うたかたのつき

第二章





淡く澄んだ大気が辺りに満ちている。
どこまでもどこまでも淡く澄みきった大気。
遠く、目に見えないぐらいに遠くまで。
世界を優しく満たしている。

不純なモノなど混じっていない純粋な大気。
季節柄、少々肌寒くもあるが、適度に湿度もあり感覚を鋭敏にさせてくれる。
草がそよぐのも、枯れ葉が舞い散るのも。
木々を揺らす風も、大地を潤す雨も。
感覚が鋭敏になっている今、手に取るようにわかる気がした。

穏やかに風が吹く。
優しく歌うような風が。
暴力的な風ではなく、その存在を明らかにするような微かな風が通り抜けていく。
肌に優しく触れ、微かに撫でて。
時には耳元の髪をふわりと持ち上げる茶目っ気も披露しつつ。
風は秋を精一杯楽しみ、楽しませてくれる。

光。
窓からは夏とは違う柔らかい日差しが差し込んでくる。
ふんわりと何もかも包みこみ、人を落ち着いた気分にさせてくれる光が。
天から降り注ぐ光は、細胞の一つ一つを癒すよう。
真夏の日差しに傷ついた肌をそっといたわってくれる。
柔らかな大気と光が穏やかな気分に導いてくれるのだ。


俺は胸の中にいる弓塚が軽く身じろぎしたときに、ふとそんなことを感じた。





季節は晩秋。
一歩一歩忍び寄る冬の寒さ。
伝染する冷たさ。
背後に初冬がいまかいまかと待ちかまえている。
厳しい寒さが生きとし生けるものに襲いかかろうとしている。
だが、それに最後まで抵抗するかのように。
陽光は地上に生きる全てのモノを慈しむ。
風は緩やかに吹き、凍えさせない。
季節の必然に逆らってくれるのだ。

そのなかで。
背後に忍び寄る冬の足音を聞きながら。
やがて訪れる汚れなき純白の気配に身を震わせ。
優しき季節がとうに過ぎ去ったのを嘆きつつ。
四季が巡るのを目の当たりにして。
俺はここにいる。





―――そう、俺はここにいる。
この二年三組の教室に。
今まで通っていたこの教室に。
このさらにあと一年通う予定の学校に。
懐かしささえ感じさせるこのクラスに還ってきて。
一人も欠けてないクラスメートに微笑みを浮かべつつ。
『欠けた』はずの弓塚を目の前にして。
『吸血鬼』になったはずの弓塚を抱きしめていられるのだ。

もう一度繰り返す。
俺は戻ってこれた。
前と同じ二年三組に。
そこは前と変わらない―――俺が記憶している二年三組そのままであった。
何ら変わることのない姿で。
全く齟齬がなく。
細部に至るまで同じように思える。
違和感を感じない。
同じ、としか言いようがない姿で俺を迎えてくれたのだ。



俺は何がきっかけかわからないが『過去』に戻ってきた。
救われない未来。
絶望が包み込む終局。
俺はあの時全てを失ったのだ。
あの赤い赤い月の下で……
あの大きな大きな月の下で……

弓塚をこの手で滅ぼし。
琥珀さんを助けられず。
そして秋葉を……秋葉の首をこの手で打ち落としたのだ……

ああ、俺はなんてコトをしてしまったのだろう。
あんなにも……
あんなにもあっさりと妹である秋葉を殺してしまうとは……

全てを満たす狂気。
俺も秋葉も。
希望という言葉が戯れ言で。
現実という言葉が絶望だということを知り。
虚無しか残らないことを理解しながら。
お互い狂気という名の身体に流れる血に身を委ねたのだ。
アイツは遠野、俺は七夜に。

