使い魔レンちゃん、向かうは敵なし!

6月後半




6月16日(土)

「おはよう!」

志貴さまが学校に向かって歩いていると、後ろから誰かに声をかけられました。

どなたでしょうか。
志貴さまが振り返ると、そこに満面の笑みを浮かべた弓塚さんが
手を挙げて走ってきました。

「おはよう、志貴君」
弓塚さんはもう一度繰り返すと、志貴さまの隣にぴたっと寄ってきます。
そして志貴さまの顔を見上げて、ニコッと微笑みます。

「おはよう、弓塚さん」
志貴さまが隣に寄ってきた弓塚さんの笑顔に照れながら、
それでもにっこり微笑んで挨拶を返しました。

弓塚さんはいつもより間近で志貴さまの笑顔を見て真っ赤になっています。
まだまだ志貴さまの笑顔に対して耐性がついてないようです。


「今日はどうしたの、弓塚さん?
 ずいぶんと機嫌が良さそうだけど」
しばらく歩いてから志貴さまが尋ねます。
確かに機嫌が良さそうです、弓塚さん。
こう、何かとてもいいことがあったかのように。

「え、私そんなに嬉しそう?」
弓塚さんがニコニコしながら聞き返してきます。

「うん、すごく嬉しそうだよ、弓塚さん」
志貴さまがそう答えると、

「ふふ……
 朝から志貴君に会えたからでは理由にならないかな」
一歩前に出て上体を曲げて斜め後ろを振り向きつつ、志貴さまを下から見つめる弓塚さん。
頬を赤く染めながら積極的な発言をしました。

弓塚さんに見つめられて志貴さまは真っ赤に。
なんていうか、弓塚さん、その見上げ方は反則ですよ。
だれでもドキドキしてしまいます、そんなかわいらしく見上げられたら。

「……う、うん、あ、ありがとう」
志貴さまは照れてしまい、そっぽを向いています。
積極的な弓塚さんの発言にたじたじになっているようです。

「……朝から志貴君に会えたのも、嬉しい理由の一つだよ、志貴君」
弓塚さんが照れている志貴さまに話します。

「でもね、もっと嬉しい理由はね、別にあるんだよ。
 昨日、志貴君、私に電話してくれたでしょ?
 すごく嬉しかった。
 志貴君から電話なんて初めてじゃない?
 で、言ってくれたことはもっと嬉しかったよ。
 誘ってくれて……」
ここでいったん言葉を切ります。

「私は大丈夫。空いているから。
 よろしくね、志貴君」
ニコッと志貴さまに微笑みます。

「うん、じゃ昨日話した時間でよろしく」
志貴さまが真っ赤になりながら弓塚さんの方を見ます。

弓塚さんは志貴さまを見つめて
「うんっ!」
と大きく頷きました。



そうしてしばらく二人仲良く歩いてから、ふと弓塚さんが志貴さまに尋ねました。
「今日は一人なの、志貴君?」
辺りをキョロキョロ見回して、誰もいないのを確認しています。

「うん? うん、今日は一人だよ、弓塚さん」

今日の志貴さまは一人で登校です。
アルクェイドさまやシエルさんがいらっしゃらなかったので
のんびりと学校に向かっていたのです。

「珍しいよね、志貴君が一人で登校なんて」

「そうかな?
 そんなことはないと思うけど」

「ううん。志貴君はたいてい誰かと一緒だよ。
 だから一緒に登校できて嬉しいの」

今日は弓塚さんがとにかく積極的です。
志貴さまにスパッスパッと切り込んでいきます。
もう志貴さまはたじたじです。
ずっと真っ赤のままです。

「ふふふ」
嬉しそうに笑う弓塚さん。

「ずっとこうだったらいいのにな」
それは弓塚さんのささやかな願い。
昔から暖めてきた大切な想い。
その声は志貴さまに聞こえるか聞こえないかぐらいの小さな呟きです。
たぶん、志貴さまには届かないでしょう……

「えっ、何か言った、弓塚さん?」
やはり聞こえなかったようです。
弓塚さんに聞き返す志貴さま。

「なんでもないよ、志貴君」
弓塚さんは志貴さまの前まで歩いてクルッと振り返ります。

「なんでもないよっ!」
ニコッと笑いながら力強く返事をします。



ようやく学校が見えてきました。
弓塚さんの至福のひとときは終了です。

「あーあ、もう学校に着いちゃった」
弓塚さんが残念そうにしています。

「もっともっと志貴君と話していたかったのに」

これには志貴さまも言葉を返せず。
とにかく苦笑するのみです。

「まだまだ、これからも話せるよ、弓塚さん」
とりあえず慰める志貴さま。

少し考える素振りを見せた弓塚さんは
「そうだね、まだまだこれからもあるもんね!」
と明るく答えました。



二人は仲良く正門をくぐって、学校へ。
今日が終われば明日はお休みです。

今日は弓塚さんがいつも以上に積極的でした。
志貴さま、たじたじになっていましたしね。
よく考えるとお二人はお似合いのカップルですし、
一番カップルになる可能性が高いのではないのでしょうか。

アルクェイドさま、この状況はマスターにとってちょっとよくないようです。
大丈夫ですか、ご主人様?



6月17日(日) 早朝

志貴さまの寝顔を見つめていて、ふと思いました。
どうして、わたしはこの方を好きになったのだろうと。

以前にも考えましたが、今日もまた考えてしまいます。
結局のところ、志貴さまは人間で、わたしは魔です。
根本で違う―――生きる世界が違うのです。

前にも思いましたが、志貴さまを好きになったことを後悔しているわけではありません。
ただ、世界が違う種族なんだな、と。
種族が違っても好きな事実は変わりません。
ですが、根本で違うという事実に恐れをなします。

……それは川の対岸から眺めているだけ。
決して一緒になれないという冷たい現実。
一緒になるというのは魂までもどちらかの種族になるということ。
そしてそれは永遠に無理なこと……


アルクェイドさまも志貴さまに好意を抱いています。
いったいこの件に関してどのように考えているのでしょう……
教えてください、アルクェイドさま……



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6月17日(日) 午前

ようやく志貴さまが目覚めました。
日曜日とはいえ起きるのが遅いです、志貴さま。
ほかの方々はもう起きていらっしゃいますよ。

志貴さまが階下に降りていきますと、ちょうど翡翠さんが居間から出てきました。

「おはよう、翡翠」
志貴さまが笑顔で挨拶をします。

「あ、おはようございます、志貴さま。
 お目覚めの時にお側に控えておらず申し訳ございません」
居間のドアを閉めてから、翡翠さんが深々と頭を下げます。

「いや、俺が起きるのが遅いんだから、それはいいって。
 前にも言ったと思うけど、日曜日は側に控えてなくて構わないから。
 学校もないことだしゆっくり寝たいからね」
志貴さまが笑いながら、翡翠さんの頭を上げさせます。

「それに……翡翠を俺のために拘束するつもりは微塵もないからさ。
 いつ起きるかわからない俺なんかのために、時間を無駄にする必要はどこにもないから」

「……志貴さま、それは……」
翡翠さんがキッとした顔で主である志貴さまを真っ正面から見つめます。

「だから、俺が気にしなくていい、と言っているから気にしなくていいの。
 その気持ちだけで充分だから」
翡翠さんは志貴さまの言葉に真っ赤になってしまい、下を向いてしまいます。
ブツブツと反論しているようですが、言葉として聞き取れません。

志貴さまはそんな翡翠さんを優しく見つめながら、
「では改めて。おはよう、翡翠」
底抜けに明るい笑顔で朝の挨拶をします。
相変わらず志貴さまの笑顔は破壊力抜群です。

「……おはようございます、志貴さま……」
真っ赤を通り越して茹で蛸のような顔で返事をする翡翠さん。

「秋葉たちは居間に?」

「は、はいっ 秋葉様は居間におられます。
 姉さんも控えているはずです」

「わかった。用事があるのに引き留めて悪かったね、翡翠」
志貴さまはそう言うと、翡翠さんに笑いかけてから、居間に入っていきました。
翡翠さんはこの日二度目のフリーズ。



居間に入っていった志貴さま。

「おはよう、秋葉」
まずは秋葉さんに挨拶します。

「おはようございます、兄さん。今日も起きられるのが遅かったですね」
やれやれ、といった顔で秋葉さんが文句を言います。

「まあ、日曜日だし大目に見てくれ、秋葉」
志貴さまは苦笑いしながら、秋葉さんの前のソファーに座りました。

「あ、おはようございます、志貴さん」
ちょうど食堂から出てきた琥珀さんが志貴さまに挨拶をします。

「おはようございます、琥珀さん」
琥珀さんに返事をしてから、志貴さまは二人の顔を見回します。

「どうされたのですか、兄さん。私の顔に何かついています?」
志貴さまの行動で自分の顔に何かついていると思った秋葉さんが
片手で頬を押さえながら横を向いて、質問します。

「ん? なんでしょう、志貴さん」
琥珀さんが相変わらずの笑顔でニコニコ志貴さまを見つめています。

「……ん。
 平和だなぁと思って」
志貴さまが鼻の頭をぽりぽり掻きながら、恥ずかしそうに言いました。

「なんか、いいなぁと思ってさ。
 こうして家族で揃うとさ」
ちょうど翡翠さんが居間に入ってきて壁際に控えます。

「秋葉がいて、琥珀さんがいて、翡翠がいる。
 なんでもない光景かもしれないけど、これってかけがえのない光景なんだよなと思って……」
今日の志貴さまは詩人です。
妙に感傷的なことを口にします。

「……兄さん……」
優しい目をして志貴さまを見つめる秋葉さん。
「……志貴さん」
いつもの笑顔ではなく、見たこともない表情を見せる琥珀さん。
「……志貴さま……」
顔を真っ赤にして俯いてしまう翡翠さん。

「なんでもないいつもの光景かもしれないけどさ、ずっと続けばいいよな。
 虫のいい願いかもしれないけどね」
志貴さまは三人に微笑みます。透き通るようなあの笑顔で。



そうして三人をフリーズさせると、志貴さまは琥珀さんに呼びかけます。
「琥珀さん、ご飯できてる? お腹減っちゃってさ」

琥珀さんはハッと現実に戻ってくると、
「ただいまお作りいたします」
といって厨房にパタパタ走っていきました。



しばらくすると、秋葉さんと翡翠さんが凍結状態から戻ってきました。
二人とも恥ずかしそうに顔を赤らめています。
そんなお二人を志貴さまは優しく見つめました。

「に、兄さん……」

「志貴さま……」

志貴さまがお二人に何か声をかけようとしたときに、
食堂から志貴さまを呼ぶ声が聞こえてきました。
どうやら琥珀さんが志貴さまの食事の準備を終えたようです。

志貴さまは居間に残るお二人に優しく微笑みかけてから、食堂に入っていきました。
お二人はまたまたフリーズ。



琥珀さん特製の朝ご飯を食べ終わった志貴さま、
居間で秋葉さんたちと紅茶を飲みます。

「そういえば、兄さんの今日のご予定は?」
秋葉さんが身を乗り出すようにして尋ねてきます。
もし予定がないようなら、誘おうとしているのがありありと伝わってきます。

「今日は、ごめん。ちょっと先約があってさ……」
申し訳なさそうに秋葉さんに話す志貴さま。
あれっ?
今日は特にご予定はないはずですけど……

「先約って、どなたかと約束されていたのですか?」
秋葉さんが残念そうに尋ねます。
肩を落として、本当に残念そうです。

「……うん。友達と前から約束しててさ。
 結構前からの約束で、ずっと忘れていたんだ……
 悪い、秋葉」
心底申し訳なさそうに謝る志貴さま。

「……いいえ。約束は守らないといけません。
 またの機会でよろしいです」
秋葉さんは志貴さまの言葉を聞きあっさり引き下がりました。
前からの約束、という部分で引き下がったのでしょうか。



その後、しばらく四人で談笑をしました。
志貴さまがふと時計を見て、立ち上がります。
「悪い、もう約束の時間だから出かけなきゃ」
そう言ってドアの方に向かっていきます。

「兄さん、お帰りはいつ頃になりますの?
 夕食ぐらいは一緒にいただきたいと思うのですけど」
秋葉さんが志貴さまにお聞きしています。

「……そうだな、19時頃までには帰るよ。
 遅くなるようなら電話するからその時は先に食べてて」
そう言って秋葉さんに微笑みます。

「わかりました。
 待っていますので早めにお帰りになってくださいね」
秋葉さんは顔を赤く染めながらそれだけ言うと、立ち上がります。

「ん、どうした、秋葉?」

「兄さんの見送りです。たまには妹らしくしようと……」
顔が真っ赤になっています。
かわいいところもあるのですね、秋葉さん。


翡翠さんと琥珀さんも後を追いかけていきます。
結局、三人で見送ることになったようです。

「今日は大勢で見送りだな」
志貴さまはそう言って笑ったあと、
「じゃ、行って来ます」
と三人に挨拶して玄関を出ていきます。

翡翠さんが見送りしようと外まで出ると、
志貴さまが振り返って
「見送りはいいよ、翡翠。
 日曜ぐらいゆっくり休んでて」
と優しく声をかけます。

翡翠さんは志貴さまの言葉にかぶりを振って
「いえ、主人を見送るのがメイドの役目。
 見送らせてください、志貴さま」
とメイドの鏡みたいなことを言い切ります。

志貴さま、ちょっとフリーズ。
顔を赤くしながら、
「それではお願いするよ、翡翠」
と言って門に向かっていきます。



大きな遠野家の門の前で志貴さまは翡翠さんに見送られてます。
「それでは行ってらっしゃいませ、志貴さま」
深々とお辞儀をする翡翠さん。

しばらくたっても志貴さまが去っていく気配がしなかったので
不思議に思ったのか、翡翠さんが頭を上げると
「やっと頭を上げてくれた」
と言って志貴さまが微笑んでいます。

志貴さまの微笑みを見て赤くなる翡翠さん。

志貴さまは改めて翡翠さんの方に向くとまじめな顔つきになって謝ります。
「悪い、翡翠。約束を破るような形になって。
 次の機会に必ず守るから、今日はごめん」

「そんなに謝らないでください、志貴さま。
 次の機会にお誘いいただければ結構です。
 ですので頭を上げてください、志貴さま」
そこまで言うと、ふと翡翠さんがクスリと笑います。

「さっきと逆になってしまいましたね、志貴さま」

翡翠さんの笑い声で頭を上げた志貴さまが、
笑顔を見て真っ赤になります。
わたし、初めてです、翡翠さんがはっきりとわかる笑顔を見せたのは。


「それでは行ってらっしゃいませ、志貴さま」
翡翠さんが再度頭を下げます。

志貴さまは
「じゃあ、行って来ます、翡翠」
と言って街の方面に歩いていきました。




志貴さまが出かけていきました。
今日は予定が入っていなかったはずなのですけど……
どなたと出かけるのでしょうか?

うーん……

あ、もしかして……
彼女と出かけるのでしょうか?

前からの約束というと彼女しか思いつきません。

さて、アルクェイドさまに報告するか、
誰と出かけるのかを確認するか……

よし、どなたと出かけるのかを確認してから報告しましょう。
報告するのなら、誰と出かけるかぐらいわからないとダメですね。

ということで志貴さまのあとをついていくことにしました。
さて合っているでしょうか、私の予想は……



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6月17日 午後 前半

ゆったりとした歩調で街の方向へ歩いていく志貴さま。
わたしはその後ろをゆっくりついていきます。
志貴さまに見つからないように、猫科特有のしなやかな動きで
音も立てずに歩きます。

しばらく歩いていくと、志貴さまは公園の方向へ足を向けました。
待ち合わせ場所は公園なのでしょうか。

志貴さまは公園に入りますと辺りを見回します。
そして目的の人物を見つけたのか、手を挙げてからゆっくり近寄ります。

どなたでしょう。
わたしは見つからないように出来るだけ近づき、
志貴さまとお出かけする相手を確認することにしました。


公園で待っていたのはツインテールが似合う少女。
綺麗というより可愛いという感じの顔立ち。
満面に笑みを浮かべ、志貴さまに駆け寄ってくるその姿は……

やはり、弓塚さんでした!
志貴さまはどうやら弓塚さんと約束していたようです。


「やぁ、弓塚さん、待った?」
志貴さまはチラッと時計を見てから、申し訳なさそうにしています。

「こんにちは、志貴君。
 私は、ちょうどさっき来たばかりだから」
弓塚さんはそこでいったん言葉を切り志貴さまを見つめます。

「ホントに志貴君だよね。
 嬉しい……志貴君と出かけられるなんて……」
顔を赤く染め、下を向きながら、かわいらしい発言をする弓塚さん。

志貴さまはそんな弓塚さんを見て微笑みました。
「そんな、俺で良かったら、いつでもいいよ。
 ……ごめんね、約束したのに守れなくて……」
最後の方の言葉を言うときは、真顔になって弓塚さんに謝っています。

「ううん、いいよ!
 だって志貴君は約束をちゃんと守ってくれたもん。
 ほら、志貴君は他の人とのこともあるから私に構ってられないでしょ?
 それでも、今ちゃんと約束を守ってくれているんだし……

 ……だから、そんな謝ることはないよ、志貴君……」
弓塚さんはにっこりと笑って志貴さまの目を見つめます。

「……ありがとう、弓塚さん」
志貴さまはにっこりと笑った弓塚さんをまぶしそうに見つめて、
顔を赤くしてお礼を言います。

「……でもね、一つだけ弓塚さんは間違えてるよ。
 私に構ってられないでしょ≠チてそんなことはないよ。
 俺にとって弓塚さんも大切な友達なんだから……」
ちょっと怒った風に弓塚さんを諭す志貴さま。

「……ごめんなさい」
弓塚さんはシュンとなって謝ります。
そして、口元に笑みを浮かべて、
「ありがとうね、志貴君……」
とお礼を言います。



「フフ……」
弓塚さんがニコニコしながら、笑みを漏らします。

公園を出て街に向かう途中。
二人仲良く歩いていたら、いきなり弓塚さんが笑みを漏らしました。

「ん? どうしたの、弓塚さん」
志貴さまは隣にいる弓塚さんに尋ねます。

「フフ、志貴君と出かけられる日が来るなんて……
 なにか夢みたいで……」
満面の笑みを浮かべる弓塚さん。

弓塚さんにそんなことを言われた志貴さまは真っ赤になっています。
あらぬ方向を向き、頬をぽりぽり掻いています。

「誰かに見つかったら噂になっちゃうね。
 どうする、志貴君、噂になんかなっちゃったら?」
弓塚さんは恥ずかしそうに聞いてきます。

「噂も何も一緒に出かけてるのは事実だしね」
そう言って志貴さまは笑います。

「いいんじゃない、別に。
 俺や弓塚さんが気にしなければ、何言われようともさ」
真っ直ぐに弓塚さんを見て、志貴さまは言い切ります。

「……うん、そうだよね。
 誰かに何か言われても私たちが気にしなければそれでいいんだもんね」
弓塚さんはそう言うと、志貴さまの腕を取ります。

「えっ、え?」

「だから誰かに何か言われても、私たちが気にしなければそれでいいんでしょ?」
弓塚さんは真っ赤になりながら、そんなことを言うと
そのまま腕を組みます。

「……じゃあ、行きましょう、志貴君!」
見事に志貴さまと腕を組むことに成功した弓塚さんは、真っ赤な顔をして
そのまま志貴さまを引っ張るように歩いていきます。

志貴さまは腕を取られながら、呆気にとられています。


うまいです、弓塚さん。
見事に志貴さまと腕を組むことに成功しました。



そうしてそのまま街に向かって進んでいく志貴さまと弓塚さん。
わたしは気づかれないように後をつけます。


今日の志貴さまは弓塚さんとデートですね。
ここまで見届ければ充分です。
わたしは使い魔としてアルクェイドさまに報告しなければいけません。

志貴さま、申し訳ございませんが、またもやアルクェイドさまの邪魔が入るかもしれません。
お許し下さい。

弓塚さんにも悪いことをしている気がします。
せっかく夢が叶ったにもかかわらずそれを邪魔しようとしているのですから。
ですけど、わたしは使い魔。
マスターの指示が絶対なのです。

……ごめんなさい



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6月17日(日) 午後 中間 1

街へ向かっていく志貴さまと弓塚さん。
弓塚さんは志貴さまを逃がさないかのように、しっかりと志貴さまの腕を胸に抱きしめています。
そう、腕を組むというよりは腕を抱きしめている。そんな感じなのです。
弓塚さんが体全体を使って志貴さまの腕をかき抱いています。
志貴さまからすると自分の腕に弓塚さんがぶら下がっているに等しいのです。、
先ほどから志貴さまが真っ赤になって、困った顔をしています。
あの抱きしめ方ですと弓塚さんの胸にしっかりと納まっていますので
その胸があたっているという事実に困惑しているのでしょう。
その感触と周りの方の目を気にして真っ赤になっているようです。
端から見るとお似合いの相思相愛なカップルに見えますが、
志貴さまはとにかく恥ずかしいらしいです。

