とかされるこころ、癒される想い





 「あの木の下で待っているからね、琥珀さん」と志貴に言われたとき、正直琥珀はびっくりした。
何故なら、琥珀にはいきなり志貴に呼び出される理由に思い当たる節がなかったからだ。
「さてさて、何の用でしょうかね、志貴さんは」
琥珀はそう一人呟くと、洗い物を終えてから、ゆっくりと玄関に向かった。


暖かく照らす春の光。
空に浮かぶ雲はゆっくりと流れ、見ている者を穏やかな気分にさせる。
草木はうららかな春の日差しに我が身をさしだし、体全体に光を浴びる。
それは春。
季節の初め。
凍える冬は過ぎ去り、新しい生を育む春へと季節はうつろう。

「うーん、もう春ですねー」
琥珀は柔らかい日差しに目を細めつつ、ゆっくりと庭を歩いていく。
「志貴さん、お待たせしました……って、あら志貴さんはどこにいらっしゃるのかしら」
琥珀が約束の場所へ来たとき、志貴の姿は見あたらなかった。
「あらあら、勘違いしたかしら、わたし」
琥珀はいつものにこにこした表情で頬に指を当てつつ考え込む。
「確かに志貴さんはこの場所で待っていると仰ったはずですねー」
にこにこした顔を崩さず、きょろきょろと辺りを見渡す。
「うーん、それでは約束したことですし、しばらくお待ちしますか」
そう呟くと。琥珀は約束の木に寄りかかり、志貴を待つことにした。

この木を見ると思い出す。
八年前の約束のことを。
志貴と秋葉と翡翠を見守っていた日々を。
あの頃は永遠だった。
静かに時が流れるのを感じるのみ。
自分は苦界にいる、その現実から目をそらし。
ただそこに在った。
何も感じず何も答えず何も求めない。
ただ在るだけの人形。
―――生きる人形。

翡翠が心配している。
言葉に出す前に伝わる思い……
大丈夫、翡翠ちゃん。
わたしは平気。
翡翠にはお姉ちゃんだから、と一言答えるのみ。
翡翠のために。
翡翠ちゃんが受ける苦痛は全てわたしが受けるから。
だから大丈夫よ、翡翠ちゃん。
いつも心で思っていたこと。

外を眺めだしたのはいつ頃からだろうか。
動くモノを目で追う、そんな本能的な動作から始まった気がする。
あの窓からよく下で遊んでいる同年代の少年少女たちを眺めていた。
ある時、その中の一人から声をかけられた。
一緒に遊ぼうと。
最初、何を言っているかわからなかった。
理解できなかった。
苦界にいるわたしを誘っている……
何故、なぜ、なぜなの……
そっとして欲しかった。
気づかないでいてくれたらよかった。
そのままにしてほしかった。
黙って見ているだけでよかったのに。
何もない空っぽの思考に注ぎ込まれるなにか。
それは衝撃だった。
最初に誘われたときはすぐに窓から離れたと思う。
あの子がなにを言っているかわからなかったからだ。
自分を……一緒に遊ぼうと……誘っている……
わからない。
わたしにはわからない。
理解できない。
なぜ、なぜなの。
その日はずっと落ち着かなかった。
心の中でちりぢりになった思考が飛び交っていて。
結局、その日の最後までわからなかった。

幾日が過ぎ――
また何かに誘われるように窓に近づいた。
それはなにがきっかけか。
外から聞こえる楽しそうな歓声か。
ただ音に反応したのか。
それとも心の中で渦巻く何かの答えが見つかるとでも思ったのか。
あのとき近づいた理由はわからない。
心の中であの少年が気になったのかもしれない。
ただ、近づかなければいけない。
そんな欲求を抑えきれず。
心がざわつく……窓に近づいた。

――あの子たちはいた。
歓声を上げて遊んでいる。
翡翠ちゃんがいる。
優しく慈しむように男の子と女の子を見守っている。
人形のような女の子。
笑顔を絶やさない男の子。
それを見守る翡翠ちゃん。
それは――絵に描いた幸せ。
決して自分は加われない寂しさがよぎる。
川の向こう。
対岸の出来事。
見ることしかできない一幅の絵。
――別世界の光景。

