使い魔レンちゃん、向かうは敵なし!

5月




5月18日(金)

志貴さまの見張りを命じられた。
曰く「ほかの女に手を出さないように」とのこと。
マスターの命令ならば、しかたがない。
枝の上で、ベッドに横たわっている志貴さまを見つめる。

しかしなぜ、我が主アルクェイドさまといい、エクソシストのシエルさんといい
志貴さまを好きになるのだろう。
こうやって見ていても、特に取り立てて特徴がある方とは思えない。

うーん、気になる。
志貴さまのことは、これから研究することにしよう。



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5月19日(土)

シエルさんが志貴さまを迎えに来ていた。
一緒に学校に行くつもりらしい。
いちおうアルクェイドさまにご報告。

……だめだ、アルクェイドさまはおやすみのようだ。
我が主ながらなんてタイミングの悪い。
志貴さまをシエルさんに奪われても知りませんよ、マスター。



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5月20日(日) 午前

アルクェイドさまの虫の居所が悪い。
一緒に遊ぼうと、志貴さまを朝からお誘いに行ったら
「先約があるからゴメン」と断られたからだ。
別に秋葉さんと志貴さまが食事前に仲良くお話しされているところへ
話しかけたから断られた、というわけではないと思う。
呼ばれもしないのに2階の窓から入っていかれたのが問題なのだと思う。

……ちなみにシエルさんと先に約束をしたようだ、志貴さまは。

あのー、わたしに当たらないでください。
わたしは報告しました。
寝ていたのはアルクェイドさまで……



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5月20日(日) 午後

我が主アルクェイドさまが、志貴さまとシエルさんのデートの邪魔をしようとしたのでお止めした。
「志貴さまのお出かけの話を聞いたとき、秋葉さんが目を光らせていました。
 そしてそのあと、琥珀さんと何やら話をされていましたので、志貴さまの妨害をされるかと思います。
 デートの邪魔をして志貴さまに嫌われる役目は、秋葉さんたちにお任せしたらいかがでしょうか?」
それを聞き、金色に光っていた目が、ようやく元に戻りました。
ふぅー、怒れる主人をなだめなければいけないから、使い魔も大変です。

デートの方は、あまりうまくいかなかったようです。
秋葉さんが琥珀さんに成果をお話しされていたのを聞きました。
志貴さまも大変な方を妹君にお持ちになりましたね……



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5月21日(月)

やっとアルクェイドさまの機嫌が良くなった。
といっても昨日と比べてだけども。
これも秋葉さんのおかげである。
秋葉さんが志貴さまとシエルさんのデートの邪魔をしたことで
我が主は溜飲を下げたらしい。
良かった良かった。

アルクェイドさまは主としては悪くないのだが、
感情に左右されやすいのが欠点だと思う。
八つ当たりはごめんです、マイマスター。



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5月22日(火)

昨日からアルクェイドさまは何かお考えらしい。
ニヤッとしたり、険しい顔をしたり、ヘニャッとして顔を赤くさせていたりしている。
見ていて面白いのだけど、主のことを「面白い」なんて
考えているのがわかったら怒られてしまう。
黙っておくのが一番。

しかし、何を考えているのだろう。
少々予想してみることにした。

……うーん、どう考えても、一つしか思いつかない。
一昨日の志貴さまとシエルさんのデートの顛末をお話ししてから、
アルクェイドさまはずっと何かをお考えだった。
たぶん、志貴さまとのデートを計画しているのだろう。
アルクェイドさまにお仕えしてはや幾年。
マスターの思考パターンを読めるようでなければ、
立派な使い魔とはいえない。

その考えを裏付けるかのように、アルクェイドさまのしっぽが
揺れている。
アルクェイドさま、しっぽをフリフリさせないでください。
かわいらしいですけど、しっぽが見えてます。
あ、猫耳も隠れてません、隠して隠して。
隠されないと志貴さまがびっくりされますよ。



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5月23日(水)

今日は志貴さまにとって平和な朝。
何故かと言うと、翡翠さんがいつもの時間に志貴さまを起こせているから。
…ごめんなさい、志貴さま。
いつもいつもマスターが騒がしく起こしてしまって…

考えてみると、ある意味、マスター(とシエルさん)は遠野家の秩序を乱しています。
ほぼ毎朝、呼ばれもしないのに、志貴さまの家を訪れているのだから。
しかも玄関からではなく、窓から訪れてるのはどう考えても失礼です。
秋葉さんも翡翠さんもそう思っているに違いありません。

琥珀さんはどう思っているだろう。
……うーん、彼女は何を考えているか読めません。
案外この状況を楽しんでいるのかもしれません。


さて、登校時間となり志貴さまが翡翠さんに見送られて学校へ行かれます。
アルクェイドさまは朝、志貴さまの部屋を訪れなくても
たいていこの時間までにはいらっしゃっており、志貴さまと合流するのですが……

……あれ、今日はどうしたのだろう。
アルクェイドさまがいらっしゃらない。
いつもでしたら、もう声をかけててもおかしくないのに。

……もしかして、なにかたくらんでいます、マイマスター?



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5月24日(木)

このごろ、シエルさんの機嫌が悪い。
志貴さまと一緒にいるところを見ても、妙にイライラしている感じをうける。
志貴さまも何とはなく気にかけているようだ。

ふぅー、なんで機嫌が悪いのかだいたい見当がつきます。
たぶん日曜日の志貴さまとのデートを邪魔されたから機嫌が悪いのでしょう。
未だにそれを引きずっているに違いありません。

シエルさんはアルクェイドさまが邪魔をしたら容赦なく戦う。
たとえ人前であっても志貴さまの前であっても黒鍵を取り出して
目の前から消えるまで追い払おうとするでしょう。
しかし、邪魔をしたのがよりにもよって秋葉さんだから、振り上げた腕のやり場に困ってしまう。
楽しみを邪魔したからといって、自分の好きな人の妹に手を出すわけにはいけないと、
歯ぎしりしながら自重しているに違いない、シエルさんは。

こうなると、アルクェイドさまは如何に自由かわかる。
たとえ秋葉さんといえども、自分の気持ちは絶対曲げない。
自分の気持ちに正直なまま、志貴さまをお誘いになる。

天真爛漫という言葉、そのものだ。我が主は。



……そういえば、今日もアルクェイドさまを見かけなかった。
いったい、どうしたのだろう。心配になってきた……




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5月25日(金) 午前

アルクェイドさまを見かけなくなって数日経過。
マスターのことだからどこかで悪巧みでもしているのでしょうか……
うーん、多少は心配だけど、大丈夫。マスターは無敵だし、そう簡単にやられてしまう方ではない。
引き続き、命じられたとおり志貴さまの見張りを続けることにしよう。

朝、志貴さまを迎えに来たシエルさんは相変わらず機嫌が悪そうだ。
それに反して、秋葉さんは勝ち誇った雰囲気を醸し出している。
日曜日の件で水面下においてぶつかっているのだろう。
お互いの間で目には見えない火花が散っている気がする。

シエルさんが「もう、行きましょう」と志貴さまをせかす。
どうやら秋葉さんの勝ちのようだ。
翡翠さんに見送られて、志貴さまとシエルさんは学校へ行く。


今朝もアルクェイドさまは見えられなかった。
……まさか、志貴さまを嫌いになったのですか、マイマスター?




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5月25日(金) 午後 前半

志貴さまの学校の下校時間になりました。
志貴さまのお帰りです。
帰宅部である志貴さまは、用事がない限り早く学校を出てきます。
今日はどうでしょう。早く帰れるのでしょうか。

多数の生徒が昇降口から外に出てきました。
かなりの混雑。
しかし、その中に志貴さまの姿はありません。
用事でも出来たのでしょうか?

