うたかたのつき
第一章
そこには誰もいなかった。
誰も。
男も女も年寄りも若者も。
誰もいない。
ただ、風が吹き抜けるのみ。
無人の街。
人気のないこの時間、街は仮面を脱ぎ捨て本当の顔を見せる。
影を従え。
闇をまとい。
月に照らされ。
そびえ立つビルはまるで何かのモニュメント。
閉ざされた扉も。
人気のない部屋も。
星が映る窓も。
そこに在るだけ。
意味も持たずにただ存在する。
在るという事柄だけを示す象徴。
それはとてもとても空虚なこと。
また、風が吹き抜ける。
アスファルトの上を。
塵一つない道路を。
建物の間を。
街路樹を葉鳴りさせ、鉛筆のようにそびえ立つ高層ビルを左右に揺らし吹き抜けていく。
何者にも束縛されず。
ただ自由に吹き抜ける。
その一陣の風は誰にも干渉されることない。
……だが、誰にも振り向かれないとてもとても寂しい存在。
学校。
若人たちの学舎。
昼は生徒たちで賑わう校舎だが、この時間は無人。
人気がない夜の学校はある種恐怖を喚起させる。
何故だろう。
たかが学校なのに。
たかが人がいない建物なのに。
夜になると学校もその姿形を変えていく。
その中で。
誰もいない校舎の中で。
月が見える廊下で。
月明かりが全ての闇の中で。
俺は……
外を感じていた……
俺は外を感じる。
自然の理を。
在るがままの姿を。
人間という卑小な存在に左右されない気高き自然を。
花が咲き、芳しい香りを漂わせ。
鳥が鳴き、優雅に空を舞い。
風が吹き、草木を揺らし。
月が輝き、地上の全てを照らし出す。
俺はそこに自然を感じる。
あるがままの自然を感じるのだ。
ああ、それなのに。
自然を身近に感じるのにも関わらず。
俺は息吹を感じない。
生あるモノの息吹を感じないのだ。
ただ風が吹く。
草木が揺れる。
水面が波紋を描く。
そこに自然を感じることはできる。
だが、生命の息吹は感じないのだ。
何故なのかはわからないが。
長い時間……
そうやって生命を感じようとした俺はふと気づく。
俺は今……
世界に自分一人だけ、だと。
誰もいなく……何もいなくて、ただ俺一人だけがここにいる、と。
他人の気配も何も感じないこの場所に。
俺は思考の海に沈む。
これは夢ではないかと。
だってこれが現実のはずがない。
世界がこんなに寂しいなんてことはないのだから。
そうだ、そうに違いない。
きっと夢から覚めたらみんなが俺のことを笑うはずだ。
何故なら、俺が知っている世界はこんなに寂しくなかった、から。
もし、ここが現実だとしたら。
他の皆はどこへ消えた。
そうだ、あれだけの生命が一瞬で消えるはずがない。
だから。
これは夢なんだ。
この気配を感じない世界は現実ではなくて夢なんだ。
俺は一人きりではない。
皆も皆で存在する。
そうだ、そうに違いない。
俺は本当に一人きりではない。
ただ夢を見ているだけなんだ。
だから夢から覚めたら。
この夢を皆に話したら。
皆は笑うだろう。
そんなことあるはずないだろ、と。
きっと笑うに違いない。
……でも。
いくら内心で否定しても。
現実として感じるのは俺一人という感覚。
やはり、世界に自分一人しか感じない。
俺しかいない、という感覚。
俺だけだ、という奇妙で通常ならあり得ない確信。
ひとりぼっち、という自信……
そう、俺は一人きりなのだ。
たとえ月が地上を照らし、星が夜空を飾っても。
闇を飾る儚き煌めきが頭上にあろうとも。
心地よき風が地上を駆け抜けようとも。
頭上の月は眼下のことなど気にもとめず。
星々はただ光輝き、地上を照らす。
風は自由気ままに吹いていく。
俺は周りを見渡す。
全てが赤く。
血のように赤く。
どこもかしこも……赤く。
世界は赤一色で塗り潰される。
ああ、俺の耳には聞こえない。
あのときからずっと聞こえないのだ……
眼前に広がる赤い月を見たときから。
何も聞こえない、何も感じないのだ。
人の気配を、人の息吹を、俺以外の人たちを……
俺は……
秋葉を殺して……
妹である秋葉を葬って……
大事な秋葉の首を打ち落としたのだ。
七夜のナイフで。
そうだ、俺は秋葉を殺したのだ。
その体術で。
その卓越した殺人技術で。
紅く染まった秋葉の首を打ち落としたのだ。
俺は……
遠野志貴は妹である遠野秋葉を殺したのだ。
ああ、なんということをしたのだろう。
自分の妹を……
あんなにあっさりと……
殺して……しまう……なんて……
俺は空を見上げる。
そこには月が見える。
輝く月。
俺の苦悩など関係ないかのように輝いている月。
それは……
とてもとても……
赤く……
滲み出る赤。
巨大な月が夜空に輝く。
赤く赤く。
何者にも勝るほどの赤さで。
あの月は赤く輝く……
赤い月。
赤。
赤く……
血の赤。
夕焼け。
滲み出す。
輝く。
それは……
大きな坂。
日没。
夕暮れ。
笑顔。
バイバイ。
また、明日。
また、明日ね。
また……明日……ね……
ああ、溶けだしていくのは朱い月……
世界を浸すのは朱い月。
世界は全て朱く朱く染め上がる……
ズキン。
痛みがはしる。
なんだ?