「あの、弓塚さん。別に逃げるわけではないのだから
 その腕の組み方はちょっと……」
しばらくそのままで歩いていたら、志貴さまがもう降参という感じで
恐る恐る弓塚さんに腕の組み方について提案しました。

「だめ。志貴君とはこうやって腕を組みたいの」
弓塚さんは真っ赤になりつつも、志貴さまの腕を放そうとはしません。

「せっかく、志貴君と出かけられたのだから、このままがいいな」
続けて弓塚さんは志貴さまを見上げるようにしてお願いしています。

腕を組まれたまま、間近で弓塚さんと見つめ合う形になってしまった志貴さま。
またもや真っ赤になって黙ってしまいます。

「ダメなの、志貴君?」
弓塚さんのだめ押しです。
志貴さまの性格なら断らないだろうというのを読んでの発言でしょう。
見事です、弓塚さん。

「……そこまで弓塚さんが言うのならいいけど」
志貴さま、予想通り白旗。
弓塚さんの好きなようにさせるようです。

「ありがとう、志貴君」
弓塚さんはまたもや志貴さまを見上げるようにしてお礼を言います。

その顔、愛らしいの一言に尽きます。
同性のわたしですら 「可愛い」 と思ってしまった弓塚さんの笑顔。
志貴さま、真っ赤な顔を隠すようにそっぽをむいています。



さて、長々と見てしまいました。
先ほど行こうとしたのですけど、思わずお二人のことを見守ってしまいました。
もうそろそろアルクェイドさまのところに報告に行かなければなりません。
わたしはそろそろと音もなくお二人から離れると、
アルクェイドさまのマンションへ向かおうとしました………



その時、風に乗りお二人の会話が途切れ途切れに聞こえてきました。

「そうい……アルクェイドさ……君の知……いの金……姉さ……」

弓塚さんがマスターの名前をしゃべっています。
いったい何をしゃべっているのでしょう。
アルクェイドさまの元に行くのはひとまず後にして、
志貴さまと何を話されているか聞くことにしました。


「そ……けど、そ……がどうしたの?」

ここまで近寄ればお二人の会話を聞くことが出来ます。
どんなことをしゃべられているのでしょう。


「この前、先々週の日曜日だっけ? 志貴君が妹の秋葉さんと出かけていたよね。
 その時、私、志貴君を大きな声で呼んだのだけど、あれって実はわざとなんだ」

弓塚さん、衝撃の告白。
志貴さまと秋葉さんがデートしていたときに、
志貴さまに大きな声をかけたのが実はわざとだなんて……
アルクェイドさまがそのことを知ったらきっとお怒りになるでしょう。
しかし、どうしてそのようなことをしたのでしょうか。


「街を歩いていたらアルクェイドさんがね、なにかこそこそしていたのよ。
 何をしているのかなーと思って見ていたら、視線の先には志貴君がいるじゃない。
 秋葉さんと出かけている志貴君をこそこそ見ているアルクェイドさん。
 そこでピンときたのよ! 彼女は志貴君の邪魔をしようとしているに違いないと」

そこでいったん言葉を切る弓塚さん。
そして続けます。

「志貴君の邪魔をさせるわけにはいかないと思ったの、その時。
 ではどうやって志貴くんを守ろうかなーと考えて、
 まず最初にアルクェイドさんに声をかけるところから始めることにしたの。
 声をかけて話していると、アルクェイドさんがおもむろに志貴君のことを指さして
 ちょっと邪魔をしようかなーなんて≠ニ隠すそぶりもなくあっさり教えてくれたから
 これは急がないとダメだな、と思って大きな声で志貴君に声をかけたんだ」

ここで志貴さまを見つめる弓塚さん。
見つめられて赤くなる志貴さま。

「思うにああいうのはタイミングなんだよね。
 こう機先を制するというわけでもないんだけど、
 私が大声で志貴君を呼んだから、邪魔する気がなくなっちゃったというか。
 まあ、あのあとに志貴君がアルクェイドさんの頬を撫でて
 完全に沈黙させちゃったから邪魔しなかったというの充分考えられるけど……」

あの時の志貴さまの行動を思い出したのか羨ましい顔をする弓塚さん。
志貴さまは自分の行動を思い出して赤くなっています。

しかし、正直びっくりです。
弓塚さんがそんなことを考えていたなんて。
とてもそんなことをするような方には見えません。
恋する乙女はかくも怖いモノなんですね。


とりあえず報告することが一つ増えました。
先々週の弓塚さんの行動は実はわざとということが。
正直、報告するのは気乗りしません。
これをアルクェイドさまに報告したら、弓塚さんがいじめられてしまうだろうから……

今日、志貴さまと弓塚さんがデート中というのは報告すべきことですので
アルクェイドさまに報告いたしますが、弓塚さんの件はどうしましょう。

困りました……



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6月17日(日) 午後 中間 2

わたしが今度こそ本当にアルクェイドさまのマンションに戻ろうと
踵を返したら、後ろから声が聞こえてきました。

「あ、この前の猫だ」
志貴さまの声がします。

「わあ、綺麗な毛並みだね、この猫」
弓塚さんの声もします。



不思議です。どうしてこんなに近くでお二人の声が聞こえてくるのでしょう……
先ほどはもっと距離が離れていたと思ったのですけど。
わたしがおそるおそる後ろを振り返ると、なんとお二人がすぐ側に立っていました!

いつの間に近づかれたのでしょう。
まったくそんな気配を感じませんでした。
人間の気配をここまで感じ取れないとはショックです。
志貴さまだったから気配を感じ取れなかったのでしょうか。
それにしても、弓塚さんの気配も感じ取れないとは……
志貴さまはわからないこともないです。
あの方は死に近い方です。醸し出す雰囲気が生気あるものでなくても不思議ではないです。
どちらかといったら我々に近い側の気配ですので、自分の気配に紛れやすいのです。
なのでわからないこともないのです。
ここでの問題は弓塚さんです。
彼女は普通の人間です。彼女には気づいてしかるべきなのです。
何故気づかなかったのでしょう……

ん?

よく感じると弓塚さんの気配は普通の人間とちょっと違う感じがします。
どちらかといったら、我々に近い感じ……

もしかしたら彼女は人間でも我々に近い何かを持っているのかもしれません。
話には聞きます。
時々、人間でも我々に近い者が存在するということに。

もしそうだとしたら納得します。
このお二人にあっさり接近を許してしまったことが。


わたしがいろいろと考えていたら、お二人がわたしに向かって手を伸ばしました。

「おいでおいで」
志貴さまが手を伸ばしながらわたしを呼びます。

さてどうしましょう。
わたしは志貴さまと弓塚さんの件をアルクェイドさまに報告をしないといけません。
ですのでここは一刻も早くこの場から立ち去りたいのですが……
かといってこのまま踵を返して逃げるとかえって怪しまれるかもしれません。
ここは流れに身を任すしかないのでしょうか。

「ニャア」
わたしは覚悟を決めると、手を差し出している志貴さまに向かって
とことこ歩いて近づきます。

「おいで」
志貴さまが再度わたしのことを呼びます。

わたしは志貴さまの手を舐められるところまで近づくと、ぺろっと舐めました。

「ニャア」
さらに志貴さまの手をもう一舐めしてからお二人のことを見上げます。

志貴さまはニコニコして、わたしの背中を撫でてくれます。
弓塚さんは……
弓塚さんはわたしのことを見て怪訝そうな顔をしています。
……はて?
わたしは弓塚さんに怪しまれるような行動をしたつもりはありませんが、
何か彼女の警戒網に引っかかってしまうようなことをしてしまったのでしょうか。

わたしが弓塚さんについて考えていると、
志貴さまが首をなでてくれました。

「なんだ、お前。この前の猫か」
志貴さまがぐしゃぐしゃとちょっと強めに体を撫でてくれます。

「ニャア」
志貴さまの目を見つめて返事をします。

「弓塚さん、俺、この前この猫に会ってる」
志貴さまがわたしを撫でながら弓塚さんに話しかけます。

「……いつ会ったの、志貴君」
怪訝そうな顔をしたまま、志貴さまに尋ねる弓塚さん。

「いつって……
 確か……先週の日曜日かな?
 先輩の家に行く途中で妙に懐かれた記憶があるなぁ」

「その前にも見たことある? 志貴君」

「……うーん、その前に見ているかは覚えていないけど、
 最近ちらっちらっと見かけているかも。
 視界の隅にこの猫かどうかは知らないけど黒猫を見ることが増えているんだ」

ドキッ。
今まで見られていなかったつもりなのですが、じつは志貴さまに
何度か目撃されていたとは。
驚きです、まったく。



「この猫ね、先々週、アルクェイドさんと一緒にいた猫だよ」
弓塚さん、爆弾発言。

「先々週の日曜日、アルクェイドさんの側にいたのを見てるの、私」
わたしのことを見つめたまま、志貴さまに話しかける弓塚さん。

「彼女って猫を飼っているの、志貴君」

「いや、飼っているとは聞いたことがないな、俺は」
志貴さま、弓塚さんの質問に答えてます。

確かにわたしのことは志貴さまに伝わっていないはずです。
見張りをさせているのに、わざわざ怪しまれるようなことを言うはずがありません。
……たぶん
アルクェイドさまの考えは時に理解しがたくなるので何とも言えませんが。


とりあえずわたしは鳴いてごまかすことにしました。
普通の猫っぽくすれば、疑いは晴れてくれるでしょう。

「ニャアー」

……全然、疑いが晴れそうにもありません。
むしろ弓塚さんの顔つきが厳しくなったような気がします。


「たまたまじゃないの、弓塚さん」
志貴さまが楽観的な口調で弓塚さんの疑問を氷解させようとします。

「たまたま、アルクェイドの近くに黒猫がいてさ、
 たまたま、このところ黒猫をよく見かけるようになっただけで。
 別にこの猫がアルクェイドの飼い猫なんていう絶対の証拠もないんでしょ?
 偶然じゃないの、弓塚さん?」


「……うーん、そうかな」
弓塚さんが楽観的な志貴さまの言葉に少し自信をなくしたようです。
先ほどまでと比べると幾分険しさがとれた感じです。

「おいで……」
今度は弓塚さんがわたしを呼びます。
あまり近づきたくないですけど、怪しまれるよりはマシです。
鳴きながら弓塚さんの足下に近寄ります。

……と、いきなりわたしの体が持ち上がりました。
どうやら弓塚さんが両手でわたしのことを持ち上げたようです。

「志貴君、この子、女の子みたい」
わたしの身体を見て、そんなことを言う弓塚さん。

やめてください!
わたしの裸を見ないでください!!
わたしはニャアニャア鳴いてじたばたしますが、弓塚さんは離してくれません。
まずいです、志貴さまがわたしの体をのぞきこもうとしています。

「どれどれ。
 あ、そうだね、この子は女の子だね」

ガーン
…………志貴さまに見られてしまいました。
わたしの裸を志貴さまに見られてしまいました。
ショックです。
まさか公衆の面前でわたしの裸を見られてしまうとは。
ひそかにお慕い申し上げている志貴さまにわたしの裸を見られるなんて……
わたしは弓塚さんの腕の中でじたばた暴れました。
もうダメです。
志貴さまに見られてしまった……
わたしは絶望の鳴き声を上げて、一刻も早くこの場を離れようと暴れます。

「かして、弓塚さん」
暴れまくるわたしに困ってしまった弓塚さんが、志貴さまにわたしを渡します。

「ごめんな、裸を見て」
志貴さまがわたしの目を見つめて謝ってくれます。

「お前は女の子なんだよな。あんな風に見てごめん」
志貴さまが本気で猫の姿であるわたしに謝ってくれます。
冗談ではなく真面目な顔つきです。

「ごめん」

……志貴さまが本気で謝っているのが伝わります。
嫌がっているわたしに対して本気で謝っているのが……
わたしは志貴さまと弓塚さんを許すことにしました。
動物に化けている以上、こういうことも起こり得ます。
たまたま、志貴さまに見られてしまったということです。
……こう考えないと、やりきれません。

わたしは許したことを伝えるため、一声あげました。
「ニャアー」

志貴さまに伝わったかどうか不安です。
どうでしょうか。

志貴さまはわたしの鳴き声を聞いて、わたしを降ろしてくれました。
わたしは志貴さまの足下に近寄り、体をこすりつけます。

「ホントにごめんな」
志貴さまは自分の足に体をこすりつけているわたしの頭を撫でてくれました。


やはり志貴さまはすごい方です。
わたしの裸を見たことはおいといて、動物に化けているわたしをないがしろにしないのが。
わたしはさらに志貴さまを好きになってしまいました。
志貴さま、大好きです。



「じゃあ、行こうか、弓塚さん」
志貴さまは立ち上がると、弓塚さんのほうに振り向きます。

「この猫がアルクェイドの側にいたという猫かはわからないし、問題ないよね」
まだちょっと疑問に思っている顔つきの弓塚さんに尋ねる志貴さま。

「……んー、そうなのかなー」
まだ、納得できない弓塚さんが呟きます。

「このごろね、ちょっと思うことがあっていろいろと本を読んだのだけど……
 たいていの、人に使役される……いわゆる使い魔としての猫は黒が基本なんだって、志貴君。
 私はこの猫がそういう猫と信じるわけでもないけど、何か引っかかるモノを感じちゃって……」

ドキッ!
弓塚さんは何かわたしのことを知っているのでしょうか?
今までミスらしいミスをしたことがないと思ったのですけど……
彼女はわたしに何を見ているのでしょう。
……正直、怖いです、彼女が。


「志貴君。今までで何故かアルクェイドさんが知っていたということってない?
 例えば……
 誰かと出かけていたことが、いつの間にか伝わっていたとか……」
弓塚さんが志貴さまに尋ねます。

弓塚さんの質問に考え込む志貴さま。

「そういえば……
 前に秋葉と出かけていたのを先輩が知っていたことがあったんだ。
 その時、先輩は アルクェイドから聞いた≠ニ言っていたなぁ。
 何故そのことをアルクェイドが知っていたかちょっと疑問に思ったりもしたけど、
 たまたまどこかで見かけたのだろうとその時は考えたんだ。
 確かにこいつがアルクェイドに報告しているのなら納得いく」

そう言ってわたしのことを見る志貴さま。
 
「……けど、猫だよ、弓塚さん。
 そんなことをしているとは思えないよ。
 こいつ、こんなにかわいいんだし……」
そう言って頭を撫でてくれる志貴さま。
志貴さまの手が気持ちいいです。

「……うーん。
 そこまで志貴君が言うのなら違うのかな」
そう呟き、改めてわたしを見る弓塚さん。

「では、今日のことがアルクェイドさんに伝わっていたら、
 この猫がアルクェイドさんに何かしらの情報を伝えているということにしましょう」

ビクッ。
弓塚さん、なんという提案をするのでしょう!
これでマスターに報告することが出来なくなってしまいました。
もし、アルクェイドさまが今日のデートを知ったら、
志貴さまにわたしがアルクェイドさまの使い魔だということがばれてしまいます。
何故、弓塚さんがわたしを疑うのか、
そしてアルクェイドさまを使い魔を使役する人と思うのかわかりませんが、
彼女なりに何か感じることでもあったのでしょう。
彼女はどちらかといったら我々に近い側の人間。
何かしら感じ取ったとしても不思議ではありません。


「大丈夫だよ、弓塚さん。それは考えすぎだって」
笑顔で弓塚さんの心配を打ち消す志貴さま。

「考えすぎに越したことはないんだけどね」
弓塚さんはそう答えると、わたしをチラッと見てから志貴さまの腕を取りました。


「さあ、それではデートの続きをしましょう、志貴君!」

弓塚さんが志貴さまを引っ張るようにして歩いていきます。
志貴さまは名残惜しそうに片方の手でわたしの頭を撫でると、
そのまま弓塚さんに引っ張られて離れていってしまいます。

「ニャアー」

わたしは最後まで猫の振りして、志貴さまたちに挨拶しました。
疑われているとはいえ、あっさりと正体を明かすわけにもいきません。



……しかし、びっくりです。
弓塚さんにほぼ正確に見破られているのが。
志貴さまを見張っているのがバレバレです。
これではうかつには動けません。
なまじアルクェイドさまに報告してしまうと、
アルクェイドさまの立場まで悪くしてしまいそうですし……

とりあえずアルクェイドさまに報告するのは控えることにします。
これはわたしの独断ですけど。
アルクェイドさまに説明したら、感情のままに行動されそうですし、
そうなると疑いが確定になってしまいます。
後々のことを考えると、今はまだわたしが使い魔だということを確定させるわけにはいきません。
ここは弓塚さんの言うとおり、黙っているのが最良の選択かと思います。


さて、方針は決まったけど、どうしましょう。
これで志貴さまたちにまたもや見つかったら最悪です。
志貴さまと弓塚さんの後を追うか追わないか……
ここは考えどころです。
さてどうしましょう……



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6月17日(日) 午後 中間 3

志貴さまと弓塚さんが離れていきました。
わたしは黒猫の姿のままでお二人を見送ります。
ゆっくりと腕を組んで歩いていく二人。
わたしは元いた場所でそれを眺めています。

ようやく視界からお二人が消えました。
ゆっくり歩かれていたので結構時間がかかりました。


……さて、どうしましょうか。
弓塚さんに怪しまれている以上、黒猫のままで後をつけるのは非常に危険です。
ただでさえ疑われているのに、これ以上疑われたら身動きがとれなくなってしまいます。
今は弓塚さんだけが疑っている状況です。
でも、次見つかったら志貴さまにまで疑われてしまう可能性が高いです。
そんな危ない橋を渡るわけにはいきません。


後をつけない、という選択肢もあることはあるのですが、その選択は出来ません。
今回、弓塚さんに見破られているような状況ですのでアルクェイドさまには報告できませんが、
だからといって、後をつけずに安全策を採るだけでは使い魔として失格でしょう。
人間に見破られたからといって行動に制限を受けるのはどうかと思います。



わたしはちょっと考えると、近くにある繁みに飛び込みました。



しばらくしてから誰も側にいないのを確認すると、
わたしは繁みに飛び込んだ時と違う姿で出ていきました。
背丈からいうと大きすぎるきらいもある黒いリボン。
マスターと同じく赤い綺麗な瞳。
透き通るような輝きを持つ、くせのないサラサラと流れる蒼く長い髪。
リボンに合わせたかのような漆黒の服。
人間でいうところの十歳ぐらいの年頃を思わせる容姿。
自分でいうのはなんですけど、愛らしい姿だと自負しております。

わたしは使い魔として人間にも当然化けることが出来ます。
以前、志貴さまとぶつかってしまったこともありますし。
今回はこの格好で志貴さまの後をつけることにしました。
もちろん、猫の時と同じぐらいに細心の注意を払います。
弓塚さんにはこの格好の時のわたしは知られていませんので安心でしょう。
気をつけるとしたら、志貴さまだけです。
過去にぶつかる、という接点を持ってしまっているためそこから疑われる可能性があります。
今回はあくまでも弓塚さんの目をごまかすために、あえて人間の姿をとることにしました。



わたしは自分の格好をチェックして問題がないのを確認すると、
志貴さまたちの後をつけるために小走りに走っていきました。
ちょっと時間がたってしまったので、歩いていたら追いつけそうもありません。
ここまでして見失ったら最悪です。
わたしは怪しまれない程度に急ぎます。


さきほどから考えていたのですが、今回の件はあくまでもわたしのところで止めておきます。
アルクェイドさまに報告した場合のデメリットとメリットを天秤にかけると、
報告しない方がいいような気がします。
もちろん報告しないからといって、
志貴さまと弓塚さんのデートの結果を見届けないわけではありません。
これから先のことを知っていると知らないではだいぶ状況が違うでしょう。
とりあえず、志貴さまと弓塚さんがどれくらい親密になるかチェックしておかないと。

マスター、弓塚さんにばれてしまったので今回は報告できそうもありません。
申し訳ございません……



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6月17日(日) 午後 後半

人間の格好になって志貴さまと弓塚さんの後を追いかけます。
出来るだけ急いで、なおかつ怪しまれない程度にです。

猫に化けている時と違って、近道が出来ないのが痛いです。
家々の間とか塀の隙間とかを進んでいきショートカットする技が使えないのは
人間の時のデメリットです。
その代わり、大通りとかで怪しまれないのですけどね。
後は関係ない野良犬とか野良猫に絡まれないのもメリットでしょうか。


しばらく小走りに走っていると、遠くの方にお二人が腕を組んで歩いているのを見つけました。
さて、どういたしましょうか。
近寄りたいのはやまやまですが、これ以上近寄ると弓塚さんに見破られてしまいそうなので
しばらく様子を見ることにしました。


弓塚さんは志貴さまの腕を取って、自分の胸に抱え込んでいます。
志貴さまは未だ慣れないのか、顔を赤くしています。
弓塚さんはそれはそれは楽しそうにニコニコして、志貴さまを引っ張ってぐんぐん先に進みます。

もう少し近づかないと会話が聞こえません。
わたしは危険を承知の上でもう少し近寄ることにしました。


「ねぇ、志貴君。この水着ってわたしに似合うかな?」
ウィンドウに飾られている水着を見て、目を輝かせる弓塚さん。
もう店は夏物のバーゲンセール真っ最中です。
色々な水着がマネキンに着せられて展示されています。
その中で弓塚さんが志貴さまに尋ねたのはシンプルなかわいらしいワンピースの水着。
ベースは白地で淡いピンクで所々にアクセントをいれた、いかにも弓塚さんに似合いそうな水着です。

「似合うと思うよ、弓塚さんに」
志貴さまはにっこりと弓塚さんに笑いかけます。

「ほら、弓塚さんってかわいい顔だから、こういうのが似合うと思うよ。
 うん、なんか弓塚さんのイメージに合う気がする」
志貴さまが照れもせずに爽やかな顔をして言い切ります。
これを聞いた弓塚さん、まるでトマトのように真っ赤になりました。

「あ、ありがとうね、志貴君」
もうここまで言われると、お礼を言うしかなくなるといいますか……
弓塚さんはどもりつつも褒めてくれた礼を口にします。

「今年の夏用に買おうかなー」
志貴さまに似合うと言われたのが決定打か、弓塚さんはウィンドウから目を離しません。

「ま、今日買わなくてもいいと思うよ。まだまだ夏はこれからだし」
水着に釘付けになっている弓塚さんに志貴さまは笑いかけます。

「そうなんだけどね」
弓塚さんは何かを考えるような顔つきをして、ウィンドウから目を離し志貴さまと向き合います。

「……もし、これ買ったら、志貴君、一緒に出かけてくれる?」

「はい?」
志貴さまびっくり。いきなりそんなことを弓塚さんに言われて、かなり驚いています。

「え、えと、弓塚さんと?」
志貴さま、どもりつつ聞き返します。
見ていると志貴さまの顔が真っ赤になっています。
それは弓塚さんからデートに誘われたからなのか、
それともその水着を着たところを想像したのかはわかりませんが、とにかく真っ赤です。

「……う、うん。私とじゃ、い、いやかな?」
恐る恐る聞き直す弓塚さん。
顔を真っ赤にし、恥ずかしさのあまり下を向き、モジモジしながら志貴さまに尋ねています。
もし、志貴さまに断られたらという思いがわたしにまで伝わってきます。
勇気を振り絞っての発言に志貴さまは何と答えるのでしょうか?

