使い魔レンちゃん、向かうは敵なし!

序章





――風が吹く。
遮るものが何もない草原を風が吹き抜ける。
新緑の瑞々しく育ちはじめた草々が泳くかのごとく躯を揺らす。
ここは――見渡すかぎり緑の野。
人の息遣いも獣の息遣いも存在しない。

天――見上げると蒼い月。
頭上には黒々とした天鵞絨のような夜空。
星々がきらびやかな宝石のごとき輝きで夜空を飾り立てる。

近い空。
手を伸ばせば届きそうなほど大きな月。
だが、それは幻視。
天が垣間見せる悪戯の一つ。
神域にのみ存在を許される我らの鏡。


もう一度辺りを見回す。
見渡すかぎり緑の野。
時折吹く風が辺りの静寂をその瞬間だけ打ち破る。







明るい夜。
大きな月に照らされた草原は幻想的な光景を生み出す。
ここは舞台。
自然が生み出す最高のステージ。
役者はわたし一人だけ。
遠くわたしを見守る星々が観客で、頭上の月は舞台を照らし出す照明。
時折吹く風は気まぐれに起こる舞台効果か。


舞台のような草原でわたしは独り空を見上げる。
大きな月がわたしを照らす。
蒼い月がわたしを溶かす。
時折風が吹き抜け、優しくわたしを崩していく。


わたしは同化する。世界の全てと。
一体化する感覚。
全てにわたしが混じり、全てがわたしを構成する。
そんな時、わたしはふと思う。
いつから世界を夢見るようになったのだろう、と。


夢見る世界に夢見られ。
世界がわたしを夢見ているのか、わたしが世界を夢見ているのか。
其は泡沫の終末か。


事象の全てが夢にあり、夢の全てが事象となり。


――これが世界が夢見たわたしの夢見る世界なのだろうか。
――それともわたしが夢見た世界のわたしが夢見る世界なのだろうか。



何が本当で何が嘘かは誰にもわからないように。
あるがままの世界を受け入れるもよし、背中を向けて去るもよし。
わたしはただ空を見上げるのみ。


また――風が吹く。
わたしはひときわ大きく輝く月を見る。
黒くしとやかな体毛が優しく撫でられていくのを心地よく感じながら。





――そして。
世界はわたしに沈む。
悠久の時を刻みながら。
沈降。
其は闇を従え、夢見るものを引き連れて。


わたしは闇を見つめる。
正視できない闇を無理矢理に。
その奥底に潜む何かを思いつつ。
瞼を閉じて。
暗闇に心奪われないように。





誰もが持っている心の闇。
深き闇を隠し持つ。
開いてはいけないパンドラの箱。


闇を見つめてはいけない。
必要以上に。
闇は闇の中から――覗いた者を引き寄せる。
闇を見る者はまた闇に見つめられているのだ。
















そうして。
幾時が過ぎたのだろう。
心奪う闇が薄れ、蒼き月が輝きを失い、風が陽の匂いを運んでくる。
黒き天鵞絨は色褪せて、飾り立てる星々は鈍い輝き。
天は白み、また陽は昇る。
幻想的な舞台は姿を隠し、ただの草原が姿を現す。


ここは草原。
神秘の夜だけ舞台となる不思議な場所。
ただ風だけが夜と変わらず吹き抜ける。


静寂が消え、少しずつ濃密な大気が辺りを覆う。
非日常的な感覚がなくなり、現実感が満ち始める。
ゆっくりと現実が浸食する。
収束する世界。
そして――反転。
世界はいつもの世界に戻っていく。


















風のにおい。
草のにおい。
相変わらず獣の息遣いは皆無。
だが、先ほどまでの世界とは違い、人の息遣いが感じられる。


――その根本。
息遣いを生み出している原因。
いつの間にか草原に彼が一人足を踏み入れていた。


彼は風を感じつつ草原を歩いている。
天を見上げて。
―――風に愛され
―――月に抱かれ
―――天に見守られ
彼は草原を闊歩する。




彼を見ていると違和感を感じる。
ナニカガチガウ。
それは何に対しての違和感か。
どうしても彼を見ていると違和感を感じる。
普通の人間からは感じない澱み。
どちらかといったらわたしたちが匂わしているモノ。
普通の人間とは決定的に何かが違う。
それはたぶん――生を感じさせないところだろうか。


彼を見ていると死を想起する。
全ての終着点である死。
過酷な現実のたどり着く先。
優しく甘美で誘惑的な林檎。


――死は全てに内包される。
生きとし生けるものは全てに死がある。
それはもって生まれた不可避なモノ。


だが、普通はそれを匂わせない。
何故ならそれは禁忌だから。
触れてはいけないモノ。
皆、それを抱えつつ生きていく。
他人の目に触れないように、ひそやかに。


しかし彼はそれを匂わしている。
――禁忌である死。
人は 「死」 に対して敏感に反応する。
それこそ異端を排除しようとする。
何故ならそれは自身を脅かすモノと同質だからだ。


死――それは全ての逃れざる定めであり終末。
何者もそれを覆すことは出来ない。
それは等しく平等に訪れる。
老若男女、生きとし生けるもの、全てに。
なのに、皆、それから逃れようと足掻いている。


彼はいてはいけない存在。
誰もが抱え持つ死。
皆、それを知らぬ振りして一生を過ごすのに、彼は明確に突きつける。
そこにいるだけで。


奥底にしまった恐怖として。
突きつけられる終末として。
逃れようのない絶望として。


聞いたところによると、彼は一度死を体験しているようだ。
子供の時に、大変な傷を体に負ったと聞く。
その時からであろう。
死からの生還の代償として常に死が寄り添うこととなったのは。
間近にいる死。
常に意識する死。
避けられない定め。


その時から彼は何を考えて生きてきたのだろう。
身近に感じる終末を。
常に自分の命がこちら側からあちら側にいったりきたりの繰り返し。
死を乗り越えた代償が死と寄り添うこと。
理不尽な死神の手。



――しかし
それでも彼は生きてきた。
人生は楽しいことだらけとばかりに。


彼はいったい何者なのだろう。
不思議な不思議な人間……。







彼は天を見上げつつ、草原に座り込むとそのまま横になった。
草の匂い。
薄れゆく闇。
沈む月。


その中で彼は何を考えているのだろう。
天を見上げる彼の横顔はひどく穏やかだった。








それが彼―――遠野志貴との二度目の邂逅であった。








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