結果、アイツは死に……俺は生き残った。
遠野は死に絶え、滅びたはずの七夜が生き残ったのだ。
遠野は……いや秋葉は誰にも看取られることなく、月の光にその屍を晒した。
長い髪を廊下に垂らし。
美しい肢体をこわばらせ。
物言わぬ体に―――胴体と頭が永遠に別離したのだ。
癖がなく美しい髪の毛は紅く染まったまま。
結局、最後まで遠野から逃れられず。
秋葉は一人、永遠に夢見ることも何も感じることのない涅槃の世界に旅立っていったのだ。



―――俺を残して。










俺一人が現世に残り、悲しみに彩られる。
全てが朱く見えるまま。
何もかも真っ赤。
それは……秋葉を殺した俺への罰。
朱い視界。
朱い狂気が秋葉の弔い。
俺が受ける―――永劫の罰なのだ。

そんな俺が。
何故かここにいる。
『やり直せる可能性を持つ過去』に。
罰を受けなければいけないはずの俺が、過ぎ去ったはずの―――『過去』にいるのだ。

何故だろう。
何故俺はここにいるのだろう。
わからない。
なにがなんだかわからない。

ズキッ。
頭蓋に痛み。
ダメだ。
過去のことを考えると……
俺が何故ここに戻ってきたのか、どうやってここに戻ってきたのかを考えると頭痛がぶり返す。
何か鋭利な冷たい刃物で脳髄を抉られたような痛み。
視界が真っ白になるぐらいの強烈な痛み。
絶対零度の白き炎が頭の中で爆発する。

考えてはダメだ、遠野志貴。
俺は自分に言い聞かす。
考えるとこの目も眩むような真っ白な痛みに襲われる。
全てを無に帰す純白の痛みに染められる。
何もかも―――思考すら白く塗り替えられる。
考える機会はいくらでもある。
大丈夫、今考える必要はない。
あとで考えればいいのだ。

しばらく。
しばらくしてようやく頭の痛みが―――白き炎が鎮まってきた。
俺は一息ついて、頭痛がしないのを確認すると、力を抜いてリラックスする。





一息。
俺は息を吐く。
大丈夫、痛みはしない。
俺は安堵すると、別のことを考え始めた。

俺は戻ってきた。
何故戻ってきたかわからないが、俺は戻ってこれた。
あそこで何かあったような気がするけど思い出せない。
白き痛みの先に何かあるのだが、何も思い出せない
オーケー。
これ以上は考えないようにしよう。
もし考えてしまうと、またあの冷たい痛みが俺を襲うから。

俺は視界に見える現実に考えをシフトした。
現実。
そこは教室の中。
ざわざわと騒がしく。
ざわめきが俺を包んでいく。
皆が俺を見ている。
クラスのどこかしこからでも俺を見ているヤツがいる。
気づいたら、俺は皆の注目を浴びているようだ。

うん、皆どうしたのだ?
何故、目立たない俺に注目する?
俺はしばらくそのことについて考える。

……ああ、そうか。
俺はやっと、何故皆の注目を浴びているかがわかった。
いつもならこんなことがないのに。
そんな目立つヤツでもないのに。
何故今日に限って注目されるかがやっとわかった。

それは……
俺が未だに弓塚を抱きしめているからであった。










俺は弓塚を抱きしめていた。
先ほどからずっと。
彼女が生きている、そのことを確認するために。

前回は彼女にとってあんまりな生だった。
無慈悲にその希望を、その輝かしいこれからという生を奪われたのだ。
だが……
どういう作用が働いたかわからないが、俺は過去に戻ってきてまたやり直すことが出来る。
闇に堕ちた彼女を救うことが出来る。
吸血鬼となった彼女を助けることが出来るのだ。
あの、夕焼けの坂道において交わした約束を破ることなく。
笑顔で俺を信じると言いきった。
ピンチに陥るはずの弓塚を助けられるのだ。
だから、この彼女を抱くという行為は純粋にそのことを喜ぶ儀式なのである。

