使い魔レンちゃん、向かうは敵なし!

7月前半




7月02日(月)

穏やかな晴れ間が広がる梅雨の空。
風はまだまだ湿り気を帯びていますが、徐々に徐々に夏へ続く大気に変わりつつあります。
もうすぐ夏が来ます。
志貴さまとわたしたちはいったいどうなるしょう。
どなたが志貴さまの心を射止めるのでしょう。
それは誰にもわからない未来のこと。
未来は不確定の現在に左右される決して決められた一本道ではないのです。

アルクェイドさまは志貴さまを自分の元に連れて行きたいようです。
シエルさんは自分と一緒に……出来れば教会の埋葬機関に加入して欲しいらしいです。
秋葉さんは当然、自分の元に残って欲しいと。
翡翠さんや琥珀さんも秋葉さんと同じく。
弓塚さんは志貴さまがいてくれればそれでいいようです。もちろん出来れば自分と一緒にでしょうけど。

わたしは……わたしはどうでしょう。
志貴さまに気づいてすらもらっていません。
スタートラインにすら立ってないのです。
それでも志貴さまの側にいたいです。
夢が叶うならば……



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7月03日 (火) 前半

今日も梅雨の合間の貴重な晴れの日。
わたしは空を見上げて背伸びしました。
ふぅー、いい気持ち。
明日からまた雨模様とのことなので今のうちにこの貴重な晴れ間を体全体で受け止めないといけません。
わたしはゆっくりゆっくりと陽光を堪能いたしました。

さて、しばらく陽光を浴びて楽しんだわたしは、
個人的な用事を済ますために志貴さまのお側から離れることにしました。
もちろんこのことをアルクェイドさまは知りません。
アルクェイドさまにも秘密の内緒の行動なのです。

それでは早速。
わたしはこっそりと行動を始めました。
もちろん黒猫の格好で、です。
何故黒猫の姿を選んだかと申しますと、
もし少女の姿の時に琥珀さんに見つかりでもしたら大変だ、と思ったからです。
今度こそ言い逃れできない事態になるのが火を見るより明らかです。
だから、わたしは黒猫の姿で街を歩きます。
この姿なら仮に琥珀さんに見つかっても何とかなるかなと思ったからです。
人間の姿で逃げると周りの目も引くかも知れませんが猫が逃げただけなら周りの目も引きません。
もし琥珀さんが何か騒ぎ立てたとしても(騒ぎ立てるような人だとは思いませんが)、
かえって琥珀さんが奇異の目で見られるだけです。
琥珀さんもその辺りのことは考えるだろうから、
騒ぎ立てるのを自重すると思ってこの姿を選んだのでした。

ここまでして行う用事というのは、実はシエルさんに一昨日のお礼を言おうと思ったのです。
琥珀さんに問い詰められているところを助けていただきましたので、
改めてシエルさんにお礼を言おうと思いまして、彼女のアパートまで向かうのでした。

わたしはゆっくりトテトテと街中を歩きます。
まだ梅雨明けはしておりませんので、湿気はあります。
けど、日増しに湿気は弱まり、代わって強くなるのは夏の匂い。
もうすぐ本格的な夏がやってくるのは隠せません。
吹き抜ける風が一風ごとに夏を運んできます。

もうすぐ訪れる夏休み。
志貴さまは誰とどのように過ごされるのでしょう……

わたしはそんなことを考えつつ、シエルさんの所まで歩きました。
ああ、ようやく見えてきました、シエルさんのアパートが。
時刻は夕刻。
生徒会絡みで捕まっていなければ、もう帰ってきていてもおかしくない時間です。

わたしはシエルさんのアパートに到着すると、
辺りを見回して人目がないのを確認してから人間の姿になりました。
猫よりもこちらの姿の方が話しやすいからです。

ドアの前まで行き、いざインターホンを鳴らそうと腕を伸ばしかけたとき。
わたしは目の前のドアの所から結界が張られているのに気づきました。
ああ、危ない危ない。
これぐらいの結界なら大丈夫だとは思うのですが、痛いモノは痛いです。
好んで火傷したくありませんので、伸ばしかけた腕を引き戻しました。

さて。
ではどうしましょうか。

ここで隠している魔の気配を解放すれば、おそらくシエルさんは気づいて様子を見てくれるでしょう。
誰が好きこのんで埋葬機関の第七位にいる方の近くで魔の気配を解放するでしょうか。
普通だったらまずそのようなことはいたしません。
何故ならシエルさんは若輩ながらも埋葬機関の第七位につくお方。
その実力は外見とは裏腹にはかりしれないものがあります。
その辺りを鑑みるに、気配は隠すのが普通であって、公にするモノは余程自分に実力があるか命知らずなモノだけです。
その上、この街には「真祖の姫」であるアルクェイドさまもいらっしゃいます。
この状況で堂々とする魔はまずいません。

まあ、あまり派手に解放してしまうと、アルクェイドさまも気づかれると思いますので、
局地的にすこしだけ解放することにします。
すこしだけならアルクェイドさまも気づかないでしょう。
もしアルクェイドさまに気づかれてしまうと後々説明を求められることになります。
それは琥珀さんに正体がばれてシエルさんに助けてもらったことまで
説明することになってしまいますので出来るだけ避けたいことなのです。

今までの考えはシエルさんがいた場合です。
では、もしもシエルさんがいないとしたらどうするか。
いなかったら、また後日改めて訪れればいいのです。

わたしは考えをまとめますと、少しずつ抑えていた気配を解放しました。
これでシエルさんが気づいてくれればいいのですが……

気配を解放し始めたところ、突然、シエルさんの部屋から物音がしました。
ゴトゴト、激しい音が。

「マスター、ドアの外に誰かいるようですよー。
 マスターのお客さんじゃないですか。
 ほら、マスターって敵が多そうだから……」

ガコッ。
大きな音とともに聞こえてきた声がやみました。
何かうめき声が聞こえてくるのですが、これはわたしの気のせいでしょうか。

「い、いったーい。
 痛いです、マスター。
 あー、頭にたんこぶが出来ちゃったじゃないですか。
 いったいどうしてくれるんですか。
 すぐそうやって人に当たるから恋人の一人もできないんですよ。
 お母さんに女の子はおしとやかにしろって言われませんでしたか。
 いつもいつも人にモノを投げたりするのはよくないですよ。
 わたしは的でもなんでもないのですからね。
 だいたいマスターはですね……」

