使い魔レンちゃん、向かうは敵なし!

7月1日




7月01日(日) その1

ふー、本当に今日は疲れました。
もう大変です。
あちらで邪魔してこちらで邪魔してと。
相手は複数、こちらは一人。
よく防ぎきったものだと思います。
ホント、使い魔も大変です。
ご主人様のために黒子として頑張らないといけないのですから。


今日は志貴さまとアルクェイドさまのデートでした。
その途中、色々と妨害がありまして、志貴さまとアルクェイドさまを守るのが大変だったのです。
出来るだけアルクェイドさまに気づかれず。
もちろん志貴さまにも気づかれず。
時には黒猫、時には女の子の格好で。
右に左に大活躍。
自分のことを褒めてあげたい気分でいっぱいです。




最初はそんなことをみじんも感じさせない普通の始まりだったのです。
それがどうしてあんなことに……









ピンポーン。
軽やかな音が部屋に響き渡ります。
今日は日曜日。
志貴さまとアルクェイドさまのデートの日です。

今回は志貴さまがアルクェイドさまを迎えにいらっしゃっています。
チャイムの音は志貴さまが到着した証です。

「おーい、アルクェイド。迎えに来たぞー」
志貴さまの声が外から聞こえてきました。

アルクェイドさま、志貴さまが到着されたようですが―――
「はーい、今、準備しているからもう少し外で待ってて、志貴ー」
アルクェイドさま、志貴さまを外で待たせて準備に大忙し。
久しぶりのデートなので、右に左にてんてこまいです

アルクェイドさまは部屋の中を駆け回っています。
今日はいつもと違い、まるで準備が整っておりません。
昨日の準備は何だったのでしょう……

志貴さまを待たせること、数分……いや十分近く待たせたでしょうか。
やっとアルクェイドさまが玄関に顔を出しました。

「おはよう、志貴。待たせちゃってごめんね」
今日のアルクェイドさまは薄く化粧をして志貴さまとご対面。
基本的にはナチュラルメイク。
ポイントポイントを押さえた化粧です。
服装は……いつもと変わらず。
シンプルな、それでいてお似合いの格好です。

「おはよう、アルクェイド。約束通り迎えに来たぞ」
志貴さまは自分を待たせたことなど少しも口にせず笑顔でアルクェイドさまを迎えます。

「うん、約束を守ってくれたね、志貴」
アルクェイドさま、満面の笑み。
志貴さまが約束を破らない、その一点にしごくご満悦の様子。

「じゃあ、行こうか」

「ええ、行きましょう、志貴」
アルクェイドさまはそう言うと、お約束とばかりに志貴さまの腕を取ります。
志貴さまは慣れたのか、アルクェイドさまにお任せです。
志貴さまがいやがらないのをいいことに、いつも以上に深く腕を組むアルクェイドさま。

「じゃあ、行きましょう」
そう言うと二人は仲良くマンションを出ていきました。

空は晴天。
雲一つない青空。
高く高くどこまでも高く澄み切った蒼。

陽は眩しく。
大地に黒型を描きつつ。
さんさんと照りつけます。

風は心地よく。
汗ばむ体を心地よく冷やし。
夏を一生懸命運んできます。

二人はデート。
腕を組み、仲良く歩かれます。

本当にいい天気。
いつまでもこの幸せが続くことを祈りながら……



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7月01日(日) その2

志貴さまとアルクェイドさまが二人仲良く歩いていきます。
二人とも幸せそうな笑みを浮かべて。

こうやってみると、志貴さまはアルクェイドさまといる時が一番幸せそうです。
秋葉さんや弓塚さんといる時も幸せそうなのですが、
アルクェイドさまと一緒にいる時には敵いません。
本当は志貴さま、アルクェイドさまを一番好もしく思っているのかなとも思えてしまいます。

そんなことを考えながら、前を歩く二人を眺めていると。
ふと不穏な気配を感じました。

なに、敵?

わたしは人目を引かない場所に飛び込むと、辺りを見回します。
なんでしょう、一体……
今、敵意というのでしょうか、こう負の感情を感じたのですが……

ちらっとアルクェイドさまの方を伺いますと、お気づきになっていないご様子。
相変わらず志貴さまと幸せそうに歩いています。

むむ、気のせいだったのでしょうか。
確かに敵意を感じたのですが……

わたしは辺りを入念に確認します。
本当に気のせいかどうか確認するために。

いた、いました。
気のせいではありませんでした。
この人たちなら理由もあります。
納得できます。
間違いないでしょう。
この方たちが敵意の発信源に違いありません。

しかし……
一体、何をやっておられるのでしょうか……




「秋葉様、目標視認しました」
琥珀さんが後ろに向かって合図を送っています。
どうやら角の電柱に隠れて覗き見しつつ、曲がったところにいる秋葉さんに報告しているようです。


「まったく、兄さんたら。
 かわいい妹をかまってくれずに泥棒猫と遊ぶなんて万死に値しますわ」
秋葉さんがプンプン怒っています。
その証拠に髪の毛がかなり赤くなってとても近寄れる状態ではありません。

「姉さん、志貴さまの邪魔をしたらまずいんじゃないでしょうか……」
ああ、翡翠さんまで一緒にいるとは。
遠野家3人組の唯一の良心がおろおろしながら、志貴さまと秋葉さんたちをせわしなく交互に見ています。

「翡翠ちゃん、翡翠ちゃん。
 志貴さんはちょっと八方美人過ぎです。ここらで少しお仕置きしておかないといけません。
 ね、翡翠ちゃん。
 せっかく翡翠ちゃんとデートをしたのに、そのあとすぐに他の女の子と遊ぶのは彼氏としてはどうかと思うでしょ?」
琥珀さん、もしかして本気ですか。
本気で怒っています?
笑いながら怒っているその姿に鬼気迫るものを感じます。
思わず冷や汗をかいてしまうぐらい。

「む、琥珀、今の発言は聞き捨てならないわね。
 翡翠と兄さんがデートしたってのはどういう事かしら?
 きっちり説明して欲しいわね、琥珀」
あっと、秋葉さんの矛先が微妙に変化しました。
琥珀さんの言葉を聞いて、翡翠さんと琥珀さんへ当たりはじめてます。

「あはー、そんなこと言っていませんよ。秋葉様の聞き間違いではー」
琥珀さん、いけしゃあしゃあと嘘をつきます。

「まあ、いいわ。そのことはあとで聞くとして……
 今は兄さんのお仕置きが最優先ね。
 いい加減にあの泥棒猫と手を切らせなきゃ……」
秋葉さんがそれはもう嬉しそうな笑顔で翡翠さんと琥珀さんを呼び寄せて
作戦を練りはじめました。

アルクェイドさま、アルクェイドさま、大ピンチです。
遠野家三人組がお二人のデートの邪魔をしようと裏で画策し始めました。
今回は何と言っても相手方に琥珀さんがおります。
策士琥珀さんが本気でかかってくると、太刀打ちできません。

どうすればいいのでしょうか、アルクェイドさま!



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7月01日(日) その3

前を歩くアルクェイドさまと志貴さま。
まだ秋葉さんたち遠野家三人組の手が迫っていることに気づいておりません。
完全に二人だけの世界に入っているようです。

ふー。
わたしは一つ息を吐き、決意いたします。
わたしがあの二人を守らないといけないのです。
気づかれないように。
陰に陰に。
秋葉さんたちという魔の手から守らないといけないのです。

久しぶりのデート。
アルクェイドさまも邪魔をされたくないでしょう。
といいますか、楽しみにしていたこのデートを邪魔したらどんなことになるのか想像がつきません。
我が主人は頭に血が上ると、見境がつかなくなります。
秋葉さんはともかくとして、翡翠さん琥珀さんは普通の人間です。
怒れるマスターが加減するとも考えにくいですし、選んで攻撃するとは思えません。
間違いなく血の雨が降ることでしょう。琥珀さん、翡翠さんの血を含んだ雨が。
それは絶対避けなければなりません。
そんなことをしたら志貴さまがお怒りになってしまいます。
志貴さまがアルクェイドさまを見限りでもしたら……ブルル、そんなこと恐ろしくて考えられません。
とにかく、アルクェイドさまに気づかれないように、遠野家三人組の妨害を阻止しないと。

わたしは必死に考えます。
この苦境をどう乗り切るかについて。




わたしが一生懸命考えていると、なにやら動きがありました。
どうやら琥珀さんたちが作戦会議を終えて動き始めたようです。

まずいです。かなりまずいです。
何と言ってもまだ何も対処法を考えついていないのです。
どうしましょう。

とりあえず行き当たりばったりで対応していくしかありません。
はぁー。
わたし一人で防ぎきれるでしょうか……
やるしかないのですが、自信なんてありません……



助けてください、志貴さま!



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7月01日(日) その4

頭を寄せて相談していた遠野家3人組。
しばらくしたら、翡翠さん一人だけが志貴さまたちの方に向かっていきます。
琥珀さんたちは塀の陰に隠れて見守るようです。

翡翠さんが歩いていきます。
どうやら緊張している様子。
何をお姉さんの琥珀さんに吹き込まれたか知りませんが、
口を結んで堅い調子で進んでいきます。
まずいです、志貴さまとアルクェイドさまのデートをどう邪魔する気なのでしょうか。

ゆっくりと、でも確実に近づいていく翡翠さん。
一歩一歩、着実に破滅への道を歩んでいます。

どうしましょう。
どうしたらいいのでしょう!

翡翠さんのターゲットであるお二人は相変わらず二人だけの世界に入っているようです。
翡翠さんが近づいていっても、まだ気づきません。

あーもう。
どうなっても知りません!

わたしは覚悟を決めると、猫の姿のまま翡翠さんの前に飛び出しました。
びくっとして歩みを止める翡翠さん。

「にゃーお」
わたしは翡翠さんの前に立ち止まり、鳴き声をあげます。
そして足下に近づくと、その場に座って、翡翠さんを見上げました。

じぃーとわたしを見る翡翠さん。
わたしも翡翠さんを見返します。
目と目があいます。
視線が交錯します。





しばらく。
しばらくそのままの時間が過ぎます。
やがて翡翠さんは好奇心に負けたかのようにしゃがむと、わたしに向かって手を差し出してきました。
おそるおそる。
噛みつかれないかびくびくしつつ。

翡翠さん、わたしを恐れなくてもいいです。
わたしは夢魔。
普通の猫とは違います。
別に噛みついたりはしませんから。
せいぜい、夢をいたずらするぐらいです。

わたしは第一段階の翡翠さんの興味を引くことに成功したことに安堵しつつ、
その差しだした手に首をこすりつけました。
いきなり顔を近づけたら、噛まれると勘違いされてしまうでしょう。
何も危害を与えられない箇所−首や胴体−を近づけて接触すれば相手は安心します。
それは信頼の証。
動物が無防備な体を相手に晒すのは相手を信用しているから。
誰が好きこのんで敵の前に体を晒すでしょうか。
あくまでも相手を信用しての行為です。
そしてそれがこの場合一番有効なのです。

翡翠さんはわたしが体をこすりつけたことで安心したようです。
その細い指でわたしを撫でてくれます。
あ、気持ちいい……
その女性特有の繊細なタッチはわたしをリラックスさせていきます。
何もかも忘れてしまうぐらいに……

って忘れたらダメじゃないですか。
自分が今、違う世界に入りかけたのを理性で押しとどめます。

ふー、危うくトリップするところでした。
あまりにも翡翠さんの指が気持ちよくて当初の目的を忘れるところでした。

わたしは体を撫でてくれてる翡翠さんの体をよじ登りました。
翡翠さんは慌ててわたしを支えてくれます。

翡翠さんの胸に抱かれているわたし。
翡翠さん、人見知りしない猫に困っています。

翡翠さんはおろおろしながら志貴さまたちを見ています。
こうしてわたしに構っているうちに志貴さまたちはどんどん先に進んでいってしまいます。
ひょっとすると見失ってしまうかもしれません。

翡翠さんはわたしと志貴さまたちを交互に見ています。
妙に懐いているわたしを放って志貴さまたちを追いかけるか悩んでいるようです。

わたしは翡翠さんの胸に抱かれたまま、じっと見つめます。
翡翠さんを。
その瞳を。

――目は口ほどに物を言う

人間の間ではそのような言葉があるそうです。
情をこめた目つきは、口で話す以上に強く相手の心を捉えることができる。
そんな意味の言葉です。

わたしは目で翡翠さんに訴えます。
マスターたちを邪魔しないでください、と。

せっかくのデートなのです。
待ちこがれたデート。
翡翠さんたちの気持ちもわかりますが、ここはアルクェイドさまをたててください。

わたしはそんな思いを込めて翡翠さんを見つめました。
目を逸らさずに。
しっかりと。





流れる時間。
見つめ合う人間と猫。
瞳と瞳。
それは鏡。
まるで合わせ鏡かのように。

翡翠さんはわたしを撫でつつしっかりと見つめます。
わたしも撫でられつつ、その瞳を見返します。



「ふー」
ため息をついたのは誰でしょう。
翡翠さんは目を瞑りため息をつくと、わたしを抱きつつ元の道を戻っていきました。

何とか通じたようです。
翡翠さんにわたしの思いが。
元々、乗り気ではなかった翡翠さんだからこそ通じたのでしょうけど、
確かに翡翠さんは来た道を引き返しています。
最初の攻撃は無事防ぎきれました。


引き返していく翡翠さん。
塀に隠れて戦果を見守っていたお二人は渋い顔をして翡翠さんとわたしを見つめています。


「姉さん、こんなことはもうやめましょう……」
翡翠さんは塀に隠れていた秋葉さんと琥珀さんにそう言いました。

「志貴さまにもいろいろありますだろうし、覗き見するのもいいことではないかと思います。
 志貴さまを尾行するのはやめませんか、秋葉さま」
向き直って、秋葉さんに進言する翡翠さん。

「だめよ、翡翠。兄さんを放っておくと取り返しのつかないことになります。
 実際、あの泥棒猫が兄さんを連れ回しているし。
 この辺りではっきり言い聞かせないといけないわ」
にやりと悪魔の微笑を浮かべる秋葉さん。翡翠さんの進言に耳を傾ける様子がありません。

「そうですよ、翡翠ちゃん。
 このままだとアルクェイドさんに志貴さんをとられちゃいますよ。
 それでもいいの?」
琥珀さんも翡翠さんの心配をあおるかのように続けます。

「わ、わたしは……
 志貴さまがお選びになったことならば、それを受け入れていくだけです。
 志貴さまがアルクェイドさまをお選びになりましても……
 それでも……です」
翡翠さんは下を向きつつ、お二人に反論されました。

「でもね、ひす……」
「もういいわ、翡翠。それならばわたしがやります」
琥珀さんが何かを言いかけた時、秋葉さんがかぶせるように言い放ちます。

「翡翠はここで見ていなさい。わたしが兄さんを再教育します。
 ふふ、お仕置きが必要だわ、兄さんには……」
秋葉さんが壊れ気味に志貴さまの方を見て舌なめずりしました。






わたしは翡翠さんに抱かれつつ、ため息をつきました。
はあー。
最初の攻撃は何とかなりました。
だけども次は秋葉さんが邪魔されるようです。
秋葉さんですか……
普段は冷静なのですが、こと志貴さまのことになりますと冷静さがどこかへいってしまいます。
それだけに何をするか全然見当がつきません。