あ、出てきました。
やっと志貴さまが昇降口に姿をあらわしました。
あれ、今日は一人じゃないようです。
ツインテールのかわいい女の子と一緒にいます。
仲良くおしゃべりしながら、靴に履き替えて外に出てきます。

えっと、彼女の名前は……
確か志貴さまのご学友で弓塚さんとおっしゃった方だったような……

志貴さまはクラス内ではあまり女性の方と話をされませんので、
仲が良い女性の方の名前はだいたい把握しています。
彼女はクラス内で一番志貴さまと話をされる女性です。

お二人が肩を並べて、校門前まで歩いて行くと
志貴さまに話しかける方がいました。
……あ、どうやらシエルさんのようです。
なにやら、赤い顔でシエルさんが志貴さまに話しかけています。
ちょっと近づいてみましょう。

「遠野君、次の日曜日は空いていますか?」
シエルさんが赤い顔で恥ずかしそうにしながら志貴さまに尋ねてます。
アルクェイドさまと戦っているときからは想像できないような雰囲気を醸し出して。
シエルさんも女の子なんですね。
好きな男性の前では、こんなに女の子らしくなるなんて。
ちょっとびっくりです。

おっと、シエルさんに驚いていてはダメですね。
マスター、まずいです。
シエルさんが志貴さまをデートに誘おうとしています。
ぴーんち。

「特に用事はないけども…… どうしたんですか、先輩?」
志貴さまが女性の方によく見せるきれいな笑顔で聞き返しています。

「えっ、えぇ。この前のデートの続きをしようと思いまして」
シエルさんが顔を赤らめながらちょっとつっかえ気味に志貴さまをデートに誘ってます。

「デート」という単語を聴いて弓塚さんがピクッとしてます。
心なしか顔が険しくなってます。
どうやらその言葉をお気に召さない様子。

「よろしいでしょうか、遠野君?」
おそるおそるシエルさんは尋ねてます。
断られたらどうしよう……そんな気持ちが伝わってきます。
弓塚さんも普段の学校一の便利屋さんとして生徒・先生から絶大な信頼を受けるシエルさんと
今目の前にいるシエルさんが同じ人物とは思えないようです。
いつもと雰囲気が違うのでびっくりして何も言えません。

マスター、ピンチです。
ピンチもいいとこ。
このままでは先週と同じ展開になってしまいます。
どこに行ってしまったのですか、アルクェイドさま!



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5月25日(金) 午後 後半

シエルさんのデートのお誘いに対して、志貴さまが返答しようとした瞬間…






ズガッ


大音響とともにシエルさんが吹っ飛んでいきました。
校門前でかなりの土埃をあげて。ええ、それはもう派手な飛びっぷり。
いったい何があったのでしょう。
志貴さまも弓塚さんもびっくりしてます。

もうもうとあがる土埃の中、誰かが立っています。
徐々に徐々に薄れゆく土埃、その中から一人の女性が垣間見えます。
闇の中でもきらめくだろう金の髪、見る者に畏怖を与える朱い瞳、
何者にも染まらない純白の服をまとうその姿。


「志貴ー、今度の日曜は空いてるよね? デートしよう!」


……その外見から来るイメージを台無しにしてしまうような脳天気な発言をするのは…


「アルクェイド! なにやってんだよ、おまえは!!」
志貴さまが怒鳴ってます。

やはりアルクェイドさまだ。志貴さまのところにいらっしゃらないから
心配していたのですが、どうやら杞憂だったようです。
全然変わっておりません。いつものアルクェイドさまです。

「えー? 何やってんだよって志貴に会いに来たんだよ。一緒に帰ろーよ、志貴」
アルクェイドさまは何事もなかったかのように話しかけます。
志貴さまの前に現れるとき、シエルさんを吹っ飛ばして現れたのですけど
そんなことは全然気にしていないようです。
シエルさんが復活したとき、この辺り一帯が戦場になるのが火を見るより明らかです。

志貴さまはアルクェイドさまの返事を聞き、ガクッと肩を落とし、ため息をつきました。
「はぁ……。なぁ、アルクェイド。 どーしておまえは普通に姿を現せないんだ?」

「えへへー」

「笑うところではないんだけどなぁ」
志貴さまがぼやいてます。

「そんなの気にしちゃダメだよ、志貴ー。いいから帰ろ」
アルクェイドさまがニパッと笑いながら、再度志貴さまをお誘いになったとき、





ドスドスドス!



どこからか飛来してきた黒鍵がアルクェイドさまを吹っ飛ばしました。

「何しやがるんですか、このアーパー吸血鬼が!」
アルクェイドさまを吹っ飛ばしつつ、こちらに駆け寄ってきて叫ぶのは
所々破れてしまった制服を着ているのを意に介さずに怒髪天を衝く……
教会のエクソシストとしての面を表に出したシエルさんです。

「いったーい、何すんのよ。シエル」
アルクェイドさまは頭を押さえつつ、立ち上がります。
どうやら吹っ飛ばされた拍子に頭を打った様子。

「それはこちらの科白です、アルクェイド・ブリュンスタッド。貴方こそ何をしやがるんですか!」
シエルさんはかなりお怒りのようです。マスターをギロリと睨んで黒鍵を構えます。

「志貴に用事があっただけよ。シエル」

「遠野君に話しかけるのに何故わたしを吹っ飛ばす必要があるのですか!」

「えへへー」

「えへへーじゃないです! まったく……
 とっとと城に帰りなさい。もうこの国には死徒はいないのだから!」

「えー、ダメだよ。わたしがこの国を離れるときは志貴も一緒だからー。
 まだ志貴はわたしと一緒に来てくれるって言ってくれてないし。
 志貴がわたしに協力してくれると言ったら城に帰るよー」

「な、な、な、なにバカなことを言っているのですか、貴方は!
 遠野君は普通の人間です。
 貴方みたいな吸血鬼と一緒に行動させるわけにはいきません。
 一人で城に帰って、次の死徒でも狩ってなさい!!」

「シエル、それっておーぼーよ。志貴の気持ち無視してるー」

「遠野君が貴方についていくわけがありません。
 わけわからないこと言っていないで、さっさとこの場を立ち去りなさい」

「ふーっ!」

「むー」


アルクェイドさまとシエルさんがにらみ合っている間に、話題の中心の志貴さまは
弓塚さんに袖を引っ張られます。

「遠野君、なんかこの人たち、二人で話しているようだし、帰ろうよ。
 さっきから変なことばかり言ってるし」
弓塚さんは志貴さまの手を取って、そのままこの場から離れようとしたところ……



『ちょっと、待ったー』


アルクェイドさまとシエルさんが志貴さまの肩をがしっとつかんで
逃亡を阻止しました。

「貴方、わたしの志貴をどこに連れてく気?」
「弓塚さん、誰が遠野君と一緒に帰っていいと言いました?」
二人とも、目が本気モードです。
こんな時はわたしでも近づくのを躊躇ってしまいます。

「遠野君、なんかこの人たちこわーい」
弓塚さんは志貴さまの後ろに隠れてしまい、人外二人との応対を志貴さまに
任せました。

これは当然の反応です。普通の方なら本能的に引いてしまいます。
それぐらいの密度を持った恐ろしい気が辺り一面に漂っています。
使い魔のわたしでも近づきたくないぐらいです。

「ちょっと、志貴ー。別に逃げなくてもいいんじゃない?」
恐ろしい気を発している人外二人のうち、片方のアルクェイドさまが
目を金色に光らせながら問いつめます。

「そうですね。弓塚さんには申し訳ないのですけど、遠野君にはここに
 残っていただきますから」
もう一人の人外シエルさんは全然申し訳なさそうではない口調で
弓塚さんに言い聞かせます。