ああ、やはりわたしとは住む世界が違うんだ。
ここにきて心から理解した。
そこは――違う世界。
今、わたしがいる苦界ではない。
あの子たち……
あの子たちを見て納得した。
何の迷いもなく。
ただ純粋に。
心から。
楽しむことが出来る。
そんな……世界……

と、その時。
あの少年がこちらを見上げた。

――衝撃。
また、先日と同じ衝撃。
そんなに見ないで欲しい。
わたしはそこにいけないのだから。
そんなに笑わないで欲しい。
わたしは笑うことが出来ないのだから。
そんなに……そんなに手を差し伸べて……誘わないで……
わ、わたしは……に、人形なのだから……
ちりぢりと乱れるこころ。
風に吹き飛ばされる雲のように。
わたしのこころはあの少年の笑顔に揺れ動く。

わたしはあなたとはちがう。
確固たる事実。
わたしは……人形。
泣くこともせず笑うこともしないただの人形。
痛み。
それは何の痛みか。
今まで感じないようにしてきた感覚。
肉体的には感じていない。
頭のどこかで答えが返ってくる。
それは……
それはこころ。
こころの痛み。
トゲ刺す痛み。
槇久に呼ばれるようになってから、別個に切り離してきた感覚。
それが……
戻ってくる。
あのこの笑顔を見ていると。
戻ってくる。

ズキン。
また痛み。
納得した。
確かに肉体的な痛みではない。
肉体的な痛みなら我慢できる。
それはもう、遠い昔から。
自分から切り離す術を覚えないと生きていけなかった。
耐えられなかった。

でもこの痛みは……痛い。
どこが痛いというわけではない。
強いて言うならば、こころの痛み……
痛い。
こころが痛い……

琥珀は木に寄りかかりながらそっと胸を押さえた。
昔の自分が抱えていた痛みを思い出して。


わたしは……あの子を見ていると……



ある日、あの子がこの遠野の家を出ていくことになった。
衝撃。
あの子が……
この家を出ていく……
琥珀は驚き、そして悲しんだ。
悲しい……?
なぜ、わたしが悲しまなければならないの……
ふと我に返る。
一瞬、心によぎった自分の気持ちが理解できない。
なぜ、自分はそう思ったのだろう……
琥珀には明確な理由が思いつくことが出来なかった。

あの子が出ていく。
それを聞いたとき、わたしは――

気づいたらあの子と向かい合っていた。
大きな大きな木の下で。
この木の下で。
空は高く。
どこまでもどこまでも青く続いている。
正面には彼。
いつも見ていたあの子がいる。
あの時の気持ちはよくわからない。
なぜあんな事をしたのか……
未だによくわからないのだ。

……貸してあげるから、返してね

わたしはあの子に握っていた白いリボンを差し出した。
確かにあの子は受け取った。
手渡したあと、わたしは走ってその場を去った。
逃げるかのように。
あの子とこれ以上いると何もかも見透かされてしまいそうで。



リボンを渡した夜、わたしは一人涙を流した……








琥珀は傷ついている。
ずっと昔、遠野の屋敷に呼ばれてからずっと。
外見からは伺えないけども、彼女は傷ついている。
彼女は助けを求めている。
遙か昔から。
声を上げずに。
泣き声をあげずに。
ただ傷ついている。

――その傷はこころの傷。
昔に傷つき、今なお血を流す。
癒されたいのに癒されない。
幾日も幾月も幾年も……
ただ血を流す。

琥珀は両手で体を抱く。
そうしないと震えが止まらないからだ。
なぜ志貴さんはここで待つようにと言ったのだろう。
ここはいや。
封じた思い出があふれ出る。
わたしは……琥珀。
偽りの笑顔で皆を欺き。
遠野の一族に破滅をもたらす。
破滅。
いや…… わたしはそれを望んでいない。
ただ……
わたしにはそれしかないから。
わたしには何もない。
やりたいことも何もかも……ない。
だから見つけた。
目標を。
わたしはそうでもしないと生きていけない。
だからもたらす。
破滅を。

でも、志貴さんが帰ってきて変わった。
わたしの目的もなにもかも全てが。

志貴さん……
フラッシュ。
脳裏をよぎる光景。
視界。
遠野の血に囚われたシキさまが秋葉さまを襲おうとしている。
瞬間。
秋葉さまとシキさまの間に志貴さんが割り込む。
両手を広げて。
秋葉さまをかばって。
ズンッ。
それはスローモーションを見ているようだった。
噴き出す血。
泣き叫ぶ子供たち。
駆け寄る大人たち。
何故?
何故、自分を犠牲にしてまで他人を助けたのだろう。
何故、放っておかなかったのだろう。
何故何故何故……