それをわたし一人で防ぎきれるのでしょうか。



わたしは次なる対抗策を考えつつ、秋葉さんを見つめます。
どうやればこの方の気をそらせるか。
それのみを考えつつ……



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7月01日(日) その5

琥珀さんが秋葉さんにアドバイスしている間、
わたしは次の準備をするために翡翠さんの腕から飛び降りました。

「あっ」
翡翠さんは突然、わたしが飛び降りたので驚きの声を上げました。

「にゃあ」
わたしは先ほどまで抱いて貰っていた翡翠さんにお礼の言葉を言いますと、
足下に近づいて、一回体をこすりつけます。
そして、再度翡翠さんを見上げますと、わたしは軽やかに塀の上に登り姿を消しました。

翡翠さん、ありがとうございます。
あなたに抱かれていた時、幸せな気分になれました。
もっと抱かれていたかったのですが、わたしにはやることがあります。
またの機会に相手してくださいね。



わたしはそんなことを思いつつ、志貴さまたちの方へ急ぎます。
といっても、志貴さまたちの前に姿を現すわけではありません。
あくまでも、秋葉さんたちの最終目的である志貴さまの近くにいくだけです。
時には路上、時には塀の上を走りつつ、志貴さまたちを探します。

いた、いました。
志貴さまたちは商店街に入ってぶらぶら歩いていました。
周りを見ると、まだ秋葉さんたちは来ていないようです。

ふぅー。
とりあえず先回りすることは出来ました。
しかし、これからが問題です。

先ほど、秋葉さんたちの前に猫の姿をさらしました。
二度も繰り返すと、何かしら疑いがかけられてしまうことでしょう。
しかも猫の姿で秋葉さんを志貴さまたちから引き離せるとは思いません。
うーん。
そうすると人間の姿で邪魔するしかないですね。
あまり、この姿で秋葉さんたちの前には現れたくないのですが……
悩みどころです。

ふぅ。
二度目のため息。
仕方ありません。
マスターたちの平穏を守るために手段を選ぶ余裕はありません。
次は人間の女の子の格好で邪魔をするとしましょう。
三度目以降の邪魔に関しては今考えても無駄です。
その場その場で――臨機応変に対応することにします。
今は、目の前の事を一つ一つ片づけることに専念するのみ。

そんなことを考えていたら、秋葉さんが一人向かってきました。
琥珀さんが何をアドバイスしたかは知りませんが、わたしはやれることをやるのみ。
無事、志貴さまとアルクェイドさまのデートを守る事だけを考えればいいのです。

さて、無事に守りきることが出来るでしょうか。
精霊たちよ、願わくば我に加護を……



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7月01日(日) その6

わたしは物陰に隠れて人目がないことを確認すると、
人間の女の子の姿になりました。
さあ、ここからが勝負です。

秋葉さんはまだまだ遠くです。
志貴さまたちとの位置関係を確認したわたしは、近くにあるお店で
ソフトクリームを買いました。
一口、舐めます。
おいしい……

舌の上でふんわりと溶けるこの甘さ、ひんやりとした食感、
全てがお気に入りです。
甘い物好きなわたしは束の間の幸福を味わっています。


さて。
秋葉さんはもうそろそろ警戒距離に踏み込む頃でしょう。
わたしは秋葉さんの方を見てみました。

いましたいました。
秋葉さんはゆっくりと歩いてきます。
本来なら猪突猛進、周りを気にすることなく突進してきそうな感じもしますが、
さすがに人目がある外ではそんなことはないようです。
それとも琥珀さんの謎なアドバイスによってでしょうか。
わかりません。
わかりませんが、秋葉さんが口元に笑みを浮かべながらこちらに歩んでくるのが見えます。

ふぅ。
今日何度目のため息でしょう。
まったく……
そもそも、何故秋葉さんたちが志貴さまとアルクェイドさまのデートを知っているのでしょう。
隠し事が出来ない志貴さまが漏らしたに違いありません。
……いちど夢の中で文句でも言ってみましょうか。
わたしはそんな事を考えつつ、秋葉さんが近寄ってくるのを見つめます。

手にはソフトクリーム、髪にはリボン。
アルクェイドさまを守る使い魔として、役目を果たして参ります。

いざ!



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7月01日(日) その7

秋葉さんは相変わらず口元に笑みを浮かべています。
その笑みは悪魔の笑み。
志貴さまを捕まえたあとの折檻でも考えているのでしょうか。
なまじ綺麗な顔をしているだけに凄みを感じます。

一歩一歩。
歩む秋葉さま。
それに対して、志貴さまたちはあっちにふらりこっちにふらりであまり進めていません。
お互いの距離はどんどん狭まるばかりです。

わたしは物陰に潜んで様子をうかがっています。
まだ。
まだ。
あとちょっと。
もうすこし。


いまだ!


わたしは両手にソフトクリームを持ったまま、秋葉さまに正面からぶつかりました。
どーんと。
ええ、それはもう派手に。
手に持ったアイスクリームが秋葉さんの服にベトリとついてしまうように。

「きゃっ」

わたしは悲鳴を上げつつしりもちをつきます。
そして一瞬、倒れながらも確認しました。
秋葉さんの服にソフトクリームがべったりとついたのを。

わたしがぶつかったせいで秋葉さんも倒れてしまいました。
ぶつかった拍子に小さく悲鳴を上げて。
この方も女の子なんですね。
かわいい声を聞いてそんなことを思いました。
しかし、さすが遠野家の後継者として育てられたことはあります。
ほとんど聞こえない程度にしか声を上げませんでした。
いつ何時、何があっても取り乱さない。
その一点に於いて、秋葉さんはしっかりと教育の成果を見せてくれます。

わたしは慌てた振りをしつつ、秋葉さんに謝ります。
「す、すいません。大丈夫ですか」

秋葉さんはわたしの顔を見て、わたしの視線を追うかのように自分の体をみます。
そこにはわたしが持っていたソフトクリームがべたりとついています。
一つは小さな自己主張をするその胸に、もう一つは無駄な贅肉のなさそうなそのお腹に。

「ほ、本当に申し訳ございません」
わたしは謝ります。
一生懸命。
本当に申し訳ないことをしたという風に。

秋葉さんは呆然としています。
志貴さまを追っていたら女の子がぶつかった。
ぶつかるだけならともかく、その女の子は手にソフトクリームを持っていたので
思い切り自分の服が汚れてしまった。
何故。
何故そうなるの。
秋葉さんはそんなことを考えているのでしょうか。
服とわたしを交互に見て、言葉を失っています。

「すいません、大丈夫ですか。
 腰を打ってしまいましたか」
わたしは立ち上がらない秋葉さんに手を差し出します。
本当ならもっと呆然として欲しいのですが、悪意ないようにみせるには
誠意を込めて接するべきです。
誠意を込めてるように見せるには、手を出すべきでしょう。
わたしはそんなことを考えつつ、まだしゃがみこんでいる秋葉さんに
手を差し続けます。

「あ……
 大丈夫。
 大丈夫だけど……」
秋葉さんはわたしの手を払って自分の力のみで立ち上がると
わたしをじろっと睨みました。

「あなたねぇ、角を曲がる時、もう少し気をつけていただかないと。
 あなたのおかげでこちらの服は台無しじゃない。
 まったく。何を考えているのかしら」
怒っています。秋葉さんが冷たい目をして怒っています。
怖いです。
差しだした手を打ち払われて、秋葉さんの怒り具合が手に取るようにわかります。
はあー。
マスターを守るためとはいえ……
このような事はしたくありません。
わざとはいえ、大好きな食べ物を無駄にするとか人に迷惑をかけるということはやりたくないです。

何と言いましても、秋葉さんが本気で怒ったら、わたしに勝ち目がありません。
わたしはひたすら恐縮して頭を下げるのみです。

「すいません、本当にすいません。
 急いでいたもので。注意を怠ってしまいました。
 申し訳ございません」
わたしは泣きそうになりながら謝ります。
嘘泣きではありません。
本当に泣きそうになっています。
それぐらい、目の前にいる秋葉さんが怖いのです。

「……はあ」
必死になって謝るわたしを見て。
秋葉さんは一つため息をつきました。

「もう過ぎたことだから仕方ないけど……
 次回から気をつけなさいよ」
秋葉さんはそう言ってわたしを許してくれました。

「すいません、本当にすいません」
わたしは秋葉さんと視線を合わせることが出来ず、
下を向いてひたすら謝ります。

「いいわ。悪気がないのはわかったから。
 許してあげるわ。
 ふー。これじゃ街を歩けないわ。いったん屋敷に帰らないと……」
秋葉さんは服に付いたソフトクリームを見て、またため息をついています。
確かにこのような格好で街を歩くなんて恥ずかしくて出来ません。
わたしの読み通りに、秋葉さんはアルクェイドさまの邪魔をするのを断念しました。

「秋葉さま、大丈夫ですか」
遅まきながら琥珀さんと翡翠さんが駆け寄ってきました。

「あらあら、一刻も早く洗わないと」
ソフトクリームが付いた服を見て、琥珀さんが呟きます。

「わたしはいったん屋敷に帰ります。翡翠、後は任せるわ」
秋葉さんはそう言うと、志貴さまたちに背を向けて屋敷の方に歩いていきます。
本当に撤退するようです。
琥珀さんは一瞬、秋葉さんについていこうとしましたが、
ついていかずにその場に踏みとどまりました。

あれ。
わたしはそこで、何かがおかしいのを感じました。
いつもでしたら秋葉さんに影のように寄り添う琥珀さんが踏みとどまったことに。

「秋葉さま。このたびの志貴さまの件はわたしに任せていただけないでしょうか。
 翡翠ちゃんでは正直、荷が重いかと」
にこにこしながら秋葉さんにお願いする琥珀さん。

え、え。
わたしの計算ですと秋葉さんと琥珀さんが一緒に帰るはずでしたのに。
運が良ければ翡翠さんもお帰りになって、万々歳という結果のはずが。
最悪、翡翠さんが残っても先ほどの話や行動から察するに、
あまり志貴さまの邪魔をされないでしょう。
よしんば邪魔をしようとしても、翡翠さんなら何とか撃退する自信がありました。
しかし、この展開ですと。
この話の流れですと。


わたしは秋葉さんと琥珀さんと翡翠さんを見ながらおろおろしています。


秋葉さんは琥珀さんの提案をしばらく吟味します。
そして、
「いいわ、琥珀。後を任せるわ」
とあっさり了承しました。



あー、なんてことでしょう。
最大の敵である策士琥珀さんが残るだなんて。
まさか、秋葉さんが自分付きの侍女である琥珀さんを残すとは想定外です。
まだまだ、志貴さまとアルクェイドさまが安心してデートできる状況ではないようです。


ふぅ。
気が抜けない時間の連続ですが、頑張ってお二人を守って見せます。




わたしは自分の主人を見送る琥珀さんを見つめながら、改めて誓いました。



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7月01日(日) その8

わたしは琥珀さんの背中を見つめながら、この方のことを考えます。
琥珀さん。
遠野家侍女。
翡翠さんの姉。
秋葉さん付きの侍女であり、料理と薬学を担当。
いつも笑顔でいるが、それは仮面。
昔ほどではないが、相変わらず本当の気持ちを表に出さない。
策士として暗躍。
改めて考えると彼女は苦手なタイプです。わたしにとってもアルクェイドさまにとっても。

搦め手から攻めてくる――じわじわと周りを埋めて追い詰める彼女のようなタイプは
アルクェイドさまがもっとも苦手としています。
何故なら、アルクェイドさま本人が体力と強さに任せて一直線に突き進むタイプですので、
琥珀さんのような策士にかかるといいように操られてしまうのです。
今まではその力に任せて何とかしてきましたが、琥珀さんの知略は力だけで何とかなるとは思えません。
ここはよく考えて行動しないといけないところです。


ああ、まずいです。
対応を考えているうちに琥珀さんがどんどん志貴さまたちに近づいていきます。
とりあえず考えていても仕方ありません。
先ほどとは言っていることが違うかもしれませんが、このままですと志貴さまたちの邪魔をされてしまいます。
ここは琥珀さんの足止めをしつつ、臨機応変に対応していくしかないでしょう。



はぁ。
使い魔ってホント大変です。



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7月01日(日) その9

わたしは琥珀さんが志貴さまたちに近づいていくのを邪魔するために、
急いで人目のない路地に駆け込みました。
後ろで秋葉さんが何か叫んでいたようですが構っていられません。
わたしは黒猫の姿になると琥珀さんの前に立ちはだかるために近道をします。

塀を駆け抜け茂みをくぐり、何とか琥珀さんと志貴さまたちの間へと急ぎます。
二度、わたしが邪魔したことにより、かなり距離が離れたのが幸いでした。
何とか琥珀さんの前に回り込むことが出来ました。

ふぅ。
ここからが本番です。
どうやってこの方をあきらめさせらればいいのでしょう。

こうやって考えているうちにもどんどん琥珀さんはにこやかな笑顔を浮かべつつ
志貴さまとアルクェイドさまに近づいてきます。
志貴さまたちと接触だけは何があっても避けなければいけません。

ここが正念場です。



そうこうしているうちに志貴さまたちが路地を曲がりました。
それを見て琥珀さんがすこし急ぎ足で近づきます。
まずいです。

わたしはアルクェイドさまのデートを成功させる、ただその一点のみ考えて
琥珀さんの前に飛び出しました。
琥珀さんはいきなり飛び出してきたわたしに驚いたようです。
立ち止まってじっとわたしを見つめます。
じっと。
じーっと。
にこやかな顔で。
微笑みながら。
う……
圧力を感じます。
琥珀さんからの無言の圧力を。
わたしは飛び出したのはいいのですがまるでなにも考えていません。
どうしましょう。

わたしはとりあえず鳴いてみました。
先ほど翡翠さんはこれで足を止めてくれました。
琥珀さんはどうでしょう。

にゃーお。
あれ。
琥珀さんは笑顔のままです。
笑顔のまま、わたしに少しづつ近づいてきます。
ある程度予想していたというか、何と言いますか……
琥珀さんはわたしのことなど全然歯牙にもかけてくれません。
構うことなく突き進んできます。

わたしがしつこく鳴いていると、通り抜け間際にやっとこちらを振り向いてくれました。
そして一言。
「うーん、先ほどの黒猫ちゃんですね。
 お姉さんは今、忙しいので構ってられません。
 あとで翡翠ちゃんに遊んでもらってくださいねー」
一気にそう言うと、そのままわたしの横を通り抜けていきました。

うーん。
作戦失敗です。
このままですと志貴さまたちと接触してしまいます。
それだけは避けなければなりません。
今までの苦労も水の泡ですし。

どうしましょう。
どうすればいいのでしょう……



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7月01日(日) その10

わたしはぼんやりと志貴さまたちに近づいていく琥珀さんを見送ります。
困りました、この方を止める方法が思いつきません。
どうすれば、どうすればいいのでしょう。
この方をどうやって止めればいいのでしょう……

うーん、参りました。
本当に止める術を思いつきません。
こうやって考えている間にもどんどん彼女は志貴さまたちに近づいていきます。
むむむ……

わたしは琥珀さんが志貴さまたちに追いついていないのを確認すると、
急いで先回りします。
こうなれば出たとこ勝負。
今度は人間の格好で琥珀さんを退散させましょう。

わたしは人気がないのを確認して、黒猫から人間の姿になりました。
先ほど秋葉さんにぶつかった時と同じ、小さな女の子の格好です。

わたしは角に隠れてタイミングを計ります。
今度はアイスクリームを買う余裕もありません。
和服なのに琥珀さんは足の進みが速いのです。

わたしは目を瞑って、琥珀さんの気配を感じます。
足音とともに彼女が近づいてくるのがわかります。
もうすぐ。
もうすぐ。
あとすこし。
もうちょっと。
あと三歩。
二歩。
一歩……
いまだ!