「お、俺でよければ構わないよ。ていうか俺でいいの?」
志貴さまが尋ね返します。

それを聞いて弓塚さんは飛び上がるぐらいに喜んで顔中に笑みを広げました。
「うん、志貴君でないとダメ! 私、志貴君しか誘わないもん!
 ……ありがとう、志貴君」
弓塚さんは感極まったのか嬉し泣きしています。
そこまで志貴さまのことを慕っているのですね、弓塚さん。

お聞きしたところによると弓塚さんは志貴さまのことを中学時代から想い続けていたとのこと。
やっと想いが通じたのでしょう。
朴念仁とか唐変木とか極悪人とか言われている志貴さまに……


しばらくの間、静寂が流れます。
感極まっている弓塚さんとそれを優しく見守る志貴さま。
他人が見たら誤解されてしまうかもしれない光景ですけど、このお二人には関係ありません。
ただただ、感動している女の子と優しく見守る男の子がいるだけです。
それは他人が足を踏みいれていい領域ではないのです。


ようやく弓塚さんが顔を上げました。

「大丈夫、弓塚さん?」
志貴さまが心配そうに尋ねます。

「うん、大丈夫。心配かけてゴメンね」
弓塚さんはそう言うと、志貴さまの目を見て、決意あふれる言葉を口にしました。

「じゃ、志貴君、水着買ってくるから約束守ってね!」

「え?」
志貴さまが驚いているうちに、弓塚さんは店内に駆け込んでいきました。
どうやら本当に件の水着を買うようです。


志貴さまが呆然としているウチにお店の袋を大事そうに抱えた弓塚さんが店内から出てきました。
ホントに購入されたようです。

「お待たせ、志貴君!」
袋を抱えたまま、ニコニコしている弓塚さん。

「志貴君、約束は守ってね。ちゃんと水着買ってきたしね」
志貴さまの目を見つめて、真面目な顔になって念を押す弓塚さん。

呆然としていた志貴さまですが、弓塚さんに念を押されて頷きます。
「うん、約束したし、俺でよければ一緒に出かけよう。夏休みに入ったらだけどね」

「やったー 絶対絶対だよ、志貴君!」
弓塚さんは小躍りしそうなぐらいに喜んでいます。
志貴さまはそれを見て微笑んでいます。


「じゃあ、次のところに行こうか」
ひとしきり、喜び終えたのを確認してから志貴さまが声をかけます。
弓塚さんは 「うん」 と返事をしたかと思ったら、
またもや志貴さまの腕を取って自分の胸にかき抱きます。

「……また、腕組むの?」
恥ずかしそうにしている志貴さま。

「うん、今日のこれは譲れない!」
明るく言い切ると、弓塚さんはギュッと志貴さまの腕を抱きしめます。

そんな、弓塚さんを見て微笑むと、志貴さまたちはゆっくり歩き始めました。



夏が本格化する前のちょっと強い日射しを浴びながら、二人は街を歩きます。
弓塚さんが至るところで立ち止まり、その都度志貴さまに話しかけます。
引っ張られる形になった志貴さまは、柔らかな笑みを浮かべて
弓塚さんが話しかけることに一つ一つ丁寧に答えています。
見ていると暖かくなる、微笑ましいカップル。
まだ初々しさが抜けず、ぎこちない面が見ている人の笑みを誘い、
あとに爽やかな空気を残していきます。
弓塚さんは全身で喜びを表現し、まるで子犬のように志貴さまの腕にしがみっぱなしです。



やがて彼女にとって夢のような楽しい一時は終わりを告げ。
暖かな日射しも力を失い、湿気を含む風が流れ始めたころ、
二人は最初に待ち合わせた公園に居りました。
ベンチに座って、いろいろなことを話す弓塚さん。
今日一日しゃべっていたのにまだ話題が尽きないのか、ずっと志貴さまに話しかけています。


「もう、こんな時間なんだね」
ふと弓塚さんが手元の時計を見て、悲しそうに呟きました。

「せっかく、志貴君と楽しい時間が過ごせているのにもう終わりだなんて……」

「うん、今日は楽しかったよ、弓塚さん」
志貴さまは明るく彼女に元気を出させるかのように、話しかけます。

「また、一緒に出かけられたらいいね」
今日のことを思い出してか、微笑みを浮かべながら弓塚さんの顔を見つめます。

「うん! また一緒に出かけようよ、志貴君。
 今度もきっと楽しいはずだよ、絶対に」
志貴さまにまた誘われたのが嬉しかったのか、弓塚さんが元気よく答えます。

「志貴君と一緒に出かけられて、私、嬉しかった。
 またこんな嬉しいことを味わいたいの。
 志貴君、また私のことを誘ってくれる?」
弓塚さんが両手を胸の前でもじもじさせながら、志貴さまに問いかけます。

「また行こう、弓塚さん。俺も今日は楽しかったよ。
 いつ、とは具体的に約束できないけど、誘っていいかな?」
志貴さまがちょっと大胆に誘います。

「うんっ…… うん!行こう、行こうよ、志貴君!」
弓塚さんは飛び上がらんばかりに喜んでいます。
あまりの嬉しさにか、目に涙を浮かべつつ。

「……良かった。志貴君と知り合って……
 中学の時からずっと志貴君を見ていて良かった……」
弓塚さんは感極まって、ポロポロと涙を流しました。
想いが叶った女性の涙はかくも美しいものなんですね。


しばらく、辺りには女性の泣き声が流れていきます。
志貴さまは、そんな弓塚さんを優しく見つめています。

ようやく泣き終えた弓塚さんが、志貴さまを見て恥ずかしそうにしました。
「ごめんね、みっともないところを見せちゃって……」
真っ赤になって、志貴さまに謝ります。

「いいよ、別にみっともなくなんてないさ。
 ……こちらこそありがとう」
志貴さまはボソボソと弓塚さんに聞こえるか聞こえないかぐらいの小さな声でお礼を言っています。
さすがに恥ずかしいのか、大きな声では言えないようです。


沈黙が辺りを支配します。
二人とも下を向いて、顔を真っ赤にしています。


しばらくその状態が続いたのち、弓塚さんがキッと顔を上げました。
「また出かけようね。約束だよ、志貴君!」
先ほどまでのもじもじしている姿はどこにいったのか、弓塚さんは元気に声をかけます。
念を押すかのように志貴さまにだめ押しすると、弓塚さんはにこっと笑いかけます。

「じゃ、わたしはこれで。
 また明日、学校でね、志貴君!」
そう言って、志貴さまに背中を向けました。

「あ、送っていくよ、弓塚さん」
志貴さまは慌てて立ち上がり、弓塚さんの後を追っていきます。


志貴さまと弓塚さんは別れを惜しむかのようにゆっくりと歩いていきます。
途中まで帰路は同じお二人。
あの坂までは一緒に帰ることが出来ます。

二人の間で会話が交わされません。
ただゆっくりと歩いていくだけです。
無言のまま、歩いていくこと幾分か。
とうとう坂のふもとまでたどり着きました。


「じゃあ、わたしはここで。
 今日はありがとう、志貴君」
弓塚さんがお礼を言います。
今日幾度目かのお礼を。

「こちらこそ、今日は楽しかったよ。
 ありがとうね」
志貴さまもお礼を言います。
優しい笑みを浮かべて、弓塚さんに微笑みかけています。

そのまま立ち止まる二人。
楽しい時間を終わらせるのがひどく辛い様子。
だけども何事にも終わりは来ます。
今日のデートはここで終了なのです。

「じゃ、また明日ね」
弓塚さんが背中を向けます。

「うん、また明日会おうね、弓塚さん」
志貴さまが返事をして、手を挙げました。


こうして今日のお二人のデートは幕を閉じました。
志貴さまが坂を登っていく途中、弓塚さんが振り返って見送っていたのが印象的です。
いつぞやの学校帰りもこうだった記憶があります。

去っていく志貴さまと見送る弓塚さん。
志貴さまの背中が完全に見えなくなってから、弓塚さんは自分の家に帰りました。
寂しさの中に笑顔を浮かべて。



今日はいろいろなことがありました。
弓塚さんに見破られたり、志貴さまに裸を見られたりと。
わたしは今日のことがマスターの耳に入らないよう祈りながら
志貴さまの後を追いかけます。
猫に化けるのは志貴さまの屋敷に着いてから。
黒いリボンを風になびかせ、志貴さまの屋敷へ小走りに向かいました。

しかし、これからどうなるのでしょう。
弓塚さんと志貴さまの仲が急速に進展した気がします。
これでますます、志貴さま争奪戦は混沌としてきました。
いったい誰が勝者となるのか……
頑張ってください、皆様。
わたしは同じラインに立てませんが、それでも頑張らせていただきますので……



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6月18日(月)

「今日の弓塚はずいぶん機嫌がいいな」
いきなり乾さんがそんなことを言ってきました。

「そうだな、弓塚さん、機嫌よさそうだね」
志貴さまもあちらの方でニコニコしている弓塚さんを見て、乾さんの言葉に頷いています。


今は休み時間。
乾さんが志貴さまのところに来て、話し込んでいます。
話題は弓塚さんのこと。
ほかの離れたところで弓塚さんがほかの女の子たちと話しているのを見て、
乾さんが志貴さまに話を振ってきました。
いつも笑顔を絶やさない弓塚さんですけど、今日はそれはもう嬉しそうにしています。
ニコニコニコニコ、見ているこちらまで嬉しくなるようなそんな笑顔で話しています。
そんな弓塚さんを見て乾さんは話を振ってきたようです。

「……で、何かあったのか、遠野?」
乾さんが真顔で聞いてきます。

「何かって何がだよ」

「何かって、弓塚とだよ。
 あれだけ嬉しそうにしているのはお前がらみに違いない。
 違うのか、遠野?」

志貴さまはハァーとため息をつきます。
「なんで弓塚さんが嬉しそうにしていると、俺が関係するんだよ。
 別になんにもないぞ、彼女とは」

「……そうか、それならいいけどよ。
 前にも言ったと思うけど、弓塚はやめておけよ。お前には合ってない」
弓塚さんの方をチラッと見てから乾さんが小声で志貴さまに忠告します。

「やめておけもなにも、彼女とは何もないぞ。
 ていうか合ってないってどういう意味だよ、有彦?」

「弓塚は一途すぎる。
 あの内気で一途な性格は男には負担になるだけだ。
 お前はそこまで背負えないだろ?
 だからやめとけ」
いつになく真顔な乾さん。ふざけた調子もなく本気で言っているのが伝わってきます。

「……そうか?
 そんな風には見えないけどなぁ。
 昨日だってそんなことは感じなかったけど……」
志貴さまが呟きます。

すかさずその呟きを聞き取った乾さんが
「何だ、遠野。お前、弓塚と出かけていたのか?」
と聞いてきました。

「あ、うん。一緒に出かけてたけど……」

「かぁー。やっぱり何かあったんじゃねーか。
 何が 何もない だよ。
 しっかり出かけていたんじゃねーか」
乾さんがあきれて天を見上げています。

「心配して損した。それなら頑張ってくれや。
 ……しかし、弓塚も我慢強かったなぁ、中学からずっとだろ。
 やっと鈍感な遠野に通じたってわけか……」
手をひらひらさせて、ぶつぶつ言いながら乾さんは自分の席に戻っていきました。

「何だよ、それ。
 別に俺と弓塚さんの間には何もないぞ」
 志貴さまが言い返したときには乾さんはすでに目の前からいませんでした。



確かに見ていると弓塚さんは一途のようです。
でもそれが志貴さまには負担になるのでしょうか。
乾さんは志貴さまとは小学校時代のころからの付き合いですので
皆が知らない志貴さまを知っている部分もあるのでしょう。
弓塚さん、前途多難のようですけど頑張ってくださいね。
周りから言われようと本人同士が問題なければそれでいいのです。
わたしは陰ながら応援しておりますので……



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6月19日(火)

志貴さまのクラスを眺めていると、弓塚さんが人気者だということがわかります。
いつも彼女の周りには誰かしら人がいるのです。
彼女がいないときに悪口を言う方もおりません。
誰からも好かれる人気者のようです、彼女は。

そんな彼女が好きな人、志貴さま。
クラスの女性陣は弓塚さんが志貴さまを好きなことに皆気づいているようです。
男性陣も弓塚さんの好きな方を何となくわかっている節があります。
皆が知っていると言うことに気づいていないのは当の弓塚さん。
弓塚さんの気持ちをわかっていないのは、
唐変木とか朴念仁と陰で言われている志貴さま、ただ一人。

お二人とも、こと自分に関しては鈍感なようです。


ですので、そんな弓塚さんが機嫌良くニコニコしているのを見ると、
クラス中は何があったのか気づきます。
遠野君(遠野)と何かいいことがあったのだな≠ニ。

志貴さまはあまり感情を顔に出されないタイプなので、見た目平常です。
いつもどおりに乾さんとしゃべっています。
弓塚さんは素直な性格なのでしょう。
隠しごとは出来ないタイプといいますか、なんというか……
皆、弓塚さんを見てから志貴さまを見ます。
そして、ホントに何かいいことがあったのかなと首を傾げます。
何故なら、志貴さまがあまりにも普通だからです。
でも、再度弓塚さんを見ると、納得します。
やはり何かいいことがあったのだな≠ニ。

弓塚さんが人気者の理由の一つがここにうかがえます。
根本的に素直なんです、彼女は。
明るく可愛く誰にでも壁を作らない彼女。
同性にも異性にも好かれるタイプなのです。

そんな彼女に好かれても気づかない志貴さま。
唐変木とか朴念仁と陰で言われるわけです。


それでも弓塚さんは志貴さまのことを想い続けます。
現在は報われなくても未来はわかりません。
そのうち報われる日が来るのを信じて。
彼女は志貴さまを好きで居続けるのです。

想い続ければ願いは叶う、なんて誰も保証したわけではありません。
それでも彼女は志貴さまを慕います。
夢が叶うのを待ち望みます。



平和な学校、平和な教室。
幸せがゆったりと感じられる休み時間の光景。
弓塚さんと志貴さまの奏でる情景。
今日もゆったりと時間は流れます。
弓塚さんの想いをよそに、時は進み続けます。
梅雨空のもと、雲の切れ間から差し込む光の下で……



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6月20日(水)

朝から音も立てずに生きとし生けるもの全てを濡らしていく空の涙。
もうすぐ訪れる、眩暈がするぐらいの強烈な輝く剣が地上を突き刺す前に
できるだけ優しく癒しておこうという天の心遣いか。
日が進むに連れて、徐々に温度が上がり、夏の到来を感じさせていく。

今は夏への準備期間。
これが過ぎると、暴力的な白い光が体を責め立てるようになります。
梅雨が明ければ夏本番。


わたしは志貴さまが玄関から出てきたのを見ながら、
もうすぐ訪れる夏へ想いを馳せておりました。



「今日は雨が降っているから、見送りはここでいいよ、翡翠」
志貴さまは鞄を受け取りながら、傘を差して雨降る中、外に一歩踏み出しました。

「……ですけど」
翡翠さんが躊躇います。
自分の主人を門の外まで見送るようにと教育を受けているので、困っているのです。

「雨が降っているし、ここまで見送ってもらえば十分だよ、翡翠。
 いつも見送りさせて悪いね」
志貴さまは躊躇う翡翠さんに笑みを浮かべると、門に向かいます。

「……志貴さま」
翡翠さんが両手を胸の前に組んで、自分の主人の名前を呼びます。

「じゃあ、行って来るね、翡翠。
 今日は用事がないから早く帰ってこれると思う」
後ろを振り向き、翡翠さんに微笑むと、手を挙げてから志貴さまは学校に向かいました。

翡翠さんは言われたとおりに玄関前で志貴さまを見送ります。
「行ってらっしゃいませ、志貴さま」

翡翠さんは志貴さまの気配が感じられなくなるまで深々と頭を下げていました。



学校に向かって坂を下りていく志貴さま。
傘を差してゆっくりと下っていきます。
今日は早めに家を出ましたのでゆっくり登校できます。
雨が降っている中、急いで登校したくなかったのでしょう。
志貴さまはいつもより遅めのペースで歩かれます。


そうして坂を下り終わるころ、目の前に女の子が立っているのに気づきました。

「あ、おはよう、弓塚さん」
志貴さまが弓塚さんに挨拶します。

坂を下りきったところで立っていたのは弓塚さんでした。
志貴さまは弓塚さんに会うとは思っていなかったらしくびっくりしています。

「おはよう、志貴君」
相変わらずにこやかな笑みを浮かべて、挨拶を返す弓塚さん。

「やっぱり志貴君だったのね。
 良かった、待っていて」
弓塚さんは志貴さまに近づくとそんなことを話しかけてきました。

「待っていたって、俺のこと?」
志貴さまが尋ねます。

「うん、坂を見上げたら志貴君に似た人が歩いてきてたから、
 もしかして志貴君かもと思って、待っていたの。
 志貴君だったら一緒に学校に行こうと思って」
最後の方の言葉が小さくなっていく弓塚さん。
顔を赤くしながら、志貴さまをかわいらしい顔で見つめます。

「う、うん。待っててくれたんだ、弓塚さん。
 ありがとうね」
志貴さまも恥ずかしいのか、そっぽを向きながら礼を言います。
この前のデート以来、ちょっと弓塚さんを意識している様子。

「じゃ、じゃあ、行こうか、弓塚さん」
志貴さまはそう言って弓塚さんの隣に行くと、ゆっくり学校に向かって歩き始めました。

「うんっ!」
弓塚さんは元気よく返事をするとスキップしそうな勢いで志貴さまの隣を歩きます。


「日曜日は楽しかったわ。ありがとうね、付き合ってくれて」
しばらく歩いていると、弓塚さんが志貴さまにお礼を言ってきました。

「いえいえ。こちらこそ楽しかったよ、弓塚さん」
志貴さまは笑顔で返事をします。

「また付きあってくれるかな、志貴君……」
顔を赤くして、モジモジしながらお願いする弓塚さん。
傘を差しながら、ちょっと俯き加減にお願いするところがすごくかわいかったりします。