ドカッ。
これまたすごい音が聞こえてきました。

「うわ!
 なにするんですか、マスター。
 そんなモノ、こちらに投げないでくださいよ。
 そんな重い物をしかも片手で。
 まったくもう、当たったらどうする気なんですか。
 今日という今日は言わせていただきますけどね。
 マスターは男の子じゃないんですからね。
 もっとおしとやかに女の子らしくしてくださいよ。
 そんなもの軽々と投げるような女の子はいませんよ。
 わたしが人間だった頃はですね、それはそれはもうおとなしくて……
 はっ……
 もしかして……
 マスターって男……」

ドンガラドンシャン!
シエルさんではないもう一人の方の声は最後まで聞こえませんでした。
何故なら今まで聞いた中で最大の音がシエルさんの部屋から聞こえてきまして、
その音とともに辺りは完全に沈黙につつまれました。

しばらく。
しばらく静寂が辺りをつつみます。
わたしはいまいち今の状況を把握できないまま、シエルさんの部屋の前で待ち続けました。

ガチャ。
ゆっくりとドアが開き、今日わたしがお会いしたかった方であるシエルさんが顔を出しました。
なんとなく疲れているようですが、これはわたしの気のせいでしょう。

「……やはり、貴方でしたか。
 気配で何となく見当がつきましたが……」

わたしはペコリと頭を下げました。

「いったいどういう風の吹き回しでしょうか。
 貴方が私の家まで来るというのは。
 もしかして、あの馬鹿猫に命じられたのですか」
シエルさんはそう言うと、辺りの気配を探るような顔をしました。

「…………アルクェイドはどうやらいないようですね。
 ではいったいどんな用件で貴方は私の家に来たのですか。
 出来れば手短にお願いしたいのですが」
相変わらずシエルさんは淡々と話します。
職業柄、魔を滅する者としてわたしみたいな魔と話すのも汚らわしいと思っているのでしょう。
感情が読みとれないそのポーカーフェイスでわたしを見下ろします。

わたしはきょろきょろ辺りを見回しました。
こんな所をアルクェイドさまや志貴さまに見つかったら、かなりまずいことになります。
自分の主の敵対者の所を訪れているのです。
「裏切り者」といわれてもおかしくないのです。

わたしが落ち着かなさそうに周りを見ているのに哀れに思ったか、
シエルさんは一つため息をつくとパチンと指を鳴らし結界をときました。
そして「今回は特別です、上がりなさい」と言って部屋に入れてくれたのです。

いよいよ、シエルさんの部屋に上がります。
初めて上がるシエルさんの部屋はどうなっているのでしょう。
興味半分、恐怖半分の気持ちで一杯です。
わたしはドキドキしながらシエルさんに続きました。

何も危険はないはずです。
シエルさん自らが招いてくださったのですから。
大丈夫。
大丈夫……のはずです。

時刻は夕方。
夕餉の準備で忙しくなる時間帯。

たぶん、わたしは初めてシエルさんの部屋に足を踏み入れる魔のモノになるはずです。
生きて帰れることを願って、恐る恐るついていきます。

志貴さま、シエルさんなら大丈夫ですよね。
だまし討ちなどしないですよね。
志貴さま……

わたしは脳裏に志貴さまを思い浮かべて自分を勇気づけながら
シエルさんについていきました。



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7月03日 (火) 中間

シエルさんが住んでいるところはアルクェイドさまみたいに大きなマンションではなく、
小さな二階建てのアパートでした。
そこの二階のとある一室。
シエルさんはその部屋に住んでいらっしゃるようです。

わたしはシエルさんに続いて、部屋にお邪魔します。
「お邪魔します」と小さく声を出し、靴を脱いで上がります。
シエルさんの部屋に入った最初の感想は、なんと狭い部屋なのだろう、です。
この人はこんなに狭い部屋に住んでいるのか、と思ってしまいました。
もちろん、外観から想像はしていました。
しかし、こうして己の眼で見たとき、その日本的な部屋の狭さに改めて驚きを覚えたのです。
日本の部屋が狭い、ということを知ってはいましたが、所詮は知識のみ。
志貴様や秋葉さんの部屋はもっともっと広いですし、アルクェイド様の部屋も広かったです。
なのに、シエルさんは……。
埋葬機関は生死に関わる危険なことをさせているのに、
こんなに狭いところに住むぐらいしかの手当を出していないのでしょうか。
全くもって非人道的と噂される埋葬機関の一端を垣間見た気がします。

「うん? どうかしましたか」
前を歩くシエルさんはこちらを振り向き怪訝そうな顔をしました。
どうやら私が驚いて歩みを止めていたのを気配で覚ったようです。
危ない危ない。
ここはアルクェイドさまに敵対する方の住処。
アルクェイドさまに対抗できる力を持つ、それは私を滅ぼせるぐらいの力を持っている、と同じ意味です。
そんな方の住処で疑われるようなことをしてはいけません。
疑わしきを滅する、なんて言われたらそれこそわたしなんてあっと言う間に殺されてしまいます。
ここはおとなしくする、の一手です。

わたしは「いえ、なんでもありません」と首を振り、下を向きます。
シエルさんはしばらくわたしを見ていたようですが、そのまま振り返ると前へ進んでいきました。

廊下は短く、すぐにリビング兼寝室に到着です。
いわゆるワンルームという形態なのでしょうか。
そのままシエルさんは日本的な狭い部屋に入っていきました。
わたしも続いて入ります。