月を見ていた俺はふと痛みで我に返る。
なんだ、朱い月って。
ふと頭に浮かんだ言葉。
朱い月。
何故、そんなことを思いつく。
秋葉を殺し。
全てを壊し。
何もかもがいやになった俺。
何を思う。
何を願う。
何を望むか……
朱い月。
ああ、月がこんなに綺麗だなんて……
ふと。
本当にふと……俺は気づいた。
ここは……
ここはどこだ。
俺は月を見上げるのをやめ周りを見渡す。
学校か……
いや、違う。
ここは学校ではない。
……ここはいったい……どこだ?
いま自分がどこにいるのかわからない。
学校にいたはずなのに。
廊下にいたはずなのに。
秋葉が横たわっていたはずなのに。
違う。
俺はどこともわからない場所にいる。
俺は魅入られてしまったのだろうか。
狂気の象徴である月に。
月に魅入られてしまったが故に連れてこられてしまったのだろうか。
月の支配する……異界に。
途端に俺は言い様のない孤独を覚える。
先ほどまでの孤独の比ではない。
圧倒的な孤独。
ただ存在するだけ。
俺という存在があるだけ。
俺という意識があるだけ。
俺は考える。
俺という存在は俺という意識があって初めて成立する。
それは他者の他者であるという意識があってこそ、
その他者とは違う自我が自己を認識することによって始まると思う。
では……
では、この俺という存在しかいないこの状況下で
俺は俺であり得るのだろうか。
俺という存在は比較する対象の他者がいなくても俺であり得るのか。
俺は俺でいられるのか。
……わからない。
本当にわからない。
誰もが一度は考えたことがあると思う。
自分と他人との比較を。
そこからさらに自分の存在について考える者はそんなに多くない。
他者がいてこそ自分がある、その意味について。
今の俺は果たして俺なのか。
俺は考える。
ともすれば霧散してしまいそうな意識を何とかとどめて。
まずい。
俺は思った。
このままでいると気が狂ってしまう。
意識が世界に溶け出しはじめている。
それは。
俺の終わり。
遠野志貴の終わりなのだ。
このまま、この世界に居続ければ。
遠からず俺という意識は溶けて消える。
この世界に溶けてしまうのだ。
俺は自覚する。
自分を。
他者がいないこの世界で。
比較しうるモノがないこの世界で。
俺は自分を意識する。
遠野志貴という存在を。
遠野志貴という意識を。
孤独は孤独。
だがそこは無ではない。
無ではないのだ。
俺は孤独ということを感じる。
大丈夫。
俺はまだ考えることが出来る。
俺は孤独という事実を感じる。
ただ二人で。
……二人?