「日曜日も言ったと思うけど……俺で良ければ、別に構わないよ」
志貴さまはモジモジ赤くなっている弓塚さんを安心させるかのようにニコリと微笑み頷きました。

「ホントに?」
志貴さまの返事を聞いた弓塚さんがクルッと志貴さまの方に振り返りながら
電光石火の早さで聞き返します。

「う、うん。ホントに俺でよければね。いつでも付きあうよ。約束する」
ちょっと弓塚さんに圧倒されつつ、返事をする志貴さま。



「……ありがとう、志貴君……」
志貴さまが返事をして、しばらくしてから弓塚さんが呟きました。
よほど嬉しかったのでしょう、ちょっと涙声っぽく聞こえます。

「俺でよければさ、いつだって構わないよ、弓塚さん」
志貴さまが優しく包み込むような感じで弓塚さんを安心させます。

「だから、またよろしくね、弓塚さん」

その返事が引き金となりました。
いきなり弓塚さんは傘を放り出したかと思ったら、隣を歩いている志貴さまの胸に飛び込んだのです。
ドンという音とともに胸に飛び込まれる志貴さま。
左手で傘を持ち、右手で鞄を持っていたのですが、上手に弓塚さんを受け止めます。
右手に持っていた鞄を、傘を持つ左手に渡して、
空いた右手で胸に飛び込んできた弓塚さんを優しく抱きしめます。
弓塚さんが濡れないように傘をさしかけて、
右手で弓塚さんの背中を柔らかいものを抱くかのように優しく包み込みます。

「ありがとう、ありがとうね、志貴君……」
志貴さまの胸の中で泣きながらお礼を言う弓塚さん。

「ホントに……ホントにありがとう……」
そっと志貴さまの背中に手を回して泣き続けています。

「……ごめんね……
 何度も何度も誘っちゃって……
 私ね……志貴君が約束してくれても不安で不安でたまらなかったの……
 別に志貴君が約束を破ると思っているわけではないの。
 ただ今まで志貴君のことを見つめているだけだったのに、勇気を出してみたら
 こんなにとんとんと夢が叶っちゃうでしょ?
 どうしても信じられなくて……
 まるで夢みたいで……
 ……私、こんなに幸せでいいのって考えちゃうの……」


弓塚さんは志貴さまの胸に顔を埋めたまま、志貴さまに自分の気持ちを吐露します。
志貴さまは弓塚さんを抱きしめたままです。


「……志貴君、信じちゃっていいの?
 私、信じちゃうよ……
 期待しちゃうよ……
 それでもいいの、志貴君……」


志貴さまは無言です。
何も答えずにただ弓塚さんを抱きしめるのみです。
志貴さまの胸に飛び込んでいる弓塚さんには見えなかったでしょう。
志貴さまの苦悩する顔が。
痛み・別れ・喪失……
普段の志貴さまから想像できない―――志貴さまの内面を垣間見た気がしました。


しばらくそのままで立ち止まること幾分か。
ようやく弓塚さんが顔を上げました。

「ごめんね、志貴君。いきなり恥ずかしいところ見せちゃって……」
赤く潤んだ目で志貴さまを見つめて、謝る弓塚さん。

「……い、いや、別に構わないけど……」
至近距離で弓塚さんのかわいらしい顔を見た志貴さまは真っ赤になりつつも
何とか返事をします。

弓塚さんが志貴さまの目を見つめていたかと思ったら、
急に何かに気づいたかのようにビクッとしました。
どうやら自分がどういう体勢をとっているか今更ながらに気づいたようです。
志貴さまの胸の中に飛び込んでいる、という事実を認識すると、
これ以上ないぐらいに真っ赤になって後ろに逃げるかのように飛び離れます。

そして投げ出して濡れてしまった傘を広げて、真っ赤になったまま俯きます。

「……ごめんなさい、志貴君。いきなり抱きついたりしちゃって……」
ささやくように志貴さまに謝る弓塚さん。

「……いや、いいよ、弓塚さん。ホラ、これで顔でも拭いて」
そう言って、弓塚さんにハンカチを差し出す志貴さま。

「汚くないから大丈夫。今日持ってきたばかりのハンカチだから」
受け取ったハンカチを見て、ぼうっとする弓塚さんに一応の説明をしています。

「あ、ありがとう……」
弓塚さんは志貴さまの好意を受け入れて、ハンカチで目尻をそっと拭います。

「いつも翡翠に渡されていたのだけど、今日初めて役に立ったかな」
志貴さまは笑いながら弓塚さんに話します。

「翡翠さんって、志貴君の家のメイドさん?」
涙をハンカチで拭き取って、真っ赤な目をした弓塚さんが尋ねます。

「そう、ウチで働いてくれてる女の子。
 今まで有間の家にいた時もハンカチは持つようには言われていたのだけど、なかなかね。
 家に戻ってからは、秋葉とかに言われてさ。
 遠野家の長男たる者、そのぐらいの身だしなみは必須です≠ニかってね。
 そうしていつも翡翠にハンカチを渡されていたのだけど、あまり使った試しがなくてさ。
 今日初めて役に立ったよ」
志貴さま、苦笑いをしながら弓塚さんに答えています。

「フフ……」
志貴さまの口調に思わず笑ってしまう弓塚さん。

「これ、洗濯して返すから。しばらく借りちゃうけどいい、志貴君?」
ハンカチを持って志貴さまに聞く弓塚さん。

「いいよ、別に返さなくても」

「ダメ。人に借りた物はちゃんと返さないと。
 じゃあ、志貴君、洗濯して返すから、ちょっと借りるね」
明るく志貴さまに笑いかけると、弓塚さんはハンカチを愛おしむかのようにそっとしまいました。




「あ、学校に遅刻しちゃう」
弓塚さんがふと思い出したかのように言うと、時計を見ます。

「志貴君、ここからだとギリギリだよ」

二人は顔を見合わせると、小走りに走っていきます。
間に合うかどうかは運次第でしょうか。



うーん、日曜日以降、どんどん志貴さまと弓塚さんが親密さを増しています。
このままではかなりまずいことになりそうです。
日曜日の件はアルクェイドさまに報告していませんので、
マスターはこの事態に気づいていません。
親密さを増したことだけ報告したら、きっとその前段階で何があったか調べるでしょう。
そうしたら日曜日の件がばれてしまう可能性が高いです。

実にまずい展開です。
見事に弓塚さんの計略に引っかかったようです。
さて、どうやってこの苦境を脱しましょうか……
考えどころです。



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6月21日(木)

志貴さまが学校から帰ってくると、秋葉さんが先に帰っていました。
居間にあるソファーに座って優雅に紅茶を飲みつつ、目の前に座る琥珀さんと談笑しています。

「ただいま、秋葉。
 あれ、今日は早いな、秋葉。一体どうしたんだい?」
志貴さまがびっくりした口調で、挨拶もそこそこに秋葉さんに尋ねます。

「おかえりなさい、兄さん」
秋葉さんは志貴さまを見てにこやかに挨拶を返します。

志貴さまのためにティーカップを食堂から持ってこようとする琥珀さんにも挨拶をして、
秋葉さんの前に座る志貴さま。
翡翠さんは志貴さまから受け取った鞄を部屋に持っていきます。


「で、一体今日はどうしたんだい、秋葉?」
志貴さまが改めて秋葉さんにお聞きします。

いつもでしたら秋葉さんは夕食前に帰宅されます。
遠野家当主として、嗜まないといけないことがいろいろありますので
学校が終わってからも秋葉さんは習い事で忙しいのです。
この時間に家に帰ってきているということは滅多にありません。
本当に今日はどうしたのでしょう、秋葉さん。

「今日はですね、習い物の先生が体調を崩してしまったらしく、
 急遽休みになったのです。
 そのような理由で早く家に帰ってきました」

にこやかな顔で志貴さまに説明する秋葉さん。
志貴さまと一緒に過ごせるのが嬉しいのか微笑みを浮かべています。

「そうか。こんな早い時間に秋葉が家にいるなんて滅多にないよな。
 うん、たまにはこういうのもいいな」
嬉しそうにしている秋葉さんを見て、つられるように微笑みを浮かべる志貴さま。

「……兄さん、もしかして今日はご予定があるとか……」
秋葉さんがおそるおそる尋ねます。
せっかく早く帰ってこれたのに相手に用事があったら全て終わりです。
ドキドキしているのが傍目から見ても伝わってきます。

「いいや、特に約束とかはないよ。
 今日は秋葉と一緒に過ごせるぞ」
志貴さま、天然の爆弾発言。
秋葉さんがそれを聞いて真っ赤になっています。
どうやら、ちょっと誤解しているようです。
恋する乙女は思考回路が自分勝手です。
秋葉さんも自分に都合のいいように解釈してしまったようです。



「良かったですね、秋葉様。志貴さんに誘われてー」
突然、琥珀さんの声がしました。
ティーカップを志貴さまの前に置いたあと、厨房に戻っていったのですけど
いつのまにか居間に戻っていたようです。

琥珀さんは志貴さまの発言を聞き、真っ赤になっている秋葉さんに
笑いかけています。

「こ、琥珀っ!」
恥ずかしそうにする秋葉さん。

「だって、せっかく志貴さんに一緒に過ごせる≠ネんて言われたのですよ。
 いいじゃないですか、こんなチャンス滅多にないのですよー」
琥珀さんが秋葉さんを見つめます。
手で口元を隠して、不敬にならない程度に笑いをこらえています。

秋葉さん、口パクパク。
真っ赤になって、何かを言おうとしているのですが言葉が出てきません。

志貴さまも琥珀さんの言葉を聞いて、自分の発言を思い出し真っ赤になっています。
ちょっと深読みできる言葉を言ってしまったのを理解したようです。

「ふふふ、ホント仲がよろしいことで」
琥珀さんがお二人の反応を見て微笑んでいます。
妹思いの志貴さまとそんな兄をひそかに慕っている秋葉さんの初々しいところを見て
自然と笑みがこぼれてしまっています。


そうしてお二人が硬直して、琥珀さんが微笑んでいる時に
志貴さまの鞄を部屋に置いてきた翡翠さんが戻ってきました。
いつもの通りに壁沿いにひっそりと控えます。

翡翠さんが戻ってきたのを機に志貴さまが何とか復帰しました。
まだちょっと顔が赤いですけど、充分しゃべることが出来そうです。

「翡翠や琥珀さんは用事あるの?」
いきなり質問する志貴さま。

翡翠さんと琥珀さんはお互い顔を見合わせてから、首を横に振ります。
「特に用事はございませんが、志貴さま」
「このあとに用事はないですよ、これといってー。志貴さん」

志貴さまはそれを聞いてにっこりとします。
「じゃあ、四人で遊ぼうか?」

話の展開が見えずにいきなり誘われた翡翠さんは真っ赤になって下を向いています。
「……あ、あの……」

「いやさ、せっかく秋葉が早く帰ってこれたことだし、もしよければ一緒に遊ぼうかなと思って。
 ダメかな、翡翠?」
志貴さまが翡翠さんを下から覗きこむようにして、尋ねます。
志貴さまと目があって余計に真っ赤になる翡翠さん。

「……わ、私は……志貴さまと秋葉様がよろしければ……」
翡翠さんは下を向きつつ了承します。

「琥珀さんはいいよね?」

「はい、秋葉様と志貴さんが良いのであれば、一緒に遊ばせていただきます。
 ……でもいいんですか、本当に?」
志貴さまに誘われたのが嬉しいのかにこにこしながら尋ねる琥珀さん。

「いいもなにも最初からそのつもりさ」
にっこり笑いかける志貴さま。

琥珀さんは嬉しそうに顔をほころばせます。
翡翠さんのように真っ赤にはなりませんけど、ちょっと照れているのがわかります。

「じゃあ、二人とも参加と。
 秋葉、別に構わないよな?」
いちおう、秋葉さんにも聞く志貴さま。

秋葉さんは二人きりで過ごせると思っていたのに、そうでないとわかって
ちょっと顔がひきつっています。
「え、ええ……、別に構いませんけど、兄さん……」

「じゃあ、四人で遊ぼう。何して遊ぼうか」
志貴さまが三人を周りに呼び集めて相談しています。



こうして四人でいろいろ遊んで夕方まで過ごしました。
皆さん、楽しまれたようです。

しかし、相変わらず志貴さまは天然です。
秋葉さんは二人きりで過ごせると思っていたのに、翡翠さんと琥珀さんも交えて遊んだりして。
まあ、翡翠さんと琥珀さんにとっては予想外のハプニングで嬉しかったでしょうけども。


今日は特にアルクェイドさまに報告するようなことはないですね。
遠野家の方々で遊んでいた、ただそれだけですし。

わたしはあくびをすると、居間での遊びを終えて自分の部屋に戻っていった志貴さまを見るために
いつもの木の枝の上に登ります。
そして今夜も志貴さまを見て過ごします。

志貴さまもいろいろ大変かもしれませんが、頑張ってくださいね。
わたしは影ながら応援していますので……



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6月22日(金)

今朝はずいぶんと秋葉さんがニコニコしています。
気味が悪いぐらいに機嫌がよいようです。
どうしたのでしょうか。

「おはよう、秋葉」
志貴さまが居間に入ってきて、朝の挨拶をします。

「おはようございます、兄さん」
ニコニコしながら挨拶する秋葉さん。
満面の笑みを浮かべてます。

志貴さまが驚いています。
それは当然です。
こんなに機嫌がいい秋葉さんはそう見ることが出来ません。
本当にどうしたのでしょう?

「ど、どうしたの、秋葉。ずいぶんと機嫌良さそうじゃないか?」
志貴さまがびっくりしながら秋葉さんに理由を尋ねています。

「そうですか。別にわたしは普通ですけど」
ニコニコしながら答える秋葉さん。
ていうか、秋葉さん、もうすでにその状態が普通でないのですけど……

琥珀さんが志貴さまに紅茶を出しながら、笑ってます。

「あ、もしかして、琥珀さん、理由がわかるの」
志貴さまが琥珀さんに秋葉さんの機嫌のいい理由を尋ねます。

「ふふ、なんで志貴さんわからないのでしょう。簡単じゃないですかー」
琥珀さんは微笑んで秋葉さんと志貴さまを交互に眺めます。

「琥珀、私は普段と変わらないつもりですけど」
「何、何が原因で秋葉がこんなに機嫌がいいの?」

秋葉さんと志貴さまが同時に話しかけます。
琥珀さんはそれを見てニコニコして、翡翠さんに話を振ります。

「翡翠ちゃんはわかるー? 秋葉様が機嫌のいい理由が」

壁沿いでいつもの通りに待機していた翡翠さんは
いきなり琥珀さんに話を振られてびっくりしています。

「え、え、あの…… なんでしょう、姉さん?」

「秋葉様が機嫌のいい理由を翡翠ちゃんがわかるかなーと思ったの。
 どう、わかりそう?」

琥珀さんが翡翠さんをいたずら小僧のような目で見つめます。
翡翠さんは突然話を振られて、しかも想像していない質問だったので
びっくりしたままです。

「……ごめんなさい、姉さん。秋葉様が機嫌のいい理由はわかりかねます」
しばらくしてから翡翠さんが琥珀さんの質問にようやく答えました。

「そっかー。翡翠ちゃんでもわからなかったかー」
琥珀さんが笑みを浮かべながら頷いています。

「何、何が原因なの、琥珀さん」
志貴さまが未だわからないようで何度も聞いてきます。


「決まっているじゃないですかー。志貴さんが原因ですよ」
琥珀さんがくりくりっとした目で志貴さまと秋葉さんに微笑みました。

「な、な、な、何を言っているのよ、琥珀!」
秋葉さんが珍しく動揺しています。

志貴さまは 「何故自分が原因」 とポカンとした顔で琥珀さんを眺めています。

「あ、そうか」 と納得した顔で控えめにこくこく頷く翡翠さん。

「昨日、志貴さまとわたしたちで遊んだじゃないですか。
 それを今日も引っ張っているだけです。
 ダメですよ、志貴さん。もっと秋葉様を大切にしないと。
 秋葉様はずっと志貴さんのことをお待ちしていたのですから」

「琥珀!」
それを聞いて思わず、真っ赤な顔で怒鳴る秋葉さん。

「すいません、秋葉様。出しゃばりすぎました」
琥珀さんはぺろっと舌を出すと、神妙な顔つきをして秋葉さんに頭を下げ、一歩身を引きました。


それを聞いてもまだポカンとしている志貴さま。
どうも自分が原因とは理解していないようです。

「そうなの、秋葉?」
志貴さまはストレートに秋葉さんに聞きました。

ダメダメです。
これでは秋葉さんも苦労します。
まさかここまで説明してもまだご自分の与える影響を理解していないとは……
なんというか、「唐変木」 とか 「朴念仁」と呼ばれるだけあります。
志貴さま、鈍感です。

相変わらず鈍感な志貴さまにむーとする秋葉さん。
琥珀さんは翡翠さんの方を見て苦笑しています。
翡翠さんはなるたけ表情に出さないようにしていますが、どうやら呆れているようです。



「琥珀、学校に行きます」
秋葉さんは志貴さまの質問に答えず、琥珀さんを呼ぶとそのまま玄関に向かいました。

「兄さんの馬鹿、鈍感!」
玄関に向かっている途中で独り言を呟いた秋葉さん。
居間にいる志貴さまには聞こえないだろうけど、
人間ではないわたしの耳にははっきり聞きとれました。

「行ってらっしゃいませ、秋葉様」
壁際で翡翠さんが挨拶します。

一人この場の状況に取り残されている志貴さまは、声もかけられずに玄関の方を見ているだけです。

「あ、気をつけてな、秋葉」
やっと、秋葉さんに声をかけましたが、もうすでに秋葉さんは玄関から出ていったあとです。
声が届いたかどうかわかりません。


志貴さまは琥珀さんが用意してくれた朝食を食べに食堂へ行きました。
翡翠さんはそのまま待機しています。



今日もこれから学校です。
結局いつも通りの朝、いつもの光景です。

わたしはちょっとふくれているはずの秋葉さんを思い浮かべながら
志貴さまを見守ります。

秋葉さん、鈍感なお兄さまで大変でしょうけど頑張ってくださいね。
わたしは秋葉さんも応援しておりますので……



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6月23日(土)

「翡翠、明日は暇?」
志貴さまが学校から帰ってくるなり、翡翠さんにいきなりそんな話を振りました。

今、志貴さまがいらっしゃる部屋は一階の居間です。
志貴さま以外には翡翠さんと琥珀さんが中におります。
秋葉さんはまだ学校から帰ってきていないので三人だけです。

「ええ、明日は特に用事はございませんけども、それが何か?」
翡翠さんは怪訝そうな顔をして逆に志貴さまに尋ね返します。

「明日、用事ないか。それじゃ前からの約束通りどこかに遊びに行こうか?」
志貴さまは笑顔で翡翠さんのことを誘いました。

「前に約束しただろ、翡翠。これでやっと約束が果たせる」
ニコニコして志貴さまは翡翠さんを誘っています。


翡翠さん真っ赤。
いきなり、ひそかに好意を寄せている志貴さまに誘われて、
戸惑っています。
心の準備をしていなかったので、ただただ照れるのみです。

「……わ、わたしなんかでよろしいのでしょうか、志貴さま」
翡翠さんが真っ赤になって照れています。
普段は見られない表情の翡翠さん。
パニックになっている姿はそう見ることが出来ません。

「もちろん! 俺は翡翠を誘っているんだよ!」
志貴さま、笑顔で追い打ち。
完全に翡翠さんをノックアウトです。

「よ、喜んで。どこへなりともお供いたします!」
翡翠さんは顔を真っ赤にしたまま志貴さまのお誘いに即答です。


志貴さまはそんな翡翠さんを見て微笑んでいます。
琥珀さんは真っ赤になっている翡翠さんを見て、これまた嬉しそうに笑っています。
「良かったねぇ、翡翠ちゃん。志貴さんに誘われてー」

「もちろん、琥珀さんも誘うつもりだったのだけど、大丈夫かな?」
志貴さまが琥珀さんも誘っています。

琥珀さんは自分が誘われるなんて思っていなかったらしく、
「えぇ?」とポカンとした顔をしました。
そして一瞬後、志貴さまの言葉を理解したのか、
これまた翡翠さんのように真っ赤になって硬直してしまいました。

「え、え、私を誘っていただけるのですか、志貴さん?」
常日頃から笑顔を浮かべている琥珀さんがパニック気味になっています。
これまた普段の琥珀さんから見ることの出来ない表情です。

「うん、俺は琥珀さんも誘っているんだけど」
志貴さま、だめ押し。

まるで先ほどの翡翠さんのように、琥珀さんもノックアウトされました。
「私でよければ喜んでついて参ります」
琥珀さんも翡翠さんと同じように顔を真っ赤にして即答しました。