わたしは最高と思うタイミングで角から飛び出しました。
先ほどの秋葉さんにぶつかった時よりもいい、それこそ絶妙のタイミングで飛び出せたと思います。
それなのに。
彼女は。
全てを知っていたかのように。
わたしを。
飛び出してきたわたしをさっと避けました。

あ、あれ?

わたしはぶつかるつもりで走っていたのにも関わらず、ぶつかる対象の琥珀さんに避けられて
かえって体勢を崩して転んでしまいました。


……痛いです。
顔面から転びました。
受け身もとれずに。
手もつけずに。
痛いです、すごく。


琥珀さんは角から飛び出してきたわたしが一人で転んだのを見ても表情を変えません。
顔には何も表情を出さず、ただ転んで起きあがるわたしを見ています。

わたしは立ち上がりつつ、表情を変えない琥珀さんを観察しました。
この方は何をお考えになっているのでしょうか。

「あ、すいません。ぶつかりそうになって……」
わたしはとりあえず話のきっかけを作るため、今の出来事に対してお詫びしてみました。
どう琥珀さんが対応するかで、次のわたしの対応が決まります。

琥珀さんはわたしを見ています。
わたしの言葉に何も返さず、ただただわたしの顔をじっと見ています。

あれっ?
ここまで反応がないのは予想外です。
一体どうしたのでしょうか……

わたしは再度繰り返しました。
とりあえず何度もお詫びしておきましょう。
誠意がある、と思わせるように。

「本当にすいません。大丈夫でしたか」
わたしはそういって、そっと琥珀さんを見上げます。

だけども、琥珀さんはわたしの顔を見つづけるだけです。

「すいません、すいません。もしかして転んだ拍子に蹴ってしまったでしょうか。
 本当にすいません。ごめんなさい……」
わたしはお詫びし続けます。
ここまで琥珀さんの反応がないのは想像しておりませんでしたが、ある意味良かったかもしれません。
これで志貴さまとアルクェイドさまがより遠くへ進めます。
反応がないのは不気味ですが、結果的に時間稼ぎになりましたので万々歳です。

わたしがそんなことを考えつつお詫びを繰り返していましたら、ようやく琥珀さんが反応してくれました。
「あなたは……」

「は、はい」

「あなたはアルクェイドさんの関係者さんですね?」
































………………はい?



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7月01日(日) その11

わたしは琥珀さんの発言を聞いて不覚にも硬直してしまいました。
何も反応できません。
何故。
何故。
何故なんでしょうか。
何故、わたしがアルクェイドさまの使い魔とわかってしまったのでしょうか。
あれほど一生懸命隠していたのに。
志貴さまとアルクェイドさまとは関係ないように振る舞っていたのに。
続けて同じ姿を使って現れなかったのに。
何故、琥珀さんはあっさりと見破ってしまったのでしょうか。
わたしの頭の中で疑問符が渦巻きます。
わたしは琥珀さんの質問によって、その場を動けなくなってしまいました。

あとでこの時のことを思い返した時、この時点ですでにいくつかのミスを犯していたということに
気づきました。
勘違いと思いこみからくる失言や何気ないわたしの行動そのものが琥珀さんの問いへの答えを
指し示していた、ということ。
あの時の対応として一番望ましかったのはよけいなことを言わずに
シエルさんみたいにポーカーフェイスで否定すれば良かったのです。
沈黙は肯定。
否定は否定。
予想外の問いかけに対し、わたしは完全に自分を見失ってしまいました。
完全に不覚でした。
沈黙したことによって、琥珀さんに自分が使い魔と宣言したようなものです。
なんてことでしょう。

琥珀さんはわたしの沈黙をよく理解したようです。
本当によく。
それはわたしが一番望まなかった方向。
そして一つ頷くと、先ほどからの無表情を一変させて、微笑みを浮かべました。
いつものあの笑顔を。

息を飲む恐怖。
微笑みがここまで怖いとは思いませんでした。
琥珀さんのその笑みは一体何を意味するのでしょうか。
怖いです。
とても怖いです。
人間が……わたしを……怖がらせるのです。
人間でないわたしを……怖がらせるのです。
ただの……笑顔……で。

わたしは琥珀さんの問いかけに何も答えません。
ただ琥珀さんの顔を見つめるだけです。
もうここまできたら仕方ありません。
わからないふりをしましょう。
それでごまかせるかはわかりません。
ただもうそれしか選択肢が残っていないのです。
わたしが選べる選択肢は。

わたしは琥珀さんの問いかけに遅ればせながら首を傾げました。
何も知らない風に。
初めて聞く言葉に対するように。
理解できない――知らない事を示すために。

「……アルクェイド? アルクェイドってどなたのことです?」
わたしは主の名を呼び捨てにしてまで知らないふりをしてみます。
琥珀さんの問いかけに対して。

そして続けます。
「といいますか貴方はどなたでしょう。ぶつかりそうになったことはお詫びいたしますが、
それとアルクェイドって方は特に関係ないと思うのですが」

さらに付け足します。
「しかも、使い魔ってなんですか、使い魔って。
 仰ることがよくわからないのですが……」

これで琥珀さんはどう出るでしょうか。
間違えました、と言われるならよし。
使い魔さんですよね、と言われたらさらに知らないふりをして様子見です。

琥珀さんが何を根拠にわたしをアルクェイド様の使い魔と言われているのかわかりませんが、
徹頭徹尾知らぬふりを通します。
相手の手札がわからない以上、こちらの手札をさらすことは出来ません。
琥珀さんの出方を窺いつつ、こちらは臨機応変に対応していきます。
ふー、これはかなり大変な戦いになりそうです。

なんといっても相手はあの策士琥珀さん。
わたしが対抗できる相手ではありません。

それでも……
私は頑張るだけです。
マスターのために、志貴さまのために……



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7月01日(日) その12

わたしが琥珀さんと向かい合っている間に、
少しずつアルクェイド様と志貴さまが離れていくのが分かります。
長年仕えたアルクェイドさまの気配です。間違えるはずがありません。

ふぅ。
ここが今日の正念場です。
ここで琥珀さんの邪魔をして、アルクェイドさまと志貴さまのデートを成功させないとなりません。

わたしは心の中で再度気合いを入れ直しました。
よしっ。

わたしは琥珀さんを見上げます。
次のターンは琥珀さんの番です。
わたしが否定したところでターンエンドしましたので、
それを受けて琥珀さんがなんと反応するのか。

琥珀さんは微笑み続けています。
まるで見え透いた嘘をついた子供をどうやって説破しようかと思う大人のように。
見え透いた嘘なんて私には通用しません、そう思っているかのように。

わたしは待ちます。
琥珀さんが口を開くのを。

ようやく、微笑み続けていた琥珀さんが口を開きました。

「何故、貴方がアルクェイドさんの使い魔さんと思ったか、ですか……」
そこで一呼吸おきます。

「それはですね……秘密です」
琥珀さんはにっこりしながら、わたしの質問をはぐらかしました。

「……はい?」
わたしは聞き間違えたのでしょうか。
琥珀さんがこんな茶目っ気たっぷりな回答をするとは思いもしませんでした。
たぶん、聞き間違えたに違いありません。

わたしが何がなんだかわからない、という顔をしていたので、
琥珀さんは繰り返してくれました。



……これは答えなのですか、琥珀さん。



「だからですね……
 貴方がアルクェイドさんの使い魔さんであるという根拠は……
 秘密です。教えてあげません」
琥珀さんはにこにこにこにこ、それはそれは楽しそうな顔をして、
またしてもわたしの質問をはぐらかしました。



予想外の展開です。
琥珀さんがこんな茶目っ気を披露されるとは思いませんでした。
いったい、わたしはどうすればいいのでしょうか。

誰か、助けて……



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7月01日(日) その13

琥珀さんは相変わらずにこにこにこにこ微笑み続けています。
わたしは今更ながらポーカーフェイスで動揺を悟られないようにしておりますが、
どうでしょう。
この方に果たして通じているかは疑問です。

琥珀さんはわたしが使い魔であるという根拠を示されなかったので、
とりあえずは言われていることを無視するしかありません。

「ぶつかったことはお詫びいたします。
 が、そのあと言われたことはよくわかりません……
 すいません、失礼させていただきます」
わたしはそう琥珀さんに言うと、そのまま一礼してから踵を返して
志貴さまたちが去った方向へ歩を進めます。

進めようとしました。



が、琥珀さんが呟いたその言葉が……
わたしを、その場に、釘付けに、とどまらせました……

何故、何故、琥珀さんが、その名を、知っているのでしょうか……

琥珀さんが微笑みを絶やさず呟いたその言葉……

その意味するところは……
意味することは……

琥珀さんはどこまで把握しているのでしょうか。
どこまで知っているのでしょうか……

わたしを……ここまで動揺させた、その言葉とは……




















「あはー、そんなに怒らないでくださいね、レンちゃん」






























































………………はい?
いま、なんて言いました?



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7月01日(日) その14

……レンちゃんって……
今、確かに「レンちゃん」って言いましたよね……
レン。
それは……
わたしの、わたしの名前……

何故。
何故、琥珀さんは……
その名を知っているのでしょう。

わたしは愕然として、思わずその場に立ち止まってしまいました。
後ろで琥珀さんが笑っている気配を感じながら。

何故、
彼女は……
琥珀さんは……
わたしの名前を、知っているのでしょうか……
どうして、知っているのでしょうか……

怖い。
今ほどこの人のことを怖く思ったことはありません。
先ほどの比ではありません。
とにかく、怖い。
どこまで知っているのか、どこまでわかっているのか。
彼女は底が深いです。
深く深く、底が見えず。
ただ……
暗き闇が見えるだけ。
わたしは……感じます。
その闇に飲み込まれそうな自分を。

この方は。
何を知って、何を知らないのか……
皆目見当がつきません。

全てが。
彼女の、手のひらの上で行われているかのように……
どこまでも彼女が把握しているような錯覚を覚えさせる……
それは、無駄な抵抗をするなという、彼女のメッセージなのか……

どこまで見通しているのだろう。
全て見通しているのだろうか。

とにかく怖い。
ただ怖い……

怖い。
恐怖を、覚える……
それは、見通される恐怖……

何も隠せない恐怖……
隠しきれない恐怖……

彼女には……
めったなことが言えません。
余計なことを言えません。

もししゃべったら……
漏らしてしまったら。

一気に……

飲み込まれてしまう……

そんな印象を琥珀さんから受けるのです。


怖い。
わたしは……
わたしは動けません。
琥珀さんの言葉を聞き、微動だに出来なくなりました。
そのままターンエンド。
琥珀さんが次に何を言うか。
それ次第です。

琥珀さんは微笑みを絶やしません。
あの笑顔で。
わたしを追いつめます。

わたしは、どうすればいいのでしょう。

琥珀さんは、微笑んでいるだけ。
それ以外、何もしておりません。

それなのに、わたしは、凍りついたかのように動けないのです。

琥珀さんは……
彼女は何を、わたしに、望むのでしょうか……


誰か。
誰でもいいです。
助けて。
助けてください。

…………志貴さま。



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その15


琥珀さんは微笑んでいます。
その笑みは勝ちが決定的な勝負で、敗色濃厚な相手に投げかける笑み。
いくら頑張っても。
いくら足掻いても。
逆転の望みはない。
そんな状況で。
微笑まれる。
そんな感じの笑み。

彼女は何も言わずに微笑み続けます。
いつまで。
微笑んでいるのか。
何も言わずに。
ただ微笑むだけ。

わたしは。
今のこの状況を打破しようと。
体中の力を集めて。
力を振り絞って。
琥珀さんの言われたことを否定しようと。
努力します。

「仰っていることがよくわかりません」
わたしはそれだけを。
なんとか。
体中の力を振り絞って。
琥珀さんに。
告げました。

琥珀さんは微笑み続けます。
依然として。
わたしがいくら否定しても。
変わらず。
微笑み続けています。

何故。
琥珀さんは。
わたしの名前を知っているのか。
その疑問は脇に置いて。
わたしは。
今出来る最善のこと。
全否定。
そう、否定するしか選択肢がないのです。

彼女は、
いまだに、
微笑み続けています。
そんなに、
わたしの嘘がおかしいのでしょうか。
なにか……決定的な矛盾でもあるのでしょうか。
わかりません。
わたしには矛盾があるようには思えません。
それなのに、彼女は微笑み続ける。
それは……
わたしが気づいていない致命的なことを、
知っている証?

「わたしが言っていること、それがわかりませんか」
微笑みを浮かべた琥珀さんが、一歩わたしに近づきます。

「そうですか、おわかりになりませんですか……」
そう言ってさらに一歩近づきます。

「レン、これは貴方の名前ではないのですか?」
琥珀さんは。
わたしの目を見つめて。
にこやかに。
問いかけます。

「レン。これは貴方の名前のはずなのですが」
わたしが否定するのがおかしいかのように続ける琥珀さん。

「……それがわたしの名前だと言うのですか」
わたしは、
怖くて怖くてたまらないけど、
彼女の視線を、
真っ正面から、
しっかりと受け止めて、
尋ね返します。

「そう、その名は貴方の名前のはず。違いますか?」
琥珀さんの表情は微笑みを浮かべています。
だけど口調は淡々としており、内心で何を考えているかわかりません。

「わたしが何故、貴方の名前を知っているのかは……
 ……内緒です。
 推測、とだけ申し上げておきましょうか」

そこで、ふっ、と笑う琥珀さん。

「でも、それだけですと……
 あまりにも貴方を悩ませそうですね。
 それもいいかな、と思ったのですが」

琥珀さんはいったん言葉を切り、あの笑顔でわたしを見つめ返します。

「どこで疑念を抱いたか。
 どこに疑問を感じたか。
 正直、全てを話すわけではありませんが。
 一つだけ……
 一つだけご指摘いたしましょう」

「近頃よく志貴さんの近くで見かける黒猫が。
 志貴さんとアルクェイドさんのデートを守ろうとして。
 あまつさえ女の子にもなれるらしく。
 黒い毛並みと黒い服。
 ……その大きなリボンは使い回しですか?」
わたしはハッとしてリボンに手をやってしまいました。
それがどんな意味を示すのかわかっていたのに。


琥珀さんは嬉しそうに笑っています。
言い逃れが出来ない状況にわたしを追い込み、にこにこしています。

な、なんてことでしょう……
わたしは……
ここにきて……
最悪のミスを犯してしまいました。
目の前が、
真っ暗に……
ああ、
闇を感じます。
底無しの闇を。
それは、
目の前に。
わたしの目の前に。
琥珀、という名で、
具現化しているかのよう……

わたしは絶望のあまり、気が狂いそうになりました。
彼女は、
琥珀さんは、
真綿でじわじわと、
首を絞めるかのように、
わたしを、
苦しめます。

ああ。
この方の怖さを。
今、身をもって味わいます。

たすけて。
たすけて。
たすけて。

誰でもいいです。
誰でもいいのです。
誰か。
たすけて……



お願い……



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その16

わたしと琥珀さんは向き合い続けます。
彼女は笑って。
わたしは怯えて。

アルクェイドさまと志貴さまの気配はかなり遠くに感じます。
わたしがここで足止めしている間に進んだようです。
良かった。
わたしの苦労が少しは報われたのです。
ここまで冷や汗をかかされて、たいして進んでいなかったら水の泡です。
本当に良かったです