二人とはどういう意味だ。
それは孤独ではない。
相手がいるなら、俺以外に誰かがいるのならそれは孤独ではない。
ただ二人きりの世界。
またか。
何だこの感覚は。
俺は一人きりのはず。
なのに、何故二人と思う。
繰り返す。
俺は一人きりだったはずだ。
誰だ。
誰かいるのか……
おぬし……
誰だ。
俺は誰何する。
いつの間にか目の前に人がいた。
金髪で髪が長くとても美しい女が。
古風な白いドレスを着た女が。
そしてそれは……
恐怖を呼び起こす……もの。
おれは目の前の女に対して七夜のナイフを構えた。
それは反射的な行動。
敵に対して本能が命令した行動。
ほぅ。
向かいの女から面白がっている声がする。
たかが人間ごときがこの身に刃を向けるとは。
ころころと笑う声。
やめといたほうがいいぞ、人間。
わかるだろ、私との力の差が。
そういうと女は俺を視た。
その瞬間、俺は絶対的な恐怖がもたらすモノを身をもって知った。
体がすくむ。
動かない。
いくら頭が命令しても。
恐怖した体は指一本動こうとはしない。
俺は理解した。
確かにこの相手に勝つ自信などない
少しでも動いた瞬間、切り裂かれる光景が目に浮かぶ
俺は相手を見つめたまま、固まった腕をゆっくりと下におろした。
それは降参の印。
完全に敵わない相手ならば抵抗は無意味だ。
俺は完全に腕をおろしきるとそのままナイフを足下に落とした。
もうどうされても構わない。
その意志表示。
俺は疲れた。
秋葉を殺して。
たとえ血が繋がっていないとはいえ、大事な妹を殺してまで生きたいわけではない。
殺すならひと思いに殺してくれ。
ころころ。
また笑う声。
おぬし、おもしろいな。
向かいの女は俺の行動を面白がっている。
まあ、ナイフを降ろしたのは賢明である。
またおかしそうに笑う。
普通、これだけ笑われると頭にくると思うが、
ここまで圧倒的な力を前にすると不思議と怒る気になれない。
俺はただ一人笑う女を見つめていた。
ひとしきり笑った後、女は語りはじめる。
おぬしは異端、と。
人間であるが人間でないと。
どちらかといったら魔のモノに近い側であろう。
……どうだろう。
七夜は遠野のように異端の血が入っているわけではない。
ただ七夜は極限まで魔を狩ることに全てをつぎ込んだ。
その過程で普通の人間が持ち得ない力を手にした。
それは過去に人間が捨て去った力。
平和の中に埋もれていった力。
忘れ去られた力。
その力を目覚めさせたのだから、確かにある意味人間ではないかもしれない。
かといって魔に近いと言われてもピンとこない。
これはかつての人間が持ち得た力。
誰もが持っていた力なのだ。
確かに平和な今の世に不必要な力。
持たざる者から見れば脅威の力に違いない。
自分とは違う力を持っているのだ。
ああ、確かに……
異なるモノと言われても不思議ではない。
確かにそうだ。
普通の人間から見れば、これを異端と言わず何というのだ。
ふふ、おもしろい。
眼前の女は妖しく微笑む。
アレがおぬしに会ったら果たしてなんとするかな。
彼女はひとりごちると、俺に向かって手を掲げる。
綺麗な腕。
ほっそりとした指先。
俺はその優雅な仕草に心奪われつつ、聞こえてきた声に耳を傾ける。
眼前の朱きモノからの魂に響くその声に。
これが朱い月からの手向けの花だ。
瞬間、俺の視界はブラックアウトした。
声が遠くから聞こえてくる。
おぬしは会うだろう。
もう一人の我と。
おぬしは問いかけるだろう。
何故と。
おぬしは……
おぬしは今度こそ悔いなき道を選ぶだろう……
これは手向け。
全ては手向け。
我が朱い月がおぬしに贈る手向けの花なのだ。
我からの贈り物、とくと味わうがよい。
俺はそんな言葉を聞きつつ、意識を失った……
……喧噪
……ざわめき
……喧噪
……ざわめき
……喧噪
喧噪って……
喧噪って何だ?
そのざわめきを意識したとたん、喧噪が耳朶を打った。
俺は思わず両耳を押さえる。
さきほどまでの静けさとは雲泥の差。
あの無音の何もない世界とは全然違う……雑然とした雰囲気。
なんだ……
どこだ、一体……
俺は先ほどまでいた世界と雰囲気が全然違うことに気づいた。
ここは……
この場所は……
生命が溢れている……
なんだ……
一体どうしたんだ……
俺は自分の目で確認するためにゆっくりと目を開いた。
光。
まず最初に感じたのは光だった。
窓から差す明るい光が周囲を照らす。
俺は眩しげに目を細めつつ、自分の周りを見回した。
そこは……
俺は自分の目が信じられなかった。
頭がおかしくなったのかと思った。
夢を見ているのではと信じて疑わなかった。
何故なら……
何故ならそこは……
光り輝く教室。
ざわめく声。
楽しげな喧噪。
そこは……
一体、ここはどこだ……
視覚はここを認識している。
だが……
だが俺の頭は認めない。
たとえ視覚が認識しようとも。
ここは……
ざわめき声。
喧噪。
黒板。
机。
椅子。
窓ガラス。
ドア。
教壇。
時計……
何度見ても。
どこを見てもそこは……
教室だった。
もう戻れないと思っていた学校の教室だったのだ。
俺は……
よくわからない。
何がなんだかわからない。
何故、俺はここにいるんだ。
俺は夜の学校で秋葉を殺して……
それから月を見て……
そこから……
そこから……
そこからどうした?