真っ赤になっている翡翠さんと琥珀さん。
その二人を優しく見つめる志貴さま。
しばらくそのままで、時間だけがゆっくり流れていきます。


その静寂を破ったのは志貴さま。
忘れていたかのように、ここにはいない方の名前を出しました。
「そういえば、秋葉は明日大丈夫なのかな?」

秋葉さん付きの侍女である琥珀さんがその質問に答えます。
「秋葉様は明日は弁護士の方と打ち合わせがあるはずですので、
 一日中、外出されているはずです」

「そっか、それは残念だな。
 じゃあ、三人で出かけようか。それでいいかな、翡翠、琥珀さん?」

翡翠さんと琥珀さんはともに頷いて、
「了承いたしました、志貴さま」
「秋葉様には申し訳ないですけど、大丈夫です、志貴さん」
と答えてます。


「何時に出かけようか?」

「そうですね、秋葉様が十一時頃に出かけられますので、それ以降でしたら大丈夫かと」

「……私は出かけられるのであれば何時でも構いません」

「さすがは翡翠ちゃん。さっきもどこへなりともお供いたします≠ネんて言うし
 本当に志貴さまのことが好きなんだねー」

それを聞いた翡翠さん、真っ赤。
そして志貴さまも一緒に真っ赤になっています。

「フフフ」
琥珀さんは口元を手で隠して、笑っています。

「……じゃ、じゃあ、秋葉が出かける十一時以降に出かけることにしようか。
 それでいいかな、二人とも?」

「わかりました、十一時にですね」
真剣な顔で時間を復唱する翡翠さん。

「はーい、十一時にですね。了解です」
明るく返事をする琥珀さん。


「秋葉、怒るだろうな」
志貴さまがこの事実を知った時の秋葉さんを想像したのか、
笑いながら呟きます。

「そうですね、秋葉様がこのことを知ればお怒りになるかと思います」
琥珀さんが志貴さまの呟きに答えました。
横では翡翠さんが琥珀さんの言葉にコクコクと頷いています。

「弁護士と会うって、だいたいどんな感じなの、琥珀さん?」

「えーとですね、だいたい昼前から夕方まで一日中、話し合っています。
 いつも通りだとしましたら、まず夜の七時頃に帰られます。
 それまでいっさい連絡等はなしです」

「そっか。じゃあ、秋葉には内緒で出かけようか」
志貴さまが目を輝かせて、いたずら小僧のように二人に提案します。

「秋葉様に秘密で、ですか。それは面白そうですね」
志貴さまと同じく目を輝かせる琥珀さん。

「……姉さん、それはちょっとまずくないですか……」
心配そうに琥珀さんと志貴さまの暴走をたしなめる翡翠さん。

「大丈夫、翡翠ちゃん。秋葉様がお戻りになるまでに帰ってくればいいのだから。
 秋葉様にはそれとなく明日のことをお聞きしましょう。
 そうすればより完璧ってものです」
琥珀さんが暴走してきました。
この方は秘密事となると、なにか熱くなるような気がするのですが気のせいでしょうか。

「何かあったら、俺が無理矢理連れて行ったということにするから、大丈夫。
 安心していいよ、翡翠」

「それだと、もしもの時、志貴さまにご迷惑が……」

「大丈夫、大丈夫。気にしないでいいよ、翡翠」
明るく心配させないように笑みを浮かべる志貴さま。


「では、明日十一時過ぎに出かけるということで決定ね。いいよね、二人とも?」

「はい、わかりました」
「了解です、志貴さん」
二人は同時に志貴さまに答えると、
どちらともなくお互いの顔を見つめて真っ赤になります。



明日は翡翠さん・琥珀さんと志貴さまのデートのようです。
志貴さま、これだと両手に花ですね。
と、そんな冗談を言っている場合ではなく、
デートですのでアルクェイドさまに報告しておかなければなりません。
翡翠さんと琥珀さんは志貴さまと出かけられるのは初めてのハズ。
アルクェイドさまに報告して邪魔されるのもかわいそうです。
先週は弓塚さんに弱味を握られて報告しませんでしたけど、
今回は私の意志で決まります。
うーん、報告するかしないべきか……
悩みどころです、はい……



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6月24日(日) 午前

昨日までの雨がやんだ梅雨の中休み。
青空が広がり、絶好の行楽日和です。
適度に風もあり、爽やかな一日が始まろうとしています。


「志貴さま、起きて下さい」
控えめなノックの音が聞こえた後、ゆっくりとドアを開ける音がしました。
志貴さまに仕える侍女の翡翠さんが、部屋に入ってきたようです。

「志貴さま、もうそろそろ起きないと、約束の時間に間に合いません」
翡翠さんは安らかに寝ている志貴さまを見つめながら、声をかけます。

「志貴さま……」


何度目かの翡翠さんの呼びかけの後、志貴さまの顔が赤くなってきました。
今までの病的と言っていいほどの白い顔から血が通う赤みさす顔になってきたのは
目覚めが近い証拠です。
翡翠さんは、もう一度自分の主人の名を呼びました。

「……うーん」
ベッドでノビをする志貴さま。
まだ目はつぶったままです。

「志貴さま……」
翡翠さんが志貴さまの名前を繰り返します。

「……うん?」
やっと翡翠さんに気づいたようです。
今日の志貴さまはいつも以上に寝ぼけています。
いつもでしたら、このあたりで起こしにきた翡翠さんに気づきますのに。

「あ、おはよう、翡翠」
ようやく翡翠さんに挨拶をする志貴さま。

「おはようございます、志貴さま。
 もう起きられないと約束の時間に間に合わなくなってしまいます」
翡翠さんが頭を下げつつ、志貴さまをせかします。

今日の志貴さまは翡翠さんと琥珀さんと一緒にお出かけ。
翡翠さんはそれはもう嬉しそうな雰囲気を漂わせています。
志貴さまが翡翠さんと約束してからかなり日にちが経ちました。
翡翠さんは志貴さまに誘われてからずっと待っておて、ようやく夢が叶うのです。
嬉しくないはずがありません。
それなのに、肝心の志貴さまが起きられないのですから、
翡翠さんとしてはヤキモキもします。
そんな想いが、志貴さまを起こすのにせかしてしまうという形で
外に現れてしまったのです。
第一者と第二者であるお二人にはわからないかもしれませんが、
一部始終見させていただいたわたしにはその辺りが充分わかります。
見ていて微笑ましい光景です。

「あ、もうそんな時間か。
 わかった翡翠。すぐ着替えて下にいくから」
志貴さまはベッドの上で上半身を起こして翡翠さんに微笑みます。

「わかりました。下では姉さんが朝食を作ってお待ちしていますので
 なるべく早く降りてきてください、志貴さま」
翡翠さんは深々と頭を下げて、志貴さまの部屋から退出します。
顔が赤かったのは、いつものことです。


翡翠さんが去ってから志貴さまが一人呟きます。
「そうか、今日は翡翠と琥珀さんと出かけるんだったっけ。
 ……翡翠、なんか嬉しそうだったな……」
志貴さまはそんなことを呟きますと、翡翠さんが用意してくれた着替えを手早く身につけ、
下におりる準備をしました。

翡翠さんが嬉しそうだったのは志貴さまもわかったようです。
朴念仁だの唐変木だの鈍感だの言われている志貴さまですけど、
こういうところはよく気づきます。
まあ、これが直接自分に向けられる気持ちだと途端に気づかなくなるところが
志貴さまらしいと言えばらしいですけど。



志貴さまが居間に入られますと、翡翠さんと琥珀さんが同時に挨拶しました。
「おはようございます、志貴さま」
「おはようございます、志貴さん」
翡翠さんは自分の主に対しての一線を保ちつつ、琥珀さんは笑顔でそんな主従関係を感じさせずに。
このあたりはいろいろあったお二方であり、またこれからもそれが当然のように続いていくでしょう。
この点に関して言えば、劇的な展開がないかぎり続いていくと容易に推測がつきます。
例えば主従関係ではなく対等な関係になるとか、それぐらいの展開がないかぎり、
変化はしないでしょう。。
それはこれからのお二方の努力にかかっています。


「おはよう、二人とも」
志貴さまはにこやかな微笑みを浮かべて、お二方に挨拶いたします。
翡翠さんと琥珀さんはそれを見て頬を赤く染めます。

「秋葉は?」

志貴さまが居間を見回して尋ねます。
もう一人の主、遠野家の後継者、秋葉さんがこの場にいらっしゃらないので
志貴さまは予想はついているけどもという顔をして二人に行方を尋ねます。

「秋葉様はもうすでに出かけております、志貴さん」
志貴さまの疑問に答えたのは琥珀さん。
さすがは秋葉付きの侍女。主のことはよく知っています。

「秋葉様は志貴さまのことをお待ちになっていましたけど、
 いくら待っていても起きられないから怒りながら出かけられてしまいましたよ、志貴さん」
琥珀さんがくすくす笑いながら志貴さまにその時の秋葉さんの様子を話します。
琥珀さん、ホント楽しそうです。

「そうか、悪いコトしたな、秋葉に。帰ってきたら謝っておくよ」
志貴さまは失敗したな、という顔をして、琥珀さんに答えます。

「そうしてください、志貴さま。それだけで秋葉さんの機嫌も良くなりますから」
琥珀さんは志貴さまにそうお願いすると、食堂に入っていきます。

「志貴さん、朝食の用意が出来ていますのでこちらにどうぞ」
食堂から琥珀さんの声がします。
どうやらもうすでに志貴さまの食事の準備は済んでいるようです。

「はーい、今行きます」
そう返事をすると、志貴さまは壁際で控えている翡翠さんに声をかけます。
「じゃあ、ちょっと朝食を食べてくるから先に準備をしていて、翡翠」

翡翠さんはそれを聞いて真っ赤になりました。
そしてコクッと頷くと、ドアの方へ向かいます。

志貴さまはそんな翡翠さんを見送ると笑顔で食堂に入ります。
食堂では琥珀さんがみそ汁を食卓に運んでいるところでした。

「はい、志貴さん、召し上がってください」
琥珀さんはニコニコと志貴さまの横に離れて立ち控えています。
お盆を両手で下げ持ち、いつでも動けるように構えています。

「いただきまーす、琥珀さん」
志貴さまはそう言って、琥珀さんの用意した朝食を食べ始めました。

黙々と食べる志貴さま。
その食事を優しく見守る琥珀さん。

志貴さまは食べている途中、ふと琥珀さんの方を向きます。
「そうだ、琥珀さん。先に出かける用意してていいよ。
 俺もご飯を食べ終わり次第、すぐ準備をするから」

琥珀さんは志貴さまの言葉を聞くと、笑みを浮かべます。
「志貴さん、せっかくの好意ですけど、後かたづけもありますのでもう少しここにいます。
 着替えてしまうと、水仕事がちょっと辛いですので。
 そのままで出かけてもいいのですけど、出来ることは先に片づけておきたいですから」

志貴さまはそれを聞くと、すまなそうな顔をしました。
「ごめん、琥珀さん。もう少し早く起きれば良かったね。
 じゃあ、早く食べ終わるからもう少し待っていてね」

「いいですよ、そんなに早く食べなくても。
 まだ時間はありますのでゆっくり食べてください、志貴さん」
琥珀さんがお姉さん風に志貴さまに言い聞かせます。

志貴さまは琥珀さんの言葉を聞いて顔を赤くしました。

「ふふ……」
琥珀さんはそんな志貴さまを見て笑みをこぼします。



ようやく、志貴さまが食べ終わると、琥珀さんは即後片づけをします。
志貴さまが手伝おうとしたら、琥珀さんに怒られてしまいました。
「ダメです、志貴さま。主人である志貴さまがやることではないです。
 志貴さまはそこでお茶でも飲んでゆっくりしてください」

琥珀さんは志貴さまの好意に笑みを浮かべつつも、
志貴さまに仕事をさせないでその場でてきぱきと洗い物をすませていきます。
志貴さまはただ見ているだけです。



しばらくすると、琥珀さんの仕事も無事終わりました。
タオルで手を拭いて、志貴さまの方に振り向く琥珀さん。

「あ、待っていてくれたのですか、志貴さん」
琥珀さんは嬉しそうにしています。

「うん、俺のせいで後片づけが遅くなったのだからね。
 まあ、見ているだけで何もしなかったけど……」
志貴さまは苦笑しました。

「いえいえ、待ってていただけるだけでも嬉しいものです」
琥珀さんは笑顔で志貴さまに答えます。

「じゃあ、お互いに準備をしようか、琥珀さん」

「そうですね、私は翡翠ちゃんの方も見てきますので、
 少々遅れるかもしれませんけど、よろしいですか」

「ああ、大丈夫。こちらだって待たせたことだし、気にしないでいいよ、琥珀さん」

「それでは、準備をしてきますのでちょっと失礼いたします」
そう言うと琥珀さんは自分の部屋の方へ向かっていきました。

「さて、俺も準備をするかな……」
志貴さまはそう呟くと、二階の自室に上がっていきます。





いよいよ、志貴さまと翡翠さん・琥珀さんのデートです。
普段、外に出るのを見たことがない彼女たちとのデートはどうなるのでしょう。
そもそも、わたしは彼女たちの私服というものを見たことがありません。
いつもメイド服に割烹着です。
どんな格好をされるのか興味があります。
今から、かなりドキドキしています。
さてさて、早くいらっしゃらないかなー。



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6月24日(日) 午後 前半

志貴さまが自室に戻って出かける準備をします。
といっても男性ですので女性ほど準備に手間取るようなことはありません。
着替えて身だしなみを整えるだけです。
十分もしないウチに用意が終わった志貴さま。
最終チェックをしています。
財布を持ったか、髪型は乱れていないか、服装は大丈夫か……
最低限の身だしなみ等を確認してから、一階に下りていきました。


居間に行きましたら、まだ翡翠さんと琥珀さんが来ていません。
女性ですから準備に時間はかかります。
志貴さまもその辺りは心得ているらしく、ソファーに座って、彼女たちを待っています。




しばらくして、お二人の声が聞こえてきました。
声音を押さえて志貴さまに聞こえないように話しています。
が、わたしには筒抜けです。
彼女たちはが何をしゃべっているのでしょうか。

「姉さん、おかしくないかな、この服」
心配そうな声。

「大丈夫、充分似合っているから、翡翠ちゃん」

「志貴さまに笑われないかな……」

「志貴さんが笑うわけないよ、翡翠ちゃん。
 こんなに可愛くてお似合いなのに」
琥珀さんは自信を持って言いきります。

「……ありがとう、姉さん」

「じゃあ、行こうか、翡翠ちゃん。
 志貴さまも待っているだろうからね」

「はい……」



ようやくお二人が居間に入ってきました。
志貴さまはお二人を見て呆然としています。

「すいませんー、お待たせしました、志貴さん」
「……お、お待たせしました、志貴さま……」
居間に入ってきた二人は、待っていた志貴さまにお詫びしています。
しかし、呆然としている志貴さまにはその声は届いていないようです。

「……? 志貴さま、どうされましたか?」
翡翠さんが心配そうな顔をして志貴さまに近づきます。

「志貴さま?」
返事がないので、さらに近寄る翡翠さん。

琥珀さんはドアの側でにこにこしながら控えています。
ここは翡翠さんに任せたとばかりに。

「大丈夫ですか、志貴さま……」
翡翠さんは志貴さまの顔を覗きこみます。

ここにきてようやく志貴さまが反応します。
「綺麗だ……翡翠」


翡翠さんは純白といってもいいぐらい白いワンピースを着ています。
足下近くまである薄手のロングワンピースで、素肌を出すことを嫌ったのか袖も手首まであります。
顔は自然な感じを生かすためか、ナチュラルメイクにとどめて、
ポイントポイントを押さえてます。
アクセントに首にかけているネックレスは銀色の輝き。
耳には目の色と合わせたのか、翡翠のイヤリング。
翡翠さんの控えめな雰囲気にあったベストチョイスです。

琥珀さんは翡翠さんとは逆に黒を基調とした服を着ています。
ワンウオッシュのスリムジーンズを履いて、上は黒のTシャツです。
普段、割烹着を着ているのでよくわからなかったのですが、
琥珀さんのスタイルはかなりいいです。
ある程度、体型がわかってしまうこの格好でも何ら問題はありません。

翡翠さんが白で琥珀さんが黒。
この対比は狙っているのでしょうか。
もしかしたら琥珀さんは翡翠さんを目立たせるために
あえて黒系でまとめてきたのかもしれません。

志貴さまがお二人を見て言葉を失っています。
普段メイド服・割烹着しか見ていないので、今日のお二人の格好は
志貴さまにとって新鮮なのようです。
志貴さま、特に翡翠さんを呆然と見つめています。


翡翠さんは志貴さまの発言を聞いてボンッと音が聞こえるぐらいに顔が真っ赤になっています。
しかしそれもある意味純白の服装に映えます。

「し、志貴さま……」
翡翠さんは真っ赤な顔のまま、モジモジしています。
志貴さまに目の前で 綺麗だ と言われて照れているようです。

「あははー、だから言ったでしょう、翡翠ちゃん。
 絶対似合っていてかわいいってー」
壁際にいた琥珀さんが近づいてきて、翡翠さんの方に手を置きます。

「姉さん……」

「志貴さまに褒められて良かったねー、翡翠ちゃん」
琥珀さんは慈しむような目で自分の妹を見つめます。

「……ありがとう、姉さん」
翡翠さんは琥珀さんにお礼を言っています。

「いえいえ、どういたしまして」
琥珀さんはにこにこ笑顔を崩しません。

「じゃあ、行きましょうか、志貴さん」
未だに呆然としている志貴さまに声をかける琥珀さん。

「いつまでも翡翠ちゃんを眺めていては、せっかくのデートの時間がなくなっちゃいますよー」

志貴さま、それを聞いて真っ赤になりました。
翡翠さんも志貴さまと同じく真っ赤です。

「ね、姉さん……」

「それでは行きましょうー」
琥珀さんは真っ赤になっている二人に声をかけて、居間を出ていきました。

「あ、姉さん……」
翡翠さんが声をかけた時はすでに居間からいなくなっている琥珀さん。

志貴さまはよほど衝撃を受けたのか、真っ赤なままです。

「志貴さま、それではわたしたちも行きましょう……」
志貴さまに声をかける翡翠さん。

志貴さまはそれを聞いて、やっと動けるようになりました。
「あ、ああ、悪い悪い。じゃあ、行こうか、翡翠」

「はい、志貴さま……」

お二人は仲良く居間から出ていきます。



琥珀さんは玄関で待っていました。
「早く行きましょう、志貴さん、翡翠ちゃん」

「はい、姉さん」
翡翠さんは茶色の華奢な感じの靴を履いています。

「じゃあ、行こう、二人とも」
志貴さまは真っ赤な顔のままでお二人を誘います。



三人はで仲良く門をくぐりました。
これから、志貴さまと翡翠さん・琥珀さんの三人でお出かけです。
どんなデートになるのでしょうか。

日射しはすでに夏。
照りつける太陽が暑い季節ということを体に刻み、
爽やかな風が、そんな日射しで痛んだ体を優しく癒します。

そんな中を三人は並んで歩いていきます。
濃い影を路上に落としつつ……



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6月24日(日) 午後 中間

志貴さまと翡翠さんと琥珀さんの三人で仲良く並んで歩いていきます。
志貴さまを真ん中に左が翡翠さん、右が琥珀さんです。

夏を感じさせる風が通りを吹き抜けます。
熱気を感じさせるその風は夏が間近に迫っていることを教えてくれます。
空に輝く太陽は濃い影を地面に落とし、鮮やかな影法師を大地に描きます。

そんな気候の中、三人は仲良くしゃべっていました。
普段外出しない翡翠さんはあたりが物珍しいのか、ちらちらと周りを見ています。
時々、志貴さまと琥珀さんの会話に頷いたりするところを見ると、
意識が全て周りの風景にいっているわけでもないようです。
志貴さまは琥珀さんと話しつつ、翡翠さんを優しく見守っています。
琥珀さんはそんな志貴さまを微笑んで見つめ、翡翠さんにも暖かいまなざしを送っています。
三者三様。
皆が皆、他人を思いつつ歩いています。

そうやってしばらく歩いていると、翡翠さんと志貴さまの後ろに琥珀さんがスッと移動してきました。
「翡翠ちゃん、せっかく志貴さんと出かけているのだからもっと積極的にならないとダメじゃない!」
琥珀さんはメッという顔をすると、翡翠さんの腕を取りました。

「な、何、姉さん」
翡翠さんは突然の琥珀さんの行動に驚いています。

「まあまあ、ここは私に任せて、力を抜いてねー、翡翠ちゃん」
琥珀さんはにこにこしながら、翡翠さんの腕をそのまま志貴さまの腕と絡み合わせます。

「こ、こ、琥珀さん!」

「志貴さまもいいからいいから。ほら、これで完成っと」
琥珀さんはにっこり二人に微笑みました。

「姉さん!」
「琥珀さん!」
翡翠さんと志貴さまのお二人は真っ赤になって、琥珀さんの名を呼びます。

「うん、お似合いですよ、お二人とも」
琥珀さんは取り合いません。にこにこしているだけです。

翡翠さんの右腕が志貴さまの左腕と組み合っています。
こうしてみると確かにお似合いのカップルです。
初々しく見ていて微笑ましいです。

志貴さまと翡翠さんの二人はお互いの顔を見ます。
普段ではあり得ない距離でお互いの顔を見たものですから、
二人とも真っ赤になってすぐに目を背けあいます。

「ダメですよ、ふたりともー」
そんな二人の行動を見ていた琥珀さんはメッといつもの人差し指をたてた
あのポーズでお二人を叱ります。

「もっと仲良く見つめ合わないとー」

「ね、姉さん、いい加減に!」
翡翠さんが真っ赤になって琥珀さんに言い返しました。

「んー、何、翡翠ちゃん?
 いい加減に≠ニいうわりには志貴さんの腕を放さないよねー」
琥珀さん、あはーと言いながら鋭い一言。
翡翠さん真っ赤になって言い返せません。