でも、この苦境は一向に変わりません。

琥珀さんが突きつけた、推測。
それにわたしは、とても動揺してしまい……
この事態を招いてしまいました。

何故、リボンに手をやってしまったのでしょう。
自ら言っているようなものではありませんか、それでは。
馬鹿。
わたしの馬鹿……

わたしは自分の軽はずみな行動を後悔しました。
あの軽率な行動のせいで、琥珀さんに付け入る隙を与えてしまったのです。
なにをやっているのでしょう……

わたしは祈ります。
この苦境から脱せるように。
誰でもいいです。
わたしをこの苦境から助けてくれれば……

だれか、おねがい……



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その17

わたしが琥珀さんに追いつめられていた、その時……

琥珀さんの後ろに意外な人物が現れたのが見えました。
いいえ。
正確に言うと「意外」ではありません。
この方なら。
この方ならこの場にいらしてもおかしくありません。

魔を感じ取る力がある……
わたしの気配を感じ取ることが出来る方。
アルクェイドさまの宿敵であり、知り合いでもあるこの方なら可能です。

でも……
この方が私を助けてくれるとは思えません。
この方は。
わたしとアルクェイドさまとは対極に位置する方。
わたしたちを滅する側の方だから。

それなのに……
わたしは期待してしまいます。
この方が来たことにより事態が好転することを。

今の状況は大変厳しい状況です。
琥珀さんがわたしの正体を見破って問いただしているこの状況は。
この緊迫した状況でこの方は何をもたらしてくれるのでしょう。

わたしは……
どうなるかわからないこの状況で……
この方に期待します。

かえって状況が悪くなるかも知れません。
それでも……
それでも、期待してしまうのです。

この方がわたしをこの苦境から助けてくれるのを。



それはいけないことなのでしょうか……



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その18

琥珀さんの後ろにその方が現れたとき。

わたしはそれを「天恵」と受け止めました。


これは気まぐれな運命の神様がわたしを試しているのです。
その御手から垂らされた蜘蛛の糸をどう生かすかと。

わたしは一瞬考えたあと、賭に出ました。
我が主の敵である方に敢えて助けを求めたのです。

わたしはとてとてと琥珀さんの後ろにいる方に向かって走ります。
琥珀さんはいきなりわたしが自分に向かって走り出したので驚いています。
わたしは琥珀さんの横を通り過ぎて、後ろにいる方の背後に隠れました。
そしてそこからそっと琥珀さんをじっと見つめます。

その方はどうやらとまどっているようです。
アルクェイドさまの使い魔であるわたしと琥珀さんが向かい合っているかと思ったら、
いきなりわたしが駆け寄ってきて自分の背後に隠れてしまったのです。
自分の敵の使い魔が助けを求めるかのように背後に隠れたら誰だってとまどうでしょう。
しかも、自分の想い人の家の使用人から逃げるかのように隠れたのです。
これでとまどわない人がいるとは思えません。

わたしはこの方の服の裾をぎゅっと握り、その方を見上げます。
正確にはその方の瞳を。

先ほども言ったのですが「目は口ほどに物を言う」そうです。
わたしは口を開いて今の窮状を説明できません。
それは琥珀さんの言ったことを肯定することになるから。

だからわたしは目で訴えます。
助けてください、と。
今、ここでその方がわたしの正体を話したら、今までの工作全てが無駄になるのです。

琥珀さんに疑われ、窮地にいるわたし。
さらに彼女までが加わると完全にお手上げになってしまいます。
だから。
わたしは目で訴えます。
お願いです、何も言わないで、と。

彼女は自分の背後に隠れるわたしと琥珀さんを交互に見つめます。
一体、どういうことがあれば、こういう事態になるか考えているようです。

たゆたう時間。
琥珀さんと彼女とわたしが作り出す奇妙な時間。
それは数秒に満たない時間なのに永遠に感じてしまったのは何故でしょう……

わたしは祈り続けます。
このか細い蜘蛛の糸が切れないことを。
わたしをこの苦境から引き上げてくれることを。

お願いです。
何も言わずに……
わたしのことを助けて……ください……



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その19

わたしと琥珀さんが向き合う場に。
彼女はやってきました。
偶然なのか、意図的なのか……
それは誰にもわかりません。
本人である、彼女以外には誰にもわからないことなのです。

彼女が現れて……
先に口を開いたのは琥珀さんでした。
最初、ちょっと驚いたような表情を浮かべていましたが、にっこりと微笑みます。
そして挨拶をしてきました。

「こんにちは、シエルさん」

そうです。
わたしが隠れたのはこの街でアルクェイドさまとわたしにとって最も危険な人である、
埋葬機関の第七位にいるシエルさんなのです。

シエルさんは琥珀さんに挨拶しようとしたのでしょう。
右手を挙げたまではよかったのですが、このおかしな状況を訝しんでいます。

「え、えーと、こんにちは、琥珀さん」

ようやく、絞り出すかのように挨拶を返すシエルさん。
挨拶を返してやっと落ち着いたのか、シエルさんは琥珀さんに話しかけます。

「どうしたんですか、琥珀さん。
 珍しいですね、このあたりでお会いするとは」
シエルさんはわたしのことに一言も触れずに世間話を始めました。

「はい、そうですね。
 シエルさんとは外でお会いする時ってだいたい買い物している時だけですね、そういえば」
琥珀さんもにこにこ笑みを浮かべながら、わたしのことに触れずに相づちを打ちます。

「それで、今日はどうされたのですか。
 いつもお屋敷にいる琥珀さんが、この辺りまでいらっしゃるとは。
 琥珀さんが買うような物がこの辺りで売っているとは思えませんが」
シエルさんが切り込んでいきました。

琥珀さんはにこにこ笑みを浮かべているだけです。
シエルさんの質問にも答えず、ただ微笑むだけ。

「今日はですね、ちょっと用事がありまして……」
ちらっとわたしを見る琥珀さん。

「あ、そうだ。
 今日、アルクェイドさんが志貴さんとデートしているのですよ。
 先ほど、ちらりと見かけたのですが」

あ、今度はシエルさんを使って志貴さまとアルクェイドさまの
デートの邪魔をしようというのですか、琥珀さんは。
しかも、「ちらりと見かけた」なんて嘘をついて。
思いきり尾行していたじゃないですか。

「志貴さんたら、アルクェイドさんとのデートを楽しみにしておられたようですよ。
 今日も、待ちきれないかのように走って行かれましたし」

しかもシエルさんを焚きつけはじめました。
全く、琥珀さんはそこまでして志貴さまのデートの邪魔をしたいのでしょうか。 

「志貴くんはまだあの女と手を切っていないのですか。
 まったくしょうがないですね。
 ちょっと様子でも見てきましょうか」
シエルさんはそれを聞き怒りはじめました。
むーと口を不服そうに突き出し不機嫌そうに眉を寄せると、琥珀さんが指さした方向を
じろりと睨んでいます。

「ありがとうございます。
 早速、志貴くんを更生させてきたいと思いますので失礼します」
シエルさんは琥珀さんにそうお礼を言うと、そのまますたすたと歩いていきました。

……わたしの手をぎゅっと握って


なんということでしょう。
助かると思って近づいたシエルさんがまるで悪魔のように感じます。
あああ、これはまさしく前門の虎に後門の狼という状況です。

マスターのデートを邪魔させないためとはいえ、
わたしがここまでの危険に陥るとは思いもよりませんでした。

なんてことでしょう。
か弱きわたしがこの状況から逃げ出す術などあるとは思えません。
でも、何とかして逃げ出さないと……

わたしの命は風前の灯火です。
ああ、どうすれば。
どうすればいいのでしょう……



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その20

わたしは琥珀さんとシエルさんの間で板挟みになっております。
琥珀さんはわたしがアルクェイドさまの使い魔だということを見抜き、
シエルさんは我ら魔の眷属を滅ぼす者。
どちらもか弱きわたしにとっては脅威です。

このままシエルさんに掴まれつつ、この場を離脱した方がいいのでしょうか。
琥珀さんに見抜かれて詰問されていた状況からは脱することができますが、
シエルさんと一緒だと身の危険を感じます。
では、琥珀さんと一緒だとどうなるか。
こちらは身の危険を感じるわけではありませんが、わたしの正体を見抜かれているので、
策士琥珀さんのことです。
あとでいいように使われるに違いありません。

どちらがいいのでしょう。
わたしはよく考えます。
はぁー、ため息しか出ません。
どちらがいいか、なんて問題ではないです。
どちらも最悪なのです。
でも……唯一の光明は今までシエルさんはわたしを滅ぼそうとしたことがない、
ただその一点のみです。
アルクェイドさまの使い魔ということを知っているシエルさんが、
あえてわたしを連れていこうとしているのです。
信じるしかないです。
少なくとも琥珀さんよりはまだましだと思います。

ふぅ。
決断しないと……

最初からシエルさんに賭けていたのです。
今更引き下がってもいい目が出るとは思えません。
毒食らわば皿まで、と言いますが、今がまさしくその時なのでしょう。

わたしはシエルさんが引っ張ろうとしたのに対し抵抗せずに自分の意志で先に進みます。
逆にシエルさんを引っ張るかのように。

シエルさんが驚いているようです。
それはそうでしょう。
シエルさんがどういう考えでわたしの手を握ってこの場を去ろうとしたのかわかりませんが、
まさかわたしがそれに抗いもせずに従うなんて想像もしていなかったに違いありません。
しかも従う、というよりは率先して先に行こうとする、なんて予想外もいいところでしょう。

シエルさんはわたしが引っ張るのに抵抗せず、足並みを揃えてくれました。
端から見たら仲良しな姉妹に見えるかもしれませんが、その実、魔と埋葬機関第七位。
敵同士になんてとても見えない光景。

「あれ」
琥珀さんが首を傾げています。
まさか、アルクェイドさまの使い魔である自分が魔を滅する側のシエルさんを選ぶとは
思いもよらなかったのでしょう。

「シエルさん、その娘も一緒に連れていくのですか」
琥珀さんが尋ねます。

「……それが、なにか?」
冷たく返答するシエルさん。

「なに、と言われましても……」
琥珀さんはしばらく言葉を発せず、考え込んでいるようです。

「ふんふん、ま、いいでしょう。
 今日のところは見逃してあげましょうか」
琥珀さんはボソリと呟き、一瞬だけわたしを見ました。
わたしの身長は低いので、わたしを見たときの琥珀さんの顔は
シエルさんには見えていないはずです。
その時の顔といったら。
能面のような無表情で。
それは……琥珀さんの本心か。

わたしは思わず下を向いてしまいました。
怖かったのです、琥珀さんの顔が。
何も感じない、何も思わない、陶器で出来た人形のような顔。
ブルル。
わたしは震えます。
それほどまでに怖かったのです。

「シエルさん、ちょっとお待ちになっていただけますか」
琥珀さんがシエルさんを呼び止めます。

その声で上を見上げて琥珀さんを見ると、いつもの琥珀さんです。
何だったのでしょう、先ほどの琥珀さんの顔は……

シエルさんは琥珀さんの呼びかけを予想していたのか、
振り返りもせずに返事をしました。
「なんでしょう、琥珀さん。
 わたしは急いでアルクェイドを追いかけないとならないのです。
 遠野くんをあの女から守らないとなりません。
 それでは失礼します」
とそこまで一気に言いきり先を急ごうとしました。

わたしが振り返ると琥珀さんは微笑んでいました。
そして再度呼び止めました。
「まあまあ、もう少しお待ちになってください」

シエルさんはその場に立ち止まりました。
なんてことでしょう。
わたしは急いでこの場を抜け出したいのに、
シエルさんが琥珀さんの呼びかけに応じてしまったことに焦燥感を感じます。

「……『急いでいる』とわたしは言っているのですが。
 なんでしょう、琥珀さん」
シエルさんが問いかけます。

「あはー、大したことではありませんが、
 シエルさんも志貴さんとアルクェイドさんのデートの邪魔をするというのなら、
 共同戦線をはりませんか?








…………一難去ってまた一難。
一体どうしたらこの悪循環から抜け出せるのでしょうか。



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その21

わたしは天を仰ぎました。
その、琥珀さんからシエルさんに出された提案を聞いて。

なんてことでしょう。
琥珀さん一人でも大変なのに、さらにシエルさんまで加わりそうなのです。
これではアルクェイドさまと志貴さまのデートを最後まで守り切れそうもありません。
天の助けだと思って近づいた人が実は悪魔の手先だった、ということでしょうか。

琥珀さんはにこにこしています。
相変わらずの笑み。
裏で何を考えているかわからせない悪魔の笑み。
本心ではどんなことを考えているのでしょう。

シエルさんは琥珀さんの提案を吟味しているようです。
「『共同戦線』ですか……」

「そう、共同戦線です。一人だとアルクェイドさんにかなわないかもしれませんが、
 二人なら……
 わたしとシエルさんならなんとか出来そうじゃありませんか。
 是非、志貴さんとアルクェイドさんのデートを一緒に邪魔しませんか」

シエルさんは遠くを見るような目をして考えています。
わたしはドキドキします。
ここでシエルさんが琥珀さんと協力することになったら、
わたし一人では太刀打ちできなくなってしまいます。
お願いです。
琥珀さんの提案なんか断ってください。
わたしはシエルさんと手を繋ぎながら祈るようにシエルさんを見上げました。

シエルさんは考えます。
ゆっくりゆっくりと。
その間、わたしはずっとシエルさんを見つめます。
瞬間。
シエルさんがわたしの方を向き。
わたしは必死の思いを込めてシエルさんを見つめ返します。
    お願いだから、協力しないで

シエルさんは天を仰ぎ、青空を見つめます。
そして一つ息を吐くと、こう言いました。
「折角のご提案ですが、お断りします」

ああ、良かった……
わたしは密かに胸をなで下ろしました。
シエルさんが琥珀さんの協力しないで本当に良かったです。

琥珀さんは微笑みを崩さないで問い続けます。
「あら、何故でしょうか。
 別にシエルさんの実力を疑っているわけではありませんが、
 わたしと二人の方がより確実にアルクェイドさんの邪魔を出来るではないですか。
 ……私と組むのが不安なのですか」

「そういうわけではありませんが……
 私は一人で動く方が好きなので、琥珀さんとは組まないだけです。
 すいません、失礼します」
そういって、琥珀さんに背を向けてアルクェイドさまたちのいる方へ歩いていこうとしました。
……片手にはわたしの手を握ったまま。

「そうですか、それは残念ですね」
ちっとも残念ではなさそうな琥珀さんの声。

「では、その手をお繋ぎになっている方はどのような理由で
 一緒に連れていこうとしているのでしょうか」
あくまでも淡々とした琥珀さんの質問。
にこにこ微笑みを浮かべつつ、ズバリと核心に切り込んできました。

「……説明しないといけませんか」
先ほどよりも冷たく、そう例えるなら冷気のようなシエルさんの声。

「いえいえ、説明と言いますか……
 お一人で行動されるのが好きなら、何故その娘を連れていこうとしているのか、
 ちょっと疑問に思いまして」
シエルさんの冷気に負けずに、琥珀さんは相変わらずその笑みを崩しません。