何故なの―――

琥珀はその光景を見たときのことを思い出す。
それなら何故わたしも助けてくれないの……
疑問。
わたしも助けて欲しいのに。
声が出ない。
わたしは人形。
だけど……人になりたいの……


琥珀はますます激しくなる震えを押さえるために全力で体を抱く。
着物に皺が寄るのも気にせず。
とにかく、ただ抱く。
そうしないと、琥珀は自分がどうにかなってしまいそうだったから。

……志貴さん……

その呟きはこころの叫び。
意識せず自然に口をついて出た願望。
琥珀の願望……

琥珀は助けて貰いたかったのだ。
遠野の屋敷に来た日から。

琥珀は今度は意志を込めて呟く。
「……志貴さん……」














その時、琥珀の体は背後から暖かく抱き寄せられた。
「えっ」
琥珀は驚く。
何の気配も感じなかった。
目を瞑っていたとはいえ、ここまで身近に接近を許してしまうとは。
「大丈夫」
後ろから声が聞こえる。
「大丈夫」
その声の持ち主は二度繰り返したあと、琥珀を抱き寄せたままそっと木に寄りかかる。

「し、志貴さん?」
「ごめんね、俺から呼んだのに待たせちゃって」
志貴は心底すまなさそうに謝ると、琥珀を抱く腕に力を込める。

「えっ、えっ」
琥珀は動揺する。
それは志貴に抱かれたからか、自分でもわからない。
ただ、安心が包み込む。
志貴から琥珀へと流れる無上の安心感。

「ごめんね、琥珀さん」
志貴はただ謝る。
心の底から。
純粋に。
相手を思いやって。
琥珀のことを思いやって。

「琥珀さんは泣いている」
志貴は語り続ける。

「初めて見たときから、顔には出していないけども泣いていたんだ。
 俺はそれを助けることが出来なかった。
 わかっていたのに、わかったいたのにどうすることも出来なかった……」

「あの頃はただ誘えばいいと思っていた。
 外に連れ出せば全てが変わると。
 所詮、子供だったんだね。
 なにも知らず、外に出れば全てが変わるとだけ思っていたんだ」

「……志貴さん……」
琥珀は思う。
ああ、この方はわかっていらっしゃったのだ。
昔から。
わたしの心の悲鳴を聞き取っていてくださったのだ。
本当に……
本当に……嬉しい……

琥珀は俯く。
自分の顔を見られないように。
でも肩を震わせているのを押さえきれなかった。

「琥珀さん……」
志貴は震えている琥珀を覗き込もうとする。

「見ないで!
 見ないでください、志貴さん」
琥珀はいやいやするように、覗き込んだ志貴にさらに背を向け両手で顔を覆ってしまう。

「わたしは今まで自分がどういう顔をしているかわかってきました。
 笑っている顔、怒った顔、真面目な顔……
 でも、でも今の顔はわかりません。
 自分がどういう顔をしているかわからないのです。
 お願いです、どうか見ないでください」
琥珀は立っていられなくなりしゃがんでしまった。
顔を覆って、涙を隠し。

志貴はしゃがんだ琥珀の前にいき、一緒にしゃがむ。
そして優しい声で安心させつつ、右手で琥珀の綺麗な髪を梳く。
「大丈夫。大丈夫だよ、琥珀さん」

そしてそっと真っ正面から琥珀の脇に手を入れてゆっくりと立たせる。

「……志貴さん」

志貴は立たせた琥珀を真正面からそのまま抱く。
琥珀はすっぽりと志貴の胸の中に納まる。

「大丈夫だよ、琥珀さん。
 もう琥珀さんは大丈夫。俺がついているから」

衝撃。
立て続けに志貴に癒されていく。
それは……決して不快ではない暖かさ。
志貴の一言一言が傷ついた琥珀の心を癒していく。
そよぐ風。
柔らかい日差し。
そして満ち足りる想い。
志貴は癒す。
琥珀の全てを。
たとえ琥珀が笑っていても、本当の琥珀は笑っていない。
それに志貴は気づいていた。
だから癒す。
琥珀の心を。
そっと、優しく。
壊れ物でも扱うかのように。
それは想い。
志貴の想い。
八年前に琥珀を見てから――この木の下で白いリボンを渡されてからずっと思い続けてきた大事な想い。