「だめだめっ。遠野君は今日わたしと帰るって約束してくれたんだから!
 さあ、帰りましょう、遠野君!!」
弓塚さんは志貴さまの腕を取ってそのまま帰ろうとしています。
これは恋の力でしょうか。
人外の、それも鬼気迫る雰囲気を漂わせているお二人に向かって
反論する勇気のある人間がこの世にいるとは目の前で見ても信じられません。
しかもさらにその言葉を無視しようとするなんて、人間技ではありません。
死亡確定です。

アルクェイドさまは、必死で反論する弓塚さんを見て困ってしまったようです。
志貴さまのご学友ですので手荒なことをしたくありません。
そのようなことをしたら間違いなく志貴さまに嫌われてしまいますから。

「えっと、弓塚さんだっけ。ちょっと待ってもらえる?
 志貴に用事があるのだけど、すぐ終わるから」
アルクェイドさまは出来るだけ優しく弓塚さんに話しかけると、
そのまま志貴さまに問いかけます。

「志貴ー 今度の日曜日、デートしよう」
アルクェイドさまはまっすぐに志貴さまを見つめて誘ってます。

「ダメダメダメダメッ! 今度の日曜はわたしと出かけるのです。 遠野君は!!
 この前のデートはひどかったのですからやり直しです!」
シエルさんはマスターのお言葉を聞いて、反対しています。

「ずるいよーシエルー。おーぼーおーぼー。
 この前デートしたならいいじゃない。続けてなんてずるいー」
アルクェイドさまは猫っぽい口調でシエルさんに言い返しています。

「ダメダメ、何があってもダメー」
「ケチだよ、シエルー。志貴はシエルのモノじゃないじゃん」
「うー」
「ふー」

またまた二人が戦おうとするのを志貴さまがお止めしました。
「いい加減にしろ、二人とも!!」

「だってーシエルがひどいんだもん」
マスターはシュンとうなだれてブツブツ愚痴ってます。

「この前のデートがあまりにもひどかったのでやり直したかったんです…」
シエルさんも下を向いてごにょごにょとつぶやいてます。

「いいですか、二人とも。いいからやめてください」
志貴さまは一言一言区切って二人に言い聞かせます。

「今回はアルクェイドと出かけます」
続けて志貴さまはそうおっしゃいました。

「ホント、志貴!? 約束だよ!」
「ずるいです、遠野君。そんなにわたしが嫌いなのですか」

志貴さまの一言で両極端な反応を見せる二人。

「先輩。誰が先輩を嫌いますか。お願いです、今回はアルクェイドに譲ってください。
 先輩とは先週、デートしたから、今回はアルクェイドに付き合います」
志貴さまは申し訳なさそうにシエルさんと話されます。

「……うん。わかった。わかりました。
 次はデートして下さいね。この前のやり直しをしたいのですから。約束ですよ、遠野君」
シエルさんはしぶしぶと…… ホントに気が進まない口調で納得してくれました。

「というわけで、アルクェイド。今度の日曜の件はOKだよ」
志貴さまは女性を虜にするあの笑顔でアルクェイドさまの申し出を受けられました。

「ホント? やったー。楽しみにしているからね。約束破ったら承知しないわよ」
アルクェイドさまは心の底から嬉しそうにしています。

「何時にどこに行けばいいかな?」
志貴さまがマスターに問いかけます。

「んと、志貴の家に迎えに行ってもいいけど、いもーとがうるさそうだし……
 いつもの公園に十時でいいかな?」

「ああ、了解。じゃあ、日曜日、朝十時に公園集合な。
 遅れるなよ、アルクェイド」

「遅れないわよ。志貴こそ一分でも遅れたら許さないからねー」

アルクェイドさまは首尾よく志貴さまと約束を取り付けると極上の笑顔を浮かべました。本当に嬉しそうな笑顔。
見ているこちらまでつられてしまいそうな微笑みを浮かべて、志貴さまに念押ししています。
「絶対に遅れないでね、志貴ー」

志貴さまは苦笑しつつ答えます。
「お前との約束は必ず守るよ、アルクェイド」

アルクェイドさまは志貴さまの言葉を聞きますと、満足したのか、
志貴さまに手を挙げてから風のように去っていきました。
なにか日曜日のための準備をするのでしょうか。

「じゃ、先輩。今回は申し訳ないんだけど……」

「……いいです。二週連続で遠野君を独占したらバチが当たります。
 でも次はわたしとデートですからね。約束ですよ」

「了解。それじゃ、今日はもう帰るから。
 バイバイ、先輩」

「さようなら、遠野君。気をつけて」

「ごめん、弓塚さん。待たせたね。
 じゃあ、帰ろうか」

志貴さまは弓塚さんと肩を並べて家のある方向に向かいました。
シエルさんは反対方向に帰っていきます。

「さっきはびっくりしたねー。怖かったよ」
弓塚さんは志貴さまに話しかけます。

「ごめんね、弓塚さん。びっくりさせちゃって」
志貴さまは申し訳なさそうに謝ります。

「いや、遠野君は悪くないよ。あの二人が変だっただけで」

「ハハハ。変というわけではないんだけどね。
 ちょっと変わっている部分はあるかもしれないけど」

「あの金髪のヒト、すごく綺麗だったけど、遠野君の知り合い?」

「……うん。いろいろあって知り合ったんだ」
志貴さまは陰のある口調で説明しました。
アルクェイドさまを見事なまでに切り裂き完膚無きまで「殺した」のを思い出したようです。

「あ、なんか、ごめんね。立ち入ったことを聞いちゃって」

「いや、いいんだけどね。別に」

二人の間に静寂が訪れました。
聞こえるのは足音だけ。

「あ、あのね!」
突然、静寂を破るかのように弓塚さんが志貴さまに話しかけます。

「なに?」

「遠野君って、あの人たちとデートするんだよね?」

「う、うん…… そ、そうだけど」
弓塚さんの勢いに押されたかのように、半歩後退して返事をする志貴さま。

「私も今度、遠野君と行きたいところがあるんだけど付き合ってもらえないかな」
弓塚さんは顔を真っ赤にさせながら、志貴さまの顔を見つめて一息に言い切りました。

「え、う、うん…… い、いいよ、俺なんかでよければ」
志貴さまは弓塚さんの勢いに気圧されたかのように頷きます。

「やったー、ありがとう、遠野君」
弓塚さんは志貴さまの返事を聞くと飛び上がらんばかりに喜びました。
本当に、それはそれは嬉しそうな笑顔で。

「いや、ホントにいいの、俺で?
 俺で良ければいつだって付き合うよ」
志貴さまは弓塚さんの喜ぶさまをみて、ちょっとびっくりしたようです。
自分が付き合う、そのことだけでここまで喜んでもらえたのが予想外だったのです。

「うん、遠野君でなければダメ!」
弓塚さんは舞い上がってのあまり、告白に等しい発言をしました。

志貴さまは弓塚さんの言葉を聞き顔を真っ赤にして黙ってしまいました。
弓塚さんも今自分が勢いでトンでもないことを口走ったことに気づき黙ってしまいます。

またもや静寂が辺りをつつみました。
夕日さす帰り道、二人の影法師が地面の上を踊ります。

「……ごめんね、遠野君。迷惑なこと言っちゃって……」

「……いや迷惑じゃないよ。ちょっとびっくりしたけど」
志貴さまは澄みきった笑顔で弓塚さんに微笑みかけます。

弓塚さんは志貴さまの笑顔を至近距離で見て、ボーとしています。
相変わらずの破壊力です。志貴さまの笑顔は。

三度目の静寂の中、二人は坂のところまでたどり着きました。
この坂を上れば、遠野のお屋敷です。

「じゃあ、ここで。バイバイ、遠野君」
弓塚さんは残念そうな顔を隠して、志貴さまに別れの挨拶をします。
でも、志貴さまは気づきません。弓塚さんの別れたくない気持ちに。
志貴さまは鈍感ですから。