見えない火花が辺りに散っています。
それは琥珀さんとシエルさんの間で交わされる言葉の剣のせい。
わたしを巡り繰りひろげられる言葉の数々。

わたしは言葉を挟めません。
挟んだら最後、二度と助からない……
そんな、絶望的なまでの思いが頭を占めるのです。

わたしは自分の運命をシエルさんに一任しました。
それは先ほど決めたこと。
今更じたばたしても始まりません。
賽は投げられて。
ルビコン河を渡るのみなのです。

わたしはこの間にも離れていくお二人を感じつつ、眼前の光景をしかと見つめました。
自分のさだめを見極めます。

果たしてわたしは……どうなるのでしょうか……



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その22

琥珀さんは相変わらず微笑みを浮かべながら、
シエルさんの矛盾を指摘しています。
果たして、シエルさんはどのように答えるのでしょうか。

シエルさんはそのまま立ち止まっています。
琥珀さんの質問に答えずに。

「どういたしました、シエルさん。
 差し支えなければ教えていただけませんか」
琥珀さんはシエルさんを追いつめます。
にこにこと。

「それとも言えませんか。
 その娘を連れていく合理的でわたしを納得させられる理由を」
さらに追いつめる琥珀さん。
その笑みは悪魔の笑み。
そのささやきは悪魔のささやき。
わたしまでならず、シエルさんまでも追いつめます。
 
シエルさんは答えません。
ただ、無言のままで佇んでいます。

わたしはシエルさんと手を繋いだまま、じっとしています。
シエルさんがどう行動するのか、それ次第ですので、
下手にわたしが動いてシエルさんの行動を邪魔するわけにはいきません。

わたしがじっとしていると、琥珀さんがだめ押しとばかりに突きつけてきました。
「教えていただけないのですか、シエルさん。
 ……それは答えられない理由があるからなのですね。
 例えばその娘がただの女の子ではな……」
琥珀さんは途中まで言いかけたときに、
今まで黙っていたシエルさんが遮るように口を開きました。

「わたしがこの娘を連れていく理由、ですか……
 それはわたしの仕事に関わることだから公には出来ません。
 いわゆる職務上の秘密というものです。
 その答えではいけないでしょうか」
シエルさんは淡々と答えました。

だけども……
その答えを聞いても、琥珀さんは微笑むのみ。

「わかりました。
 わたしのその答えでは納得できないのですね」

シエルさんは一つため息をついたあと、言葉を継ぎます。

「わたしがこの娘を連れていく理由。
 それはこの娘が……
 以前から知っている者だからです。
 なので連れていくのです。
 色々役に立ってもらいたいですので」

そう言って、手に力を込めてギュッと握ってきました。

わたしは思わず怯えました。
シエルさんの言葉は色々な意味にとることができます。
『以前』という言葉は「つい最近」とも「かなり前」ともとれなくはないです。
果たしてシエルさんが言った意味を琥珀さんはどうとらえるのでしょう。
そして、シエルさんが言った内容はわたしを助ける意志があるのかないのかよくわからない
答えになっています。
「役に立つので働いてもらう」
こういう意味にもとれますが、それは「わたしを助ける」とはイコールではありません。
だからわたしは震えてしまったのです。
わたしは自ら虎口に飛び込んでしまったのだろうかと。
わたしは恐怖で震えるからだを押さえようと両手で自分を抱きます。
そうしないともっとひどく体が震えそうで怖いのです。
だけども体の震えは止まりません。
これなら……
これなら琥珀さんに尋問されていた方がまだ良かったかもしれません。

「以前からご存じだったのですか……
 それは、いつ頃の『以前』なんでしょうか」
ああ、琥珀さんがシエルさんの言に突っ込みます。
やはり、そこがはっきりしないと答えにならないですから……

しかし、その琥珀さんの質問に対し、シエルさんは冷たくあしらいます。
「それは貴方には関係のないことです。
 これで貴方の気も済んだことでしょう。
 すいません、失礼いたします」

そう言い残し、わたしの手を握ってすたすた歩いていきます。
とりつくしまもなく。
振り切るというか、打ち捨てるように。

でも琥珀さんはそんなことでは引き下がりません。
「知り合いの割には、その娘、震えていますよ」

そうです。
わたしは先ほどから震えが止まらないのです。
体の芯から、がくがくぶるぶる震えているのです。
怖い。
琥珀さんも怖いけど、シエルさんも怖いのです。

シエルさんはわたしをじろりと見たあと、琥珀さんを一瞥しました。
そして、
「気のせいでしょう」
と言い残してアルクェイドさまたちの方向に歩いていきました。
……もちろん、わたしの手を握ったまま。

後ろを振り返ると、琥珀さんはにこにこ微笑んで
こちらを見送っています。
内心ではどう思っているかわかりませんが……

ぐぃっと引っ張られたので、わたしは視線を元に戻しました。
そもそもシエルさんに全てを賭けたのです。
ここまできたら腹をくくるしかないのです。

その時。
琥珀さんの呟きが風に乗り聞こえてきました。

「今日のところはこのまま引き下がりましょう。また今度ね、レンちゃん」

ハッとして、わたしが振り向くと、琥珀さんは後ろを向き帰路についておりました。
……今聞こえてきた言葉は、確かにわたしのことを言っていました。
やはり、ごまかせなかったのです。

わたしはシエルさんに引っ張られつつ、これからのことを考え憂鬱になっていきました。
とりあえず今回の窮地は抜け出すことが出来ました。
琥珀さんという窮地からは。
しかしシエルさんという窮地からは抜け出せておりません。
一体、わたしはどうなるのでしょう。

わたしは人知れずため息をつきました。
今日何度目かのため息を……



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その23

シエルさんはわたしの手を握りつつ、どんどん先に進んでいきました。
彼女は何を考えているのでしょう。
わたしを琥珀さんという窮地から助けてくれたのは感謝しますが、
このあとどうする気なのか。
黙して語らず。ただ先に進むのみ。

そうして。
しばらくそのまま、無言の歩みが続きました。
シエルさんとわたしの無言の歩みが。
二人、手を繋いだまま、一言も発せず歩きます。

と。
ようやく、シエルさんの足が止まりました。
シエルさんの歩幅はわたしと違って大きいです
それに加えて彼女は早足で歩くので、
小走り気味に歩いて遅れないようにするのが精一杯でした。
シエルさんが止まってくれたおかげでわたしは一息つけました。

ふぅ。
わたしは大きく息をすると、彼女を見上げます。
彼女が次にどうするか。
それでわたしの行く末が決まるのです。

「もういいでしょう」
彼女はそう言うと握っていたわたしの手を離してくれました。

え?
どういう意味ですか?

「ここまで来れば、琥珀さんも貴方をあきらめるでしょう。
 わたしが出来ることはここまでです。
 さあ、行きなさい。貴方の主人のところまで」
シエルさんはわたしに背を向けました。

「このままアルクェイドの所まで進むと、立場上ややこしくなります。
 今日のところは一個人として貴方のことを助けました。
 ……だからもう行きなさい」
彼女は背中を向けたまま、そう告げました。

「あ、あの……
 ありがとう……」

「礼はいいです。
 あくまでもわたしが助けたのは遠野くんが気に入っている黒猫であって、
 貴方ではありません。
 結果的に貴方が助かった、そのように考えてください。
 それでは失礼します」
彼女は最後にそう言うと、そのまま去っていきました。
風のようにわたしを助け、風のように去っていく。
わたしはお礼を言えないまま、ただただその後ろ姿を見つめるだけです。

ありがとうございます、シエルさん。
今日助けていただいたご恩は決して忘れません。
本当に……
本当にありがとうございます。

わたしはシエルさんの後ろ姿が見えなくなるまでそこに佇みました。
それは感謝。
琥珀さんという窮地からわたしを救ってくれたことに対する、
出来る限りの感謝なのです。

ありがとうございます、シエルさん……



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その24

わたしはしばらくそこに佇みました。
シエルさんの姿が見えなくなり、気配が消えるまで。

今日はシエルさんに感謝します。
一時はどうなることかと思いましたが、
シエルさんのおかげで窮地を抜け出せたのですから。

ふぅ。
わたしは安堵のため息を一つつきました。
これでわたしは元の任務に戻れます。
志貴さまを見張るという任務に。

わたしはアルクェイドさまの気配を探ります。
目をつぶって。
集中して。

いた。
かなり遠くに離れてしまいましたが、この気配はアルクェイドさまの気配に間違いありません。
長年仕えた主人の気配です。
万に一つも間違えることなどございません。

わたしはその気配に向かって走ろうとして……
ふと、自分が人間の格好をしているのに気づきました。
おっと、いけません。
琥珀さんの邪魔をするのに人間の姿になったのをうっかり忘れていました。
わたしは辺りを窺います。
誰もいません。
こちらを窺う気配もないようですし、うん、大丈夫ですね。
わたしは路地に駆け込むと、再度辺りを窺ってから黒猫の姿に戻りました。
よし、これで大丈夫。

わたしはアルクェイドさまの気配がした方向に向かって急ぎます。
そこに志貴さまもいるはずです。

塀の上を駆け抜け茂みをくぐり、あまり人目につかないようにしながら急ぎます。
そうして、わたしは元の任務に戻ることが出来ました。
長い長いやりとりの末に。

わたしは視界に入ったアルクェイドさまと志貴さまを見つつ、
体を伸ばしました。
うーん、気持ちいいです。
秋葉さん、翡翠さんとのやりとり。
琥珀さんの指摘。
シエルさんの予期せぬ行動。
正直、かなり疲れました。
体力的にというより精神的に。
追いつめられるとかなり疲弊します。
今まで追いつめられるということなどなかったので、
こんなにぐったりさせるものとは思いませんでした。
ふぅー、疲れた。


わたしはぼんやりお二人を眺めます。
わたしのご主人様であるアルクェイドさまと志貴さまを。
お二人はそれはそれは楽しそうにお話しされています。

こうして二人を見ていると、今日起きたことが夢のようです。
あの悪夢のような、神経を磨耗する出来事が。

お二人はそんなことがあったとはつゆ知らず楽しんでおられます。
ふぅ、これでいいのです……
自分の仕えるマスターのために、粉骨砕身働く。
それが使い魔としての一つの役割であり、わたしの役割なのです。
わたしはお二人を見守ります。
ずっとずっと……



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その25

わたしは街路樹の枝の上に飛び乗り、お二人を眺めました。
談笑するマスターたちは二人だけの世界を作っています。
邪魔する者の気配がないのを確認しつつ、聞こえてくる声に耳を傾けます。

「もう、夏はそこまできているね、志貴」
アルクェイドさまは降りそそぐ日差しに目を細めつつ、アイスティの氷をストローでつつきました。
カラン。
軽やかな音を立てて、氷はグラスの中を上に下にと漂います。

「そうだな、もうすぐ本格的な夏がくるな」
志貴さまもアルクェイドさまと同じように頭上を見上げ、まぶしそうに目を眇めます。

「志貴ー。
 夏になったら休みがいっぱいあるんだよね。
 楽しみだね、その、なんて言うんだっけ…… あ、そうそう『夏休み』が」

志貴さまはぼぅとマスターのことを見つめます。

「な、なに?
 私、間違えたこと言った?」
アルクェイドさまはご自分の発言が間違えたのかと思ったか、
顔を真っ赤に染め上げて志貴さまを見上げます。

「いや、間違っていない。合っているよ、アルクェイド。
 ただ、びっくりしただけだよ」

「良かったー。私。使い方間違えたかと思ったわ。
 ほら、志貴が前に言っていたからさ、覚えていたんだ」

「……俺、そんなこと、お前に教えたっけ?」

「いえ、教えてくれたわけではないわ。
 ただ二人で話しているときに志貴が言っていたのを覚えていただけよ」

「そっか。すごいな、お前は」
志貴さまはアルクェイドさまに感心したのか、マスターを誉めます。
アルクェイドさまは志貴さまに誉められて真っ赤になってしまいました。

真っ赤になって俯いてしまったアルクェイドさま。
それを優しく見守る志貴さま。
二人を邪魔する者は誰もいません。
ただゆっくりと時が流れます。

「し、志貴ってさあ、夏休みは特に予定ないんだよね」
アルクェイドさまが急に話題を変えてきました。

「うーん、たしか特に予定は入れてないと思ったけど」

「じゃあ、いっぱいいっぱい遊ぼうね、志貴。
 きっと凄く凄く楽しいよね」

「そうだな、毎日は無理だけど、遊び倒すか」

「うん、そうしよう!
 いろんな所に出かけてさ、一日中遊びまくろうね」
アルクェイドさまは興奮気味に志貴さまと約束を取り付けると、
ニカッと笑顔を浮かべ志貴さまを見つめます。

「そうだ、志貴。私ね、海に行きたい」

「海?」

「そう、海に。まだ、行ったことないの、わたし……」

「海か……
 お前、海は日差しがここよりきついぞ。大丈夫なのか」

「う……
 うん、たぶん大丈夫だと思う」
アルクェイドさまはちょっと悩みながら返事をしました

「お前にとって、本当は夜に出かける方がいいんだろうな。
 いつも悪いとは思っているんだけどな」

「ううん、そんなことないよ。
 志貴と一緒だからさ、全然苦にならないよ」

「……悪いな、アルクェイド」

「いいって、志貴。
 私はね、志貴と一緒にいられるなら……」
アルクェイドさまの言葉は後半部分が聞き取れないぐらいに小さかったけども、
志貴さまは特に聞き返しません。
そのまま恥ずかしそうによそを向いています。

また流れる時間。
穏やかに風が吹き、日差しで火照った肌を冷やします。
志貴さまとアルクェイドさまは無言のまま、流れる時間に身を任せます。
自分の気持ち、相手の想い。
二人はお互いに何を考えているのでしょうか。

わたしはただお二人を見つめます。
ずっと、ずっと……



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その26

7月01日(日) その26

お二人を見つめている間に目の前にあるグラスは汗をかき、
中の氷は小さくなっていきます。

「そうだ、アルクェイド」
志貴さまは思い出したかのように、アルクェイドさまに尋ねます。

「お前、水着を持っているのか?」

そうです、確かにそうです。
アルクェイドさまが水着を持っていたという記憶はないです。
といいますか、水着が必要になったことがありませんので、持っていないはずです。
アルクェイドさまは夜の姫。
晴天の―――例えば夏の凶暴な日差しの中でも大丈夫ですが、
それは過ごせるというだけで快適というわけではありません。
出来るなら避けていたいです、そういう天気は。
ですので、わざわざ水着になるような場所には出かけませんし、
水着を持っていないと言う道理になるのです。

アルクェイドさまは志貴さまに指摘されて初めて気がついたようです。
「そうよ、志貴。私、水着なんて持っていないわ」

「ハァー」
ため息一つつく志貴さま。

「お前、水着持っていないのに海行きたいとはなぁ……」
志貴さまはあきれたようにアルクェイドさまを見ます。
 
「……だって今まで必要なかったから……」
志貴さまの言葉を受けて小さくなるアルクェイドさま。

「じゃあ、仕方がない。今から買いに行くか」

アルクェイドさまは志貴さまの言葉を聞き、目を輝かせました。
「ホント、今から一緒に行ってくれるの、志貴!」

「水着買わないと始まらないだろ。
 一緒に街に出かけていることだし付き合うよ、アルクェイド」

「ありがとう、志貴!」
アルクェイドさまは全身で喜びを表現すると、席を立ちました。

「もう、行くのか」

「ええ、今から行きましょう、すぐに」

アルクェイドさまは伝票を持ったかと思ったら、レジの方に急ぎます。
そんなアルクェイドさまを見て志貴さまは苦笑いを浮かべました。



夏はこれから。
日差しがどんどん強くなり、アルクェイドさまには厳しい季節です。
ですけど、そんなことは関係ありません。
志貴さまと一緒にいられるならば、それぐらいのことは我慢するでしょう。
それぐらい志貴さまが好きなのです、アルクェイドさまは。

頑張ってください、アルクェイドさま……



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7月01日(日) その27

志貴さまとアルクェイドさまは腕を組んで歩いていきます。
仲良く睦まじく、金髪の美女と高校生が歩いていくのは周りの目を引きます。
モデル並の美女が高校生ぐらいの男を引っ張るように歩いているのです。
周りの目を引かないはずがありません。