入った部屋は六畳ぐらいの部屋でした。
小綺麗に片づけられていて、清潔感あふれる部屋です。
窓のそばには大きなベッドがあり、花柄のベッドカバーで覆われています。
ベッドの横にはサイドテーブルがあり、その上にライトスタンドがちょこんと置いてありました。
ライトスタンドのところにも小さな窓があり、カーテンが引かれています。
枕の柄はチェックでシエルさんらしく青を基調とした配色になっていて、それも爽やかな清潔感を感じさせました。

ここでシエルさんは学生として暮らしているのでしょうか。
わたしはぼんやりと部屋を眺めます。
気がつくと部屋の片隅にはちゃぶ台ぐらいの小さな机と重そうな本がひっくり返っていました。
……違和感。
これほどきれいな部屋なのに、そこだけ大変汚いなんて。
まるで地震でも起きたか、はたまたそこに投げつけたかのよう―――

………………ああ。
わたしは先刻の音を思い出しました。
なるほど、これが先ほどの大きな音の原因なのでしょう。
よく見ると他にも何か工具みたいな物が散乱しています。
どうやら、この壁に向かってシエルさんは物を投げつけたようです。
でも……
わたしはそこで疑問に感じました。

あの時、確かシエルさん以外の人の声が聞こえてきたのですが……
でも、今この部屋にはシエルさんとわたし以外の方はおりません。
あれ?

わたしがそんなことを考えつつ、その物が散乱している壁の方を見つめていますと、
シエルさんが無言でひっくり返った机を部屋の中央に戻しました。
そして片隅にあった座布団を2枚引き寄せ、わたしの分と自分の分を敷いて「どうぞ」と勧めてくれます。
わたしがぺこりと頭を下げて謝意を示すと、彼女は台所の方へ行きなにやらお湯を沸かし始めました。
どうやらお茶を煎れているようで、やかんに水を入れ火にかけはじめます。

わたしは座布団の上にちょこんと座って何となくその光景を見守っていますと、
急に部屋の片隅から話しかける小さな声が聞こえてきました。

「もしもし、もしもし」

はて、なんでしょう?
この部屋にはわたしとシエルさんしかいませんでした。
そしてシエルさんは台所にいます。
というと、この声は一体……
わたしは声のした方向を振り向きました。

そうするとそこには一人の女の子がにこにこと人なつっこい笑顔を浮かべて座っていました。
金髪碧眼。
肩の上で切りそろえられたショートカット。
青を基調とした服。
窓から差し込む夕日に照らされてきらきら輝く―――かわいい女の子。

あれ、いつの間に、と思ったのもつかの間……
うん?
違和感。
彼女はナニカが違う。

わたしはもう一度彼女を見ます。
今度はよーく。
金髪で可愛らしく切りそろえられたショートカット。
蒼い透き通った目。
青というか群青のような服。
お尻の辺りに見える金髪のかみ……いや、尻尾?

んん?
わたしはさらによく見ます。
髪の毛ではない一房の金髪がお尻の辺りから見えて。
床についている手はひづめで……って蹄?
へっ、彼女は一体何者……?

「もしもし、どうしました、わたしのことをじっと見つめて?」
わたしがあんまりにもじっと見つめていたので疑問に思ったのか、彼女は不思議そうに話しかけてきました。
人なつっこ笑顔、そのままで。

「何か、わたしの顔に付いています?」
そう言うと、彼女は蹄の両手を頬にあてます。

「……いえ、何もついておりませんが」

「良かった、何か顔につけたまま、お客様の元へ顔を出してしまったのかと思っちゃいましたよ」
そう言うと、彼女は蹄の手を胸にあてほっと一息つくと、しっぽをパタパタ振ります。
まるで犬みたい。
そんな失礼なことを思いつつ、彼女を見つめます。

「で、失礼ですけど貴方はどなたですか?
 普段、誰も訪ねてこない寂しい寂しいうちのマスターに何か用事でもあるのでしょうか。
 ああ、もしかしてマスターが何か粗相でもしてしまいましたか。
 カレーでも服にこぼしてしまった、とか……」

自分の主人に対してなんて酷い言い様。
でも、そこに悪意は感じられません。
たぶん、純粋に思ったコトを口にしているのでしょう。
クス。おもしろい方。

わたしは一瞬微笑みを浮かべると、姿勢を正しました。
さあ、ここからです。
まずは彼女。
彼女が何者かわかりませんが、シエルさんに縁ある者というのはわかります。
何と言っても同じ部屋に住んでいらっしゃるのですから。
たぶん―――シエルさんが使役する守護精霊でしょうか。
魔の雰囲気はありませんので、何かの精霊だとは思うのですが、今の時点では判断が付きません。
彼女はキョトンとした顔で首を傾げています。
ふぅ。
わたしは深呼吸を一回して心を落ち着けると、彼女に説明するために口を開きました。

「わたしは……」
さて、何と名乗ればいいでしょう。
実際のところ、シエルさんにはわたしの素性はバレているわけですし。
ここで嘘をついても仕方ないでしょう。
うん、正直に言いましょう。

「わたしは……」
彼女は何を期待しているのかわくわくした目でわたしを見つめます。

「わたしはアルクェイドさまの使い魔でレンと申します」

我が主人の名は劇的な効果がありました。
その名前を告げた途端、それまでしっぽを振っていた彼女はズザリと後ずさってしまったのです。
まるで生命の危機に晒されているように。
そして壁の方に身を寄せ、ぶるぶる震えて「ごめんなさい、ごめんなさい」とぶつぶつ呟いています。

あれ。
ある意味予想以上の反応でびっくりしました。
びっくりするとは思っていましたが、ここまで驚かれるとは予想以上です。
とりあえずフォローをしないといけません。