たとえ、クラスの皆が騒ぎ立てようとも。
俺はそれを止めるつもりはなかった。
この儀式を中断することはあり得ないことなのだ。

俺は頭が真っ白になるまで彼女をかき抱いた。
周りの音が聞こえなくなるまで。

俺と弓塚の鼓動だけが鳴り響く。
世界が自分に凝縮していくのがわかる。
視界には弓塚のみ。
俺と弓塚のただ二人きり。
世界に俺たち二人しか感じない。
弓塚以外感じることがない。
この感触だけが。
この抱きしめている弓塚の感触だけが俺が俺と感じる唯一の証明。
二人だけの世界において俺が俺を自覚できる唯一の拠り所。










俺はそのまましばらく動かなかった。
あいつが、あいつが叫び出して世界が豹変するまでは……





最初に俺のとった行動から立ち直ったのはあいつだった。
当初は口をぱくぱくさせていたのだが、どうにか体勢を立て直したらしい。
普段はいないことの方が多いのに、肝心なときには学校に来ていやがる。
遠野志貴、奴の存在を忘れるとは一生の不覚……

「おーおー、熱いね、遠野。お前、弓塚のこと、嫌いじゃなかったのかよ」
周りで下品なヤジをとばしはじめるあいつ……乾有彦の存在を忘れていたのだ。

真っ赤な髪。
はだけたワイシャツ。
耳にはピアス。
校則なんて破るためにある、と言わんばかりの格好をしているこいつが今日に限って学校に来ていたのだ。
いつもなら。
いつもなら、こいつはほとんど学校に来ない。
進級できるだけの日数しか学校に来ないでサボっている奴なのだ、この乾有彦という奴は。

それなのに今日に限って何故か学校に来ていやがる。
今日は何かあったっけ。
俺は考える。
有彦が何故ここにいるかを。

俺が考えていると、そのまま有彦は言葉を続ける。
「俺はてっきり、弓塚のことを無視していたのかと思ってたんだが。
 なんだ、おまえ、まんざらでもなかったんだな」
有彦はそんなことをデリカシーのかけらも感じさせない大きな声でのたまうと、
弓塚の肩をぽんと叩いた。

弓塚と有彦……
何かが引っかかる。
何かが……

ああ、そうか。
俺は思いだした。
なぜ有彦がここにいるのかを。
有彦の奴、殊勝にも吸血鬼事件のせいで夜遊びを控えているんだっけ。
巷で言われる「連続殺人事件」―――犠牲者の血液が血痕もなく失われていることから、
ワイドショーなどでは「吸血鬼事件」などと呼んでいる―――をさすがの有彦も恐れたのだ。
それはそうだ。
あんな猟奇的な事件が身近で起これば、普通は夜遊びなんて控える。
誰だって自分の命が惜しいのだから。
だから一般生徒と同じく朝から学校に来ているのだ、こいつは。

有彦は一人飛ばしている。
「よかったな、弓塚。想いが叶ってさ」
そんなことまで調子に乗ったこの男は言い始めたのだ。
親指を立てて。
片目をつぶって。

「乾君……」
弓塚は恥ずかしさ半分、嬉しさ半分といった顔で俺に抱かれながら有彦を見上げる。

「……ありがとう」
そして真っ赤になり、心なしか目を潤ませつつ有彦に礼を言う。



……急に恥ずかしくなってきた。
有彦にからかわれているうちにこの高揚した気分が恥ずかしくなってきたのだ。
先ほどまでの高揚した気分は完全にどこかへいった。
俺はもしかしてとんでもなく恥ずかしいことをしていないだろうか。
まずい。
俺は冷静を通り越して慌て始めた。
過去から戻ってきた熱狂がドンドン醒めていく。
何、皆の前でこんなに恥ずかしいことをやっているのだろう、俺は。

「ちょ、ちょ、ちょっと待て、有彦。これには深い訳が……」
俺はどもりながら有彦を止めようとするが、一度トリップした有彦はそうは簡単に止まらない。
俺と弓塚の周りをぐるぐる回りながら冷やかしてくる。
しかも、抱き寄せてた弓塚がここぞとばかりに力を入れてなおも密着しようとする。
俺の後ろに手を回し、体と体が一分の隙間もなくくっついてしまう。
あああ…… 弓塚の柔らかい双丘がつぶれていく感触がする……