「じゃあね、弓塚さん。月曜日に」

お互い手を振りあって別れると、志貴さまは坂をゆっくり登っていきます。
その後ろで弓塚さんは別れを惜しむかのように志貴さまを見送っています。
ずっとずっと……志貴さまが見えなくなるまで……

志貴さまは相変わらず気づきません。
弓塚さんの視線に……
弓塚さんの想いに……

振り向くことなく気づかない志貴さま、見つめることしかできない弓塚さん…………


弓塚さんの想いをよそに、志貴さまは坂を登りきりました。
ここから屋敷までもうすぐです。
あ、翡翠さんが門のところでお待ちしています。
今日はお疲れさまでした、志貴さま。

しかし、マスター、またもやライバル出現です。
マスターの想い人は暴発気味の笑顔で周りの女性を虜にしています。
大変ですね、志貴さまをマスターのモノにするには。
頑張ってください、アルクェイドさま。



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5月26日(土)

今日のアルクェイドさまはご機嫌です。
何故なら日曜日の志貴さまとのデートのことで頭がいっぱいだからです。
良かったですね、志貴さまに断られなくて。

使い魔のわたしが言うのはなんですけど、アルクェイドさまは美人だと思います。
それもかなりのレベルで。
そんな人をここまで骨抜きにするなんて、志貴さまはすごい方です。

明日のデートを思ってたまらなく待ち遠しい、といった顔をしているマスターを見ると
こちらも嬉しくなってきます。

あらあら、しっぽが千切れてしまいますよ、そんなに振っては。
押さえてください、アルクェイドさま。
本当にかわいいことで、マイマスターは。



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5月27日(日) 午前 前半

今日は待ちに待ったデートの日。
我がご主人であるアルクェイドさまは朝早くから色々と準備をされています。

「レーン、この服はどうかな?」

「お似合いだと思います、アルクェイドさま」

「これはー?」

「ちょっと流行からはずれているかと」

「こっちは?」

「……それはやめておくのが賢明かと思います、マスター」

「うーん、志貴はどんな格好が好みなんだろう。
 聞いておけば良かったー」

先程からずっとこんな調子です。志貴さまの見張りをいったん切り上げて
戻ってこい、と言われたときは何事かと思いましたが、
まさか明日着ていく服の相談だったとは……

「これはどうかなー?」

「それはちょっと大胆すぎではないかと……アルクェイドさま」

「んー じゃ、これは?」

「それはちょっと……」
今、マスターが選んだのはフリルがいっぱいついている少女趣味の服。
それはさすがにお似合いとは言えません。
なぜ、そんな服を持っているのでしょう。
今まで一度も着ているのを見たことがないです、マスター。

「これは?」

「お似合いです」

「ちゃんと見てよー、レーン」

「アルクェイドさま、いつもの白の服はいかがでしょうか?」

「あれは、いつも着ているから……。せっかく志貴とデートできるのに
 あの服はないんじゃない?」

「志貴さまはアルクェイドさまとのデートなら
 そんなに服装にこだわられないかと思います。
 いつも通りの服装でよろしいのでは?」

「……レン。それってどういう意味?」

じろっと私を睨んだアルクェイドさまの顔から笑みが消えていました。
どうやら「マスターとのデートに対して志貴さまは服装にこだわってこない」という
わたしの発言がお気に召さなかったようです。
目が心なしか金色に光り、部屋の中の温度が体感で数度以上下がったような……
身震いも許さない、絶対的な存在が醸し出す鬼気がアルクェイドさまから
ゆっくりと流れ出て辺りを覆っていきます。
わたしは自分の失言に後悔を覚えつつ、恐怖の源であるマスターに
自分の思ったことを正直に申し上げました。

「ア、アルクェイドさま。
 志貴さまはアルクェイドさまにかなり心を許しているかと思います。
 ですので、志貴さまはマスターとのデートでも気取らないいつもの格好でいらっしゃるのが予想されます。
 アルクェイドさま、わたしが言いたいことは志貴さまがマスターをないがしろにしているのではなく、
 むしろ逆にも普段通りの格好で行かれれば志貴さまの格好と釣り合いがとれるのではと思ったのです」

「……そうかな? 志貴は私のことを嫌ってないかな?」
アルクェイドさまはおそるおそるわたしに尋ねてきました。

「絶対、嫌っておりません。
 むしろ好意を持っているかと思います」
わたしは自信を持ってアルクェイドさまに断言しました。

志貴さまは誰にでも優しくしています。
妹の秋葉さんにも、メイドの翡翠さん・琥珀さんにも。
その正体を知ったあとでもシエルさんと仲良くされていますし、
弓塚さんとも毎日話をされています。
晶さんとは冬にあった殺人鬼騒動以来、遠野家に遊びに来るたびに
一緒に遊んでいるようです。
晶さんと一緒に遊んでいると、秋葉さんの顔が険しくなっていくのは別の話。
そうした中でアルクェイドさまにだけ、くだけた対応をしています。
こう、心を許しているというか、全てを見せているというか。
少なくとも嫌っている方に対しての反応ではありません。

「そっかー、嫌われてないかー」
アルクェイドさまはわたしの言葉を聞くと、ニパッとお笑いになって
機嫌を直してくれました。

「じゃ、いつもと同じ服で行くよー。志貴とバランスがとれるように」

「それでよろしいかと思います、アルクェイドさま」

アルクェイドさまはいつもの服を身につけて、時計をチラッと見ました。

「あ、9時30分だ。
 じゃあ、レン、私はもう行くからあとはよろしくね」

「かしこまりました。行ってらっしゃいませ、ご主人様」

アルクェイドさまは待ち合わせの公園に行かれました。
さて、わたしも志貴さまの見張りに戻ります。
いつもの黒猫の姿になり、わたしは志貴さまの部屋に行くことにしました。



志貴さまの部屋をのぞくと、ちょうど出かける準備を終えたところのようです。
そのまま、部屋を出ていきましたので、玄関先で待ちかまえます。
あ、出てきました。翡翠さんに見送られて門をくぐります。

ここから公園ですと約束の10時には間に合います。


今日はどんなデートになるのでしょう。
先週のシエルさんの時のように邪魔をする方がいるかもしれません。
わたしはアルクェイドさまの使い魔としてマスターの邪魔をする方を排除します。
シエルさんと弓塚さんはデートの約束を取り付けているので邪魔をしに来ないでしょう。
問題は秋葉さんです。
今日は志貴さまを見張っていなかったので、
デートの件がバレてしまったかどうかわかりません。
辺りに注意を払いつつ、公園に向かう志貴さまを見守ります。

アルクェイドさま、今日のデートの成功を心からお祈りいたします。
頑張ってくださいませ。



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5月27日(日) 午前 後半

志貴さまが公園のいつもの場所へ向かうと、
すでにアルクェイドさまはお待ちになっておりました。

「おっはよー、志貴ー」
アルクェイドさまは志貴さまを見つけると、腕をぶんぶん振って駆け寄ってきます。
そして、志貴さまの前で立ち止まると、「えへへー」と照れつつも、
あの素敵な微笑みを浮かべてもう一度言いました。
「おはよう、志貴。今日は晴れてよかったね」

う…… か、かわいいです、アルクェイドさま。
これは志貴さまにとって不意打ちではないでしょうか。
いきなりのこの攻撃、ほら志貴さまも照れています。

「お、おはよう、アルクェイド。わりぃ、ちょっと待たせたな」
志貴さまはそんなアルクェイドさまを見て照れています。
恥ずかしいのか、出来るかぎり動揺を隠そうとしていますが、ちゃんと隠せていません。
顔を赤くして、少々どもりながらアルクェイドさまに返事をしています。

「そんなことないよー。私が早く来ただけ。
 だってまだ待ち合わせ時間の10時になってないしね」
アルクェイドさまは手首の時計で時刻を確認。
わたしが公園の時計で確認しても、確かにまだ10時にはなってないです。