琥珀は志貴の言葉を聞くとそのまま胸で泣いた。
恥も外聞もなく、ただ泣いた。
八年間分の想いが涙となってあふれ出る。

「志貴さん、志貴さん、志貴さん!」
琥珀は泣きじゃくる。
ただ子供のように。

志貴は慈愛に満ちた顔で胸の中の琥珀を撫でる。
自分が傍にいる。そのことを撫でることによって琥珀に伝える。
安心して。
ここにいるから。

琥珀には志貴の想いが伝わってくる。
またそれが拍車をかける。
いまはもう、仮面を付けていない。
これが本当のわたし。
本当の琥珀なのだ。

春の光は全てを照らす。
冬の寒さに凍ったものを優しく溶かす。
琥珀は溶けていくのを感じた。
凍った自分の心が。
暖かい光によって。
志貴の想いによって。

琥珀は泣き続ける。
志貴の胸で。
志貴はそんな琥珀を温かく見守る。
そうして、二人の距離は果てしなく近づく。

風が吹く。
暖かい陽光も勢いを失いはじめてきて。
琥珀はようやく泣きやみはじめた。
それを見て志貴は改めて琥珀に語りかけた。

「ここに呼んだ理由がわかる、琥珀さん?」
志貴は琥珀を撫でながら語る。

「……いいえ、全然見当がつきません。
 えと、何でしょうか、志貴さん」
琥珀は相変わらず志貴の胸に顔を押しつけながら答える。
泣いていたのが恥ずかしくて、志貴に顔を向けられないのだ。

志貴は自分の服のポケットから、紙袋を取り出すとそれを琥珀に渡した。
「はい、琥珀さんへプレゼント」

琥珀はきょとんとしている。
なぜ、自分が志貴からプレゼントを貰うのか。
全くわかっていないのだ。

志貴は紙袋を見てきょとんとしている琥珀に尋ねた。
「琥珀さん、今日は何月の何日だかわかる?」

紙袋を受け取った琥珀は志貴の顔を見ながら、不思議そうに答える。
「今日は3月の12日でございますが……って、あ、もしかして……」

琥珀は途端に真っ赤になる。
ポンと音がしたかのように真っ赤になって照れてしまう。
志貴はそんな琥珀を愛おしく見つめる。

「そう、今日は琥珀さんの誕生日だよ。誕生日おめでとう、琥珀さん」

「あ、あ……」
琥珀は紙袋を見て志貴を見て真っ赤になって俯いてしまう。

「あ……ありがとうございます、志貴さん」
ボソボソと下を向いて、か細い声でお礼を言う。

そして、勇気を振り絞り志貴の方を向く琥珀。

「ありがとうございます、志貴さん。
 一生の宝物にします」

志貴は自分の目を見つめながらお礼を言う琥珀に笑いかける。

「そんなたいしたものじゃないから、琥珀さん。
 とりあえず開けてみて。気に入ってもらえれば嬉しいんだけど……」

琥珀はその言葉を聞くと、そっと紙袋を開ける。
そこには琥珀の名を冠した――琥珀のネックレスが入っていた。

琥珀は紙袋からそっとネックレスを取り出した。
そして陽に透かす。
「……きれい……」

それは琥珀のネックレス。
太古の時代、美しき針葉樹が作り出した奇跡のかけら。

「つけていいですか、志貴さん」
琥珀は志貴に尋ねつつ、自分の首にそっとネックレスを巻く。
割烹着の上にちょこんと輝く琥珀。
春の光にきらめきつつ、そっと自己主張している琥珀が主である琥珀を引き立てている。

志貴はそんな琥珀を見ながら
「琥珀はね、『積年の想いが叶う』と言われることもあるんだよ。
 そして、宝石言葉は『誰よりも優しく』……
 他人の痛みを思いしる琥珀さんに何よりもぴったりだと思う」
と語りかけた。