「深い訳もなにもあるもんか。
 この状況で何を言うつもりなんだよ、お前は」
有彦が立ち止まってジト目で俺を見る。
確かにその通りだ。
俺も有彦と同じ立場にいたらそう言うに決まっている。
そもそも俺から始めたことだ。
俺には何も言う権利がないのである。

「………………」
俺は弓塚を抱いたまま黙りこむ。
何も言う言葉が見つからなかったから。

「……さていつまでも抱き合っているのは構わないが、
 昼飯食う時間がなくなっちまうぞ、遠野」
腹が減ったのか、急に有彦がからかうのはやめて冷静に指摘する。
全く持って同感だ。
このままではクラスメイトの好奇の目に晒されたあげく飯抜きになってしまう。
それだけは絶対避けないといけない。

俺はゆっくりと弓塚を引きはがそうとした。
しかし、どうやら弓塚は俺が抱きついたおかげで先ほどの有彦と同じくトリップしてしまったようだ。
いや、思考停止か。
全然離れようとしてくれない。

俺はゆっくりとゆっくりと弓塚の柔らかい体を繊細にかつ丁寧に扱って自分から引きはがそうとした。
男みたいな筋肉質な体ではなく、女の子の柔らかい体にドキドキしながら。
女の子特有の甘い匂いを感じつつ。

弓塚、もうそろそろ現実に戻ってきてくれ……
俺は心の中で弓塚にお願いした。
確かにきっかけを作ったのは俺だけど、俺はその熱狂から目が醒めた。
有彦が騒ぎ立ててくれたおかげで。
弓塚が戻ってきてくれないと、俺は無理矢理引き離さないといけなくなる。
正直、そこまで強引なことはしたくない。
なんと言っても最初に抱きしめたのは俺なのだから。
俺はなんとか弓塚から離れてくれるように彼女の肩をポンポンと優しく叩きながら現実に戻ってきてもらおうとした。










しかし、ちょうどその時―――





「こんにちは、遠野くん。お邪魔しにきちゃいましたけど、いいですか?」
ああ、なんてことだろう。
よりによって最悪のタイミングで、クラスの出入り口から三年生のリボンを付けた眼鏡の先輩がひょっこり顔を出したのだ。
ショートカット。
眼鏡。
年上の先輩。
言わずとしれたシエル先輩だ。
なんて間が悪いのだろう。
このタイミングでやって来るとは。

まさか狙っていたとか。
俺は先輩を疑った。
それほど絶妙なタイミングで先輩はやってきたのである。
思わず疑ってしまうぐらいのタイミングで。
……いや、そんなことないか。
先輩がそんなことをするはずないな。
だいたいよく考えるとそんなことをする意味がない。

先輩は教室に入ってくるときょろきょろとクラスの中を見回す。
そして抱き合っている俺と弓塚とその横で大声で冷やかしている有彦を見つけると
しばらくそこで立ち止まる。