「じゃ、ちょっと早いけど行こうか、アルクェイド」

「うん、行きましょう!」
ご主人様は嬉しそうに返事をされると、志貴さまの腕を取って
自分の腕と絡み合わせます。

「ち、ちょっと、待て、アルクェイド!」
志貴さまは慌てて、腕をふりほどこうとしましたが
アルクェイドさまにほどこうとする気配はありません。
ふりほどこうとする志貴さまの腕に対しさらに力を込めるアルクェイドさま。
結果的に先ほどよりも密着しています。

「ア、ア、アルクェイド!な、なにやってんだよっ!」

「え? 腕を組んでいるだけだけどおかしい?
 人間はデートするとき腕を組むモノだ、と雑誌には書いてあったけど、もしかしてわたし間違えた?」」
アルクェイドさまは真剣な顔で志貴さまに尋ねます。

「間違いも何も……。まあ、いいか」
志貴さまは何か言いかけましたけど、一つため息をつくとあきらめたのか何も言いません。
そしてそのまま腕を取られるに任せます。

「間違っていたらそう言ってよね」
アルクェイドさまが志貴さまを見つめて、顔を赤らめながら言います。
どうやら、間違ったことをしたのかも、と思っている様子。

「いや、概ね間違ってない。
 ただ腕を組むのは恋人同士が基本で俺が照れただけさ」
志貴さまがそっぽを向き、空いてる右手で鼻の頭をかきながらアルクェイドさまに説明します。

あ、志貴さまが照れてる照れてる。
かわいいところがありますね、志貴さま。
そのようなところも女性の方がほっとかない部分なのでしょうか。
しかしながら、志貴さまはアルクェイドさまにちょっと嘘をつかれましたね。
わたしの見るところ、先ほど志貴さまがあわてたのはそれが理由ではないかと。
最初にアルクェイドさまが腕を取られたとき、アルクェイドさまのふくよかな胸に
志貴さまの腕が押しつけられたからではないかと思います。

「恋人……恋人同士か……
 へへー」
アルクェイドさまは志貴さまの言葉を聞くと上を向いて何やら復唱しています。
そうして「恋人同士」という言葉に気をよくしたのか、にっぱりと笑みを浮かべました。
「そう、そう、うん、わたしと志貴は恋人同士だから腕を組んでも問題ないのね」
そう言うと先程以上に志貴さまの腕をがっちりホールドします。
志貴さまもあきらめたのか特に嫌がることもなくそのまま腕を組んでいます。

「れっつごー」
妙に明るい声とともにアルクェイドさまと志貴さまは公園から出ていきました。
向かうは街の方向です。



アルクェイドさま、良かったですね。志貴さまとデートをすることが出来て。
ご主人様がいかに嬉しがっているかは後ろ姿を見ればわかります。
しっぽが右に左に振りっぱなし。
志貴さまに気づかれてしまうので早めに隠した方がいいですよ。
それでは頑張ってください、アルクェイドさま。



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5月27日(日) 午後

公園を出たお二人はそのまま街へ向かいました。
商店街を歩きつつ、ウィンドウショッピングをしています。

「志貴ー、この服かわいいねー」
アルクェイドさまはある店の前のショーウィンドウで立ち止まりました。

「服はかわいいけど、お前に似合わないんじゃないかな」
志貴さまは言葉を飾らずストレートにマスターへ評価を下します。

「えー。そうかなー。わたしに似合わないかな?」
アルクェイドさまは服を見ながら、志貴さまに聞き直します。

「うん、お前にはこういう服よりもっと大人っぽい服の方が似合うと思う。
 ほら、アルクェイドってお姫様だったじゃん。
 こんな服よりもっと落ち着いた感じの服の方が絶対いいよ」
志貴さまはアルクェイドさまに自分の感想を述べています。

確かにその服はアルクェイドさまにはちょっと似合わない感じがします。
アルクェイドさまはモデル並みの容姿の持ち主で、雰囲気が他の方と一線を画してるので、
こう大人の女といった服の方が似合うと思います。

「そっかー。買おうかなとおもったんだけどねー」
アルクェイドさまは残念そうに肩をすくめると、志貴さまの腕を引っ張って
次の店へ移動していきました。




そうやって午前中一杯を過ごし、昼過ぎにお昼ご飯を取ることになりました。

「アルクェイドは何が食べたい?」
志貴さまはご主人様にお昼についてお聞きしています。

「うーん、志貴の食べたいもので構わないよ。
 わたしは別に食べなくても大丈夫だしね」
アルクェイドさまは志貴さまに全部お任せです。

「そっかー。じゃあ、軽くファーストフードの店でいいかな」

「うん、志貴が選んだ所ならどこでもいいよ」

「じゃあ、そうしようか」

そう言って志貴さまとアルクェイドさまは、
近くにあるファーストフードの店へ行きました。

「前にここへ来たことあるよね?」
アルクェイドさまは志貴さまに話しかけます。

「うん、あるよ。確か俺がお前との約束を破った次の日かな。
 ここへ来たのは」

「うん、あの時はホントに怒ったんだよー。
 いくら待っても志貴が来なくてさー」
アルクェイドさまはそう言って、頬を膨らませました。
何というか……かわいらしく拗ねています。

「しかたないだろ、あの時は指先一つ体が動かなかったのだから」
志貴さまは申し訳なさそうに言い訳をすると、ぺこりと頭を下げました。

「ごめん、アルクェイド。悪かったと思っている」

「……う、うん。仕方なかったのはわかるんだけどね……」
アルクェイドさまはボソボソと呟きます。

二人の間に沈黙が流れました。

口だけの約束。
果たせなかった約束。
人間と吸血鬼。
死に近い者と死から遠い者。
今、お二人は何を考えていらっしゃるのでしょう。

「でも、それ以降はちゃんと約束を守ってくれてるよね、志貴は」
アルクェイドさまは暗くなった雰囲気を流そうと努めて明るく話しかけます。

「……うん。もう約束は破らないようにしている。
 特にお前との約束はな」
志貴さまの口調からは決意がうかがえます。
もう二度と約束を破らないという決意が。

「うん、志貴はずっと守ってくれてる。
 どんな些細な約束でもね」
アルクェイドさまはにこやかに志貴さまに笑いかけます。

また二人の間に流れる沈黙。
でも先ほどの沈黙とは全然違います。

「行こうか、アルクェイド」

「……うん」

お二人はどちらもともなく腕を組んで、店を出ていきました。



しばらく街を歩いてから、アルクェイドさまが映画を見ようと
志貴さまを誘いました。
腕を組んだまま街の映画館へ入ります。
20分ほど待つと次の上映時間というちょうどいいタイミングだったので
そのまま並んで待つことにしました。

「お前って、あまり映画に興味がないと思ってたんだけど」
志貴さまがアルクェイドさまに話しかけました。

「うーん、確かに昔の私ならそうだったかもしれないけど、今は違うよ、志貴」
アルクェイドさまはキョロキョロ辺りを物珍しそうに眺めながら返事をします。

「そっかー、前に映画見たとき、興味なさそうだったからさ」

「ロアを追いかけてた時のことだよね。
 確かにあの時は無駄なことをする、という感覚がわからなかったからそう見えたかもしれない。。
 でも今は違う。志貴と一緒にいて、「楽しい」ということがわかって、
 無駄なこともそれなりに意味があるんだ、ということに気づいて……」