でもお二人は周囲から好奇の目に晒されても一向に気にした様子を見せずに、
街を闊歩します。
いや、正確に言うと、気にされないのはアルクェイドさまで志貴さまは気にしているようですが。

夏を感じさせる日差しが降りそそぐ中、麗しき夜の姫が微笑みを浮かべて歩きます。
それは不思議な光景。
あの、転生したロアを淡々と殺していたアルクェイドさまとは思えません。
もし、今まで屠った者どもが生きていてこの光景を見たら驚くことでしょう。
これが彼のアルクェイドかと。
それぐらい、微笑みを浮かべた今のアルクェイドさまは昔と違うのです。
変わったのはアルクェイドさま。
変えたのは志貴さま。
それは目の前で見ていても信じられない光景なのです。
志貴さまは自然にアルクェイドさまを変えました。
意識せず自然に。
アルクェイドさまを感情を持った一人の女性に変えたのです。
奇跡なのです、これは……

わたしがお二人を感慨深く見つめているうちに、目的の店に着いたようです。
あ、ここは……
確か弓塚さんと来た店です。
この辺りで一番品揃えがいいとの評判ですが、志貴さまがそれを知っているとは思えません。
先ほどからずっとアルクェイドさまが志貴さまを引っ張っていったことから、
アルクェイドさまがたまたま水着を売っていると知っていた店と同じだったのでしょう。

アルクェイドさまはそのまま志貴さまを連れて店内に入ろうとします。
「さあ、行くよ、志貴」

「ちょ、ちょっと待て、アルクェイド。
 ここは女の子の店じゃないか。ちょっと男は入りにくいんだけど……」

「大丈夫大丈夫。
 だって志貴が選んでくれないと私、どの水着がいいかわからないもん。
 レッツゴー」
そう言って志貴さまと腕を組んだまま、すたすた店内に入っていきました。

「いらっしゃいませー」
店員の挨拶を受けつつ、店内を巡るアルクェイドさまと志貴さま。

一通り店内を見て、アルクェイドさまは志貴さまに尋ねます。
「ねえ、志貴。私ってどんな水着が似合うかな?」

志貴さま、真っ赤な顔になっています。

「志貴はどんな水着が好みなの?」
さらに追い打ち。
ますます赤くなる志貴さまがそこにいます。

「お前はどんな水着が好みなんだ、アルクェイド」
逆に尋ね返す志貴さま。

「うーん、一通り見たけどよくわからないのよねー。
 志貴、決めて。
 志貴が決めてくれたものを着るわ」

「おいおい、自分で気に入ったモノはなかったのか、アルクェイド」

「うーん、本当によくわからないのよ。初めて水着買うのだし……
 ねえ、志貴が決めてくれたら私はそれを着るわ。
 お願い、見立てて」
笑顔で志貴さまにお願いするアルクェイドさま。

実際、アルクェイドさまのスタイルなら何を着てもお似合いだと思うのですが、
志貴さまに一任しました。
志貴さま、真っ赤な顔をしながら、ちらっと店内を見回します。
そして、「こっちかな」とアルクェイドさまを案内します。

「これ、志貴?」

「そう、このあたりならお前に似合うと思う」
相変わらず赤い顔をしながら、アルクェイドさまに水着を勧める志貴さま。

「お前はスタイルいいから、ビキニで勝負していいと思う。
 ほら、モデル並みのスタイルだからさ。これが一番似合うと思うんだよ」

そう言って志貴さまが勧めたのは白のビキニ。

「やはり、お前は白のイメージだから、色は白がいいかな。
 へんに色にこだわると、似合わなくなるような気がする。
 うん、これがいい。俺はそう思う」
志貴さまは勧めているうちに、自分の考えが気に入ったようです。
先ほどと打って変わって、アルクェイドさまに自信を持って水着を勧めています。

確かにアルクェイドさまにはビキニが似合うと思います。
あれだけのスタイルの持ち主ですし、へんにタンキニとかいくと、
嫌みにしか見えないでしょう。
ここはシンプルにスタイル勝負。
ビキニで体のラインを強調していいと思います。

色も志貴さまの仰るとおり白でいいかと思います。
へんにカラフルな色にすると、せっかくの純白というイメージが崩れる感じがします。
うん、志貴さまのセンスはなかなかいいですね。
わたし、ちょっと気に入りました。

アルクェイドさまは志貴さまのお勧め理由を聞いて少し考えています。
そして、笑みを浮かべてこう言いました。
「うん、志貴が選んでくれたのならそれを着る。
 ちょっと待っていてね、試着するから」

そう言ってアルクェイドさまは店員を呼んで試着室に向かいました。
ついていこうとした志貴さまはアルクェイドさまに止められました。
曰く、「本番まで内緒」とのことです。

向こうの方でアルクェイドさまが試着している間、志貴さまはレジ近くに行きました。
あまり男一人で店内をうろうろしているのは恥ずかしいのでしょう。

ようやく試着室からアルクェイドさまが出てきました。
店員を引き連れて、レジに向かいます。

「決まったか、アルクェイド」
志貴さまが声をかけます。

「ええ、気に入ったわ、志貴」
全身これ笑顔といった感じのアルクェイドさまはそのままレジを済ませます。

「ではいきましょう、志貴」
アルクェイドさまはにこにこしながら、志貴さまの腕をつかんで店を出ます。
後ろでは店員の「ありがとうございました」という声が聞こえてきます。





店を出て、お二人は街を歩きます。
外は相変わらずの晴天。雲一つない天気です。
日差しは強く、風は心地よい。
夏本番前の何かを期待させる陽気です。

志貴さまが向かう場所。
そこへアルクェイドさまはついていけるのでしょうか。
そして他の方もついていけるのでしょうか。
その時にならないと誰にもわかりません。
あまりに志貴さまは遠くを見ています。

……たぶん、誰も気づいていませんが。

一体、今年の夏は何が起こるのでしょう。
一度しかない今年の夏。
一日一日が大切な日々。



志貴さま……



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7月01日(日) その28

志貴さまとアルクェイドさまはそのまま店を出て歩いていきます。
外は晴天。
アルクェイドさまにとっては決していい天気ではありませんが、
隣に志貴さまがいるせいでしょうか、にこにこしています。
右腕で志貴さまの腕をかき抱いて、左手に大事そうに水着が入った袋を抱え持って、
アルクェイドさまたちは街を歩きます。

「ねえ、志貴。次はどこへ行く?」
アルクェイドさまが志貴さまにべったりくっつきながら次の行く先を聞いています。

うらやましい……
わたしはそんなことを思いながら、二人を見つめています。

「そうだな、さっき茶店に入ったしなー。
 ぶらぶら歩くか」
志貴さまも決めかねたのか、単に歩くことを提案しました。
一緒にいられればそれでよいアルクェイドさまにとって異存ありません。

二人は街中をゆっくり歩きます。
ショーウィンドウを眺めたり、雑貨屋で冷やかしたり。
時にはアルクェイドさまのたわいもない疑問に答えたりして、ゆっくりと時を過ごします。
そうこう歩いているうちに、二人は路地裏の入り口前に来ました。
ここは……

「昼間でもいやな雰囲気だな、ここは……」
志貴さまは路地裏を覗きつつ、後ろにいるアルクェイドさまに話しかけます。

「そうね、普通の人間でもわかるぐらい負の雰囲気を漂わせているわね」
志貴さまの隣に移動して、先ほどまでのにこにこ顔から一変し真顔で志貴さまに答えるアルクェイドさま。

「なんでだろ……ここはただの路地裏じゃないのか、アルクェイド」

「……いいえ、ここはただの路地裏ではないわ。
 ここは……この街の『澱み』。
 ありとあらゆる負の要素が澱み沈んでいる場所なのよ」

「『澱み』?」
志貴さまがアルクェイドさまの言葉にさらなる説明を求めました。

「ええ、よく事故の多い場所とかあるでしょう。
 見通しがいいのに事故が多発する場所とか、何の変哲もないビルなのに、
 飛び降りる人が続出するようなビルなんて聞いたことない?
 それは、そこがその近辺の『澱み』だから。
 世界には絶対不変の法則があるの。
 万物流浪という法則が。
 決して一つ処に立ち止まらず、常に循環していなければならないのよ。
 けど何かの拍子で流れるべきモノが遮られたとしたら話は別。
 本来の流れが阻害されて、結果『澱み』が生まれるのよ」
一気にそこまで説明して、いったん言葉を切るアルクェイドさま。

「『澱み』はその場をある意味支配する。
 負の連環作用とでもいうのかな。
 類は友を呼ぶ、というわけではないけど、さらに悪循環にするのよ。
 こう、他ではうまくいく簡単なことが、その場だと何故か失敗する。
 例えばそういう感じで。
 
 それも全て本来の流れが阻害されたから。
 あるべき流れが阻害されて、澱のように溜まったモノが場を支配してしまうのよ」

「さっきから『澱み』とか言っているけど、何が流れて『澱む』んだよ?」
志貴さまが質問します。

「要素よ。
 世界を構成する要素の一つ。
 私もそれがなんだかは知らない。
 ただ、そういうモノで世界は構成されていて、そういうモノが流れているのだけは知っている」
アルクェイドさまが語ります。

「それは……気みたいなモノか。
 ほら、よく風水とかで言われるような……
 あ、そうそう、竜脈と言うんだっけ。そういうヤツか?」

「東洋風に言うなら、そのようなモノかしらね。
 まあ、わたしもそちら方面は詳しくないので何とも言えないけど」
肩をすくめるアルクェイドさま。

「『澱み』は無数に存在するわ」
アルクェイドさまが続けます。

「日本にもそのほかの国にも……
 それこそ小さいモノから大きいモノまで数え切れないぐらい存在するわ」
そこでアルクェイドさまは苦笑いを浮かべます。

「そしてね、そんな『澱み』の一つがここなのよ。
 私もあまりお目にかかったことがないわ。まあ、好んで近寄らないからという理由もあるけどね」
嫌そうな顔で閉鎖した空間を見つめるアルクェイドさま。

「でも、その『澱み』がなんでこんなに気味が悪いんだ?」
志貴さまが疑問を口にしました。
その疑問はもっともなところです。

「『澱み』だからよ」
アルクェイドさまが一言で言い切ります。

「本来、流れ過ぎていかなければならないモノが溜まっているからよ。
 志貴、川で水門とかを見たことない?
 流れ着いたゴミがぷかぷか浮いているでしょう。
 あれって見ていて気分悪いよね。
 つまりはそういうこと。
 要素は流れる。それは正も負も関係なく。
 そして流れている限り影響は最小限ですむけど、溜まり始めると話は別。
 それが呼び水となってさらに溜まる。
 そうして『場』を形成し始めるの」

「『場』?」

「そう、『場』よ。
 それはなんて説明したらわかるかな。
 文字通りの意味なんだけど……
 『力場』と置き換えてもいいわ。
 とにかくこの世界の『律』が及ばない場所になるのよ」

「悪い、アルクェイド。『律』ってなんだ?」
先ほどから質問し続けているのが気になったか、話の腰を折ったことを謝ったのか、
志貴さまがアルクェイドさまの説明でわからない単語の意味を質問しました。

「『律』というのは法則よ、志貴。
 この世界の常識と言ってもいいわ」
志貴さまの質問にも嫌な顔一つせず答えるアルクェイドさま。

「『澱み』はやがて『場』を形成する。
 そうするとそこは繋がりやすくなるのよ、『向こう側』と……」

「『向こう側』?」
もう志貴さまはお手上げといった感じで聞き返します。
アルクェイドさまの説明にわからない単語が続々出てくるのでかなりとまどっているようです。
それはそうでしょう。
わたしもアルクェイドさまの説明を聞いていてとまどっていますから。
それは不思議な話。
今までそんなことをアルクェイドさまから聞いたことがありません。

アルクェイドさまが笑いました。
「確かに、そのあたりのことを知っている人間は数少ないわ。
 志貴が知らなくたって不思議ではないのよ。
 だから気にしないで遠慮なく聞いてちょうだい」

そう言ってアルクェイドさまが話し続けます。
「『向こう側』というのは、こちら側でない世界のこと。
 そうね、志貴たち日本人にもわかるように説明すると『彼岸』ってやつかな。
 具体的には違うのだろうけど、そういうようなモノと考えてくれたらいいわ。
 わかるでしょ、日本人の志貴になら。
 なんとなくだろうけど感覚的に理解できるでしょう?」

チラリと志貴さまを見るアルクェイドさま。
志貴さまは考え込んでいます。
でもそんな志貴さまを見ながらアルクェイドさまはさらに話し続けます。

「日本人というか東洋の人間は自然と共存する道を選んできた。
 西洋みたいに征服ではなく、共存。
 自然と一体化して共に暮らす道を選んできた貴方たちは血で理解しているはず。
 この世界に寄り添うもう一つの世界を……」

「その世界はこちら側とは違う法則で動いているの。
 具体的にはどう動いているか私は知らない。
 ただ、そういう世界があるということだけは知っている」
そこまで説明して、アルクェイドさまは改めて路地裏を見つめます。

「ここはそういう場所なのよ。
 もうすでに『場』を形成しているの。
 だから、あまりここにはいないほうがいいわ。
 あちら側に呼ばれたら大変だしね」

「呼ばれる、なんてことがあるのか、アルクェイド」

「さあ。こちら側の法則で動いていないので、よくわからないわ。
 日本でも言うでしょう。「触らぬ神に祟りなし」って」
今日のアルクェイドさまは妙に色々なことを知っています。
普段は志貴さまに聞いてばかりなのに。
どうしたのでしょう、一体。

「とりあえず、ここから離れましょう、志貴。
 あまりここにいてもいいことはないわ」
そう言って志貴さまと改めて腕を組んだアルクェイドさま。

「ん?」

いつもと志貴さまの反応が違かったらしく、
アルクェイドさまは志貴さまの顔を覗き込みます。
そしてその時、志貴さまの様子がおかしいことに気づきました。

「志貴? どうしたのよ、志貴?」
志貴さまに呼びかけます。

「ちょ、ちょっと志貴、大丈夫?
 貴方、顔色真っ青よ」
アルクェイドさまが慌ててます。
いつからか、志貴さまが路地裏を見つめたまま動きません。
ぽかんと呆けた状態で路地裏をじっと見つめています。

「志貴! 大丈夫、志貴!」
アルクェイドさまが組んでいた腕を放し、眼鏡越しに志貴さまの目を見つめました。

「ちっ! 志貴が魅入られたわ。
 レン! いるでしょう。手伝って!!」
わたしは語気鋭くアルクェイドさまが自分を呼ぶ声を聞き、すぐその場に現れました。

「どうすればよろしいですか、アルクェイドさま」
わたしは現れると同時に少女の姿になりました。
こちらの方が志貴さまを助けやすいと思ったのです。

「志貴をこちらに引き戻してちょうだい! 志貴の中に入っていって。
 私はその間、サポートするわ。よろしく!」
アルクェイドさまはそう言うと、志貴さまと路地裏の間に立ち前方を睨みました。

わたしはそんなマスターの後ろ姿を見て、志貴さまの夢に入る準備をし始めました。



なんと、楽しいはずのデートが一変してとんでもないことになりました。
どうやら志貴さまが『向こう側』に魅入られてしまったようです。
わたしはアルクェイドさまの命で志貴さまを引き戻す役目を任じられましたが、
そのような状態の中に入っていった経験などありません。
一体、わたしはお役に立てるのでしょうか。