「…………」




先輩は無言で俺と弓塚を見つめる。










時が止まる。
俺と先輩はそのままの状態で動かない。
俺もシエル先輩も無言が続く。

沈黙がクラスを支配する。
俺たちの醸し出す雰囲気にのまれたか、
クラスの皆は少しずつしゃべるのを止めて俺たちを見守りはじめた。






「…………」




シエル先輩は無言のまま、つかつかと近寄ってきた。
俺の側に。
弓塚の側に。

















―――そして一言。



「学校の中で不純異性交遊はいけませんよ、遠野くん」
と、人差し指を立てて真顔で言うのだった。




























クラスの中はガヤガヤと騒がしい。
あちこちで仲のよい者たち同士がグループを作って一緒に食事をしている。
その中でも俺たちは特に奇異に映るだろう。
三年生の先輩と一緒に食事をしているグループは他にいないからである。
先輩が下級生と一緒に食事をする。
これは部活が一緒でもない限り、あまりない光景だ。
普通の昼休みに、部活が一緒でもない上級生の、しかも女と。
そんな普通ならまずあり得ないような組み合わせで俺たちは一緒に席を囲んでいる。
―――いつもならば。
以前の、過去の昼なら確かにそうだった。
だが、現在のここでは―――いや、正確に言うと今は、俺は……もっと正確に言うと俺だけが先輩と席を囲めていない。
ただ、先輩と有彦を見つめているだけだ。
二人は食事の準備に余念がない。
近くの空いている机と椅子を勝手に動かして、場所を作っている。
俺はその近くで、蚊帳の外だ。
何故か。
それは相変わらず俺は胸の中の弓塚を引き離せておらず動けない、という単純明快な理由からだ。

ふぅ、まいった。
俺はこの動けない現実にため息をついた。
いくら俺がまいた種とはいえ、こうなるとは思いもよらなかった。
弓塚が生きている、という現実に嬉しくなり思わず抱きついてしまったのはいいが、
まさか弓塚がトリップしてしまうとは。
おかげで未だに俺は弓塚と抱き合っていて何もできない。
ああ、このままでは昼飯を食いっぱぐれてしまう。
何とかして早く弓塚を引き剥がさないと……



「いやー、しかし遠野の奴が先輩と知り合いだとは全く知りませんでした。
 こいつ、大人しい顔をしていつの間に先輩と仲良くなったのかと純粋に疑問に思いますね、オレは」
有彦が一人先輩と話している。
ねらっていた先輩と昼を共にできてご機嫌なのか、妙にハイテンションだ。
購買で買ってきたパンを食べながら、相変わらずの大声で、全く持って騒々しい。
邪魔者の俺がいないうちにと思ったのか、いつも以上のノリのような気がする。

イテッ。
有彦め、先輩と知り合いだったのが気に入らなかったのか、先輩に見えないように俺の足を蹴りやがった。
こいつめ……後で倍にして返してやる。

「こちらも乾くんと遠野くんがお知り合いだなんてびっくりしました。
 偶然ってあるものなんですね」
穏やかに答えるシエル先輩。
騒がしい有彦相手でも年上特有の落ち着きを見せている。
すごいな。
俺は純粋に感心する。
あの騒がしい有彦相手にここまで落ち着いていられるのが。
普通の人ははっきり言って引く。
それぐらい有彦は騒がしい奴なのだ。


って、有彦と先輩を観察している場合ではない。
この状況から抜け出さないと大変まずい。
いい加減に何とかしないと昼も食べられなくなってしまう。

ふぅー。
俺はゆっくり力を抜く。

『ピンチの時はまず落ち着いて、その後にモノをよく考えるコト』
先生。
こういう時にはいつも先生の教えを思い出します。
そうだ、遠野志貴。
先生の言葉を思い出すのだ。
先生の言うとおり、落ち着いてモノをよく考えろ。


俺は二度三度と息を吐く。
落ち着きを取り戻すために。
いつもの俺に戻るため。
何度かそれを繰り返し、ようやく多少の落ち着きを取り戻した俺は目の前の彼女を見つめる。
そしてゆっくりと目の前の彼女に呼びかけた。
「弓塚……」
俺は弓塚の名前をささやきながら、肩を軽く叩く。
もろくいまにも砕けそうな肩。
まるでボヘミアンガラスを扱うかのようにそっと弓塚の体に触れる。
そしてクラスの皆が見守る中、俺の体から弓塚を引き離した。
もちろん、最後までやさしく繊細に、だ。

弓塚の体はとてもやわらかかった。
まあ、女の子の体がやわらかいものとは知っているが、
こう、その事実を突きつけられて、改めてそのことに驚いてしまう。
男と体の構造が違うとはいえ、かくも違う物かと考える。
俺は少なくともそんなにやわらかくはない。
……そういえば、朱鷺恵さんもこんな感じだったよなぁ。