一息ついてアルクェイドさまは続けます。
「志貴と知り合って一緒にいるようになってから、生きているだけで楽しいと思うようになったの。
 楽しいとか辛い、とかの今まで余分だと思っていた感情がすごく大きくなって。
 今まで我慢できてたことが我慢できなくなって……
 無視できてたモノが無視できなくなって……
 最初は壊れたのかと思った。ほら、学校で聞いたでしょ?
 ロアを追いかけていたときのデートの時に。
 でも、志貴は言ってくれた。
  壊れてなんかないし、普通の女の子だよと。
 あれ、すごく嬉しかった。私は壊れているからもうダメだと思っていたの。
 でも志貴はそれを否定してくれた。
 私を普通の女の子と言ってくれた。ホントに嬉しかったんだから、あの時」

遠い目をしながらアルクェイドさまは志貴さまに語りかけます。

「アルクェイドは普通の女の子だよ。
 誰かがそれを否定したら、俺がそいつをぶん殴る。
 お前は壊れてなんかいないし、まともだよ。
 楽しいことを楽しいと思う、それは当たり前のことだし、
 そもそも余分な感情なんてものは存在しない。
 全ての感情はそいつを構成する大事な要素なんだから。
 俺は楽しいことを楽しいっていうアルクェイドの方が全然いいよ」 

志貴さまは優しくアルクェイドさまにささやきます。
腕を組みながら、安心させるように。

「……ありがとう、志貴」
アルクェイドさまは静かに、静かにお礼を言いました。
短い言葉の中に万感の想いをこめて。

上映時間となり、映画が始まりました。
志貴さまとアルクェイドさまは手を繋いだまま離さずに映画をごらんになっています。



映画が終わり、スタッフロールが流れる中、席を立ちました。
アルクェイドさまは今ごらんになった映画を見て、ひどく感動したようです。

今上映された映画は吸血鬼の姫と人間の男の報われない物語。
愛し合っているのにも関わらず、姫は他の人間に滅ぼされてしまう。
男は砂のように崩れていく姫の亡骸を抱きつつ、燃える城で一緒に果てるというエンディング。
種族の壁は高く、映画の中では乗り越えることが出来ませんでした。


「なんかつらい結末だったね」
志貴さまがアルクェイドさまに感想を述べます。

「うん、悲しすぎるエンディングだったね。
 もし私だったら、どうしただろう……。
 そのまま、返り討ちにしたかな?」

「映画の姫は男の立場を考えて、死を受け入れていたよね。
 男もそれを知って、一緒に死んでいく……
 あまりにも報われないね、あれじゃあ」

「私だったら、男をさらって、一緒にどこかへ行くな。
 返り討ちにするのは簡単だけど……
 たぶん誰も知らないところへ行って二人で仲良く暮らすね」

「そうだね、それが一番だね」

そう言ってお二人とも黙ってしまいました。
今の話は置き換えてみればお二人の立場でもあります。
映画ほど過酷な環境ではないにしても……


お二人は無言のまま、映画館を後にして街を歩きます。
手は繋ぎっぱなしです。

仲良く肩を並べて街を歩いていましたら、いつの間にか公園に着いていました。

「もう、こんな時間になったんだ」
志貴さまは公園の時計を見て、びっくりしてます。
いつしか夜の帳が辺りを優しく覆い被さっています。
時刻は十九時過ぎ。

「今日は楽しかったね、アルクェイド」
志貴さまは今日のデートの感想を述べてます。

「……うん、すごくすごく楽しかった。
 このまま、ずっと過ごせればいいなと思うぐらい楽しかった」
アルクェイドさまは顔を赤らめながら答えてます。

「また、出かけような。そのうち」

「うん!また出かけようね、志貴。
 絶対、絶対、楽しいに決まっているよ!」

「いつとは約束できないけどね。
 絶対出かけよう」
志貴さまはアルクェイドさまの反応に微笑みつつ約束しました。

アルクェイドさまもそれを聞いて、笑顔を浮かべました。



しばらく、公園で他愛もない会話をします。
ロアを追いかけていたとき、よく公園で時間をつぶしていたよねという話で
盛り上がっています。


「どーする、このままここで別れる? それとも送っていこうか?」
しばらくして志貴さまがアルクェイドさまに尋ねました。

「まだ志貴と一緒にいたいな……」
ボソッと呟くアルクェイドさま。

だけどアルクェイドさまは知っています。
あまり遅くなると志貴さまに迷惑がかかることを。
自分の願いが志貴さまに負担をかけてしまうことを。

だからアルクェイドさまは志貴さまには伝えません。
志貴さまに聞こえないようにしか呟きません。
それはアルクェイドさまの優しさ。
志貴さまと出会ってから芽生えた他人を思いやる心。
それは決して不快ではない大切な感情。


「あ、そうだ、私の部屋でお茶でも飲んでいかない、志貴?」
アルクェイドさまが志貴さまをお誘いになります。

「お茶ぐらいだったら、まだ大丈夫だよね?」
時計を見つつ、志貴さまに尋ねています。

「んー、そうだね。お邪魔しようかな」

「うん! じゃ、行きましょう!」

アルクェイドさまが先頭に立ち、歩いていきます。
足取りが軽いのは錯覚でしょうか。

マスターのマンションに着き、部屋に入ります。
アルクェイドさまはお茶を沸かしに台所へ。
志貴さまはその辺りに腰掛けて、何げに置いてあった雑誌を手に取ります。
そこには……
「デートスポットならここ!」
「親密度が増すデートの仕方」
「いい雰囲気を出す10の方法」
いろんな見出しが躍っています。

「志貴ーお茶わいたよー」
マスターがお盆を持って、居間に戻ってきました。
志貴さまがごらんになっている雑誌を見て、あちゃーという顔。

「……アルクェイド、もしかしてお前……」
志貴さまが問いかけます。

「……うん。志貴をデートに誘うのにそれを読んで色々勉強したんだ」
ご主人様はボソボソと説明しています。

「シエルとデートしたのを聞いて、私もデートしようと思ったの。
 でも、今までそんなこと必要なかったから、全然知らなくて。
 それで水曜日から、色々と部屋にこもって勉強してたの」
アルクェイドさまは恥ずかしそうに答えます。

そうだったのですか、ご主人様。
水曜日から姿を見かけないと思ったら、
部屋にこもって今日のための勉強をされていたのですね。
朝、志貴さまの部屋にも来られないのでどうしたのだろうと思っていたのですが
全ては今日のため。
わたしは感動しました。
志貴さまとのデートのためにここまでされるアルクェイドさまに。

志貴さまはマスターの告白を聞き、照れてしまいました。
顔を赤くし、口をぱくぱくさせています。
紡ぎ出す言葉が出てこない、そんな感じです。
「あ、ありがとう、アルクェイド。
 俺とのためにそこまでしてくれて……。
 なんていうか、嬉しいよ、アルクェイド。
 あ…… と、いうと……
 もしかして、映画の内容も知っていたの?」
志貴さまが尋ねます。

