わたしをこわす、あなたのほほえみ





今日は朝から忙しい。
なんと八年振りに志貴様がこの屋敷に戻ってくるのだ。
秋葉様は起きてすぐにそわそわして。
翡翠ちゃんは秋葉様には気づかれないぐらいに笑みを浮かべている。
私?
私は……
正直嬉しいのかどうか、よくわからない。

なんで帰ってくるのだろう。
遠野家の長男と言っても彼はその血を受けついでいない。
本人は気づいていないだろうけど、ただ名前が同じだけで引き取られた養子なのに。

なんで帰ってくるのだろう。
八年前に殺されかけたのに。

なんで帰ってくるのだろう。
半ば家から追い出されるように勘当されたのに。

なんで帰ってくるのだろう。
今の有間家では幸せそうだったのに。
秋葉様が有間の家を調べて悔しそうにこぼしていた。
「兄さんは戻ってこない方が幸せかもって」



それなのに。
当主になった途端、自分の我が儘で戻ってきてもらう秋葉様。
素直に嬉しがっている翡翠ちゃん。
私?
私は……よくわからない。





志貴様の部屋を掃除するのは翡翠ちゃんの仕事。
どうやら翡翠ちゃんが志貴様担当になるらしい。
それもそうか。
私は秋葉様付きだし、秋葉様付きでないと色々とうまくいかない。
色々って?
色々は色々、それは秘密のこと。
一言で言うなら私が私であるために、かな。

私はこれから一人分増える食事を担当している。
翡翠ちゃんもうまく作れればいいのだけど……
残念なことに彼女は破壊的に味覚音痴だから、料理には向いていない。
たぶん……
本を買ってきて決められたとおりの分量で料理を作ればうまくいくはずなんだけど。
亜鉛が足りないのかな?
でも同じ料理を食べている私と秋葉様は特に問題がないし。
翡翠ちゃん自身の問題なんだろうな。
かわいそうな翡翠ちゃん。

私は料理担当の代わりに掃除が下手だ。
何故か掃除をするとその部屋で一番高い物を壊してしまうのだ。
最初に断っておくけどわざとではない。
でも何故か狙ったわけではないのに、その部屋で一番高い壺や彫刻をひっくり返してしまうのだ。
何度も壊しているうちに最初は笑っていた秋葉様もとうとう怒ってしまわれて。
「琥珀は部屋の掃除禁止」なんていう始末。
翡翠ちゃんに助けを求めたのだけど、翡翠ちゃんも目を閉じてこう言うのだ。
「姉さん。姉さんは料理と庭の掃除をお願いいたします」って。

ひどい。
ひどい裏切りだって思ったけど、秋葉様が試しに計算してみた金額を見て渋々頷いた。
とてもじゃないけどいただいているお給金では払えない金額。
お給金自体は決して安くない。
相場を知らないわけではないけど、それなりにいただいている。
それでも。
私が壊した物の総計を見ると何も言えなくなってしまった。
「むしろ感謝して欲しいわね」
秋葉様が以前仰っていたことがよく分かる。
これだけの物を壊して追い出されないのは普通あり得ないだろう。
そういう意味では秋葉様に感謝。



そんなわけで私は外を片付けて、料理の下ごしらえをする。
秋葉様が学校に行っている間、基本的にやることは少ない。
翡翠ちゃんと二人で家事をやっているので、多少は暇になる。
その空いた時間に私は自分の部屋でぼぅと考え事をしはじめた。

珍しい。
自分の部屋にこもるとたいていゲームをやってしまう私が、考え事だなんて。
考え事なんてしたことない。
いつも思うとおりにコトが進むのに。
私は本当に珍しく考え事をした。

考えることは志貴様のこと。
どうして戻って来ちゃうのだろう。
有間の家で幸せに暮らしていたのに。
たった一回の連絡で今までの幸せを捨てて戻ってくるなんて。
わからない。
志貴様のことが分からない。

昔からあの人のことは分からなかった。
人懐っこい笑顔。
ガラス越しに差し出される手。
そして投げ出される命。

あの方は一度死んでいる。
シキ様が暴走したときに殺されている。
そのせいで不確実な生命となり。
貧血に苦しんでいる。

ああ、そんなことがあったのに。
お医者様からも長く生きられないと言われているのに。
何故あの人はここに戻ってくるのだろう。

あの人が出て行く時。
槙久様に勘当されて有間の家に行く直前。
私は大切な―――とても大切にしていた白いリボンを手渡した。
今考えても何故そんなことをしたのか分からない。
男の子にリボン?
絶対使わないってコトは幼心でも十分理解していた。
だけど。
それは私が持っている物の中で一番大切で。
どうしてもあの男の子に持っていて欲しくて。
渡したのだ。