琥珀は志貴の言葉を聞くと、びくっとして志貴を見てから下を向く。
「わ、わたしは……
 志貴さんはわたしが他人の痛みを思いしると仰ってくださいますが、わたしにはわかりません」
いったん言葉を切って志貴の顔を見つめ直す琥珀。
「そんなわたしが『誰よりも優しく』という言葉がぴったりだなんて……」
琥珀の言葉はそこで封じられた。
志貴が琥珀の口を封じたからだ。
自分の口で。
優しく……壊れ物を扱うかのように。
真っ赤になった琥珀と対照的に志貴は優しく微笑んでいる。
「そんなことないよ、琥珀さん」
志貴は微笑みつつ、琥珀に言い聞かせる。
「琥珀さんは他人の痛みがわかる。だからこそ自分を犠牲にしてきたんだよ」
そっと、琥珀を胸の内に抱き寄せる志貴。
「もう琥珀さんは、自分を犠牲にする必要はない。
 俺が守るから。俺が琥珀さんを守るから自分を犠牲にしなくてもいいんだよ」
志貴は琥珀の目を見つつ、約束する。

それは誓い。
志貴の誓い。
守るべき、破られてはいけない大事な誓い。
琥珀を思いやる志貴の守るべき掟。
「琥珀さんは痛みがわかるからこそ自分を犠牲にしてきた。
 他の人に、翡翠にその痛みを課さないために。
 途中でその痛みのために色々あったかもしれないけど……
 それは琥珀さん自身が痛みをわからないという答えにはならない。
 大丈夫。
 琥珀さんは自分の痛みも知り他人の痛みを知る。
 だから、優しくなれるんだよ。
 他人の痛みを知らない人間が優しくなれるはずがない。
 自分の痛みも他人の痛みもわかる琥珀さんだから優しくなれるんだよ。
 だから『誰よりも優しく』なれるんだよ」
志貴は言い終えると腕に力を込める。
琥珀を抱く腕に力を込める。
「大丈夫、琥珀さんは誰よりも優しいんだよ」

「え、えぐ……」
琥珀はまた泣いた。
志貴の言葉を聞き。
もう何も言い返すことはない。
ただこの人は自分を理解してくれる。
そのことが伝わってきた。

琥珀は飢えていた。
ずっと翡翠を演じてきて――いつしかそれが琥珀になって。
自分がどこにいるのかわからなくなった。
自分は何を思っているのだろう。
自分は何を考えているのだろう。
自分の居場所は。
自分は、自分の――

だけど志貴は教えてくれた。
全て琥珀だということを。
琥珀は琥珀である、ただ一つそのことを教えてくれた。
わたしを認めてくれた……
琥珀はわたし。
わたしは琥珀。
そう言ってくれた。

何と言っていいのかわからない。
もう言葉で語るものではない。
気持ちが。
気持ちで語られていく。

琥珀は無上の幸福感に包まれる。
さきほどは安心感。
今度は幸福感。
なんということだろう。
志貴は琥珀を優しさで包み込む。
琥珀は思う。
志貴に出会えてよかったと。

遠野の屋敷に来て。
いろいろあったかもしれないけど。
今は幸福。
幸せなのだ。

琥珀は志貴の胸の中でそう思った。



時が経ち。
琥珀はずっと志貴の胸に顔を押しつけている。
志貴は琥珀を抱き、ともに過ごす。

そのまま動かない二人。
本格的に陽光が翳り。
夜のにおいを感じさせる。

「琥珀さん、幸せになろうね」
志貴が呟く。
琥珀を抱きながら。

それは大事な想い。
言葉としては短いが、言葉以上の思いが込められている。
その言葉に。
その言葉が。
志貴と琥珀の隔たりを埋めていく。

「は、はい。
 はい、幸せになります」
琥珀は言い切る。
志貴の言葉を受けて。
そして続ける。

「志貴さんと一緒に……
 志貴さんと一緒に歩んでいきます。
 幸せの道を……歩んでいきます」
琥珀は見つめる。
揺るぎない思いを込めて。
志貴の瞳を。
志貴の顔を。
それは決意。
琥珀の決意。
志貴とともに幸せになる――琥珀の決意。

「うん、幸せになろうね。
 二人で一緒に」
志貴は微笑む。
琥珀の決意を聞いて。

「はい! 一緒に行きましょう。
 どこまでも、どこまでも……」

琥珀は仮面を捨てた。
自分を騙すのをやめた。
これがわたし。
これが志貴が好きになってくれたわたしなのだ。

そうして、改めて微笑む。
琥珀は志貴を見上げつつ、幸せな笑みを浮かべる。
それは――そう、向日葵のような笑顔。







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