アルクェイドさまはコクリとうなずき
「だいたいの内容は、知っていたわ。
 志貴となら見てもいいかなと思って……」

「……ありがとう」
志貴さまはそっぽを向きながらまたもや顔を赤くしてお礼を言います。



沈黙が支配します。
この場に響くのは時計の音だけ。


「あ、もうこんな時間か。俺帰るわ」
しばらく経ってから、志貴さまはそう言って立ち上がりました。
夜もだいぶ更けてきて、そろそろお暇する時間です。

「え、帰っちゃうの?泊まっていけばいいのに」
アルクェイドさまはいつもの口調で志貴さまを引き留めます。

「ハハ、気持ちは嬉しいけど明日は学校だしね。
今日のところは帰るよ」

「学校なんてさぼっちゃえばいいのにー」

「そう言うわけにもいかないから」
志貴さまは苦笑してアルクェイドさまを宥めます。

「志貴がそこまで言うのなら仕方がないね」
アルクェイドさまは一つため息をつくと、よっと立ち上がって志貴さまを見送る準備をします。

「アルクェイド、今日は楽しかったよ」
志貴さまはアルクェイドさまを見つめながら今日の感想を述べました。

「また、一緒に遊ぼうな」

「うん、今日は楽しかったからまた一緒に遊んでね、志貴! 約束だよ!」

「じゃ、帰るわ」

志貴さまは玄関先で座って靴を履きますと、淋しそうにしているアルクェイドさまに気配で気づいたのか、
くるりと振り返り、ポンポンと頭をなでます。

「し、志貴?」

「うん、目をつぶって」

アルクェイドさまが志貴さまの言うとおり目をつぶると、背中に優しく手が回され、
唇に柔らかい感触。

「……じゃーな、アルクェイド。またな」

「……う、うん。またねー。志貴」

アルクェイドさまは志貴さまにキスをされた唇を押さえて
ポゥーとしてます。

志貴さまは顔を赤くしながら、部屋を出ていきました。

アルクェイドさまは志貴さまが出ていかれた後もボーとしてます。
まるで魂が抜けたかのように。

「ありがとう、志貴。貴方に会えて良かった……」

アルクェイドさまは呟きます。
今ここから去られた方の名前を……



ご主人様良かったですね。
今日のデートは成功のようです。
そういえば、成功といったら、秋葉さんの妨害がなかったですね。
もし秋葉さんが邪魔をされたらデートどころの騒ぎではなかったかと。
良かった良かった。

それではアルクェイドさま、おやすみなさい。
いい夢をごらんになってくださいね。



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5月28日(月)

朝から秋葉さんにいじめられている志貴さま。
どうやら、昨日遅く帰ってきたことが秋葉さんにバレてしまったようです。

「兄さん、昨日はお楽しみだったようで」
秋葉さんは食後の紅茶を楽しみながら、起きてきた志貴さまを
ツンツン攻撃します。

「あ、いや、その……」
頭をかきながら、秋葉さんの顔を見られずに下を向く志貴さま。

「兄さん。兄さんが楽しまれるのは構いませんが、門限は守っていただかないと困ります。
 ここは有間の家とは違って、遠野家なのです。
 遠野家の長男が夜遊びしている、と親戚などに言われたら遠野家の恥です」
秋葉さんはツンと横を向きながら、兄である志貴さまを叱っています。
あれ、今ふと感じたのですが秋葉さんはもしかして拗ねているのではないでしょうか。
こう、言葉の端々に「構ってください」みたいなシグナルを感じるのですが。
志貴さまが妹である自分のことを気にしてくれないから余計に怒っている、なにかそんな気がします。たぶん……ほぼ間違いないでしょう。

「……すまん、秋葉! 俺が悪かった」
志貴さまは秋葉さんの怒られている様子を見て全面降伏したようです。
パンと手をたたいて、拝むように秋葉さんに謝ります。

「……いえ、これから気をつけていただければそれでいいのですが、兄さん」
秋葉さんは志貴さまが謝られたので、気分を良くしたのか多少トーンダウンして続けます。
「で、昨日は何をされていたのですか?」

「昨日は、知り合いとちょっと外で会っていたんだ」
志貴さまは核心的な部分を濁しつつ、秋葉さんに説明します。

「知り合い? 知り合いってどなたです?」
さすが、秋葉さん。志貴さまが濁した部分を明らかにしようと
鋭く切り込んできました。

「知り合いって、知り合いさ」
うーん、志貴さまは言い訳するのが上手ではないですね。
突っ込んでくれと言わんばかりの言い方です、それでは。

案の定、秋葉さんは突っ込んできます。
「知り合いというと学校の方ですか?」

「いや、学校関係ではないよ、秋葉」

「というと、どなたです? 兄さん」

「……お前も知っているヤツだよ。
 アルクェイドと出かけていたんだ」
志貴さまが隠しきれないと判断してアルクェイドさまの名前を出した瞬間、
秋葉さんの表情が変わりました。

「……兄さん。まだあのアーパー吸血鬼と付き合っていたのですか?」
秋葉さんは机をドンと握った手で叩きつつ立ち上がり、
お兄さまである志貴さまをじろっと睨みます。

「つ、付き合っている、というわけでもないんだけど……
 一緒に遊んだりしているよ、アルクェイドとは」
志貴さまは秋葉さんの様子にちょっと逃げ腰になりながら答えています。

「いい加減、手を切ってください。あの吸血鬼から。
 毎日、朝の早いうちから兄さんの部屋に忍び込んでいるではないですか。
 このところ見かけなかったので、改心したかと思ったのですが
 そうでもなかったようですね。
 兄さんを夜遅くまで連れ回したり、何一ついいことをしていないじゃないですか」
秋葉さんは一息に言い切りました。
どうやら我がご主人様が嫌いな様子。
確かに、言っていることは間違っていません。
朝の早いうちから志貴さまの部屋に忍び込んだり、
夜遅くまで志貴さまと連れ回したりするのは事実です。
妹の秋葉さんから見れば、自分の兄を悪い道に引きずり込む方と
思われても否定できません。
ですが、そのような思いが高じて、志貴さまにマスターとの縁を切るように
言うのはいくらなんでもひどすぎます。

志貴さまはどんな返答をされるのでしょうか……
わたしはドキドキしながら志貴さまの返答を待ちます。
志貴さまの返答次第ではアルクェイドさまの使い魔として、
マスターに報告しなければなりません。
わたしはここ一週間、志貴さまを見ていて、この方が気に入っています。
マスターと仲が悪くなるようなことだけは見たくないです。

……志貴さまの回答は…
「いくら秋葉の言うことでもそれだけは聞けない」
志貴さまは先ほどまでの逃げ腰の態度はどこへやら、
毅然とした態度で秋葉さんの一方的な命令を断りました。

……ありがとうございます、志貴さま!
マスターが好意を持たれるだけあります。
自分の感情を他人に言われたからといって曲げるようなことはせず
自分の思うとおりに言って下さって。
たった、これだけのことなのに、わたしは感動してしまいました。
志貴さまに感謝を…!

「……だって、兄さんはいつもアルクェイドさんと一緒にいて……
 私に構ってくださらないし……」
秋葉さんは強い意志を漲らせた志貴さまから目をそらして、
いつもの強気な態度から想像できないような
弱々しく女性らしい態度で言い訳しております。

あ、そうなんですか、やはりそういうことだったのですね。
秋葉さんがアルクェイドさまに対して厳しいことを言うのは
志貴さまが自分に構ってくれないからなのですね。
つまり、アルクェイドさまに志貴さまを取られて、秋葉さんは嫉妬していると。
秋葉さんも女の子。
自分の好きな方が他の女の子に構ってばかりで拗ねているのです。

志貴さまはあまり見ることのない秋葉さんの姿にちょっと驚いています。
それはそうでしょう。
あれだけ強気な妹がこんなに弱い部分を見せているのですから。

「……秋葉。
 ゴメンな、秋葉。寂しい思いをさせてしまって。
 お前に寂しい思いをさせたくなくて、遠野の家に戻ってきたのに
 そんな思いを抱かせて……
 うん、これからは兄貴としてもっとお前に構うよ。
 だからそんな寂しそうな顔すんなよ、秋葉」
志貴さまは秋葉さんに励ますような笑顔をしながら約束します。

「……兄さん。ありがとう」
秋葉さんは顔を赤くさせてうつむきながら、ささやくようにお礼を言いました。

「志貴さーん。ご飯の用意が出来ましたよー」


しんみりとした雰囲気を壊すかのように琥珀さんの声が部屋に響きます。
秋葉さんはせっかくのいい雰囲気が壊されたので少々おかんむり。
志貴さまは琥珀さんに返事をしながら、
ふくれ気味の顔をされてる秋葉さんの横に立ち、頭をなでます。