「もし、翡翠さえよければ、これで行こうよ」
志貴さまが突然そんなことを翡翠さんに提案しました。

「志貴さま……」

「も、もしさ、翡翠さえよければだけどね、俺は腕組むのイヤじゃないし……
 翡翠がよければ喜んで腕を組みたいなーなんて思ったりして……」
そっぽを向きながら、翡翠さんにそんなことを言う志貴さま。

翡翠さんはそんな志貴さまを見て優しく微笑みます。
「志貴さまさえよろしければ……
 私でよければよろしくお願いします」
そう言って、絡める腕に力を込める翡翠さん。

「翡翠……」




「あー、羨ましいな、翡翠ちゃん。
 私も志貴さんと腕を組みたいなー」
志貴さまと翡翠さんの甘い雰囲気に割ってはいる琥珀さん。
さっきまで煽るだけ煽っていたくせに、何を言い出すんでしょう。

「志貴さんの右腕が空いていますよねー」
琥珀さんは志貴さんの右側に近づくと、ニコッと笑って志貴さまの右腕をとります。

「こ、琥珀さん?」
「姉さん!」

「私もえぃ!」
琥珀さんはそういって志貴さまと腕を組みました。
自分でやっているのに琥珀さん真っ赤になっています。

「へへー」
恥ずかしいのか照れ笑いをして、志貴さまを見上げる琥珀さん。

「いいですよね、志貴さん?」
琥珀さんは右腕にぶら下がるようにして、志貴さまに同意を求めます。

「……あ、あ、う、うん……」
志貴さまは翡翠さんとちらっと確認してから、赤くなりつつも了承しました。
翡翠さんが怒っていたのなら考え直したかもしれませんが、
翡翠さんは特に怒っている様子もなく、琥珀さんのその行動に微笑んでいましたので
大丈夫と判断したのでしょう。

「ふふふ、志貴さま、両手に花ですねー」
志貴さまと腕を組みながら、そんなことを言う琥珀さん。

志貴さま、急に意識したのかさらに真っ赤になってしまいました。


「じゃあ、行きましょう、志貴さん」
琥珀さんは志貴さまの右腕と組んだままぐいぐい先に進んでいきます。

「あ、待って、琥珀さん」
志貴さまは翡翠さんと歩く速度をあわせつつ、琥珀さんが先にゆくのを押さえます。
「三人で一緒に行かないと、ダメだよ、琥珀さん」

「そうでした、すいません、志貴さん、翡翠ちゃん」
琥珀さんはペロッと舌を出して可愛く謝ります。



そうして三人はまた仲良く並んで歩きます。
腕を組んで歩く姿はまさしく両手に花≠ナす。
美しい姉妹の二人を両側に連れて歩く志貴さまにはやっかみの視線が飛んできます。
が、志貴さまはそんな視線なぞ気にもとめず堂々と歩いていきます。



こうして改めて三人のデートは幕を開けました。
これから、どんな出来事が待っているのでしょうか。
わたしは三人の初々しさに微笑みつつ、後をつけていきました。
志貴さま、頑張ってください、応援していますので。



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6月24日(日) 午後 後半

両手に花の状態の志貴さまは両腕を組まれているお二人にあわせて
ゆっくりと歩きます。
左にいる翡翠さんも右にいる琥珀さんも顔を赤くしながら幸せそうです。
恥ずかしそうにしていても、腕を放さないのが本人達の気持ちを物語っているのでしょうか。
見ていて微笑ましい光景です。

三人はそのまま街を歩きます。
左に白が似合う可愛い女の子、右に黒が似合うこれまた可愛い女の子を従えた志貴さまは
かなり目立っています。
腕に捕まるお二人がどちらも世間一般のレベルでいえば、かなり上位に入りますので、
やっかみの視線やねたみの視線等が痛いほど突き刺さります。
そうは思わない方達でも、純粋に可愛い女の子に向ける視線をとばしてきますので、
結局目立ってしまいます。
この状況ですと目立たないでお出かけするのが難しいことなのかもしれません。

「……志貴さま、何か先ほどから見られているといいますか、
 睨まれているような―――視線を感じるのですが……」
翡翠さんがそっと辺りを見回して、志貴さまにささやいています。

「……あ、翡翠も気づいたか。うん、たぶん俺が睨まれているのだと思う」
志貴さまが翡翠さんの疑問に答えます。

「何で志貴さまが睨まれるのでしょうか、何もしていないではないですか」
志貴さまの答えを聞いて、翡翠さんが多少語気を強めて聞き返してきました。
まあ、翡翠さんからすれば街を歩いているだけで睨まれるのは納得いかないところでしょう。

「……ん、なんていうか、両脇に翡翠と琥珀さんって可愛い子を二人連れて、
 腕組んで歩いていたら、やっかむ奴の一人や二人はいるさ」
志貴さまは苦笑いしています。
ご自分が世間一般でいうところの可愛い女の子というのを翡翠さんはよくわかっていないようです。
そんな女の子を二人も両脇に連れて――しかも腕を組んで歩いていたら、
今日のように睨んできたりする人だっているのは当然です。
その辺のことがいまいち理解できてないようです。

「……可愛い……」
翡翠さんが赤くなっています。
志貴さまに言われて照れてしまったようです。

「ま、だから、今日は街を歩いているかぎり、あきらめるしかないね、翡翠」
赤くなっている翡翠さんにあきらめ口調で志貴さまが諭すように言いました。
肩をすくめて、隣にいるもう一人の可愛い女の子、琥珀さんと視線が合いました。

「あははー、翡翠ちゃん、志貴さんに可愛い≠ニ言われて良かったねー」
いつものようにニコニコしている琥珀さん。

その言葉を聞き、さらに赤くなる翡翠さん。
真っ赤になって俯いてしまいました。

「あー琥珀さん、琥珀さん。俺は琥珀さんも可愛いと言ったのだけど……」

「あっ……」
ボンと赤くなってしまう琥珀さん。
どうやら翡翠さんのことしか頭になかったようで、
ご自分も含まれていたことに気づいていなかった様子。

「あ、あ、ありがとうございます、志貴さん」
琥珀さんも赤くなってしまいました。

志貴さまは赤く俯いてしまった二人を見て微笑むと、
そのままゆっくりと街を歩いていきました。



街の中でウィンドウショッピングに興じる三人。
この服がいいとか、あの服はどうでしょうとか、話しています。
まあ、主に琥珀さんが翡翠さんに向かってしゃべっているようですが。
志貴さまは最後の判定役。
お二人の意見がまとまらない時に志貴さまに振られます。

「志貴さん、この服、絶対翡翠ちゃんに似合いますよねー」
琥珀さんが指し示した服は淡いピンクのワンピース。
純白の大きめな襟がピンクの生地に映えています。
膝上までの長さですので、いつもはロングスカートを履いてる翡翠さんが
これを着たら新鮮で似合いそうです。

「うん。確かに翡翠に似合いそうだね」
琥珀さんの意見に頷く志貴さま。

「なんというか、清楚なイメージが翡翠にはあるから、
 こういうシンプルなのが似合うような気がするよ」
そんな説明を二人にする志貴さま。
それを聞いて翡翠さんは恥ずかしそうに照れています。

「ほらー。志貴さんだってお似合い≠チて言っているじゃない。
 絶対似合うって、翡翠ちゃん」
ここぞとばかりにまくしたてる琥珀さん。

「……うん。ちょっと膝が見えてるのが恥ずかしいですけど……」
翡翠さんはスカートの長さを気にしているようです。
いつも屋敷で着ているメイド服は膝下まで隠れるロングタイプなので
その辺りが恥ずかしいらしいです。

「大丈夫、大丈夫。これぐらいは気にしちゃダメだって、翡翠ちゃん。
 夏なんだし、このぐらいがちょうどいいのよ」
明るくニコニコしながら、ショーウィンドウの服を勧める琥珀さん。

「本当に似合っていますか、志貴さま……」
翡翠さんは赤くなってチラリと志貴さまに視線を送りました。

「大丈夫。翡翠にぴったりだと思うよ、俺は」
大きく頷いて断言する志貴さま。

「翡翠ちゃん、この服買ったら、今度志貴さんがデートに連れて行ってくれるってー」
琥珀さんが志貴さまが言ってもいないことを言い始めました。

「本当ですか、志貴さま」
赤くなって、上目遣いに志貴さまを見やる翡翠さん。

「う……、琥珀さん、俺、そんなこと言ってな…………」
志貴さまは琥珀さんの言葉を否定しようとしましたが、翡翠さんの視線に気がつき、
語尾が小さくなっていきます。

「う…… うん、そうだね。行こう、翡翠。それを着た翡翠と一緒に出かけたいな、俺は」
志貴さま、そのまま翡翠さんと琥珀さんの視線に負けたかのように俯いたのち、
ニコッと笑いながら顔を上げて、翡翠さんに微笑みました。

「琥珀さんも見たいよね、翡翠がこの服を着た時を」

「そうですね、わたしも是非見てみたいです、
 ピンクのワンピースを着て恥ずかしそうにする翡翠ちゃんを」

志貴さまと琥珀さんの二人で太鼓判を押しています。
翡翠さんはしばらく考えたのち、うん!と頷くと意を決してお店の中に入っていきました。
しばらく外で待っていたら、かわいらしい袋を持って翡翠さんが出てきました。
顔を赤くして、微笑みを浮かべています。

「翡翠ちゃん、買ってきたのねー」
琥珀さん、ニコニコしています。

「はい、思い切って買いました、姉さん」
大事そうに袋を持って、チラチラと志貴さまの方に視線を送る翡翠さん。

「これで、志貴さんとのデートはばっちりだね、翡翠ちゃん。
 そうですよね、志貴さん!」
琥珀さんはいきなり志貴さまに話を振りました。

「そ、そうだね、琥珀さん。
 翡翠、夏休み中に出かけよう。必ずね」
笑顔で翡翠さんと約束する志貴さま。ちょっと照れているところが志貴さまらしいです。

「……はい、よろしくお願いいたします」
翡翠さんは頬を赤く染めて志貴さまに深々とお辞儀をしました。



三人はその後もいろいろな店を覗いて楽しみました。
街に出ることのない翡翠さんは、全てが新鮮だったようです。
琥珀さんはそんな翡翠さんを見て嬉しそうです。
志貴さまはただ楽しそうな二人を見て微笑んでいます。


そうして歩いていたら、いつの間にか公園に到着しました。
志貴さまは二人をベンチに導きます。

「翡翠、ここ座ったらいいよ。琥珀さんもその隣に」
空いていたベンチに二人を腰掛けさせる志貴さま。

「あの、志貴さまは?」
翡翠さんが上目遣いで立ったままでいる志貴さまにお聞きします。

「あー、俺はちょっとあれを買ってくるから」
志貴さまはそういって、遠くにある車を指さしました。
どうやら、ソフトクリームの移動販売車のようです。

「何でもいいよね、二人とも」
志貴さまが二人に尋ねます。

「はい、志貴さまにお任せします」
「なんでもいいですよ、志貴さん」

志貴さまは笑顔になると、
「ちょっと待っててね」 と言いのこして、走って買いに行きました。


わたしは繁みの中でお二人を観察します。
志貴さまがいない時、何と会話されるのでしょう。


「翡翠ちゃん、楽しそうだねー」
琥珀さんが翡翠さんを見て嬉しそうに微笑んでいます。

「……はい、志貴さまと一緒に出かけられて嬉しいです」
頬を赤く染めて琥珀さんの言葉に答える翡翠さん。

「……今度は一人で頑張るんだよ、翡翠ちゃん。
 今日買った服を着て、志貴さんのハートをこうがっちり捕まえなきゃ」
琥珀さんが胸の前でオーバーアクション気味に身振りで示します。

「ね、姉さん、それは……」
琥珀さんの言葉に真っ赤になってしまう翡翠さん。
下を向いて照れています。

「志貴さまは、私なんかを…… その相手にはしてくれないし……」
消えてしまいそうな声でボソボソと答えます。

「翡翠ちゃん、そんなことない!
 志貴さん、翡翠ちゃんを大切に思っているのだから。
 だから、そんなことを言ってあきらめちゃダメ!」
一息ついて、翡翠さんに頷きかけます。

「志貴さん、かなり鈍感なところがあるからこちらから攻めないと気づかないのよ。
 ここであきらめたら昔からの志貴ちゃん≠ヘ他の女の子にとられちゃうよ」
琥珀さんは翡翠さんを見つめます。

翡翠さん、しばらく考える素振りを見せてから、琥珀さんに頷きました。
「……頑張ってみます、姉さん」

赤い顔で琥珀さんに決意を伝えています。
琥珀さんはそれを聞いて満足そうです。


「そういえば……」
翡翠さんが志貴さまがまだ戻ってこられないのを確認してから、琥珀さんに尋ねます。
「姉さんは…… 姉さんはどうなんですか…………」

「……えっ…… わ、わたしは……」
琥珀さんが翡翠さんの質問に動揺していたとき、ちょうど志貴さまが三人分のソフトクリームを持って
帰ってきました。

「お帰りなさい、志貴さん。ご馳走になっちゃっていいのですか」
話題が転換できることにほっとした表情を浮かべると、
何事もなかったかのようにソフトクリームを受け取りつつ、明るく志貴さまに尋ねる琥珀さん。

「これぐらいは奢らせて、琥珀さん」
志貴さまは笑顔で答えると、翡翠さんにもソフトクリームを渡します。

「はい、翡翠の分。バニラにしちゃったけど大丈夫かな?」
心配そうな顔で翡翠さんを覗きこむ志貴さま。
バニラは定番だからよほどのことがない限り、大丈夫とは思いますが、どうでしょう。

「ありがとうございます、志貴さま」
翡翠さんはソフトクリームを持ってぺこりと頭を下げます。

「いいって、いいって。ソフトクリームぐらいでそんな頭を下げなくても」
志貴さま、翡翠さんの律儀なところを見て苦笑しています。

「気にしないで、食べちゃって、翡翠」

「はい、志貴さま。それではいただきます」
そう返事をすると、かわいらしくソフトクリームを食べる翡翠さん。
見ていて自然に笑みがこぼれます。




そうして三人は笑いながらソフトクリームを食べていきました。
琥珀さんがからかい、志貴さまと翡翠さんが赤くなり……
時には志貴さまが言い返しますが、琥珀さんはそれも織り込み済み。
さらにからかいのネタとなり、言い返せなくなる志貴さま。
見ている翡翠さんが思わず声を出して笑ってしまったぐらいです。


そんな仲良く楽しい時間を過ごしていく三人にも、いつかは終わりの時間が訪れます。

「もう、夕方ですね」
ふと時計を見た琥珀さんが呟きました。

「そうだね、もう戻らないと秋葉が帰ってきちゃうかな」
志貴さまも同じく時計を見ました。

「秋葉様のご予定がいつも通りでしたら、多少余裕がありますが、
 もうそろそろ帰った方がいいかと思います、志貴さま」
翡翠さんが寂しそうな顔つきで進言します。

「そっかー、もう終わりか……
 楽しかったね、二人とも」
志貴さまはそう言って二人に微笑みました。

「はい、また遊べたらいいですね、志貴さん」
「はい、今日はとても楽しかったです、志貴さま……」
二人は同時に答えます。

「でも志貴さんは次に翡翠ちゃんは出かけるのですよねー。
 翡翠ちゃん、頑張ってね」
琥珀さんはからかっているのだか、祝福しているのだかわからないようなことを
翡翠さんに言いました。
翡翠さんはそれを聞いて、真っ赤です。

志貴さまはそんな翡翠さんに微笑んでいます。
そして、あまりにも翡翠さんが照れているので助け船を出しました。
「じゃあ、帰ろうか」



そうして三人で帰路につきました。
行きと同じように真ん中に志貴さまを挟み両脇に翡翠さん・琥珀さんがいらっしゃいます。
二人とも腕を絡めているところまで行きと同じです。
志貴さまは顔を赤らめておりますが、その口元には笑みが浮かんでいます。
楽しい時間を翡翠さん・琥珀さんと過ごせたのがよほど嬉しかったのでしょう。
翡翠さんと琥珀さんも幸せそうな笑みを浮かべています。
志貴さまと一緒に出かけることが出来て満足したようです。


太陽の傾き加減からもう夕方とわかるこの時間、
三人はゆっくり歩いていきました。
明日から――今日、帰ってからはいつも通りの主従関係。
ですので、それまでぐらいは一人の女の子として過ごしたいところ。
翡翠さんも琥珀さんも。

二人とも、お幸せに…………



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6月24日(日) 夕方

坂を登って屋敷に到着する三人。
まだ秋葉さんは帰ってきていないようです。

「車がないところを見ると、秋葉はまだ帰ってきてないね」
安心した様子の志貴さま。

「そうですね、まだ秋葉様はお帰りではないようです。
 これですといつも通りの時間でしょうか」
琥珀さんがそれに答えます。
腕の時計を見て、時間を確認しつつ。

「……姉さん、行きましょう。
 私はお屋敷のことをしますので、夕食の方をお願いいたします」
翡翠さんが侍女の顔つきになって琥珀さんを急かします。

「何か手伝うことある、俺でよければさ?」
二人の会話を聞いて、気を利かせる志貴さま。

「……いえ、大丈夫です。
 志貴さまは部屋にいて下さい。夕食の準備が出来ましたらお呼びいたしますので」

「あはー、志貴さんを手伝わせたのが秋葉様にバレたら、私たちが怒られてしまいますので、
お気持ちだけで結構ですよ」

翡翠さんと琥珀さんが各々志貴さまに答えます。

「そっか、それならしょうがないか。
 何か手伝えることがあればいつでも手伝うので気軽に言ってね、二人とも」

「お気持ちだけありがたく受け取ります、志貴さま」
「ありがとうございますね、志貴さん」

翡翠さんは顔を赤らめながら、琥珀さんはニコニコしながら、
志貴さまにお礼を言いました。
確かに志貴さまを手伝わせたことが秋葉さんにバレると、お二人が怒られてしまいます。
ここはお二人の言うことを黙って受け入れるのが吉だと思います。

そうして翡翠さんと琥珀さんの二人は自分の部屋に着替えに行きました。
志貴さまはポツンと取り残されますが、確かにこの屋敷ではやることがありません。
とりあえず着替えるために自室に戻りました。


しばらくして、着替え終わった後に居間へ入っていきますと、
台所の方から琥珀さんの歌声が聞こえてきました。
夕食を準備しながら何かを口ずさんでいるようです。
普段、そのようなところを見せないところから考えるに、かなり機嫌がいいのでしょう。
志貴さまと一緒に出かけられたからでしょうか。
トントンとまな板の上で包丁を使う音をバックに楽しそうに歌を口ずさんでおります。

居間から廊下を覗くと、翡翠さんが立ち回っているのがちらちらと視界に入りました。
いつものメイド服を着た翡翠さんが、口元に笑みを浮かべて掃除をしているのがとても印象的です。
琥珀さんみたいに歌を口ずさんでおりませんが、なんといいますか柔らかい雰囲気を醸し出しているのがわかります。
これも志貴さまたちと出かけられた影響でしょうか。


志貴さまはそんな二人を見て嬉しそうに微笑んでいます。

「屋敷の中でしか働いていないのだから、たまには外で息抜きしないとな」
そんなことを呟いたのが聞こえてきました。

「さて、秋葉が帰ってくるまで部屋でおとなしく寝てるかな」
志貴さまは一つ大きなあくびをされると、そのまま自室に戻っていきました。
夕飯まで一寝入りするようです。

「じゃ、後は任せた、翡翠、琥珀さん」
そんなことを誰に聞かせるともなく呟くと、ゆっくり階段を上がっていきます。
口元に幸せそうな笑みを浮かべながら……



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6月25日(月)

志貴さまを起こしにきた翡翠さんがとても機嫌がよさそうに見えました。
なんていいますか、雰囲気がいつもと違って柔らかいのです。
正直言いまして、普段の翡翠さんは真面目で固い顔をされているのですが、今日は全然違います。
笑みを浮かべて、優しい目で志貴さまを見つめていたりなんかしています。
さらに、時々、ポッと赤くなったりするのが決定的。
昨日の志貴さまとのお出かけが未だに効いているとみて間違いないでしょう。

そんな翡翠さんに起こされた志貴さま、翡翠さんを見て嬉しそうです。
「おはよう、翡翠。今日はずいぶん機嫌が良さそうだね」

翡翠さんは志貴さまを見て顔を真っ赤にしています。
「いえ、そんなことはないですけど……」

「そうかな? いつもと違ってにこにこしているよ、翡翠の顔。
 何かいいことあったの?」
志貴さまは何げに質問しました。
そして、思い当たる節というか、昨日のことを思い出したのか、
「あ、もしかして」と呟き、顔を真っ赤にしました。
翡翠さんも志貴さまが考えていることがわかったのか真っ赤になりました。