わたしはぶるぶる震えている彼女に近寄ると、肩をポンと叩きます。
そしてにっこりと微笑みかけました。
「大丈夫です。ここにきたのはわたしの独断であり、アルクェイドさまとは何ら関係がありません」

「……え、え、え。
 そ、それなら一体どういう理由でいらっしゃったのでしょうか?」
彼女は蹄の隙間からわたしをのぞき見るようにしながら、逆に質問をしてきます。
当然の問いかけです。

「それはシエルさんが戻ってきてからお話いたします」
わたしはそういってにっこりと微笑みました。
彼女と反目したくはありません。
仲良く出来ればそれに越したことはないのです。
いつか戦うかもしれません。ですけど、それでも仲良くしたい気持ちは嘘ではないのです。

そんなことを思いつつ、下を向いてしまった彼女を見つめます。
彼女は精霊のはずなのですが、とてもそうは見えません。
まるで人間のようです。

と、ちょうどそんなことを考えていたときにシエルさんが戻ってまいりました。
お盆に二人分のお茶とお茶うけ。どうやらわたしとシエルさんの分のようです。

「はい、お待たせしました」
そう言って、わたしの目の前にお茶を差し出すシエルさん。

「あ、ありがとうございます」
わたしはぺこりと頭を下げます。
無礼な態度は我が主の恥です。
たとえ敵対関係であろうとも。

「セブンはこれでいいですね」
シエルさんはそう言って彼女に人参を渡しています。

「あ、ありがとうございますー」
彼女は尻尾を振りながら嬉しそうに人参を受け取っています。

はー、どうやら彼女の名前はセブンさんと言うのですね。
ふんふん、覚えておきましょう。

「そうだ、セブン」
シエルさんはセブンさんに話しかけます。

「んむ、ふぁ、はい、何でしょう、マスター」
もらった人参を口にくわえながら返事をするセブンさん。

「貴方、さっきちゃんと自己紹介をしていなかったでしょう。
 貴方がそのような礼儀知らずだとマスターである私が恥をかくのです。
 そもそもですね、人の名前を聞く前にまず自分の名前を言うのが礼儀でしょう。
 わかります、セブン。
 貴方がまず最初にやらなければいけなかったことを。
 ―――わかったなら即実行」

シエルさんがセブンさんを叱っています。
なにかわたしのせいで怒られているようで申し訳ありません。
わたしは口も挟めず二人を見守ります。

「……あ、あのー、改めて初めまして。
 わたしはセブンと言います。第七聖典の守護精霊が現界したものです」

―――第七聖典!
確か第七聖典とは、輪廻転生を否定する教会が作った転生を批判するあらゆる弾劾を記した教典で、
一角獣の角をその身に使用していると聞いたことがあります。
そして守護精霊とセブンさんは仰っていたので、大方その一角獣との間で守護精霊にされたのでしょう。
守護精霊は精霊と人とを人為的に加工して始めて出来るモノですから。
なるほど、だからセブンさんは馬のような蹄を持っていたのですね。

わたしは彼女の自己紹介にぺこりと頭を下げると、シエルさんの方を向きました。
さてこれからが本番です。
別にシエルさんと敵対するわけではありませんが、妙に緊張してきました。

わたしは一回深呼吸して落ち着くと、シエルさんに話し始めました。
シエルさんがわたしのお礼を受け入れてくれることを願いながら……



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7月03日 (火) 後半

シエルさんとセブンさんの前に座るわたし。
とりあえずどこから切り出そうか迷いましたが、ちゃんと自己紹介をしていなかったことを思い出し、
改めて自己紹介をすることにしました。

「えと、改めて自己紹介をさせていただきます。
 初めまして、わたしはアルクェイド様の使い魔であるレンと申します。
 このたびは突然の訪問であるのにも関わらず、招き入れてくださってありがとうございます」
そう言ってシエルさんに軽く頭を下げました。

さらに言葉を続けます。
「わたしが今回シエルさんの元を訪れたのは、一昨日のお礼を申したかったからです。
 あの時、琥珀さんの追求から助けてくださってありがとうございます」
言い終わると先程よりも深くシエルさんに頭を下げました。

「……いえ、別にたいしたことをしたわけではありませんので、頭を上げてください。
 そもそも、ただ気が向いただけです。弱い者いじめを見かねただけなので気にしないでください」
シエルさんは淡々と答えます。
そんなシエルさんをセブンさんはほへーとした顔で眺めています。

「ですが、わたしが助けてもらったのは事実です。
 それに対して、ちゃんとお礼を言えていませんでした。
 あの時助けていただきありがとうございます」
そう言ってまたわたしは頭を下げます。

「……あの時は琥珀さんの態度がちょっと癇に障ったから、ああ言ったのです。
 結果的に貴方を助けたことになりますが、それが目的ではなかったので気にしなくていいです」

「いえ、それでも!
 お礼を言わせてください。
 ……それともお礼も受け入れていただけないのでしょうか」
わたしはちょっと悲しくなりました。
確かにシエルさんにはアルクェイド様の使い魔であるわたしを助ける道理はありません。
ですが、ここまで突き放された回答を言われるとは思いませんでした。
シエルさんとアルクェイド様は敵同士。
わからないことはないのですが、その答えはとても寂しいです。

何と言ったらこの方にわたしの気持ちが伝わるのでしょうか。
わたしがしばし考えていますと、横から助けの手が差し伸べられました。

「マスター。レンさんは助けてもらったコトに対してお礼を言っているだけじゃないですか。
 何を意固地になっているのか知りませんが、そんなに頑なにならなくてもいいと思いますよ。
 お礼すら受け入れられないっていうのはあんまりにも心が狭すぎですよー。
 そういう人を人非人と言うのです。冷たいです、冷酷です。
 カレーを食べ過ぎて頭がおかしくなっちゃいましたか?
 あ、わかった。さてはお礼としてカレーを持ってこなかったからへそを曲げたのでしょう?」