「貸してあげるから返してね」
庭に生えている大きな樹。
その樹の下で私はリボンを彼に手渡した。
どこまでも高く純粋な空。
雲一つなくさんさんと日が照りつけて。
大きな樹は地面に濃い影を描く中。
私は男の子に大切なリボンを手渡したのだ。
白くて大事な、お気に入りのリボンを。

その時、男の子はとまどったような顔をした。
当然だろう。
今まで同じ屋敷にいてもほとんど話したこともない私が、リボンを渡したのだ。
戸惑うなという方が無理な話だ。

だけど。
男の子は右手でリボンを受け取ると何も言わずただ笑顔を浮かべてくれた。
眩しくて直視できないぐらいに。
純粋な笑顔を浮かべてくれたのだ。





「絶対覚えていないだろうな……」
よしんば覚えていたとしても翡翠ちゃんと私を間違えるだろう。
昔の私は。
感情の起伏というものがなかった人形のような女の子だったから。
今みたいに完全に人形ではないけども。
とても無口で、笑ったり悲しんだりする意味が解らずそれに意味を見出すことが出来なかった。

それでも「自分」はあった。
槙久様に襲われるまでは。

その後は地獄だった。
あんまりにも痛くて。
あんまりにも辛くて。
自分の身体は人形だ、自分の心は人形だって思うようになったら。
不思議と痛みが薄れていった。
痛いことは痛い。
けど耐えられないことのない痛み。

そうしてどんどん自分をうまく騙せていくたびに、ナニカが壊れていった。
なんだろう。
ナニがこわれていくのだろう。
わからない。
わからないけど、確実にナニカが壊れていくことだけは分かった。

そんな中。
シキ様が暴走して志貴様を殺す事件が起こった。
それまでは。
仲良くシキ様、志貴様、秋葉様の三人で遊んでいた。
翡翠ちゃんもいたことはいたが、遊ぶきっかけを作るとその後は一歩後ろに下がって見守っていた。

シキ様は遠野の血に囚われて暴走した。
秋葉様に襲いかかろうとして、間に志貴様が立ち塞がったのだ。
結果。
秋葉様は助かり、志貴様の胸に穴が開いた。
その後は気づいた大人達が槙久様を呼んできて、シキ様は家族・親戚には内緒で地下室に閉じこめられた。

なんだろう。
私は二階の窓から見ていてただ無性に腹が立った。
なんで。
なんであの子は他の人を助けたのだろう。
自分のことを顧みず、自分の命を顧みず。
その命を人のために使ったのだろう。
私はあの子が憎くて憎くてたまらなかった。
あんまりにも憎くて思わず涙をこぼしてしまうぐらい。
だって……
あの子は自分よりも誰か他の人の方が大切だったってことでしょう。
自分の命を顧みず飛び込んだのだから。
それなら、なぜ。
何故、あの子はわたしをタスケテくれなかったんだろう。
どうして私の周りの人々はあの子みたいに優しくなかったんだろう。

無感動な私に落ちる影。それとも光かな。
なにもない私の中であの子だけが輝いていた。

この人形のような無感動な生の中。
あの子の思い出だけは輝きを失わない。
そう、志貴様だけは輝いている。

そんな志貴様が帰ってくる。
私は心なしか笑顔を浮かべると立ち上がった。
時計を見る。
思ったよりも長い間考え事をしていたらしい。
もうすぐ学校が終わる時間だ。

私は秋葉様を迎えに行く準備を始める。
今日の夜には八年振りに志貴様が門をくぐる。
その時、なんて顔をすればいいのだろう。

やはり笑顔かな。
私らしく笑顔を浮かべていよう。
……たとえ作り物のえがおであろうとも。

うん、願いは続く。
唯一終わる条件は志貴様が私にリボンを返すとき。
その時は潔く願うのを止めよう。
そんなことはないだろうけど、ね。
私は一つ伸びをすると、自室から出て行った。

これから秋葉様を迎えに行く。
志貴様と久しぶりに対面するにあたって準備をしたいので早めに来るようにと仰せつかっている。
なので使用人として主の要望をかなえないといけない。

さあ行こう。
志貴様が私と翡翠ちゃんを間違わず。
八年前のことを覚えていて。
リボンをちゃんと捨てずに取っておいてくれて。
返すという行為を正しくしてくれれば。

……そんなあり得ないコト、あるはずない。

私は苦笑した。
珍しく計算していない感情の発露がこぼれ落ちる。

確かにないだろう。



期待もせずに。
憐憫の情もなく。
ただ在るがままに。
儚き夢は空に融け。

私は独り淋しく踊り続ける。







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