「兄さん。私子供じゃ……」

「ごめんな、秋葉……」

志貴さまはそんなことを呟きながら、秋葉さんの髪をさらっとすくい、
手櫛で美しい髪を梳いて朝食を食べに行きました。
秋葉さんは志貴さまに髪を梳かれた髪をおさえて、ポーとしています。
女の子らしい恥じらいのある笑顔で顔を赤くして……。



マスター、志貴さまは天然です。
何気ない行動のおつもりでも女の子のハートをわしづかみにしてしまいます。
なんというか……この方を好きになるのは厳しいです。
志貴さまの何気ない行動によって、ライバルがどんどん増えていきます。
この競争を勝ち抜くのは至難の業かと。
頑張ってください、アルクェイドさま。



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5月29日(火)

コンコン。
静寂を破るノックの音。
志貴さまの部屋に響く目覚めの印。
「志貴さま、朝です。お目覚めでしょうか?」
翡翠さんの声が扉越しに聞こえてきます。
どうやら起床の時間のようです。

志貴さまは声をかけられてもベッドの上で身じろぎひとついたしません。
完全に起きる気配を感じません。



「志貴さま、起きてください。起きられないと学校に遅刻してしまいます」
翡翠さんはドアの前で繰り返します。
が、わたしと同じように志貴さまの起きる気配を感じなかったらしく、
そのままドアを開けて志貴さまの部屋に入っていきました。

「失礼します。志貴さま、起床の時間です」
翡翠さんはベッドの横に控えつつ、自分の主人を起こそうと声をかけます。

それでも志貴さまは起きません……
彫像のように真っ白い顔色で身じろぐこともせず
深い睡眠に入っています。

翡翠さんはそんな志貴さまを見つめて……
顔を赤くしています。
こう、一個の芸術作品を壊すのを恐れるかのように、
おそるおそる声をかけて、志貴さまが起きるのを待っています。


マスターの指令で志貴さまの見張りをしていて気づいたのですが、
翡翠さんも志貴さまのことを憎からず想っているようです。
毎日、志貴さまを起こすたびに顔が真っ赤になっています。
想い人を前にした女の子そのものです。



……それから何度か翡翠さんが声をかけた後、
やっと志貴さまがお目覚めになりました。

「やぁ、おはよう、翡翠」

「おはようございます、志貴さま」

翡翠さんは深々と頭を下げて、自分の主人である志貴さまに挨拶しました。
志貴さまからは見えませんが、その顔は真っ赤になっています。

「志貴さま、起床の時間です。
 早く起きられないと学校に遅刻してしまいます。
 着替えはこちらに置いておきますので、早く着替えて降りてきてください」

翡翠さんは自分の赤い顔色を悟られないよう、努めて事務的口調で述べると
そのまま、部屋を出ていこうとしました。

「あ、ちょっと待って。翡翠」

志貴さまが退室しようとした翡翠さんを引き留めます。

「何でございましょうか、志貴さま」

「いつも起こしてくれてありがとうね。
 すぐに起きられなくてごめん」

志貴さまは笑顔で翡翠さんにお礼を言います。

翡翠さんは顔を真っ赤にしながら下を向き
「いえ、これが私の務めですから」とボソボソと返事をします。

「それではご用件がないようなら失礼いたします。
 一階で秋葉さまもお待ちですのでなるべく早く着替えて降りてきてください」
そう言って翡翠さんは退室しました。


うーん、志貴さまの笑顔は暴発過多ですね。
いたるところでその笑顔の虜になっている方がいます。
確かにわたしも見ていてドキッとします。
あまり暴発されますと、大変なことになりますよ、志貴さま。
少し控えめにされた方がよろしいかと思います。



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5月30日(水)

アルクェイドさまはご機嫌です。
どうやら志貴さまと日曜日にデートをしたのが効いているようです。
こう、日曜日のことを思い返すたびにニヤニヤし、頬を赤らめて
いやんいやんしています。
はっきり言って見ていて怖いです。

しかしアルクェイドさまは明るくなりました。
以前でしたら、こう人間に興味などを抱かなかったのに。
淡々と自分のすべきことをこなして、他人の存在など考慮せず。
ですが今は違います。
志貴さまと出会ってからは、感情というモノを理解したようです。
嬉しい・悲しい・楽しい・寂しい……
これらの感情が自分の中に占める割合が大きくなっているようです。
それとともに人間というモノの存在を考えるようになりました。
以前は教会のエクソシストや協会の魔術師などでしか人間を考えなかったのですが
今は、普通に暮らしている方々について考えるようになりました。

全ては志貴さまのおかげ。
これがいいのか悪いのかは、後々にならないと判断できませんが
わたしから見ると、いい方向に進んでいると思います。
何も考えずに死徒を倒すだけが使命だったあの頃……
アルクェイドさまは笑うということをしませんでした。
そのときに比べたら、今のアルクェイドさまの方が断然いいです。


志貴さま、これからもアルクェイドさまをよろしくお願いいたします。
アルクェイドさまを善き方向へ導いてやってください。
唯一、ご主人様が心を許された人間として……



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5月31日(木)

今朝はいつもより早く起きた志貴さま。
翡翠さんがびっくりしてます。

一階の居間では秋葉さんがニコニコと大変機嫌がいいです。
いつも早く起きない志貴さまが今日に限って
早く起きてくださったので、嬉しいのです。

「いつも、この時間に起きて下されば良いのに」
秋葉さんは志貴さまの分の紅茶を注ぎつつ、お兄さんに微笑みかけます。

「ハイ、私もそう思います」
志貴さまの後ろで翡翠さんが秋葉さんの意見に静かに同意されています。

「あらあら、いいのー翡翠ちゃん?
 志貴さんが早起きしてしまうと寝顔が見えなくなっちゃうんですよー。
 翡翠ちゃんとしてはもっとぎりぎりに起きて下さった方が
 長いこと志貴さまの寝顔を見られるからいいんじゃないー?」
琥珀さんが笑いながら、翡翠さんにツッコミます。

翡翠さん、真っ赤。
下を向き、ごにょごにょとなにか呟いてます。

「ま、たまにはこういうときもあるさ。
 ゴメンね、翡翠。いつもすぐに起きなくて」
志貴さま、琥珀さんの発言に真っ赤になりつつ
翡翠さんに話しかけます。

「いえ、そういうつもりじゃ……」
翡翠さんはまだ真っ赤のまま。
下を向いたまま、志貴さまに答えています。

「翡翠。ちゃんと言わないとダメよ。兄さんはズボラだから
 周りの人がしっかりしていると頼ってしまうところがあるのよ」
秋葉さん、志貴さまを逃がしません。
これを機に改善させようと、ストレートに指摘します。

「そんなことはないぞ、秋葉」
志貴さまは心外だと言わんばかりの表情で反論。

「ご自分でそう思っているだけです、兄さん。
 実際、いつも翡翠に起こして貰っているではないですか」
秋葉さん、とどめをさします。

志貴さま反論できず。
ぐぅーと黙ってしまいます。

ここで琥珀さんの助け船。
「志貴さま、そういえばもうご飯の用意が出来ているのですが」
くすくす笑いながら、志貴さまを秋葉さんの攻撃から救いました。

「ありがとう、琥珀さん。今行きます」

秋葉さんのツッコミから逃げるように去る志貴さま。

秋葉さん、やれやれといった表情で志貴さまの後ろ姿を見つめます。
「本当にもう、兄さんは……」
一人呟く秋葉さん。

「え?何か呼びましたか、秋葉さま」
志貴さまのご飯を用意するために食堂へ行こうとした琥珀さんが
秋葉さんの呟きに反応します。

「何でもないわ、琥珀。それよりも兄さんの食事の用意が終わったら学校に行きます。
 準備をお願い」

「わかりました、秋葉さま」
琥珀さんは秋葉さんの言葉を受け、早足で食堂の方へ急ぎます。




……幸せな朝の情景。
遠野家の朝はこうして始まります。








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