わたしはそんなことを考えつつ、志貴さまの夢の中に入っていきます。
志貴さまのことをただ想いつつ……



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その29

志貴さまが『向こう側』に魅入られてすぐ……
私はアルクェイドさまの指示で意識をなくした志貴さまの夢の中に入りました。

ふぅ。
どうやらうまく入れたようです。
魅入られた状態の人間の夢に入ったことなどありませんでしたので、
うまく入れるか不安だったのですが、どうやらその心配は杞憂だったようです。

一息ついてから、わたしは辺りを見回します。

あれ?
ここは……
本当に志貴さまの夢の中なのでしょうか。
前に入ったときと全然感じが違います。
何が違うのか……
わたしは考えます。
前とどこが違うのかを。

あっ……
わかりました。
この違和感の正体が。
そうです、冷たいのです。
何もかもが冷たすぎるのです。
こんな夢はまず普通の人間は見ません。
普通はもっと暖かい夢を見ます。
こんなに寒々しい……冷たい夢は見た人間をどうにかしてしまいます。
だから普通は見ないはずです。
本能が、拒絶するはずです。

なのに……
志貴さまはこんな夢を見ています。
これこそが、魅入られた人間の見る夢なのでしょう。
怖い。
大変恐怖を感じます。
これなら悪夢のほうがまだましです。
まだ、その人の一部である悪夢の方が人間らしいです。

ふぅ。
これは思ったよりも大変なことのようです。
わたしは落ち着いて周りを観察しはじめました。
ここが……『向こう側』とやらに魅入られてしまった志貴さまが見ている世界ですか……

そこは昏い世界でした。
暗黒というわけではないけど、薄暗くぼんやりとした世界。
周りに何があるかよくわかりません。
暗いので遠くは確認できず、近くは志貴さま以外何も見えません。
そこで志貴さまは立っています。
何もせずに、ただ立っているだけ。
わたしは志貴さまの顔を覗き込みます。
志貴さまは呆けていました。
ぽかんとした顔でどこかを見ています。
焦点が合っていない。
何かに心囚われている、自分だけにしか見えないモノを見ている顔。

とりあえずわたしは志貴さまを呼んでみました。
夢の中での自我の確認。
志貴さまが「自分は自分である」という認識を持ってくれれば、と思ったのです。
なぜならそれは力になり得るから。
自分を自分と認識する、たったそれだけのことだけど、
夢を夢と見破ることに繋がる重要なことなのです。

夢は不思議な世界です。
世界を知る場であり、自分を知る場であり……
はたまた過去を見直す場であり、未来をかいま見る場でもある……
幾重にも重なった異界への門、それが夢なのです。

夢を理解すればさらなる世界に行くことが可能です。
それは、過去かも知れないし未来かも知れない。
それとも誰も知らない世界かもしれないし、不思議な異世界かもしれない。
無限の可能性を秘めているのが夢なのです。

「志貴さま、志貴さま」
わたしは優しく志貴さまに呼びかけてみますが全然反応がありません。

もっと強く呼びかけてみます。
「志貴さま、志貴さま。目を覚ましてください!」
それでも志貴さまはピクリともせず、ただ呆けています。

「志貴さま、志貴さま!!」
私は何度も何度も志貴さまに呼びかけます。
それでも志貴さまは反応を示しません。

わたしは何度も呼びかけてみましたが、志貴さまの反応がないことにいらだちました。
ふぅ、この事態は考えておりませんでした。
まさか、ご自分の夢の中に囚われてしまうとは……
一体、何が囚えているのでしょうか。

昏く未来も希望も感じない荒涼とした世界。
全てが灰色に染まり、見る者を絶望に導く光景。
寒々しく、心まで凍りつかせてしまうこの夢の中で、志貴さまは何を視ているのでしょう。

わたしは志貴さまに呼びかけつつ、志貴さまの目を覚ます方法を考えます。
それがわたしの今の使命だから……
志貴さま、お目覚めになってください……



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7月01日(日) その30

わたしは何度も何度も志貴さまに呼びかけました。
が、志貴さまからは何も返事がございません。

はぁー、一体どうしたらいいのでしょう。
もう、何度志貴さまに呼びかけたかわかりません。
なのに、志貴さまは一向に目を覚まさないのです。




「志貴さま、志貴さま……」
本当に何度目でしょうか……
こうやって志貴さまに呼びかけていたとき、ふと、辺りの気配がおかしいことに気づきました。
いままで、わたしと志貴さま以外の気配しかしなかったのに、第三者の気配を感じたのです。

わたしは志貴さまを守るようにして辺りを見回します。
あれ、誰もいません。
今、確かに気配を感じたのですが、周りを見ると誰もいないのです。

何だったのだろう、一体……
わたしの勘違いならいいのですが……

気配らしきモノは消え、わたしと志貴さまの気配しか感じません。
うーん、魅入られた人間の夢に入っているので神経が高ぶっていたのかも……
わたしはそう考えると改めて志貴さまへの呼びかけを続けました。

そうして何度目かの呼びかけをしたとき、
またもや唐突にわたしと志貴さま以外の気配をそこに感じたのです。

「……誰?」
わたしは誰何します。
そして辺りをキョロキョロと見回します。

すると、そこには……
いつからいたのか……
ヒトが……
ヒトがいたのです。

そのヒトは……
いや……このヒトはたぶん人間ではないでしょう……
世界を満たす存在感。
圧迫する雰囲気。
別格なのです、何もかも。
ここまでのものをただの人間が纏うことなんてまずあり得ません……

いま、ここにある全てがこの方に向かって収束していきます。
何もかも全てが、ベクトルをこの方に向けていく……
存在を許されるために。
この世界においてベクトルをこの方に向けていないのはわたしと志貴さまだけ。
それはわたしと志貴さまが異質だから。
この世界における異物だからなのです。

この方はこの世界を知っています。
この世界の創造者といってもわたしは決して驚きません。
それぐらい圧倒的なのです、この方は……

その方は……
目を瞑っています。
まるでわたしたちのことなど眼中にない、かのように。

その方をよく見ると。
白い服を着ています。
いや、服と言うよりはドレスと言った方がいいでしょう。
古めかしいデザインですが、この方にはとてもよく似合います。
落ち着いたデザイン。
金で縁取りされた純白のドレス。
肩と胸元は剥き出しだけど、決していやらしくなくかえってその清楚な雰囲気を強調しているドレス。
長袖のその服は優雅であり、先ほどは古めかしいといいましたが現在でも通用するでしょう。

髪の毛は膝下以上まである美しいストレートの金髪。
この昏い世界でも決して損なうことなどなく、美しく輝く―――



うん?
この方は……
わたしはこの方を見つめているうちにふと何かが引っかかりました。
何が引っかかったのでしょう。
わたしは自分の記憶を探ります。
遠く遠く過去の記憶を……

遠い過去の記憶。
わたしがまだ何も知らなかった頃。
わたしがわたしである、そのこともわかっていたかあやしい頃。

あの方はやってきました……
わたしの大事な―――あの時はわからなかったけど―――マスターにお願いがあって。


あ。
なんと言うことでしょう。
わたしは馬鹿です。
何故すぐに気づかなかったのでしょう。

それにしても疑問が湧きます。
何故、ここにいるのか。
しかも髪が長いのはどういう訳か。
それよりもなによりも、どうやってここに入ってきたのか。

……別人と考えるのが妥当でしょう。
でも、別人と否定するにはあまりにも似すぎています。
本人だ、と言われた方が感情は納得します。
……理屈では納得できませんが。

と、わたしが目の前の女性について本人かどうか思い悩んでいたその時。
目を瞑っていた彼女―――アルクェイドさまそっくりな方が目を開けました。










瞬間……
彼女が目を開けた瞬間、世界は凍りつきました。
風はそよぐことを止め、大地は静まりかえります。
まるでこの方が目を開けた瞬間、動き続けるのは不敬と思ったのか……

……違う。
この方はアルクェイドさまではありません。
似ているけども。
そっくりだけども。
今のわたしのマスターであるアルクェイドさまではありません。
決して……

でも……
頭の中でもう一人のわたしが反論します。
やはり、この方はアルクェイドさま、だと。
こんなにも違うのに。
ここまでの絶対的な圧力はお持ちではないけども。
それでも、この方はアルクェイドさま、なのだと。

では一体誰なのでしょうか。
このアルクェイドさまであってアルクェイドさまではないこの方は……





わたしはこの方を見つめたまま動けません。
じっと……
今思い返すと、時間にすれば何秒という短い時間だったと思います。
しかしこの時わたしには何時間にも感じられました。
それほど密度が濃かったのです。
この方を見つめていた時間は……

しばらくわたしが凍りついたかのように見つめていましたら、
目の前のアルクェイドさま似の方がわたしの方へ視線を向けました。
冷たく凍りつきそうな瞳で。

交錯する視線。
魂が抜かれそうな瞳。
全てを見透かされてるようで……
わたしはその場に釘付けになりました。
いいえ、もともと釘付けだったのです。
この方が現れてからのわたしは……



この方はわたしを一瞥したあと、後ろにいる志貴さまに視線を合わせます。
そして「ふむ」と呟きました。

な、なんでしょう、一体……
わたしはビクビクしながら、様子を窺います。

「ふむ、どうやら魅入られているようだな。
 ……呼ばれてきたのか、ここに」
そう言って、わたしの方を向くアルクェイドさま似の方。

わたしはそれを自身への質問と受け取り、答えました。
「はい、『澱み』の傍にいましたら、急に様子がおかしくなり、わたしは主の命によって志貴さまのおそばに参りました」

「『澱み』に呼ばれたか。成る程……ならば納得である。
 この者は素質があるからな。『澱み』と波長があってもおかしくはない」

そう言って、志貴さまを見つめるアルクェイドさま似の方。
でも志貴さまは呆けたまま何の反応も示しません。

しばらくアルクェイドさま似の方は志貴さまを見ていましたが、急に視線をはずしたかと思ったら、
「ここはおぬしらのいる場所ではない。早々に立ち去るがよい」
わずらわしそうにそう言って、興味をなくしたかのようにまた目を瞑りました。

だけども、志貴さまをこのままにして帰るわけには参りません。
「お言葉ですが、志貴さまを元に戻さない事には帰れません」
わたしは恐る恐る反論しました。

その言葉を言った瞬間、世界が凍りつきました。
目の前の方が目を開いてわたしを見て。
想像を絶する圧力がわたしに襲いかかりました。
わたしはその圧力をまともに受けて、ぶるぶる震えてしまいます。
立っていることすらかなわないぐらいの圧力。
わたしは視線を逸らし、拳を握りしめてその圧力に耐えます。

「……ほう、使い魔ごときが反論するとは。
 覚悟はできておるのだろうな」
アルクェイドさま似の方は目を細めて、圧倒的な迫力の元、わたしに問いかけます。

「わたしは使い魔です。主の言うことには服従しなければなりません。
 わたしに下った命令は『志貴さまを引き戻す』ことです。
 志貴さまが目を覚ましてくだされば、この世界から引き上げます」

わたしはいったん逸らした視線を再び合わせ、勇気を振り絞って言い返しました。

「……なかなかにモノを言うな。
 確かにアレにとってはこの者だけが心の拠り所。
 この者がずっと魅入られているならば、
 味方が一人もいないアレはさぞかし心細く感じるのであろうな。
 
 ……ふむ、貴様は使い魔としてよく出来ておる。
 アレの命令を守っておるのだからな。
 この身を前にして、なおも」

目の前の方がそう言って感心しましたら、先ほどまでの圧力が嘘のようになくなりました。
そのままアルクェイドさま似の方の話が続きます。

「……では、早く呼び戻して去るがよい。
 ここは貴様等のいる世界ではない故、留まることは許されざること。
 『律』が異なるモノの行く末に責任は持てんぞ」

ということは「何が起きるかわからない」ということでしょうか。
ここがそんなに危険な場所だったとは知りませんでした。
それは困りました。
一刻も早く、ここを抜け出さないといけないのに、
わたしには志貴さまを起こす術がありません。
ここは目の前の方に事情を説明してみることにしました。

「先ほどからお呼びしているのにも関わらず、全然目を覚まさないのです。
 何度も何度もお呼びしているのに、このように呆けたままで……」
わたしは自分の無力さを正直に伝えました。
事実、何度もお呼びしたのにも関わらず、志貴さまは目を覚ましてくれないのです。
こうなったらこの方に頼るしかありません。

「……このまま放っておいてもよいが、この者がいなくなるとこの身が朱い月になることは叶わぬ、か。
 ふむ……アレには堕ちてもらわないとならないからな。
 仕方がない、この身のためにこの者を起こすとするか……」

アルクェイドさま似の方は意味不明なことを話すと、ゆっくり志貴さまに近寄りました。
わたしはただそれを見つめます。

彼女は志貴さまに近寄り、じっと見つめました。
だけども志貴さまは一向に目を覚まそうとしません。

「……ええい、まったくもって世話がやける……」
ボソリとそう呟くと、彼女はいきなり変貌しました。
それは……例えるならば恐怖。
純粋な恐怖がそこに現れました。
まるで死が形作られて、目の前に凝縮したかのように……
彼女は外見的には何も変わっておりません。
だけども、その存在が、その在り方が、先ほどまでと違うのです。
魂を直接弄ばれているかのような恐怖……
何もできない、無力な自分がそこにいました。

これは殺気になるのでしょうか。
この、辺りに満ちた死の匂いは。
ここにいてはいけない。
頭の中で本能が警鐘を鳴らします。
いや、鳴らしっぱなしです。

殺される。
殺されてしまう。
目の前の方に。
死が具現化した美しい金髪の美姫に……

わたしは先ほどとは比べものにならない『気』に恐怖します。
体の震えが止まりません。
がくがくと体がすくんでしまって……
この場に釘付けになってしまいました。

アルクェイドさま似の方はその『気』をまとったまま、志貴さまの耳元で囁きます。
「……アレを守れずにここで朽ち果てる気か、おぬしは。
 たかが、魅入られたぐらいで何の役にも立てなくなるとは。
 おぬしがそこまでの者ならそれまでのこと。
 アレの側にいる資格などない。
 ……このままここで朽ち果てて死ね」





その瞬間!
今まで呆然とどこかを見ていた志貴さまが目を開けて、
立っていた場所から飛び退いたかと思ったら、目にも止まらぬ早さで七夜のナイフを構えました。

「俺はあいつを守る。
 アルクェイドを守ってみせる。
 たとえ何があっても!」

やった!
志貴さまが目を覚ましました。

「……うん?
 ここはどこだ?
 ってお前……
 なんて格好をしているんだよ、アルクェイド。
 髪の毛も長いし、いったいどうした?
 ていうか、俺は何でこんな所にいるんだ?」

志貴さまはそう言うと、構えていたナイフを降ろしました。
そして改めて周りを見回します。
「ここは……
 いったいここはどこだ、アルクェイド?」

「ここはおぬしがいた世界とは異なる世界。
 『澱み』から生じた『場』が繋げた異界である。
 『場』も『律』も全てがおぬしがいた世界とは異なっておる。
 そう、ここはおぬしたちの属する世界ではないのだ」
彼女が志貴さまを見つめて語ります。

「なんだよ、さっきから『場』とか『律』とかわけわからないこと言って。
 ここが路地裏じゃないっていうのならどこだっていうんだよ。
 それにその口調、その服装。
 おまえ、いつ着替えて、なんでそんな偉そうなんだよ」