「翡翠、もしかして昨日の……」
志貴さまが言いかけたと同時でした。

「志貴さま、早く起きられないと学校に遅刻してしまいます。
 着替えて下におりてきてください」
翡翠が真っ赤な顔のままで志貴さまの言葉を遮ると、俯いたまま小走りで部屋から出ていきました。

「あ、翡翠……」
志貴さまは顔を赤くしたまま逃げるように去っていった翡翠を見て、頭をかいています。

「昨日は楽しかったよ、俺も……」
志貴さまはそう呟くと、気持ちを切り替えて着替え始めました。



「おはよう、秋葉」
居間にいた秋葉さんに挨拶する志貴さま。

「おはようございます、兄さん」
疑問そうな顔を浮かべたままで、志貴さまに挨拶を返す秋葉さん。

志貴さまが部屋を見回すと、翡翠さんが壁際で控えています。
志貴さまを見て軽く頭を下げました。
相変わらず機嫌が良さそうです。

「どうした、秋葉。朝から難しい顔をして?」
志貴さまが秋葉さんに尋ねます。
秋葉さんの顔がいつもと違って、何か考えている顔でしたので気になったようです。

「あ、兄さん、すいません。
 いえ、たいしたことではないのですが、翡翠が機嫌良さそうでしたから……
 何かあったのかと聞きましても、何も答えないので……」
翡翠さんをチラッと見てから、志貴さまの疑問に答える秋葉さん。

秋葉さんの言葉を受けて再度翡翠を見る志貴さま。
聞こえているのか聞こえていないのかわかりませんが、
翡翠さんはいつも通りに壁際で控えています。
いつもと違うのは機嫌が良さそうなところだけです。

「……別にいいんじゃない。翡翠だって機嫌がいい時はあるだろうし……」
頬をぽりぽり掻きながら、秋葉さんに話しかける志貴さま。

「まあ、それはそうなんですけど……
 昨日の朝は別にいつもと変わらなかったので、
 私がいなくなってから何かあったのかなと思いまして……」
翡翠さんを見つめながら、腑に落ちない顔をしている秋葉さん。

「……まさか、兄さん、昨日翡翠と出かけたなんてことはないですよね?
 私がいないからと言って、翡翠や琥珀と遊んでいたなんてことは……」
ギロリと志貴さまを睨む秋葉さん。

秋葉さん、志貴さまのことに関しては勘が鋭いです。
ずばり当たっています、その推測は。

「別に、俺は……」
と志貴さまが言いかけた時、食堂から助け船が。

「志貴さーん、ご飯の用意が出来ましたよー」
ここでタイミングよく琥珀さんが志貴さまに声をかけました。

「あ、ちょうどご飯だ。じゃあ、秋葉、俺はご飯食べてくるから」
そう言い残して食堂に入っていく志貴さま。

秋葉さんは疑惑のまなざしを志貴さまに向けたままです。
「うーん、絶対怪しいに違いないわ、兄さんと翡翠は……」
一人呟いています。

その時、食堂から琥珀さんが出てきました。
「秋葉様、もうそろそろ行かないと学校に遅刻してしまいます」

「わかりました、琥珀、用意をお願いします」
秋葉さんはそう言って、紅茶を一口飲むと、学校に行くために立ち上がりました。

琥珀さんが秋葉さんの鞄を持って居間の入り口に控えます。
「秋葉様、ご用意の方は全て整いました」

「それでは学校に行きましょう、琥珀」
そう言って制服の裾を翻し玄関に向かう秋葉さん。

翡翠さんは壁際で居間から出ていく秋葉さんに頭を下げています。
秋葉さんは出ていく際にちらりと翡翠さんを見ましたが、無言で前を通り抜けました。

「琥珀、貴方は翡翠の機嫌がいい理由を知っている?」
玄関で靴を履きながら秋葉さんは琥珀さんに尋ねました。

「翡翠ちゃんの機嫌がいい理由ですか、さあ、なんでしょうね。
 昨日は志貴さまが家にいましたので、それで機嫌がいいのかもしれませんね」
琥珀さんが笑みを浮かべて答えます。

「……ふーん、それだけであんなに機嫌が良くなるものかしら?」

「さあ、私も家にいましたが、特に何かあった様子もなかったですよ、秋葉様」
いつもの笑顔で大胆に嘘を言う琥珀さん。
さすが琥珀さん。策士たる者、ひと味もふた味も違います。

「ま、そこまで言うのなら、何もなかったのでしょう。
 行きましょう、学校に。本当に遅刻してしまいます」


秋葉さんと琥珀さんは車に乗り込み、学校まで行きました。
とりあえず、秋葉さんの疑問は解決したようです。



しかし、琥珀さんは笑って嘘をつきますね。
あないう人を騙す技術は是非ともわたしも見習いたいところであります。
対アルクェイドさま用に……



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6月26日(火)

志貴さまが学校から帰ってくると、ちょうど琥珀さんが玄関におりました。

「あれ、どうしたの、琥珀さん?」
志貴さまが尋ねます。

琥珀さんはいろいろな植物が植えられた植木鉢を持って、
重そうによろめきつつ、移動させています。
女の子の腕ではちょっと荷が重いかもしれません。

「琥珀さん、手伝いますよ」
玄関に鞄を放り投げた志貴さまが、腕を捲りつつ琥珀さんに声をかけます。

「いえいえ、志貴さんに手伝ってもらうほどのことではありません。
 大丈夫ですから」
琥珀さんがそう言って、志貴さまの好意を断ろうとしたのですけども
志貴さまは受け入れません。

「女の子がそんな重い物を持っているのに黙ってみているわけにはいかないよ、琥珀さん。
 これはどこへ運べばいいかな?」
琥珀さんが止めたにもかかわらず、志貴さまは一番重そうな植木鉢を持ちあげて、
移動場所を琥珀さんに尋ねます。

「申し訳ございません、志貴さん。
 それではこちらに持ってきていただけますか」
恐縮気味に志貴さまにお願いする琥珀さん。

「オーケー。そっちに動かすから」
そう言って琥珀さんの指示に従って植木鉢を動かす志貴さま。




何鉢動かしたでしょうか。
気づいたら、帰ってきてからかなり時間が過ぎていることに気がつきました。

「すいません、志貴さん。手伝ってもらっちゃって……」
申し訳なさそうに謝る琥珀さん。

「いいよ、別に。
 しかし、琥珀さんも水くさいよな。こういう力仕事は言ってくれればいつでも手伝うのに」
志貴さまが額に汗をにじませながら笑いかけます。

琥珀さんは一瞬ちょっと困った顔をしてから、いつもの笑顔で
「いいえー、志貴さんに手伝って貰うなんてとんでもない。
 これぐらい、わたし一人で出来ますので大丈夫ですよー」
とにこやかに答えました。

志貴さまは琥珀さんの一瞬困った顔に気づかなかったようです。
何故、琥珀さんは困った顔をされたのでしょうか。
不思議です。

琥珀さんの返答を聞いた志貴さま、人差し指をたてた例のポーズで、
「ダメです、琥珀さん。琥珀さんは女の子なのですから、
 力仕事は男に言っていただかないと、ね!」
とウィンクをしつつ、言い聞かせます。

琥珀さんは志貴さまの言葉を聞きキョトンとしてしまいました。
そして
「あはー、そう言ってくださるとすごく嬉しいです、私は。
 それではこれからもよろしくお願いしますね、志貴さん」
そうお礼を言うとにっこり微笑みました。

琥珀さんの返答に満足した、志貴さま、改めてご自分が運んだ植木鉢を見まわします。 
「しかし、これ琥珀さん一人で動かすつもりだったの?」
と尋ねました。

確かに今回の志貴さまが動かした植木鉢はかなりの数です。
とても女の子一人で動かそうと思う数ではありません。

「いつもでしたら何日かかけてゆっくり動かすのですよー。
 でも今回は志貴さんが手伝ってくださったので、たった一日で終わってしまいました」
先ほどの困った顔とはうってかわって笑顔で志貴さまに答える琥珀さん。

「そうなんだ、これをいつも一人で……。
 これからは俺が手伝うから一言声をかけてね、琥珀さん」
志貴さまは自分が運んだ植木鉢の量を見て、改めて琥珀さんに言い含めます。
さすがは志貴さま、女の子には優しいです。

ぽかんとした顔で志貴さまを見つめる琥珀さん。
自分が何を言われたかよくわかっていないようです。
そして、ようやく志貴さまが自分に何を言ったか理解すると顔を真っ赤にして、
そして「こちらこそ改めてお願いしますね、志貴さん」と
微笑んでからぺこりと頭を下げました。

琥珀さんはすごく嬉しそうに笑っています。
琥珀さんの心からの笑顔。
なんて素敵な笑顔なのでしょう。

「あ、そうだ。こんなに手伝っていただいたのだから、お礼をしないといけませんね」
そう言って、周りをキョロキョロと見回す琥珀さん。

「志貴さん、目をつぶっていただけますか?」

志貴さまは琥珀さんの言葉に従って目をつむります。
「つぶったよ、琥珀さん」

「はい、それでは失礼して……」

そう言うと、琥珀さんは顔を赤くして志貴さまに近づきます。
ドクンドクンと琥珀さんの心臓の音が聞こえてくるようです。

志貴さまは何も警戒せず目をつぶったままです。
琥珀さんはゆっくりとゆっくりと、顔を近づけます。

琥珀さんは真っ赤という言葉では言い表せないぐらいに顔を赤くして―――



志貴さまに優しくキス。



志貴さまがハッと目を開けると、そこには真っ赤な顔の琥珀さんが立っていました。

「これが私からのお礼です。それでは失礼します」
琥珀さんはそう言い残すと、後ろを振り向かずに走り去ってしまいました。
首元まで真っ赤だったのは目の錯覚でしょうか……


志貴さまは琥珀さんにキスされた口元を押さえていつまでも呆然としています。


アルクェイドさま、新たにライバルが増えました。
琥珀さんという名のライバルが。
一昨日の翡翠さんといい、志貴さまは周りの女性を本当に惹きつけます。
勝ち抜くのは大変でしょうけど頑張ってください、アルクェイドさま。
もちろん、わたしは琥珀さんも応援していますが。


わたしは志貴さまが幸せになるのなら、どなたでも構いません……
志貴さま……



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6月27日(水)

昨日の件からか、ニコニコニコニコ機嫌がいい琥珀さん。
いつも笑顔なのですが、今日の笑顔は本物という感じがします。
何といいますか、作り物の笑顔ではなく、心から微笑んでいる印象を受けるのです。

そんな琥珀さんを見て嬉しそうにする翡翠さん。
自分の姉が機嫌いいのを見て、嬉しく思っているようです。
何で機嫌がいいのかは特に考えていないように見受けられます。
自分と同じく日曜日に志貴さまと出かけられたから、と考えているのでしょうか。
疑いのまなざしを向けることなく一緒になって純粋に喜んでいます。

志貴さまはいつも通りです。
まあ、琥珀さんを若干意識しているきらいもありますが、概ね普段と同じく接することが出来ています。
いつもだったら、翡翠さんはその辺りの違いに気づくのでしょうけども、
自分が機嫌良く――はっきり言ってしまえば浮かれているので気づいていません。
だから、琥珀さんと志貴さまの間に何かあったということを気づけないのです。
まあ、もし仮に気づいたとしても、翡翠さんの性格なら一歩引いてしまうかもしれません。
翡翠さんはそういう性格なのです。
自分を殺してまで、姉と主の幸せを願うでしょう。
損な役回りです……まるでわたしと同じように……



そんな状況のなか、三人で仲良くしゃべっています。
正確に言うと志貴さまと琥珀さんでしゃべって、羨ましそうに二人を見つめる翡翠さん。

「あれ、翡翠ちゃん、さっきから黙っているけど志貴さんと話さないの?」
琥珀さんが話を振ってきました。

「え…… 特に志貴さまと話すことがありませんので……」
翡翠さんはあまり積極的に話そうとはしません。
それはいろいろあった過去のことからか……
今はもう、志貴さまが解きほぐしてくれたのですが、
それでも今までがそうだったので簡単には直りません。
楽しそうに話す琥珀さんを羨ましそうに見つめるだけです。

「日曜日の時のようにすればいいのにー」
琥珀さんが笑いながら、翡翠さんを近くに呼び寄せます。

「なに、姉さん?」
翡翠さんは日曜の件を思い出したのか顔を朱に染めながら琥珀さんに近寄ります。

志貴さまは頭に疑問符を浮かべて琥珀さんを見守ります。

「ほら、この前の日曜日で自分がどれだけ志貴さんを好きか気づいたのでしょう、翡翠ちゃん。
 今、秋葉様もいないのだから思い切り甘えちゃえばいいのよ」
琥珀さん、爆弾発言。
翡翠さんの顔が見る見るうちに真っ赤になります。
一緒に志貴さまの顔も赤くなるのはご愛敬。

「な、な、何を言うの、姉さん……」
翡翠さんが珍しくうろたえています。
自分の気持ちを志貴さまに伝えられてしまって動揺しているようです。
顔中真っ赤にして、俯いてしまいました。

「例えば、こういう風にね」
琥珀さんはそんな翡翠さんを見て微笑みながら、いきなり志貴さまの腕を取りました。
そうして、腕を抱く形でぎゅっと志貴さまにくっついたのです。

「こうやって甘えればいいのよ、翡翠ちゃん」
琥珀さんは顔を赤くしながら、翡翠さんに教え込みます。
さすがに恥ずかしいのか琥珀さんも照れています。

志貴さま、真っ赤。
琥珀さんと翡翠さんの話でいつのまにかこういう状況になってしまってただ硬直するのみ。

「ほらほら、翡翠ちゃん。もう片方の手が空いているのですから」
琥珀さんが翡翠さんを誘ってます。
だけども翡翠さんは躊躇っています。
当然でしょう。
自分の主の腕を失礼して、胸に抱くなんて、翡翠さんの考えからすると言語道断です。
しかも秋葉さんがいないからといって、家の中でそんなことをするのは……と考えているようです。

「むー、真面目だねー翡翠ちゃん」
琥珀さんはそう言って、翡翠さんの後ろに回り込むと、無理矢理志貴さまの腕を取らせました。

「はい、こうやって志貴さんの腕を抱いてー」

「ち、ちょ、ちょっと姉さん!」

「はいはい、こうすれば、はい、問題なしー」
何が問題なしなのかわかりませんが、これで一件落着とばかりに
パチパチパチと手を叩く琥珀さん。

志貴さま真っ赤、翡翠さん真っ赤です。

「す、すいません、志貴さま。すぐ離しますので……」
翡翠さんがそう言って離れようとすると、志貴さまが止めました。

「まあ、こういうのも時にはいいんじゃない?
 もちろん、翡翠さえよければだけど……」
そっぽを向きながら翡翠さんに話す志貴さま。
照れているので翡翠さんと目を合わせられないようです。

「……志貴さま……」
翡翠さんはそれを聞いて、決意したのか今までよりもギュッと力を込めて
志貴さまの腕をかき抱きます。

「そうそう、そうすればいいのよー翡翠ちゃん」
琥珀さんはうまくいったとばかりに笑っています。





それは秋葉さんが帰ってくるまで続きました。
翡翠さんと琥珀さんと志貴さまの幸せな時間が。
日曜日から引き続いている大事な瞬間の連続。
翡翠さんにとって思い出に残る時間。
琥珀さんにとっても幸せな時間。


たまにはこういうのもありですよね。
いつも、使用人として見つめているだけですので。


……ちょっと羨ましいです……



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6月28日(木)

昨日の琥珀さんの荒療治が効いたのか、頑張って志貴さまに甘えようとしている翡翠さん。
いつもと違う面を志貴さまに見せています。

「……あ、あの、腕をお借りしてもいいですか、志貴さま……」
昨日と同じことをしようというのか、真っ赤になって志貴さまにお願いする翡翠さん。

「……え、ええ……
 あ、ああ、いいけど、別に……」
これまた真っ赤になっている志貴さま。

翡翠さんがそれではと頭を下げて、志貴さまの腕を取ろうとした時に、
ちょうど琥珀さんが通りかかりました。

「あら、翡翠ちゃん、ちゃんと甘えられているわねー」
笑って冷やかす琥珀さん。

「ね、ね、姉さん……。
 これは……」
慌てて言い訳する翡翠さん。
こんなに慌てている翡翠さんは初めて見ました。
顔も真っ赤でとにかく慌てふためいています。

志貴さまは真っ赤になってそっぽを向いています。
お二人の顔が見られない、という風にあらぬ方向を見ています。

「あははー、いいんですよ、翡翠ちゃん。そんなに隠さなくてもー。
 志貴さまがいいと仰るなら存分に甘えればいいのですよ」
そんなことを言って立ち去る琥珀さん。


残されたのは真っ赤になっているお二人。
熱々です、とにかく。
……端から見ていて羨ましいぐらいに……



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6月29日(金)

秋葉さんが疑いのまなざしを使用人である翡翠さんと琥珀さんに向けています。
どうも、このごろ使用人である翡翠さんと琥珀さんの様子が変と気づいたらしいです。
何といいますか、普段でしたらそこまでしないだろう、ということまでお二人は
志貴さまに対してしていますので、何かあったに違いないと思いこんでいるようです。

「絶対何かがあったに違いないわ……」
秋葉さんが呟いています。

夕食が終わってからのティータイム。
ソファーに座った秋葉さんが三人を疑いのまなざしで見ました。
翡翠さんは壁際に控えていて、琥珀さんは紅茶の準備で立ち回り、
志貴さまは秋葉さんの対面に座っています。

「ん? どうした、秋葉? しかめ面をしてさ」
志貴さまが秋葉さんの様子がおかしいのに気づいたようです。
冗談ぽく、秋葉さんに話しかけます。

「……いえ、別に何でもないですわ、兄さん」
琥珀さんの淹れてくれた紅茶を手に持ちながら志貴さまに答える秋葉さん。

秋葉さんは主に翡翠さんを見ています。
琥珀さんはいつもニコニコしているので日常の変化がわかりにくいです。
しかし翡翠さんはいつも無表情気味に見えるので、何かがあったとするなら変化がはっきりわかると思ったのでしょう。
ずっと翡翠さんを観察している秋葉さん。

「……? 何でしょうか、秋葉様」
翡翠さんが秋葉さんに尋ねます。
首をかしげて、秋葉さんに視線の意味を問い合わせています。

「……いえ、翡翠…… 貴方、最近変わったわね。
 今までと違って表情が豊かになった気がしてね……
 何かあったの?」
この前は琥珀さんにはぐらかされてしまった秋葉さん、ストレートに翡翠さんに質問します。
翡翠さん、顔を赤くして動揺しています。

「……やっぱり……
 このところ明るくなったと思ったけど、何かあったのね、翡翠」
秋葉さんが語気を強めて詰め寄ります。

「さあ、何があったの、翡翠?
 兄さんと出かけたとでもいうの?」
手に持ったティーカップから一口紅茶を飲んで、翡翠さんに詰問します。
翡翠さんは下を向いて答えません。

「別に何もないぞ、秋葉」
困っている翡翠さんを見て志貴さまが助け船をだしました。
嘘がつけずに下を向いてしまった翡翠さんを見かねたようです。

「兄さんは黙っていてください」
秋葉さんはキッと志貴さまの方を振り向いたかと思ったら電光石火で志貴さまを黙らせます。

「翡翠、もしかして貴方、日曜日に兄さんと…… でかけ……た……の…………ね…………」
さらに詰め寄ろうとした秋葉さんが急にゼンマイが切れたロボットのように
緩慢とした動作になりました。
言葉がしゃべれなくなり、手に持ったティーカップを机の上に置いたかと思ったら
横に倒れてしまいました。

「あ、秋葉!」
駆け寄る志貴さま。

「大丈夫か、秋葉。しっかりしろ!」

「すぅー すぅー」
そこには穏やかな寝息を立てる秋葉さんがいました。



「姉さん、盛りましたね、秋葉様に……」
渋い顔をして隣にいる実の姉にボソボソと問いつめる翡翠さん。

「いえいえ、自然に眠くなったのではないですかー」
ニコニコ笑って答える琥珀さん。

「どれ、志貴さんが心配していますので私が看ましょうか」
そう呟いて、志貴さまと秋葉さんに近づいていきます。


「志貴さん、私が看ますので安心してください」

「あ、大丈夫かな、秋葉。
 いきなり倒れたようなんだけど……」
心配そうに秋葉さんの寝顔を見つめる志貴さま。
いきなり目の前で倒れられたらそれは誰だって不安になります。

志貴さまの前でうやうやしく秋葉さんの脈などを看る琥珀さん。
「うーん、志貴さん、大丈夫です。
 どうやら秋葉さんは寝ているだけのようですので」
安心させるように志貴さまに症状を報告した琥珀さん。なにか笑いをこらえているようにも見えます。