セブンさんが立て板に水を流すかのように華麗に最後まで言い切った瞬間、ボカンとすごくいい音がしました。
目の前でシエルさんがセブンさんに拳骨を落とした音です。
うわ、痛そう……
セブンさんは頭を押さえてあうあう言っています。
あ、涙目になってる…… 本当に痛そうです。

「……コホン」
シエルさんは咳払いをするとわたしを見つめます。

「今、セブンが言ったようなことはないですからね、誤解を招かないように予め言っておきますが」

いったんそこで言葉を止めて目を瞑ります。
そして目を開くと言葉を続けます。

「―――貴方は。
 貴方はあのアーバーなアルクェイドの下にいるのに関わらず、随分礼儀正しいですね。
 正直驚きました。あの自由気ままな姫の使い魔なのに関わらず貴方が礼儀をわきまえていることに。
 貴方のその礼儀正しさをあのアーパー吸血鬼に教えてあげたいですね」

そう言って、今日わたしに対して初めて笑顔を浮かべてくれました。
そしてまたまじめな顔に戻って続けます。

「貴方がお礼を言うのは構いませんが、本当にわたしが貴方を助けたのは気まぐれです。
 わたしは死徒の言う”冷酷な埋葬機関”とやらに所属していますから。たまたま助けただけなんです。
 だから貴方の主の敵であるわたしに対して、そこまで気を使わなくても構いません」

「ですが―――」
わたしが口を挟もうとしたら、手で制して続けます。

「正直に言いましょう。貴方はすでに遠野君と接触しているでしょう?
 以前、遠野君から貴方の匂いが漂っていたことがありますので。
 どういう形で接触したかはわかりかねますが、昼間なのに濃い匂いがしましたので、
 おおかた猫好きの遠野くんに見つかったというところでしょう」

ドキッ。
やはりバレています。
先月、シエルさんと志貴さまがデートされた時、
シエルさんが志貴さまの腕の匂いをかいでいたことがあります。
勘違いをしてくれることを祈ったのですが、やはり無理でしたか。

顔色が変わったわたしを見て、シエルさんは「やっぱり」と呟いてため息をつきました。

「あの時、貴方を助けたのは貴方に何かがあったら遠野くんが悲しむと思ったからです。
 すでに顔見知りになっている貴方が琥珀さんに弄ばれたら、遠野くんがどう行動するかわかりませんから。
 最悪―――秋葉さんが絶対許可するはずありませんが―――アルクェイドの所に家出される可能性がありましたし。
 だから、助けたのです。わたしにも利がありましたので、気にしないで結構です」

なるほど……
シエルさんにも考えがあったから、あの時わたしを助けたのですか。
納得しました。
結果的にわたしを助ける形になったということですが、助けてもらったのは事実です。
シエルさんの考えを聞いて、礼を言って損したとかいう気持ちは一切ありません。
ただ感謝するのみです。

わたしはようやく冷めたお茶をコクリと飲んで、シエルさんを見つめます。
セブンさんは人参を食べ終えて、お腹一杯になったのかぐてーとくつろいでいます。

「シエルさんの考えはわかりました。
 ですが、それでもお礼の気持ちを伝えたい気持ちは別です。
 助けていただきありがとうございます」
そう言ってまたもや頭を下げるわたし。

「貴方は見た目と違って頑固ですね。
 わかりました、そこまで仰るなら貴方のお礼を受け入れます。
 ―――しかし、アルクェイドもこんな礼儀正しい使い魔がいるのに関わらず、
 なんであんなに無礼でアーパーなのでしょう。理解に苦しみます」

シエルさんは苦笑してようやくわたしのお礼を受け入れてくれました。
よかった。
嬉しいです、正直申し上げまして。

「さて、これ以上ここにいるとアルクェイドに気づかれるかもしれません。
 もうそろそろ帰った方がいいのでは」
シエルさんがわたしに忠告してくれました。

「あっ……、確かにもうそろそろお暇しないとまずいです。
 今日は色々ありがとうございました」
わたしはそうシエルさんにお礼を言いますと、立ち上がってセブンさんにも声をかけます。

「先程はとりなしてくれてありがとうございます。
 ……頭、大丈夫ですか?」

「いえいえ、あまりお役に立てず、すいません。
 頭は……何とか大丈夫です。
 いつもいつも叩かれたりとか酷い目にあわされていますので、だいぶ慣れました」
セブンさんがそう答えると、シエルさんがほぅと呟き、こちらを見ます。

「慣れたというなら、今まで考えていたことを実行しましょう、セブン。
 理論的にこれで貴方がさらに強くなるはずですから。
 ええ、今すぐやりましょう」

「え、ええー。
 そ、そんな……ひどい、ひどすぎます。
 横暴だ、人権無視だ、痛いのいやー」
セブンさんはそう言って逃げようとしましたが、シエルさんに襟首をがちりと掴まれまてしまいました。

「それでは、今から作業がありますので―――」

「あ、すいません、今日はありがとうございました。
 では失礼いたします」
わたしはシエルさんの言葉を合図に、お暇します。

セブンさんを右手で引きずりながら、シエルさんは玄関まで見送ってくれました。

「お邪魔しました」
わたしは最後にそう挨拶しますと、シエルさんは一つうなずき、左手を挙げます。

「では、お気をつけて。今日のことは内密にしておきますので安心して下さい」
シエルさんが約束してくれました。

「お心遣い感謝いたします。それでは。
 あ、セブンさんもお気をつけて」
わたしが引きずられているセブンさんにも挨拶をすると、魂の叫びが聞こえてきます。

「お気をつけても何も、もう崖っぷちですよ!
 そんなにこやかに挨拶なんてせずに助けて下さーい!!」

困りました。
客であり使い魔であるわたしにそんな権限なんてありません。
どうすればいいでしょう。
わたしが困ってシエルさんを見上げますと、彼女は目を逸らします。

「ふぅ、今日の所は貴方に免じて許してあげます。
 ですが、セブン。そのうち必ずやりますからね」

「え、えー。
 やっぱりひどい、冷酷です、無情です。
 改造って本当に痛いんですよ。勘弁して下さーい」

わたしは失礼を承知でクスリと笑いますと、笑顔でお二人に別れを告げます。

「では、またどこかで。本日はありがとうございました」

「いえ、こちらこそわざわざご丁寧にどうも。
 気をつけてお帰りになって下さいね」

「あああ、レンさん、うちのマスターはまだ改造をあきらめていません。
 助けて下さい、ヘルプミーです!」

はぁ、本当に参ってしまいます。
これでは帰るに帰れません。
仕方がない。駄目元でとりなしてみますか。

「シエルさん……
 セブンさんが本気で嫌がっているようなんですけど。
 わたしが口を挟むのは筋ではありませんが、
 今回考えている改造はわたしに免じて許していただけないでしょうか」