俺は気づいた。
自分の記憶がないことに。
全く記憶がないのだ、月を見たあとの記憶が。
まるでそこからの記憶が鋭利な刃物でそぎ落とされたように。
月を見た。
それは確かに覚えている。
赤く赤く……大きくて赤い月を……
ズキン。
思いだそうとしていたら、一瞬脳髄に痛みが走った。
何だこの痛みは……
全てを覆い隠すような……
核心に触れさせまいとするかのようなこの痛みは……
痛みは記憶に白き覆いを被せてしまう。
思いだそうとする度に白き闇が記憶を隠す。
俺は……
俺は思い出すことが出来ない……
何かあったはずなのに。
何かが起こったはずなのに。
何も。
何も覚えていないのだ。
白き闇。
この闇が。
全てを隠してしまうのだ……
でも……
その中で……
一瞬思い出したことがある。
それは……
朱い月。
目の眩むような痛みの中で一瞬思い出したあの大きな大きな朱い月。
絶対忘れてはいけない……あの朱い月を忘れてはいけない。そんな気がする……
さらに連想。
そのイメージから湧き出すことは。
垣間見える記憶の果てに。
何が見えるか。
何が浮かぶか。
それは……
女……。
まず女が思い出される。
どんな顔か、どんな服装かは思い出せない。
ただ女がいたような気がする……
あとは……月。
空に浮かぶ大きな大きな月。
眼前に拡がる赤く赤く……
断片的な……言葉にすらならないイメージ。
頭に浮かぶ。
これは……一体何なんだろう……
相変わらずざわめきが耳朶を打つ。
俺はとりあえず頭に浮かんだイメージを脇に置いて、
目の前のことを現実的に考えることにした。
まず自分の服装を確認する。
黒い学生服。
いつもの。
いつもの学校の制服だ。
靴は……
見慣れた上履き。
これも俺の上履きだ。
俺が自分の服装を確認している間……
ざわめきはやまなかった。
相変わらず、喧噪は続く。
騒がしく。
かしましく。
俺は自分の服が学校にいる時の服であることを確認した。
いわゆる学生服だ。
そして。
そして次に思いついたのは自分の席があるかどうかだ。
窓際にある俺の席。
ここで俺は授業を受けたのだ。
ここで皆と一緒に昼をとったのだ。
俺は自分の席とおぼしき席に近づく。
確認するために。
その机には見慣れた鞄がかかっている。
ああ……
俺は早足になる。
そうして……
俺はそこが自分の机であることを確認した。
鞄も。
教科書も。
筆箱も。
いつも通りに入っていた。
いつも通りにあったのだ。
自分の席で色々確認していたらまたもや痛みが走った。
ズキン、と。
今度も鋭い痛み。
その……視界が白くなるぐらいの痛みの中で……
俺は金髪の女を思い浮かべていた。
赤く世界に滲み出る夕焼けの教室で。
白き金髪の女は俺に微笑む。
咲き誇るような笑顔を俺に向ける。
「好きだから、吸わない」
……ア、アルクェ……
一瞬脳裏をよぎった言葉。
その……彼女の名を……
俺は知っていたらしい……
でも……
何かが違う。
これはなんだ。
一体何なんだ、これは……
俺は霧散する記憶の欠片を捕まえる。
よけいなことなど考えずに。
ただ、それだけを考える。
俺は……
彼女を知らない。
それだけは理解できた。
確信できる。
だが……
彼女と親しい。
それもまた確信できる。
いや……
正確に言うと『彼女とは親しかった』
何時会ったか?
会ったことなどない。
何時話したか?
会話したことなどない。
では、何故知っている?
何故、親しかったなどと言えるのだ?