「良かった……
 って、もしかして、琥珀さん盛った?」
ふっと、その可能性に気がついた志貴さま、琥珀さんに尋ねます。

「翡翠が詰問されていたので、その鮮やかな手口で秋葉を眠らせたとか、もしかしてそういうこと?」
渋い顔で琥珀さんに質問します。

「あははー、さてどうでしょうか。
 いくら私でも翡翠ちゃんが詰問されてから秋葉さまにお薬を盛るのは不可能ですよ。
 たまたまじゃないですか、秋葉さまが急に寝てしまったのはー」

「そっか、そうだよね。
 いくら何でもあのタイミングでクスリを飲ませることなんて出来ないよね。
 ゴメン、琥珀さん」

「いえいえ、別に構いませんよ。
 ちょっと寂しかったですけどねー」
笑顔でそんなことを言う琥珀さん。

「ごめん、疑ったりして……
 この詫びは必ずするから、ホント、ゴメン」
手を合わせて、琥珀さんに謝る志貴さま。

「それでは、そのうちお詫びでもしてもらいましょうか、志貴さん。
 あはー、何がいいかなー」
琥珀さんは楽しそうに言うと、秋葉さんを抱えます。

「じゃあ、考えておいてくださいね、志貴さん。
 必ずですよー」

琥珀さんはそう言ったかと思ったら、秋葉さんを抱えて居間を出ていきます。
秋葉さんを寝かしつけるようです。

「あ、姉さん、私も行きます」
追いかける翡翠さん。

「あ、俺が連れて行くよ、琥珀さん」
立ち上がろうとした志貴さまに琥珀さんの声が飛んできます。
「大丈夫ですから安心してください」

続いて翡翠さんの声も続きます。
「志貴さまはそちらにいてください。私と姉さんの二人で秋葉様を連れて行きますので」

そう言い残すと、翡翠さんは琥珀さんを追いかけて行きました。




……何か怪しいです。いったん志貴さまを見張るのをやめてあの二人を追いかけることにしました。




「……姉さん、本当に盛ったのではないのですか?」
ちょうど、核心に触れる質問を翡翠さんがしているところで追いつきました。
翡翠さんは真顔で自分の姉を問いつめています。

「今日は、朝から怪訝そうな顔をしていましたからね、秋葉様。
 今まで仕えていた経験からいいますと、夕食後あたりに詰問があると思っていたのですよ」
答えではない答えを返す琥珀さん。

「……じゃあ、やっぱり……」

「さて、どうなんでしょうね、本当のところはー」
ニコニコしてはぐらかす琥珀さん。

「まあ、眠るだけではなくその前後の記憶も曖昧になりますから、
 また問いつめられるということはないと思いますよ、翡翠ちゃん」
琥珀さんは恐ろしいことを笑顔で言いました。

「……姉さん」
翡翠さんは琥珀さんの目を見つめます。

「さ、秋葉様の部屋に着きましたよ。
 翡翠ちゃん悪いんだけど、ドアを開けて」


琥珀さんは翡翠さんにドアを開けてもらうと、秋葉さんの部屋に入って
ベッドに自分の主を寝かしつけます。

「おやすみなさいませ、秋葉様」
ぺこりと一礼をすると琥珀さんは秋葉さんの部屋から退出します。
そしてドアの外で待機していた翡翠さんに明るく話しかけます。
「それでは居間に戻りましょうか、志貴さんも待っていることだし」

「……」

「さて、志貴さんには何をしてもらおうかなー」
明るく翡翠さんに話しかける琥珀さん。

「……姉さん、それはクスリを盛っていない場合の話じゃないのですか……」
翡翠さん、渋い顔してたしなめます。

「翡翠ちゃん、こういうのを策略というのですよ。
 また一緒に志貴さんと出かけられるのよ、万々歳じゃない」

翡翠さん、真っ赤。

「え、あれは姉さんに言っていたので私は関係ないかと……」
赤くなって、琥珀さんに尋ねる翡翠さん。

「何言っているのよ、一緒に出かけるに決まっているじゃない、翡翠ちゃんたら」
笑顔でこたえる琥珀さん。

真っ赤な顔で俯いてしまう翡翠さん。
「……ありがとう、姉さん……」

「いえいえ、どういたしましてー」




そうして二人は居間へと戻ります。
たくらみが成功した喜びを笑みに変えて。





琥珀さんはやはり怖い方です。
アルクェイドさまも言っていました。
「彼女は敵に回したくない」と。
その時は理解できなかったのですが、今なら充分わかります。
ああいう直線的ではない搦め手からの攻めは苦手です。
アルクェイドさまもわたしも。
わたしはまだいいです、性格的に。
アルクェイドさまは真っ直ぐなご性格ですから、彼女みたいな方は苦手でしょう。
なかなか大変な方がライバルになっています。
厳しい戦いになりそうですが頑張ってください、アルクェイドさま。



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6月29日(金) その後

お二人が居間に戻ると志貴さまが心配そうな顔で迎えました。
「どうだった、秋葉の様子は?」

「大丈夫です、秋葉様はよく眠っておられます」
張本人の琥珀さんが、何事もなかったかのように志貴さまに微笑んでいます。

「良かった……」
ホッと胸を撫で下ろす志貴さま。

「疲れていたのでしょうかね、いきなり倒れてしまいましたね、秋葉様」
琥珀さんがいつもの笑顔で志貴さまに話しています。

「……そうだね、秋葉、疲れていたのかも。
 妹の体調ぐらい気づいてやれないとは兄貴失格だな」
辛そうにして答える志貴さま。


志貴さま、それは違うんですけど……
全ては琥珀さんの手の上で……


翡翠さんはそんな琥珀さんの言葉に何も反応を示しません。
壁際に黙ったまま立っています。


「時に、志貴さん?」
ニコニコして琥珀さんが話を切り出し始めました。

「ん、何? 琥珀さん」

「先ほどのお話しなのですが、ほら、私がクスリを入れたとかどうのとかの……」

「あ。さっきはごめんね、琥珀さん。疑ったりして……」

「いえいえ、それはもう過ぎたことですから構いません。
 それでは……」
そう言ってちらりと上目遣いに志貴さまを見上げる琥珀さん。

「う…… またどこかに出かけるってことでいいかな、琥珀さん?」

「はい、それで結構です。翡翠ちゃんも一緒で構いませんよね、志貴さん」

「ああ、もちろん。琥珀さんさえよければ、俺は構わないよ」

「では決定です。志貴さん、その時はよろしくお願いしますね」

「えっと、こちらこそよろしくお願いします、琥珀さん」

「……姉さん、本当にいいのですか、私もご一緒して……」

「全然問題ないですよ、翡翠ちゃん。ほら、志貴さまもいいって言っているのだし」

「それでは姉さん共々、よろしくお願いします、志貴さま」
深々と頭を下げる翡翠さん。

「ああ、いいっていいって。元はこちらが悪いことなんだから……」



そうして秋葉さんが寝ている間に第二回のデートが決まりました。
いよいよ、琥珀さん暗躍の本領発揮でしょうか。
やはり、敵に回すとこの方は怖いです。
次のデートもチェックです。
いつかアルクェイドさまが琥珀さんと向き合った時のために……



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6月30日(土)

学校が終わって。
志貴さまは遠野家のある方向とは違う方向に歩いていきます。
どこへ向かっていくのでしょう?
わたしはこっそりついていきました。


しばらく歩いていると、志貴さまがどこへ向かっていたのかわかりました。
我が主の住むところへ向かっていたようです。

志貴さまはアルクェイドさまの住むマンションへ到着したら、そのまま中へ入っていきました。
エレベーターに乗り六階のボタンを押します。

わたしは外から先回りします。
志貴さまが六階に到着する前に。

ピンポン。
六階にエレベータが着いたようです。
中から志貴さまが出てきました。

志貴さまは勝手知ったとばかりに目的の部屋へ歩いていきます。
六階の三号室。
ここがアルクェイドさまの住む部屋です。

チャイムを押す前に、志貴さまは身だしなみを整えます。
一応、女性に会う前の礼儀としてでしょうか。

ピンポーン。
チャイムを鳴らす志貴さま。
アルクェイドさまがいれば出てくるはずです。

「はーい」
そんな声が中から聞こえてきました。

ドアが少しだけ開きます。
「はい?」
アルクェイドさまの声です。

「あ、アルクェイド? 俺、俺、志貴だけど……」
少しだけ開いたドアに向かって前かがみ気味に話す志貴さま。

「志貴ー!?」
アルクェイドさまは志貴さまの声を聞いたと同時にドアをガバッと勢いよく開けました。

ゴツン、という音とともに倒れる志貴さま。

いや、その、アルクェイドさま、志貴さまが来られて嬉しいのはわかりますが、
その何といいますか、人間より強い力を持っていますのでもう少しゆっくり開けるべきだったかと……

志貴さまは勢いよく開いたドアによって頭を強打し廊下に倒れてしまいました。

「志貴、志貴!」
慌てるアルクェイドさま。

「とりあえず、私の部屋に運ばないと……」
アルクェイドさまは倒れてしまった志貴さまを抱え込むと、部屋に入っていきました。

アルクェイドさまの使い魔であるわたしも中に入ります。
マスターは動転しているらしく、わたしに気づいていません。

アルクェイドさまは志貴さまを抱えて、自分のベッドに連れて行きます。
そうしてゆっくり志貴さまを寝かすと、氷嚢をつくるために台所へ行きました。

わたしは人間の姿になって、アルクェイドさまを手伝います。

「あれ、来てたの、レン?」
びっくりした声を上げるアルクェイドさま。

「はい、志貴さまの側に控えていますので……」
わたしはマスターの質問に答えます。

「良かった。ちょっと志貴が倒れちゃってさ、手伝ってくれない?」

「仰せのままに、アルクェイドさま」
わたしは主の命を受けると、アルクェイドさまの代わりに氷嚢を作ります。
冷凍庫から氷を取り出すと、氷嚢袋なんてこの部屋にはないでしょうから、
厚手のビニールを二重にして、その中に氷を入れます。
そして水を少し入れて、即席の氷嚢袋の完成です。

わたしは完成した氷嚢袋を持つと、志貴さまの元へ急ぎました。

「あ、レン、ありがとう」
わたしから氷嚢袋を受け取ると、アルクェイドさまは志貴さまのおでこをそれで冷やします。


ゆっくりと流れる時間。
アルクェイドさまは心配そうに志貴さまを見つめています。


「う、うーん」
志貴さまが声を上げました。
もうすぐ目が覚めるのでしょうか。

わたしはアルクェイドさまの目配せを受けて、猫の姿になります。
そうして、志貴さまたちから少し離れたところで横になります。

「うん……」
志貴さまが目覚めたようです。
あたりをキョロキョロ見回しています。

「あ、やっと目が覚めた、志貴ー」
アルクェイドさまがホッとしたように声をかけます。

「あ、あれ、アルクェイド……
 何でお前がここにいるの……
 って、ここはどこだ?」
志貴さまが状況を把握できずにマスターに尋ねます。

「ここはわたしの部屋だよ、志貴、わたしに用事があって来たんじゃないの?」

「……そうだ、俺はアルクェイドに用事があって、部屋まで来て……
 いてて…… この馬鹿、ドアを勢いよく開けるな!」
志貴さま、全てを思い出したようです。
アルクェイドさまがドアを勢いよく開けたところまで。

「ごめーん、志貴。つい、志貴が来たので嬉しくてさー。
 ドアを思い切り開けちゃったのよ」

「お前な、馬鹿力でドアを開けるなって。頭がかち割られるかと思ったよ」
志貴さま、怒っています。
それはそうでしょう、訪ねていったらドアが勢いよく開いて気絶させられたのですから。

「アハハー。でも志貴も悪いよね、ドアの前に顔を突きだしているのだから」

「馬鹿、お前がドアを薄めに開けたから、
 そこからでも聞こえるように顔を突きだして話したのだろうが。
 思い切り開けるお前が悪いの、アルクェイド」

「ごめん、志貴。本当に嬉しくてさ……
 ついね、勢いよく……」
アルクェイドさまが志貴さまの怒りの前にシュンとなってしまいました。
猫だとしたら耳をペチャと寝かしつけてしまった状態です。
とにかく小さくなっています。

「……ったくもう、しょうがないな、アルクェイドは……」
志貴さまは小さくなってしまったマスターを見て、苦笑しています。

「もういいや。わざとでないのだから、今回は許す。
 次は気をつけろよ、アルクェイド」

「うん、次はゆっくり開ける。
 ホントにゴメンね、志貴ー」
アルクェイドさまは志貴さまに許してもらったので、ホッとしたようです。
ニコニコと笑顔になりました。


「で、どうしたの、いきなり。
 そりゃ、私、志貴が来てくれて嬉しいけどさ」
アルクェイドさまが頬を赤く染め照れながら志貴さまに尋ねます。

「んー、いや、前に言っただろう。
 機会があればお前のことをデートに誘うって。
 明日空いていれば、一緒に出かけようと思ってさ、誘いに来たわけ」
志貴さまがちょっと恥ずかしそうに答えます。
アルクェイドさまと目を合わせずにあらぬ方向を見ているのはご愛敬。

「行く行く、明日は空いてるから志貴と出かけられるよ!
 志貴、約束を守ってくれたんだ……」
志貴さまの言葉を聞いて大喜びのアルクェイドさま。
嬉しくてちょっと涙目になっているのは気のせいでしょうか。

「ずっと誘ってくれないから、志貴、約束を忘れちゃったのかなって思ったりしたの。
 けどけど、聞くのが怖くて……」

「悪い、アルクェイド。遅くなっちゃって。
 ちょっと遅れたけど、約束は果たす。安心してくれ」

「うん。うん。
 志貴は私と約束したことは絶対守ってくれる……
 そりゃ、ちょっとは不安になったけど、やっぱし志貴は約束を破らないよね。
 ……ありがとう、志貴」
よほど嬉しかったのでしょうか。
アルクェイドさま、すごい喜びようです。

志貴さまはそんなアルクェイドさまを見て微笑んでいます。

「じゃあ、明日の昼過ぎに迎えに来るから。
 それまでに用意しておいてくれ、アルクェイド」

「わかったわ。待っているから、ずっとずっと待っているからね」



明日の約束をしたお二人はそのあと、とりとめのない話をして過ごしました。
アルクェイドさまのこと、志貴さまのこと。
それぞれご自分のことを話して、相手の話を聞いています。
ゆったりと流れる穏やかな時間。
アルクェイドさまはこんな時間を味わったことがありません。
全ては志貴さまと巡り会ってから……



二人ともお話しに夢中になって、かなり時間が過ぎてしまいました。
志貴さまは時計を見て驚いた様子。

「悪い、もう門限だから帰るよ、アルクェイド」
志貴さまが立ち上がって帰る準備をし始めました。

「えー、もう帰っちゃうの、志貴ー」
アルクェイドさまはむーと頬を膨らましました。
志貴さまと別れるのが名残惜しいようです。

「ハハ、明日また会えるじゃないか。
 今日はもう帰るよ」
志貴さまはそう言って、忘れ物がないか部屋を見回しました。
その時、部屋の隅にいたわたしと目が合ってしまいました。

「あれ、アルクェイド……」
志貴さまがアルクェイドさまの名を呼びます。

「なあに、志貴ー」

「お前、猫なんて飼っていたっけ?」
志貴さまはわたしの方を見ながらアルクェイドさまに質問します。

ドキ、ちょっとまずい事態かもしれません。
わたしの脳裏に弓塚さんとの邂逅が思いよぎりました。

「ええ、前から飼っていたけど、それが何か?」
アルクェイドさまは使い魔だということを匂わせずに無難に説明します。

「ふーん、そうだったんだ。いや、前に来た時気づかなかったから」

「滅多に寄りつかないから、レンは」

「あ、レンっていうんだ、この猫は」
志貴さまはわたしの名前を聞くと、しゃがんでわたしにおいでおいでをします。
「レン、おいでおいで」

わたしは出来るだけ普通を装って、志貴さまに近づきます。
そして、志貴さまの足下に首をこすりつけます。
「にゃあー」

志貴さまはしゃがんでわたしを優しく撫でます。
痛くない程度にゆっくり全身を撫でてくれます。

「にゃあー」

「アルクェイド、この猫、人を怖がらないんだな」
志貴さまはわたしを撫でながらアルクェイドさまに話を振ります。

「そうね、あまり怖がらないかも。
 人なつこいわけでもないんだけどね、レンは」

「ふーん、そうなんだ」

わたしは撫でられて気持ちが良くなりました。
目をつぶって、体中を志貴さまの足下にこすりつけます。

「いやさ、実は前にも同じような猫を見たことあるから……
 ちょっと、気になっただけ」

「ふーん、いったいどこで見かけたの」

「いや、街で歩いていてさ、見かけたことがあったから……」

志貴さまは最後とばかりに強めに撫でます。
ちょっと痛いぐらいにです。

「じゃあ、俺、帰るよ。
 また、明日な、アルクェイド」
志貴さまは立ち上がると、アルクェイドさまにさよならの挨拶をします。

「本当に帰っちゃうの、志貴」

「まあな、明日会えるからいいだろ、アルクェイド」

「むー、つまんない」

「そんなこと言うなって」
志貴さまは苦笑してます。

「じゃあな、突然押し掛けて悪かったな、アルクェイド」

「ううん、そんなことない。志貴ならいつでも大歓迎だよ」

「はは、ありがとうな」
志貴さまはそう言ってアルクェイドさまに手を振ると玄関から出ていきました。

後に残されたのはアルクェイドさまとわたしだけ。



「さて、レン。さっき志貴が言ったことはどういうことかなー」
アルクェイドさまがわたしに詰め寄ってきます。

何故帰ってしまったのですか、志貴さま。
わたしはこれから何と言い訳すればいいのでしょう……

詰め寄ってくるアルクェイドさまを見つつ、わたしは言い訳を考えます。
何と答えれば納得していただけるか、それだけを考えて……



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6月30日(土) その後

アルクェイドさまが笑顔で近寄ってきます。
こんな時のマスターが一番怖いです。

「さ、答えなさい、レン」

わたしは人間の格好になるとアルクェイドさまに頭を下げます。
「すいません、アルクェイドさま。以前、志貴さまに見つかってしまったことがあります」

「いつ、どこで見つかったの、レン?」
優しそうな笑みを浮かべてマスターが聞いてきます。
志貴さま、マスターがとても怖いです。

「街中で志貴さまの後をつけていましたら、突然振り向かれて……
 隠れる時間もありませんでした。
 いつ、見つかったかは正確な日は覚えておりません。
 報告が遅れ申し訳ございませんでした、アルクェイドさま」
わたしは最初に見つかった時のことしか言いませんでした。
全てのことを明かして、その後がどうなるかを考えるととても怖かったので、
最初に見つかったこと、それだけを説明してマスターの出方を待ちます。

「……そう。次回からは気をつけなさい、レン」
アルクェイドさまが解放してくれました。

あれ、もっと厳しく怒られるかと思ったらあっさりと許してくれたのは
いったいどういう風の吹き回しでしょうか。

「明日は志貴とデートできるし、今回報告がなかった件や見つかった件は不問にしてあげるわ、レン。
 だけど―――」
ここでいったんわたしを見ます。
深い深い赤色の瞳、どこまでも真っ赤なその瞳で。

「―――次回はないと思いなさい。二度目は許されないからね」
ブルッ。
全身に震えがきました。
アルクェイドさまが本気でわたしを視て、わたしはその場に凍りついてしまいました。
真祖。
アルクェイドさまは最後の真祖なのです。
今、改めてそのことを理解しました。
この全身が凍りつく恐怖。
この足元が崩れていくような不安。
地上最強にして最凶。
彼女は―――アルクェイドさまは唯一の真祖なのです。

「は、はい、わかりました。
 二度と見つからないように気をつけます」
わたしはそれだけを何とか述べると、ただ体を震わせます。

ふと気づくと、アルクェイドさまは元のアルクェイドさまに戻っておりました。
先程までの鬼気はどこへやら、ニコニコしながらハミングなんかを。
このギャップは……
わたしは密かにため息をつきました。
アルクェイドさまらしいといえばらしいのですが。

「しっきとデートだ、楽しいデートだ」
アルクェイドさまは楽しそうに明日の準備をしています。

「あ、レン、もういいわ。引き続いて志貴の見張りをよろしくね。
 今度は見つからないようにね」

「わかりました、マイマスター」
わたしはそう言うと、猫の姿になって逃げるように志貴さまを追いかけはじめました。



ふー。
無事で何よりです。
わたしのことをアルクェイドさまに言ったのは志貴さまですけど、
助かったのもまた志貴さまのお誘いのおかげ。
何とか虎口を切り抜けたようです。

わたしは今度こそ見つからないように気合いを入れ直すと
志貴さまを追いかけるために走ります。

頑張らないと、うん!








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