俺はそんな過去のことを思い出したりしながら、
そっと割れ物を扱うかのように引き離した弓塚を目の前に立たせた。

ふぅ、ようやく弓塚のことを引き離せた。
俺は一息つくとそこで改めて周りを見た。
いすには有彦とシエル先輩がすでに座っている。
俺の前には弓塚が顔を上気させながら、恥ずかしそうに立っている。
ん、こころなしか弓塚の顔がむーとしているように思えるが、これはなんだろう。
朱鷺恵さんのことを考えたのがわかってしまったのであろうか。
まあいい。俺の気のせいだろう。
気を取り直して辺りを再度見回す。
ふむ、どうやら今は昼休みらしい。
ちょうど昼休みに入った頃、俺はここに戻ってきたようだ。

周りではクラスメイトたちが三々五々散らばって、
ある者は一人で、ある者はグループで食事をしている。
先ほどまではほぼクラス中から注目されていたようだが、
俺が弓塚を引き離してからは皆、食事に入りはじめたらしい。
なんとなく、つまらないとか修羅場じゃねえのとかいう声が聞こえてくる気がする。
さつき頑張れ、という声も聞こえてきたが、はて、あれは一体どういう意味なのだろう。

俺はそんなよくわからない声を一切無視して、また息を吐く。
ふー。
さっきまでは還ってこれた嬉しさで我を忘れていたが、ここは学校で俺は学生なのだ。
派手な行動は慎まないといけない。
俺は自分にそう言い聞かせると、ゆっくりと俺の前にいる有彦たちを見た。

有彦とシエル先輩は俺のことなど忘れたかのように食事を始めていた。
あとは俺が座れば、いつもどおりの昼が始まるだけ。
いつもどおりの昼……
なんて素晴らしいことなのだろう。
ただいつもしていたことがこんなにも大事だったとは。
普通に暮らす、そのことがこんなに嬉しい物だったとは。

俺は自分のイスに座る。
これで準備は万端。
あとは有彦とくだらない話をし、シエル先輩にからかわれながら
いつも通りに昼の食事をするだけだ。

「さあ、俺も食べるか」
俺はそういうと、目の前の二人を見た。
あれ?
いつもならここから有彦が話を振ってくるはずなのだが……

二人は言いにくそうにチラチラと視線を合わしている。
そうして何か合図があったのか、有彦が口火を切る。

「遠野よぉ」

「ん? なんだ、有彦」

「お前さあ……
 いや、お前のことだから忘れているんだろうけど……」

「なんだ、何がだよ。はっきり言えよ、有彦」

「お前、ホントにわかってないのか」

「はぁ、何言ってんだ、有彦」

「ハァー。鈍感王の朴念仁、唐変木というのはわかっていたが、ここまですごいとはなあ。
 俺も長いつきあいだが、改めてお前にゃ呆れるよ」
そういって、肩をすくめる有彦。

「なんだよ有彦、さっきから。
 言いたいことがあるならはっきり言えよ」
有彦は俺のその言葉を聞くと心底呆れたようだ。

「はー、これだもんなぁ……
 ホント、本人に自覚がないって罪だよなぁ。
 他人事ながらかわいそうだな。
 ここまで忘れられてしまうと」

「何を俺が忘れているって言うんだよ、さっきからよ」
俺は語気を強めて有彦に詰め寄った。

「……お前さぁ、弓塚のこと忘れてない?」

「………………あっ」
俺は動揺した。
周りを見て今の状況を把握したときに、隣にいる弓塚のことをすっかり忘れてしまっていたのだ。
まさしく有彦の言うとおり、に……

俺は弓塚の方を慌てて見た。
そうしたら彼女は……
俺の隣で……
どんよりと……落ち込んでいた。

「わ、悪い、弓塚」
俺はそう言ってフォローしようとしたら、
弓塚はどんより落ち込んだまま笑顔を浮かべた。

「……いいの、志貴くん。
 私はほら、影が薄いから……
 志貴くんといつも一緒にご飯を食べているわけでもないからね……」
弓塚は落ち込んだまま、ボソボソとそんなことを言っている。