……わからない、それはわからない。
俺の記憶の限りでは。
彼女と出会った事なんてない。
ズキン。
その時、またもや脳髄に痛みが走った。
真っ白な視界の中で垣間見る光景。
俺は……
その光景で俺は……
彼女を惨殺していた。
真っ赤。
まさしく血の海。
白き女。
モデルと見まがう金髪の美女。
そんな女を。
俺は切り裂いたのだ。
鮮やかに。
痛みも感じさせず。
ただ一瞬に。
俺は彼女をバラバラにしたのだ。
その瞬間。
彼女をバラバラにしたことが浮かんだ瞬間、耳がキーンと鳴る。
視界が白から黒、黒から白へと変わっていく。
後頭部がスッと冷めていく。
血が滞り。
血が逃げていく。
心臓が耳の後ろにあるようだ。
鼓動がやけに大きく聞こえてくる。
体全体が振動しているかのように。
胴体が一つの心臓にでもなったかのように。
まずい。
倒れる時の前兆だ。
俺は……
自分の机に掴まりつつ、倒れるのを拒否した。
大丈夫。
大丈夫だ、遠野志貴。
今を乗り越えれば……
楽になる。
俺は暗示をかける。
気を失わないように。
必死に自分の体に言い聞かせる。
大丈夫。
大丈夫だ。
俺は大丈夫……
……ようやく。
峠を越して
俺の心臓は激しくうち鳴らすことをやめて。
俺の耳は少しずつクラスの会話を聞き取らせてくれる。
俺はゆっくりと深呼吸する。
二度。
三度。
体の隅々まで新鮮な空気を行き渡らせて。
俺はようやく。
ようやく、一人のクラスメイトが俺の名前を呼んでいるらしいということに気づいた。
「……くん」
「……野くん」
「……遠野くん」
俺は二度三度と名前を呼ばれて自分が呼ばれていると確信してから振り向いた。
俺の名前を呼ぶそいつは……
俺の名前を呼ぶその娘は……
クラスで一番の人気者で。
誰からも慕われていて。
常に笑顔で。
いつも誰かしら周りにいる。
はにかむような笑顔がよく似合う。
頭を動かすたびにかわいく動くツインテールが最高に似合う。
時々物憂げな顔を見せる。
目が合うと何故か寂しそうな顔をして笑みを浮かべる。
彼女は……
彼女は。
遠野志貴が深夜の街を歩いているという噂を確かめようとして。
吸血鬼に血を吸われてしまい。
人間ではなくなってしまい。
永遠にあちら側の世界にいってしまい。
闇の住人になってしまい。
それでも俺のことを好きでいてくれて。
苦痛にさいなやまされながら俺を愛してくれて。
ずっと昔から俺を好きでいてくれて。
最後は俺の腕の中で消えていって。
俺の腕の中でいなくなって。
俺がトドメを刺した……女の子。
俺は忘れない。
何があっても忘れない。
あの夕焼けの中の笑顔を。
一緒に帰った時の笑顔を。
「どんな事だって当たり前みたいに助けてくれるって信じてるんだから」
彼女はそう言った。
「ピンチの時は助けてくれるよね」
彼女はそうも言った。
俺は彼女を助けられなかった。
吸血鬼と化した彼女を助けられなかった。
寂しかっただろうに。
痛かっただろうに。
辛かっただろうに。
もう会えないと思っていたのに。
もう二度と見られないと思っていたのに。
その髪も。
その瞳も。
その笑顔も。
何もかも全てが……
そのはずだったのに。
そのはずだったのに。
彼女は目の前にいる。
俺の目の前にいる。
俺の顔を心配そうに覗き込んでいる。
「大丈夫? 遠野くん……。顔色、真っ青だよ……」
彼女は彼女だった。
昔と変わらない表情で。
俺の心配をしてくれる。
俺が……覚えていたとおりの彼女だったのだ……
……俺は……
彼女の顔を見つめる。
じっと見つめる。
血色のいいその頬を。
生気がありくりくりと動くその瞳を。
艶やかに流れるその髪を。
ああ、彼女の仕草一つ一つが。
なんと生命に満ち溢れていることだろうか。
あの記憶にあるような……死に満ちていた彼女ではないのだ。
俺は彼女の顔を見つめたまま。
机の端に左手をかけて、空いてる右手でそっと彼女の頬を撫でた。
「と、と、遠野くんっ!!」
彼女は真っ赤になった。
もう、何とも言えないぐらいに真っ赤な顔で。
唐突な俺の行為に照れてしまっている。
「……弓塚……」
俺は彼女の頬を撫でた右手でそのままツインテールを手櫛で梳く。
しっとりしたその髪を指の間に通して、感触を楽しむ。
「………………!!」
弓塚は硬直していた。
俺の行為に照れてしまったのか、そのまま固まっている。
俺は机に寄っかかっていた体勢から立ち上がりつつ、
彼女の髪を梳いた手をそのまま彼女の背中を通して彼女の右肩を抱き、
思い切り引き寄せた。
「……………………キャッ!!!」
彼女はさらに赤く。
これ以上赤くならないというぐらいに赤くなり。
俺の胸にすっぽり納まった。
「……ただいま、弓塚」
俺は弓塚の耳元でそうささやいた。
俺は弓塚を感じながら確信した。
俺は還ってきたのだ、未来から。
どういう原理で還ってきたのかわからない。
何故還ってこれたのかもわからない。
だが、還ってきたのだ。
皆がいる世界に。
弓塚がいる世界に。
たぶん、秋葉も生きている世界に……
俺は……
未来から還ってきたのだ!