シエルさんはじろりとこちらを睨みます。
シエルさんの後ろでセブンさんが応援してくれていますが、もうドキドキです。
背中に冷や汗をかいているのがわかります。

「…………わかりました。
 今回だけです。
 最後まで礼儀正しかった貴方に免じて、今回だけは改造しないことを約束いたします。
 はぁ、とてもいい案だったのですがねー」
シエルさんは本当に残念そうにそう言うと、わたしの面子を立ててくれました。
これでセブンさんが助かりました。よかったです。

「ありがとうございますー、レンさん!
 おかげで助かりました、感謝します」

「いえ、わたしではなく、シエルさんにお礼を言って下さい。
 では、今度こそ失礼いたします」

「はい、それでは、またお会いすることもあるでしょう」
「じゃーねー、レンさん」

お二人が挨拶を返して、わたしは軽く頭を下げます。
そうして、シエルさんの家を出ていきました。

ふぅ。
これで一昨日のお礼もできましたし、セブンさんと仲良くなりました。
結構、シエルさんも話せばわかるヒトでしたし、色々収穫があったような気がします。

よし、マスターに見つかる前に戻りますか。
わたしは辺りを見回して誰も見ていないのを確認すると、
猫の姿になっていつも通りの任務に戻りました。

これからまた志貴さまを見張る日々です。
クス。
志貴さまのことを考えたら自然に笑みがこぼれてしまいました。
さあ、それでは自分の仕事に戻りましょう。

わたしは駆け足で遠野の屋敷へ戻って、志貴さまの見張りを再開します。
志貴さま、お待ちになって下さいね。



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7月8日(日)

わたしは木の上で志貴さまを見つめています。
今日は何か不思議な気分。
何かが起こりそうな予感がします。

身じろぎしない志貴さま。
一度眠りにはいると滅多なことでは起きることがありません。
そんな志貴さまなのに、今日は何かあるのでしょうか。
志貴さまの目が開いています。

ふと眠りから覚めたかのように、目を見開く志貴さま。
そのまま眠るかと思いきや、起きあがって着替えています。
どうしたのでしょうか……



そのまま、志貴さまは着替えて外に出られます。
梅雨明け間近な雲一つない夜の空。
星々の間に優しく月が辺りを照らしています。
夏の匂い。
もう、夏はすぐそこまで来ています。

志貴さまは寝起きとは思えない足取りで、どこかへ向かっています。
しっかりとした歩調。
何かに操られているというわけではなさそうです。
自分の意志で、どこか決めた場所に歩いているようです。


病院を過ぎてそのまま歩く志貴さま。
そちらは町はずれです。
もしかして、話には聞いている例の場所へ行こうとしているのでしょうか。

志貴さまはそのまま昔から変わらない例の場所へ向かっています。
もうここまで来たらそこしか目的地はあり得ません。
いったい何の用でそこへ向かっているのでしょうか?



草原に着いた志貴さま。
見渡すかぎり草原が続く志貴さまにとって懐かしい場所。
人も獣も何者の気配も感じないこの草原で、志貴さまはぼんやりと立ちつくします。
ゆっくり辺りを見回したあと、志貴さまは空に浮かぶ月を眺め、
そしてそのまま、草原に身を横たえました。

静謐が辺りを支配します。
何者もの気配を感じさせないこの場所は生からほど遠く感じさせます。

ただ在るだけ。
何も自己主張することなく、ただ存在することで己を保っている、
そんな不思議な場所。

静寂を破るかのように風が草をなびかせました。
夏の匂いを感じさせる風が。
このまま、全てを夏へ連れ去っていきそうです。

また静寂。
時々気まぐれに吹く風以外、この場所の静謐を破るものはありません。



と、その時、一際高く、風が吹きました。
横になり空を見ていた志貴さまは一瞬、風の強さに目をつぶります。


そして―――
志貴さまが再び目を開いた時に。
その方が現れたのです。
たぶん、志貴さまが待っていたであろう方が忽然とそこに現れたのです。
彼女はつかつかと横になっている志貴さまの側に近づくと、志貴さまに声をかけます。

「君、そんな所で倒れていると危ないわよ」

「え――――――」
驚いたように声を上げる志貴さま。

「え、じゃないでしょう。
 こんな夜更けに草むらに寝てるなんてよほど暇なのね、君は」
大きな旅行鞄を左手に持った彼女は横になっている志貴さまを見下ろしています。
綺麗な赤い髪。
腰まである髪を風になびかせて、彼女は志貴さまを見つめます。