「たとえ志貴くんに無視されても、私は頑張るだけだから……
 大丈夫。私は大丈夫だから……
 ね、志貴くん……」

言葉とは裏腹にかなり彼女は落ち込んでいる。
こう、そこだけがどんよりとした雰囲気だ。

「あれじゃあ、さつきがかわいそうだよね……」
「遠野くんって唐変木で朴念仁のうえ、冷酷だったんだ」
「頑張れ、さつき。そこでくじけたら女がすたるわ」

なにかクラスに残っている女性陣から非難されてるような気がする。

「実際、非難されているんだよ、お前は」

「うわ、何で俺が考えていることがわかったんだ、有彦」
俺は心の中を有彦に読まれたことに心底びっくりして声をあげる。

「わからいでか! お前とは長い付き合いだからな。
 ていうか、今まで気づかなかったのか、お前は……」
有彦は呆れたようにそう言うと、弓塚に向かって首をしゃくる。

「ほれ、お前がまいた種だ。しっかり責任をとれよ」
有彦はそのまま背中を向けて、シエル先輩の方を向く。

「私も思うに、遠野くんは鈍感すぎますね。
 女の子にはもっと優しくしないとダメだと思います」
シエル先輩が真面目な上級生の顔で俺を諭す。
ああ、先輩までそんなことを言うなんて……

俺は弓塚を見つめて考える。
どう声をかければいいのだろう。

……よし。
しばらく考えていた俺は覚悟を決めると、そのまま、俯いている弓塚に向かって声をかける。

「弓塚さ、よかったら俺等と一緒に昼飯食わない?」

がくっ。
教室のそこかしこでずっこける音がしたような気がした。

「あの流れでお昼誘うだけなんて、遠野くんって鈍感もいいところよね」
「こう、もうすこし踏み込んだこと言うわよね、普通は」
「やっぱし、遠野くんはどこまでいっても遠野くんなのね……」
「さつきを抱きしめた時は『おっ』と思ったんだけど」
「これじゃあ、さつきがかわいそう」

またしてもクラスの女性陣から俺を非難する声が聞こえてきた。
どうやらまたもや選択を間違えたらしい。

有彦はクラスの(主に)女子のブーイングを受けた俺に対し、
さらに追い打ちをかけてくる。
「遠野さぁ、こういう時にかける言葉はこう、違うんじゃねぇのか。
 例えばさあ……」

有彦が俺に対し説明しようとした、その時。
先ほどからずっと下を向いていた弓塚が顔を輝かせ、俺を見つめる。

「いいの、遠野くん?
 私と一緒なんかでいいの」

「いいもなにも、俺は弓塚さんのことを誘っているんだけどな
俺がそう言うと、弓塚は顔を真っ赤にさせて首をぶんぶん振る。

「うん!
 うん!
 一緒にお昼食べよう、志貴くん!!」

そうして弓塚はくるりとスカートを翻して後ろを向いたかと思うと、小走りに自分の机まで行き、
鞄から可愛らしい弁当箱を持ってくると、有彦が用意したイスに座り、俺たちと一緒に机を囲む。

それを見ていたクラスメイトははぁーとため息をついている。
「さつきがあれじゃねー」
「もう少し怒ればいいのに」
「本人があれでいいのなら私たちがどうこう言うことはないのかなー」
クラスの女性陣からまたもや声が聞こえてくる。
いい加減気になって俺がそちらの方を向くと、こちらと視線が合ったやつはいなかった。
どうやら落ち着いて食事を始めたらしい。

ふぅー。
俺は人知れずため息をつくと、
改めて椅子に座って弓塚たちと食事をするために向かい合ったのだ。








戻る   トップページへ   次へ