「ここがその路地裏とやらではない、ということはいま周りを見てわかったのではないのか。
 見ての通り、ここはおぬしたちの世界ではない。
 自分の目すら信用しないのか、おぬしは。
 それに、おぬしが言っているのはアレのことだろう。
 ならばこの身に言うことではない。
 アレへの抗議は本人に申せ」
 
「……確かに俺がさっきまでいた路地裏とここが違うのは認めよう。
 ここのことはあとで聞くとして……
 お前はさっきアルクェイドじゃないと言ったけど、本人も何もお前はお前じゃないか。
 お前はアルクェイドだろ。
 なら何も間違っていないじゃないか」

「アレとこの身は違うのだ、人間。
 この身はアレの可能性であって、おぬしが知っているアレではない。
 アレが持つ側面。それが私なのだ」

「難しいこというなあ。
 アルクェイドが持っている可能性がお前なら、お前はアルクェイドだろ」

「それは違う。
 まだアレはこの身を受け入れたわけではないからな。
 受け入れたわけではない以上、あくまでこの身は可能性なのだ」

「だから可能性としてお前がいるのだろ。
 ならばお前はアルクェイドといってもおかしくないじゃないか」

「ええい、判らぬ奴だな。
 何度も申したとおり、この身はアレの可能性なのだ。
 まだアレはこの身に決まったわけではない。
 あくまで可能性の一つなのだ。
 アレが内包している側面であるこの身を選んだわけではない」

「じゃあ、間違っていないじゃないか。
 お前はアルクェイドの可能性というか側面なんだろ。
 それはアルクェイドの延長上にあるのだろう。
 ならば、お前はアルクェイドに違いない。
 なにか間違っているか」

「――――――」
アルクェイドさま似の彼女はびっくりしたように志貴さまを見つめます。
そして静かに言葉を継ぎました。

「―――ここはおぬしたちの属してよい世界ではない。
 何故なら『場』も『律』もおぬしたちの世界とは全く別物だからだ。
 異なる『律』を持つおぬしたちがこのままいるとどうなるか私には想像もつかぬ。
 だから一刻も早くこの地から去るがよい。
 
 さらばだ、人間。
 おぬしの考えはなかなか奇抜ゆえ面白かったぞ」

そうして彼女はまるで世界に溶けるかのようにこの場から消えました。
後に残されたのはわたしと志貴さまのみ。
結局、最後まであの方が何者なのかわかりませんでした。



「あ……
 あいつ、逃げやがった……」
志貴さまはあの方がいたところを見つめてそんなことを呟きました。

とりあえず一安心です。
志貴さまが目を覚ましましたので、安心してこの世界から抜け出すことが出来ます。
ふー、よかった。
本当によかったです。
あとはわたしが一緒にここにいる理由を志貴さまにどう説明するか、です。
これさえ乗り切れば万々歳なのですが……

「そういえば……
 さっきまではあいつがいたせいで、聞くチャンスがなかったんだけど、
 君は以前ぶつかった女の子だよね。
 どうしてここにいるんだい?」

ドキ。
とうとうきました。
聞かれたくなかった質問が、志貴さまの口から発せられました。
どうしましょう、どうやってこの場を切り抜けましょう。

「え……
 えーと、わたしは……」
うわ、自分で話していてわかります。
完全にしどろもどろです。
これでは志貴さまの疑惑をより深めることにしかなりません。

「あいつはここを『異なる世界』といった。
 では、何故俺はここにいる。
 まあ、俺は『澱み』とやらに引き込まれたようだけど」
そこでいったん言葉を切る志貴さま。

志貴さまの言葉を正確に言い直すと、
「『澱み』から生じた『場』によって『向こう側』に引き込まれた」です。
わたしがアルクェイドさまの言葉を聞き間違っていなければですけど。
志貴さまは微妙に勘違いしているようです。
だけどわたしはそれを訂正せずに続きを聞きます。

「俺が『澱み』に引き込まれて否応なくここに来たのなら君はどうやってここに来た?
 何故、俺がアルクェイドと一緒にいるときにタイミングよく現れた?
 ……君は何を知っていて、何者なんだい?」

志貴さまはわたしの目をじっと見つめたまま問い詰めます。
真剣な眼差し。
わたしがわたしでいられなくなるその瞳……
わたしは志貴さまの目を見つめ返します。
交錯する視線。
絡み合う視線。
世界が閉じていきます……
この世界から音が消え、何もかも見えなくなっていきます。
見えるのは志貴さまだけ。
いや、志貴さまの瞳だけ。
向かい合う瞳。
それはまるで無限の世界を作り出す合わせ鏡かのように……

一時たりとも離せない。
絡みついた視線の行き先にある志貴さまの瞳から。

向かい合う二人。
志貴さまとわたしのただ二人だけ。
世界にわたしと志貴さまの二人だけ……

どれくらい時間が経ったでしょう。
わたしと志貴さまが視線を合わせてから。
数分、数十分……いや、もしかして数瞬だったかも知れません。
時の流れを無視しての……あってはいけない邂逅。
有り得ない邂逅。
志貴さまとの禁じられた邂逅は……



「……ふー。
 どうしても話さないかい?」
先に視線をはずしたのは志貴さまでした。
そしてあきらめたのか、「話さない意志」を確認してきます。

わたしはコクンと頷きました。
志貴さまに話すとなると、最初から話さないといけません。
何故ならうまい言い訳を思いつかないし、何よりも嘘をついてしまうと必ずボロが出るからです。
それに……
わたしは志貴さまに対して嘘をつきたくありません。
志貴さまに対しては出来るだけ誠実でいたいのです。
……たとえ想いが叶わないとわかっていても。

「……ならしょうがない。
 どうしても話さないのなら無理して聞けないからな」
志貴さまはあきらめたかのように天を仰ぎます。

「……ところでここはどこなんだい?
 そしてあいつは誰なんだい?
 俺はいまいちあいつの話が理解できなかったんだ」
頭をかく志貴さま。

「……ここは異界です。
 貴方は『澱み』に魅入られてこちらに引き込まれたのです。
 何故魅入られたのかはわかりません。
 あの方は「素質があるから波長があったのでは」と申しておりました。
 
 もう一つの問いに関してはわかりません。
 もしや、と思うことはあるのですが、確実に言い切れませんのでお答えいたしかねます」

「その「もしや」って何?
 というか心当たりがあるの、あいつに?」

「………………」
わたしは首を横に振りました。
たぶん彼女はアルクェイドさま。
もう一人のマスター。
何故二人もいるのかわかりませんが、あの方は昔のアルクェイドさまでした。
わたしが初めてお会いした時のアルクェイドさまです。
その答えがわかった時、ここがどこだかわかるような気がします。
この世界とあの方とアルクェイドさまの関係も含めて……
でも、そのことは志貴さまには伝えられません。
もし話してしまったら、わたしがどのようなモノか推測されてしまうからです。
わたしは首を振ったあと、ただ無言で志貴さまを見つめます。

「……それも答えられないことなのかい」
しばらくしてから志貴さまが優しく尋ねてきました。

コクン。
わたしは口を開かずに動作で回答いたします。

「……そうか。
 それならしょうがないな」
無言のままでいるわたしに微笑む志貴さま。

黙ったままでいるわたしに気を遣ってくれたのでしょう。
志貴さまが微笑みをわたしに見せられた時、わたしの胸が痛みました。
志貴さまに答えられないことに対して……
もし話してしまったら、わたしはアルクェイドさまを裏切ってしまうことになります。
わたしは使い魔です。
アルクェイドさまは志貴さまにわたしの正体を話していいとは一言もいっておりません。
あくまでも自分の主人には忠実でいなければいけないのです。
でも志貴さまには話したい。
嘘をつきたくない。
隠し事はしたくない……
ああ、話すことが出来たら……
わたしはジレンマに苦しみます。
志貴さまには正直でありたい自分とアルクェイドさまの使い魔としての自分が内面でぶつかりあいます。



わたしは話題を変えました。
ジレンマに苦しむ自分としてはこれが今出来る最善の選択なのです。

「あの方も仰っていたとおり、この世界は何があるか判りません。
 一刻も早くこの世界から抜け出した方がいいと思います」
わたしは志貴さまにそう忠告しました。
あの方の言うとおり、ここは『場』も『律』も異なる世界です。
何があってもおかしくありません。
ならば、一刻も早くこの世界から抜け出すべきです。

しばらくわたしを見つめていた志貴さまはわたしの言葉を聞くと、
「そうだね。ここがどこかわからない以上、一刻も早く元の世界に戻ったほうがいいね」
と同意してくれました。

「じゃあ、元の世界に戻ろう。
 ってどうやって元の世界に戻ればいいんだい?」
そこで困ったような顔を見せる志貴さま。
確かに志貴さまからすると、どうやって戻ればいいのかわからないはずです。
でも志貴さまの目の前にいるのはわたしです。
夢魔であるわたしなのです。
わたしがいる限り、戻れないなんてことはあり得ません。

「目を瞑ってください」
わたしは志貴さまに指示しました。

「うん?
 あ、ああ、目ね。
 目を瞑ればいいんだね」
そう言って目を瞑る志貴さま。

「そのまま両手を伸ばしてください」

「こう?」
志貴さまはゆっくりと両手を前に突き出します。

「そのまま、目を瞑っていてくださいね」
わたしは志貴さまにお願いすると、背伸びしてゆっくりと志貴さまの手を握ります。
大きくて暖かい手……
志貴様の手を握ったまま、下に下ろしていきます。
そうしないと不自然な格好で力を行使することになってしまいますから。

わたしは最後に志貴さまの顔を見上げました。
わたしのお願いしたとおり、目を瞑っていてくれています。
クスッ。
志貴さまのその可愛い顔に思わず笑みを漏らしたあと、わたしは真剣になりました。
失敗は許されません。
失敗などしたことありませんが、今回は志貴さまがいらっしゃるのです。
いつも以上に気合いが入ります。








―――そして、わたしはゆっくりと夢魔の力を行使しました。
ある心配を胸にしつつ……









































途中、あの方の声を聞いたような気がします。
わかりました、大丈夫なのですね。
わたしは頭の中でそう答えると、さらに集中しました……




































「志貴!
 大丈夫、志貴!」
アルクェイドさまの声が聞こえます。
わたしが目を開けると、そこはアルクェイドさまの部屋でした。
どうやら志貴さまが倒れてわたしが志貴さまを助けに行っている間に路地裏からここまで志貴さまを運んだようです。
志貴さまはアルクェイドさまのベッドに横たわっており、その横でアルクェイドさまが必死に呼びかけています。

「……アルクェイドさま」
わたしはアルクェイドさまに声をかけました。

「志貴、し……
 ってレン!
 どうだった、志貴は大丈夫だった?」
志貴さまの所から戻ってきたわたしに噛みつかんばかりに畳みかけるアルクェイドさま。

「大丈夫です。
 志貴さまはもうすぐ目を覚まされるはずです」
わたしはマスターの問いに答えます。

「そう、よかった……
 本当によかったわ……
 このまま、志貴が目を覚ましてくれないのかとずっとずっと心配してたわ」
アルクェイドさまがホッと胸をなで下ろしました。
確かにアルクェイドさまにとって志貴さまは大事な方。
志貴さまがいなくなればアルクェイドさまはとても悲しむことでしょう。
志貴さまが無事で本当によかったですね、アルクェイドさま。

「う……うーん」
志貴さまが声を上げました。

わたしはアルクェイドさまがめくばせしたので、少女の姿から黒猫の姿になりまして部屋の隅でお二人を見つめます。

「大丈夫、志貴?」
アルクェイドさまは優しく志貴さまのおでこにかかった髪を梳きながら、志貴さまに呼びかけます。

「うーん……
 うん、ここは……」
志貴さまが目を覚ましました。

やった。
やっと志貴さまが目を覚まされました。
わたしは志貴さまが目を覚ましてくださったのでホッとしました。

「ここは私の部屋よ、志貴。
 貴方は路地裏で倒れてしまったので、ここまで運んできたのよ」
アルクェイドさまが志貴さまの横で優しく話します。

「……そうか、また倒れたのか。
 悪い、アルクェイド。
 またお前に迷惑かけちゃってさ」
志貴さまは横になったまま、アルクェイドさまを見上げて弱々しく微笑みます。

「いいのよ、別に。
 迷惑だなんて思ってないよ、私は。
 志貴が元気でいてくれればそれでいいの。
 よかった、志貴が目を覚ましてくれて。
 ずっとずっと目を覚ましてくれないから心配だったんだよ、私」

「……そうか、そんなに倒れていたのか。
 あれからどれくらい経ったんだ、一体」

「そうね、だいたい3時間ぐらいかな。
 今はもう夜よ」
アルクェイドさまは時計を見ながら志貴さまに答えます。

「そうか、もうそんな時間か。
 秋葉のヤツがそろそろ怒りはじめる頃だな。
 悪い、アルクェイド。
 せっかくのデートを台無しにしちゃってさ……」

「いいのよ、志貴。
 台無しになんかなってないわ。
 今日は志貴と一緒に過ごせたのだし、私は楽しかったわ」

「そう言ってくれると、こっちも助かる。
 今日の借りはあとで必ず返すから。
 今日は悪かった、アルクェイド」
ベッドから上半身だけ起こして、アルクェイドさまに頭を下げる志貴さま。

「本当にいいのよ、志貴。
 私は気にしていないわ」
頭を下げた志貴さまに対し、慌てるアルクェイドさま。

志貴さまはそんなアルクェイドさまを見て微笑むと、ベッドから起きあがろうとしました。

「ダメよ、志貴。
 もう少し寝ていないと」

「いや、もう帰る。
 大丈夫、お前のおかげで体調もよくなったことだし」

「まだ顔色もよくないわ。
 もう少し寝ているべきよ」

「ハハ、今までの倒れた経験からいうと、このぐらいなら大丈夫。
 家に帰るまでには直るさ。
 本当に今日はゴメンな、アルクェイド」

「……そこまで言うのなら、もう引き留めないわ」
アルクェイドさまは志貴さまを引き留めるのをあきらめました。

「でも、家までは送るわ。これだけは譲れないわよ」

「オーケー。
 じゃあ、一緒に行くとするか」

志貴さまは起きあがると、そのまま玄関まで行きました。
アルクェイドさまはその後ろを追いかけます。

「じゃあ、お邪魔しました」
礼儀正しく挨拶をする志貴さま。

「いいえー、志貴ならいつでも大歓迎よ」
アルクェイドさまはそんなことを言って志貴さまに微笑みます。

そうしてお二人は肩を並べて出て行かれました。
わたしはアルクェイドさまからめくばせを受けたので、
窓から外に出ると志貴さまとアルクェイドさまを追いかけます。










ふー。
今日はいろんなことがありました。
秋葉さん、翡翠さんの襲撃。
琥珀さんの奸計。
ああ、そういえば琥珀さんに見破られたんだっけ。
そしてシエルさんに助けてもらって……
あとで改めてシエルさんにお礼を言わないといけませんね。
そのあとはやっと落ち着いたかと思ったら志貴さまが『向こう側』に引き込まれて。
『向こう側』での話。
あの方が教えてくださったこと。
志貴さまが覚えていない、全て。



わたしは今日起きたことをゆっくり思い出しながら、志貴さまたちを見守ります。
遠くから、そっと邪魔にならないように。


志貴さま、志貴さまは覚えていないのですけど、わたしは志貴さまの手を握りました。
そして二人で話をしました。
これは誰にも言わないこと。
志貴さまは覚えていないし、わたしは誰にも話さない。
わたしだけの秘密です。

ふふ、志貴さま。
わたしは志貴さまの大きな手を思い出し一人笑みを浮かべました。




志貴さま、お慕い申し上げます……






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