「気をつけなさい。危うく蹴り飛ばしそうになったのだから」
彼女は不機嫌そうに志貴さまを叱ります。

「蹴り飛ばされるって誰にですか」
志貴さまはわずかに上半身を起こすと、おかしそうな顔で彼女の方を向いて尋ねます。

「誰にって、ここには私と君の二人しかいないじゃない。
 私以外に誰がいるっていうの、君は」
彼女はあきれたように志貴さまの質問に答えます。

旅行鞄を地面におろして、体を起こしている志貴さまを見つめる彼女。
腕を組んで真面目な顔で志貴さまを見下ろします。

「はあ―――」
志貴さまは大きく息を吐き出して、彼女を笑顔で見つめ返します。

「―――まさか、本当に会えるとは思わなかった。
 いつかは会えるとは思っていたけど、今日会えるとは……
 お久しぶりです、先生。お元気ですか」

「奇遇ね、志貴。私もここで君に会えるとは思っていなかったわ。
 久しぶりね、元気そうで何よりだわ」
彼女−蒼崎青子は志貴さまに笑いかけました。



草むらに座る先生と志貴さま。
志貴さまが先生と呼んでいるなら私もそう呼びます。
先生と志貴さまは並んでいろいろなことを話されました。
今までのことを。日常のことを。とりとめのないことを……

「先生、今回はどうしてこの街に立ち寄られたのですか」
これまでのことを話し終えた志貴さまが、突然、先生に質問します。

「……たまたまよ。この街に寄ったのは」
先生は短く志貴さまの質問に答えます。

「志貴がいるのはわかっていたわ。でも今回は縁がないと思っていた。
 縁があればどこかで会えるだろうし、今回会えないのは縁がないからだろうと思っていたのよ」
先生は志貴さまに語りかけます。

「……今日ここに来たのは何となくなんです。
 もしかしたら先生に会えるかもしれないな、という予感はしていましたけど」
志貴さまはにこやかな顔で先生に話します。

「……そう。
 それでは今回は縁があったのね、お互いに」
先生は一瞬、笑顔になって志貴さまを見つめました。


「本当に元気そうで何よりだわ、志貴」

「ええ、おかげさまで……
 ボクが元気そうなのは先生のおかげですよ」

「私はきっかけに過ぎないわ。
 志貴が自分自身で真っ直ぐに育ったから
先生は志貴さまにそう答えると、空を見上げます。
雲一つない美しい空。
星々が黒海の中にきらめき、一際月が輝いています。
辺りの静謐を破るかのように、風が二人の間を吹き抜けていき、
先生の髪をなびかせます。

「……もうそろそろ時間ね」
先生は地面に下ろしていた旅行鞄を持ち上げると、旅立ちの準備をします。

「夜明け前にはこの街を去るわ。ここでお別れね、志貴」

「もう行くのですか、先生」

「ええ、時間はひとつどころに立ち止まることを許さないもの。
 少々長居が過ぎたわ」
先生は志貴さまを見つめて、別れの挨拶をします。

「じゃあ、志貴、元気でね。私はもう行くわ」
片手をあげて、志貴さまに別れを告げる先生。

「また、お会いできますか、先生」
志貴さまも立ち上がり、背を向けた先生に呼びかけます。

「……縁があれば、また会うこともあるでしょう。
 そのまま真っ直ぐに生きなさい、志貴」
先生が背を向けたままそう言うと同時に、一際大きく風が吹きました。

志貴さまは吹きすさぶ風に目をつぶり、先生にお別れの挨拶を返します。
「ありがとうございます、先生!」

風が吹き止み、辺りを静寂が支配した時、もうすでに草原から先生の姿は
消えていました。



志貴さまは先生の姿が消えたのを確認すると、
口元に微笑みを浮かべて、また草原に身を横たえます。









もうじき夜明け。
徐々に大気の質が変わっていくのがわかります。




しばらく志貴さまは横たわったままです。
目をつぶった志貴さまは何を考えているのでしょうか……





突然、志貴さまが声をかけます。
「いつまでそこにいるんだ、アルクェイド」

え? アルクェイドさまがいるのですか。
全然気配を感じなかったのですけど。

ガサガサと音がして、恥ずかしそうにアルクェイドさまが姿をあらわしました。
志貴さまは横になったまま、アルクェイドさまを見つめます。

「気づいていたの、志貴?」
アルクェイドさまが顔を赤らめつつ不思議そうに尋ねます。

「ああ、なんとなくな」
志貴さまが答えます。

今日は何となく勘が冴えているようだ、と苦笑する志貴さま。

「アルクェイド、マンションまで送るよ」
アルクェイドさまが志貴さまに近寄ると、志貴さまは立ち上がり、
アルクェイドさまの横に並びます。

「ん…… ありがとう、志貴」
志貴さまの言葉に礼を言うと、アルクェイドさまは素直に従います。


肩を並べてマンションまでの道のりを歩く二人。
その途中、アルクェイドさまは志貴さまに話しかけます。
「志貴、どこにも行かないよね……」

志貴さまは肩をすくめると、
「お前のことを送ったら家に帰って寝直すけど」
とはぐらかすように答えました。

「違う! 志貴、わかっているくせに。
 勝手にいなくなるなんてことはないよね、志貴」
再度、志貴さまに尋ねるアルクェイドさま。
その顔は不安で満ちています。

「さて……」
志貴さまはアルクェイドさまを見ずに空を見つめて、呟きます。

「ダメだよ、私を置いていっては!
 絶対絶対許さないからね、志貴!」
アルクェイドさまが志貴さまに念を押します。

「絶対ダメだよ、いきなり消えちゃ……
 今日の志貴は見ていて不安になるのよ。
 まるで存在が希薄なのよ。
 ブルーに会ったから?
 それとも何か理由があるの、志貴?」
アルクェイドさまが怒鳴るようにして志貴さまに尋ねます。

「……存在が希薄って、俺がそうしようと思って出来ることじゃないぞ、それ。
 それに先生に会ったから、存在が希薄になるなんてことはないぞ」
志貴さまは苦笑を浮かべてアルクェイドさまの質問に答えます。

「志貴……」
アルクェイドさまが呟くように志貴さまの名を呟くと、
志貴さまは足を止めました。

「アルクェイド、着いたぞ、お前のマンションに」
話しているうちに、いつのまにかアルクェイドさまのマンションに着きました。
志貴さまはアルクェイドさまに別れの挨拶をします。

