
赤く照れながら。
赤く染め上がったその顔は―――まるで『あの時』みたいで。
果たせなかった約束。
守れなかった言葉。
あの坂道で。
最後に交わした、たった一つの大事な約束。
ドクン。
弓塚のその顔は。
赤い赤い夕焼けに照らされた。
あの時の笑顔にダブってしまう。
ドクン。
遠い日の笑顔。
人間であった弓塚の―――最後の笑顔に。
ドクン。
その笑顔を。
またここで見ることが出来るとは。
時間をさかのぼり。
過去に戻って。
その時を待たずして。
赤く染まった彼女の笑顔を見られるとは。
弓塚の頬を染め上げた表情が愛おしく。
この笑顔を壊したくない。壊せるはずがない。
その笑顔のために。
全てを敵に回しても―――
力強い鼓動が聞こえる。
俺の心臓がドクンドクンと鼓動を打つ。
なんだろう、この鼓動は。
倒れる時の前兆ではない。
ただひたすらに。
力強く打ち続ける―――鼓動。
気味が悪いということはない。
今までこういうことはなかったが、どちらかといったら誇らしげだ。
何故かはわからない。
だけど赤く染まった弓塚の顔が『あの時』の弓塚の顔にダブって見えた時、
俺の心臓は誇らしげに存在を誇示したのだ。
嬉しいのか。
彼女が生きているのが。
弓塚がこの世に―――『こちら側』の住人として生きているのが。
お前はそれを嬉しがっているのだな。
俺は力強い鼓動を感じながら彼女を見つめる。
彼女のその溢れんばかりの輝きに目を細めつつ。
生気溢れる彼女を優しく見つめる。
「し、志貴くん?」
弓塚が卵焼きを箸で持ちながら、恥ずかしそうにする。
それはそうだ。
俺が優しく笑みを浮かべて彼女を見つめてしまったのだ。
彼女が照れないはずがない。
まずい、まずい。
俺は弓塚の赤く染まった顔を見て、他のことを連想してしまった。
うーん、どうも「赤色」とかを見ると『過去』とかを連想してしまうらしい。
連想してしまうとそのまま囚われてしまうから現実がおろそかになってしまう。
気をつけないと。
俺は気をつけるように心の中で自分に活を入れると、改めて目の前の弓塚がしていることを考える。
弓塚は俺が口を開けるのを待っている。
…………恥ずかしい。
彼女も恥ずかしいのかもしれないが俺も恥ずかしい。
口を開けて間抜けな顔をさらす俺はもっともっと恥ずかしいのだ。
……………………でも。
結局、俺は弓塚が手ずから取ってくれた卵焼きを食べた。
真っ赤になりながらも。
それはそれは凄い恥ずかしかった。
滅茶苦茶恥ずかしくて。
穴があったら入りたく。
背中には冷や汗をかきつつ。
心臓はバクバク音をたてていた。
―――そう。
一言で言うと、俺は彼女の好意を断れなかったのだ。
真っ赤な顔で恥ずかしそうにしながら、箸でつまんでくれた彼女の好意を。
俺には断れず、最後には受け入れたのだ。
俺が食べている間、彼女は自分の分を口にする。
一瞬、その箸を借りて俺が彼女の口におかずとかをつまんであげようかなと思ったがやめにした。
それをやってしまったら、もう二度と戻れなくなるような気がしたのだ。
何から戻れなくなるのかはよくわからない。
だけど確実に戻れない領域に足を踏み入れてしまう、そんな気がしたのだ。
秋葉の顔とか琥珀さんの顔とか翡翠の顔とかが浮かんだような気がしたが、
もしかしてとんでもなく関係するかもしれない。
たぶん……
俺は弓塚がつまんでくれるお弁当をパクパク食べながら、そんなことを考えていた。
彼女は俺がそんなことを考えているとはつゆ知らず、嬉しそうに運んでくれる。
真っ赤になりながらも。
満面の笑みを浮かべて。
ああ、弓塚は恥ずかしくないのかな。
いや、恥ずかしいのだろうけどよく平気でいられるよな。
俺は恥ずかしい。
恥ずかしいのにそれを受け入れているのはひとえに弓塚を悲しませたくないからだ。
彼女の好意を断れないから、こう真っ赤になりながらも食べさせてもらっている。
風が吹く。
恥ずかしくて熱くなった身体を冷ます風が。
熱く熱く火照ってしまった身体を冷ます風が。
優しく穏やかに。
そっとそっと触れるように。
俺と弓塚が座っている中庭をゆっくりと通り過ぎていく。
俺と弓塚はお互い真っ赤になりながらもやっとお弁当を食べ終わった。
食後のデザートであるフルーツも食べ終え、ようやくこの苦行が終わった。
ふう、かなり恥ずかしかったな。
俺はお弁当の量が少なかったのに感謝した。
これが多かったらもっとこの苦行が続いていたことになる。
それは俺には耐えきれない。
ふう、女の子のお弁当箱で本当によかった。
これからはこんなことがないように割り箸を制服の内ポケットに入れておくことにしよう。
俺は密かに心に誓った。
いや、弓塚の好意は嬉しいのだが、二度も三度もこんなコトがあったらあまりの恥ずかしさに俺の精神は崩壊する。
だから、万が一のために箸を常備しておくのだ。
俺は心の備忘録に割り箸常備と書き入れておくことにした。