「じゃあな、アルクェイド。夜中に散歩なんてしてないで少しは寝てろ」
笑いながら、アルクェイドさまに挨拶をする志貴さま。

「だって、私は人間と違って夜が行動する刻だし……」
志貴さまの冗談に真面目に答えるアルクェイドさま。

「ハハ、それもそうだな。んじゃ、おやすみ、アルクェイド……」
志貴さまがアルクェイドさまに再度挨拶をします。

「志貴! 約束して!!
 私を置いてどこかに行かないことを!」

志貴さまは柔らかな笑みを浮かべるだけで何も答えません。

「志貴!!」
アルクェイドさまが再度怒鳴ります。

志貴さまは透き通るような笑みを浮かべたままです。

「怒るよ、志貴!」
アルクェイドさまの雰囲気が変わりました。
目が金色になって、辺りの温度が心なしか下がっていくような……
芯から震えがくる、絶対空間。
アルクェイドさまの鬼気にこの辺りが包まれていきます。

志貴さまはここまできてようやく行動を起こします。
アルクェイドさまに近づくと、金色に目を光らせているご主人様の髪を
正面から梳くように撫でます。
「怒るな、アルクェイド……」

「……だって、志貴が……」
アルクェイドさまが元に戻って拗ねています。

「……まだ、大丈夫。もう少しは大丈夫だから……」
志貴さまはアルクェイドさまの耳元に顔を近づけると
その言葉をささやき、笑顔を浮かべます。

「志貴……」
アルクェイドさまが志貴さまの名を呼びます。

「……大丈夫だから。もう少しはな……」
再度アルクェイドさまにささやくと、くるりと背を向けてそのまま屋敷の方へ歩いていきます。

「じゃあな、アルクェイド。またな」
背を向けたまま手を挙げて、アルクェイドさまに挨拶して志貴さまは去っていきました。

「……志貴……」
アルクェイドさまは心配そうな顔をして去っていく志貴さまをいつまでも眺めていました。





坂を登って、遠野家の屋敷に戻る志貴さま。
玄関をそっと開けると、秋葉さんが心配そうな顔をして立っています。

「おかえりなさい、兄さん」
秋葉さんは短く、挨拶だけして、心配そうに志貴さまを眺めます。

「ただいま、秋葉。
 どうしたんだい、こんな朝早くから?」
志貴さまは笑顔を浮かべて秋葉さんに尋ねます。

「……翡翠に……兄さんがいないと聞きましたので……」
秋葉さんが両手を胸の前に組んでモジモジしながら志貴さまに答えています。

二人の会話を聞きつけたのでしょうか。
居間から翡翠さんも現れました。

「おかえりなさい、志貴さま……」
翡翠さんも心配そうな顔をして志貴さまを見つめます。

「ただいま、翡翠。
 悪いな、何も言わずに出かけちゃって……」
翡翠さんに笑いかける志貴さま。

「……いえ、それは構わないのですけども……」
翡翠さんは志貴さまの顔をじっと眺めます。

「ん? どうしたの、翡翠。 俺の顔に何かついてる?」
翡翠さんの視線を 「ゴミがついてる」 と理解した志貴さまが
自分の顔を撫でまわしてゴミをとろうとしています。

「……いえ、ゴミがついているわけではありません、志貴さま……
 ただ……」
何かを言いかけて黙る翡翠さん。

「ん? 何、翡翠?」

「ほら、兄さんが勝手にどこかへ出かけてしまうから、
 私も翡翠も心配するんじゃないですか!
 少しは慎んで下さい、兄さん」
秋葉さんが、志貴さまを怒りました。
顔を赤くして、兄を叱る秋葉さん。

「……ごめん。散歩していたんだ。
 心配かけたのなら謝る」
秋葉さんに怒られて、出かけていた理由を話して謝る志貴さま。

「翡翠にも謝ってください、兄さん。
 さっきまでずっと心配していたんですから」

「ごめん、翡翠。何も言わずに出かけて悪かった」
志貴さまは翡翠さんに素直に謝っています。

「兄さん、もう心配させないでくださいね」
声のトーンを下げて、言い聞かせるように志貴さまに言う秋葉さん。
隣で翡翠さんもコクコクと頷いています。

「ホントに悪かった、二人とも。
 ちょっと寝付けなかったもので散歩していたんだ。
 何も書き置きすら残さずに出かけてごめん……」
志貴さま、二人に頭を下げて謝ります。

「ホントに悪かった」 とにこやかな笑みを浮かべる志貴さま。
その顔を見て二人は不安になったようです。

志貴さまのその笑顔は透明な笑み。
何者にも囚われず何者にも支配されない、純粋な自分だけの笑み。
志貴さまの存在を一瞬希薄に感じたのは私だけでしょうか……


「兄さん、私を置いていかないですよね!」
その笑みを見て不安になったのか、志貴さまに問い叫ぶ秋葉さん。

志貴さまはそれに答えず、ただ笑みを浮かべるだけです。

秋葉さんと翡翠さんにくるりと背を向けると、自分の部屋に戻っていく志貴さま。

「志貴さま!」
後ろから翡翠さんの声が聞こえてきます。
悲痛な響きが廊下にこだまします。

「……大丈夫。まだ、大丈夫だよ」
志貴さまが呟いたのはお二人に聞こえたでしょうか……
自嘲気味に志貴さまが呟いたのを……

自分の部屋に戻り、ベッドに潜り込む志貴さま。

「志貴さま……」
追いかけてきた翡翠さんが、ドアをノックもせずに自分の主人の部屋に入ります。

「大丈夫だよ、翡翠……」
目をつぶりながら呟く志貴さま。

「……志貴さま……」

翡翠さんが見守る中、志貴さまはそのまま眠ります。
穏やかな、彫像のように身動きひとつせずに……

翡翠さんはいつまでも見守り続けます。
まるで自分の主人が目を離すと消えてしまうと思ってるように。
いつまでもいつまでも……






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